摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

高鴨神社(たかかもじんじゃ、上鴨社:御所市大字鴨神)~阿遅志貴高日子根命(アヂスキタカヒコネノミコト)以外のご祭神の諸説

2020年11月28日 | 奈良・大和

 

都波神社と共に、京都の上賀茂・下鴨をはじめする全国の賀茂社の総社の一つとして著名な、古代豪族、鴨氏の氏神社です。都波神社からは、結構南に位置しますが、こちらが昔の゛葛上郡゛の上鴨社です。社地は、かつての葛城山である金剛山(今の葛城山は鴨都波神社の東)の東麓の台地上に鎮座し、神社に通じる県道30号線(山麓線)からは畝傍山を始めとする奈良盆地の絶景が望めました。

 

・神社前から西方向に金剛山を望む

・入口の鳥居と梵鐘

 

【ご祭神、ご由緒】

「延喜式」神名帳では、その葛上郡の、なぜか一番最後に記載されている゛高鴨阿治須岐託彦根命神社四座゛が当社で、谷川健一氏編「日本の神々 大和」(80年代。今は変わっているようです)では、その四座を主祭神の味鉏高彦根神、下照姫、天稚彦命、田心姫としていますが、過去の調査で異説がないとされるのは味鉏高彦根神だけだと、その書で木村芳一氏が書かれています。「古事記」に゛此の阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂ふぞ゛とあり、出雲国造神賀詞では゛阿遅須伎高孫根神の御魂を葛木の神奈備に坐せ"とされ、そして「先代旧事本記」にも゛味鉏高彦根神坐倭国葛上郡高鴨社云捨志野社゛と各種古典に明記されているからです。

 

・参道横の池には舞台が設けられています

 

近代の「特選神名帳」では、「旧事本記」に下照姫が葛上郡雲社と書かれ、日本書紀に味鉏高彦根神と天稚彦が親しいと書かれら加えられただけで、この二柱は疑わしいとし、確かなのは味鉏高彦根神と「旧事本記」で母君とされる田心姫としています。ところが、「三代実録」の859年の神階の記録には、高鴨阿治須岐宅彦根命と別に高鴨神も共に従一位に昇叙されてる事が明記されています。谷川健一氏編「日本の神々 大和」で、木村芳一氏は、この高鴨神は葛城の地主神と思われ、主祭神の妹神や母神などの係累神とは別に、高鴨神を祀っていたのでは、と考えておられました。

 

・新しい拝殿

 

【高鴨神の受難と土佐神社】

「日本の神々 大和」で木村氏も引用されていますが、「謎の古代豪族葛城氏」で平林章仁氏が、「続日本紀」の記述を取り上げておられます。つまり、昔、雄略天皇が土佐に流した高鴨神を、764年、再び大和国葛上郡に祀らせた件です。もう一つは、これに対応するとされる、「土佐国風土記」の記述の、土佐郡の高加茂大社(都佐坐神社、今の土佐神社)の祭神は一言主命であり、その祖は一説に味鉏高彦根命である件。この理解については多くの諸説があるようで、平林氏も゛一言主神と高鴨神は別の神と見られるから、雄略天皇の時に土佐に流されたのが、高鴨神か一言主神か、さだかでない゛と述べられます。

 

・東宮。ご祭神は天兒屋根命 天照大御神 住吉三前大神

・東宮の装飾。1669年。奈良県指定文化財

・東宮向かって右手の摂末社。

 

平林氏は、雄略天皇を含む和の五王の時代の鴨氏は、葛城氏の下水運・海運網の維持、経営に従事した氏族で、一言主神はその城氏が崇め祀る地主神だと考えられています。要するに、ある期、土佐国に葛城氏もしくは葛城鴨氏系の集団が移住し、これの神社を祭っていたが、雄略天皇の時期に、葛城の神々の間に、大きな混乱と受難が有った事はまちがいなく、おそらくそれは、葛城の権力機構分裂、葛城氏の滅亡につながる出来事であったと考えられています。

 

・本殿。室町時代建築で、重要文化財

・本殿。一番右の灯篭が、「あまのじゃくの灯篭」。

・脇間の背の高い蟇股がかろうじて見えました

 

【本殿】

本殿は、室町時代の建築として名高く、重要文化財になっています。「日本の神々 大和」で木村氏が引用されている、「式内社調査報告・第二巻」の記述によると、殿内には寛永十年(1624年)上葺の棟札、「明細帳」には元徳二年(1330年)遷座、そして、本殿左端の戸口楣の背面東端に「大工・・・天文十二年(1543年)」の墨書銘があり、公式には1543年が建年とされています。残念ながら奥まって近くで拝見できないのですが、「式内社調査報告」によると、中央の間を広くして唐破風をいれているので、両脇間の蟇股の背が高く、彫刻も入っているので゛非常に引き立ってゐる゛のが何とか確認出来ました。

 

・西宮。1685年。ご祭神は多紀理毘賣命 天御勝姫命 鹽冶彦命 瀧津彦

・こんもりした西宮側の参道。手前の祠は豐岡姫命を祀る牛瀧神社

 

【境内】

境内は、主殿の東西にそれぞれ東宮と西宮を配し、さらに小ぶりな祠の摂末社が多く鎮座するゆとりある空間になってます。特に西宮までのこんもりした社叢は神聖な雰囲気です。宮司は、中臣連で始祖の天児屋根命の子孫となる鈴鹿家。その神職のご尽力により、本桜草その他の古典植物の研究栽培がおこなわれていて、毎年4月か5月にはきれいな名花が咲くそうです。ただし、今年はコロナ禍で展示会などイベント類は中止されています。

(参考文献:谷川健一氏編「日本の神々 大和」、平林章仁氏「謎の古代豪族葛城氏」、三浦正幸氏「神社の本殿」)

 

・森の奥まったところに稲荷神社が鎮座します

 

 

【伝承】

東出雲王国伝承では、この高鴨神社は、西出雲王家の神門臣氏か城に移ってきた多岐都彦が建たと云います。東出雲王家の分家、登美~加茂氏の始祖となる天日方奇日方が踏鞴五十鈴姫、五十鈴姫らと共に摂津三島から葛城に移住した後に、それ頼って来たとの事。祀ったのは父の鉏高彦と叔母の下照姫、そしての婿天稚彦と説明します。「出雲王とヤマト政権」に記載の系図をるとわかりやすいです。一方、田心姫については「先代旧事本紀」の説明は出雲伝承と齟齬があり、伝承本の系図でこの東出雲王家の方に嫁がれたと主張します味鉏高彦の母というであれば、本来は大国主命に嫁がれた多岐津姫になるようにえますが、まあそこは姉妹神様なので宜しいでしょうか。

 

・手前が猿田彦神社。奥に見えるのが一言主神社

 

多岐都彦の家は高鴨氏となりますが、登美氏とまとめカモ氏とも呼ばれたそうです。高槻市赤大路の式内論社鴨神社は、この高鴨神社を祀った鴨族が葛城王朝の時代(4世紀初め、開化天皇まで)に摂津三島に進出して創始したと、その由緒をホームページで語っています。さらに鴨神社は、4世紀中頃に葛城の鴨族が大和朝廷により滅亡した、とも書いています。東出雲伝承とはそれぞれの王朝の年代が異なりますが、葛城王朝→大和朝廷の流れは共通するようです。


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