摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

国分神社(こくぶじんじゃ:柏原市国分市場)~松岳山古墳や玉手山古墳群とご祭神大国主命

2022年09月24日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

当地からおよそ東1キロの所には、河内国分寺や、元正天皇、聖武天皇が利用したという竹原井頓宮(青谷遺跡)があり、古代から発展していた地に鎮座しています。とにかく当社というと、背後の松岳山古墳の墳頂で露出している石棺が有名ですが、同じく気になっていたのが、一般に語られる祭祀氏族とご祭神の関りが分かりにくい事でした。車で行かれるなら、神社前のこんもりした良い雰囲気の場所に駐車場はありますが、そこに至る直前の道がだいぶ狭いので、歩ける距離にある大和川親水公園の駐車場がお薦めと思います。

 

・入口の鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

大国主命が主神、少彦名命と飛鳥大神を配祇します。地元の伝承では、当社の起源は鎌倉時代で、その頃に大国主命と少彦名命の二神を勧請し、さらに古代からの伝承にもとづいて飛鳥大神を併せ祀ったのかもしれない、と「日本の神々 河内」で古田実氏が推定されています。

 

・拝殿

 

【祭祀氏族】

当社周辺は、6世紀末から7世紀前半にかけて、百済の辰孫王一族(王氏一族と呼ぶ)の支族だった船史の一族が居住した所と考えられています。辰孫王の来歴については、「続日本紀」の790年に津連真道らが朝臣への改姓を願った上奏にあります。つまり、応神天皇が百済から有識者を招くよう命じて使いを送ったところ、百済国王貴須王が孫の辰孫王を来日させました。そして、辰孫王の曾孫午定君の子のところで三氏に分かれ、王味沙の後が白猪史(葛井氏)、王午の後が津史、そして王辰爾の後が船史となるのです。

 

・本殿

 

船史は「日本書紀」の欽明天皇十四年に、゛王辰爾を遣して船の貢を数え録さしむ。即ち王辰爾を以て船長と為し、因りて姓を賜ひて船史と為す゛と記載があり、また、敏達天皇元年には、高句麗の使からの難解な鳥の羽の国書を王辰爾が解読して嘉賞されたとも書かれています。6世紀後半には、王辰爾が旧大和川の舟運管理を担当していたと考えられているのです。

王氏一族は、大阪の藤井寺市や羽曳野市の古市古墳群の地域に5世紀に入植し、後に朝廷の史部となり文化人集団として栄えました。その地には、白猪史に関わる辛国神社、津史の大津神社、そして船史の関わる野中神社がそれぞれ鎮座しています。船氏は、上記の通り旧大和川の舟運管理にあたっていましたが、8世紀には藤井寺市の方に移ってその地を本拠地とするようになったようです。

 

・本殿を東側から。真後ろの石垣下部に白石が有ります。右手の磐座も迫力です

 

【中世以降歴史】

南北朝の落合川決戦、戦国時代の両畠山の抗争などによる兵火を受け、その後、江戸時代に再建されました。明治五年に村社になっています。

 

・社殿の西側に古墳への入口があります。原則、お断りが必要・・・

 

【松岳山古墳群と銅鏡】

当社の直ぐ背後の美山(別名松岳山)には、松岳山古墳群があり、その盟主墓である松岳山古墳(墳長130メートル)の後円部(直径72メートル)へは、当社境内から墳丘への登り口があります。そしてその頂上には、組合式石槨が露出(盗掘の為とされる)しており、またその両端近くには孔のあいた大きな石が立てられていて、共にとても見ごたえありです。この古墳は江戸時代の寛永年間に発掘されていて、三角縁四神四獣鏡1面を含む漢式鏡三面が石室内から発見されたとされています。

 

・5分程登ると着きます。周囲は木々で鬱蒼としています

 

同じ丘陵上には松岳山古墳と相前後して茶臼塚古墳、向井山茶臼塚古墳、市場茶臼塚古墳などがありましたが、茶臼塚古墳以外は消滅しているようです。方墳である茶臼塚古墳からは四獣鏡や三角縁三神三獣鏡が、消滅した向井山茶臼塚古墳からも三角縁四神四獣鏡、三角縁四神二獣鏡(その銘文の日本語訳に関しては、安満宮山古墳の記事の最後で触れました)、盤竜鏡などの銅鏡が出土したと伝えられていて、当社の所有になっていると、「古市古墳群をあるく」で久世仁士氏が書かれています。三角縁神獣鏡、多いです。

 

・蓋石と床石が花崗岩、側面は凝灰岩だそうです。散乱する板状石は、竪穴式石室を構成してたもの

 

松岳山古墳について、「日本の神々」で古田氏は、後円部の頂上が朝鮮式の(安山岩による)積石塚形式の四世紀末の大前方後円墳で、私案と断って辰孫王の墓と考えられていました。しかし、王氏の始祖辰孫王が来日したのが5世紀であるなら、それは成り立たないはずです。久世氏の新しい説明では、松岳山古墳は4世紀前半から中頃に築かれたとされており、松岳山古墳の後円部の板石とよく似たものが佐紀陵山古墳(ヒバス姫命陵)にもある指摘も紹介されます。そして、松岳山古墳の被葬者は、古市古墳群とは直接的なつながりは見いだせない、と断定されていました。

 

・立石1の裏

 

【船氏王後の銅板墓誌】

久世氏の説明によると、この丘陵付近から、船氏王後の銅板墓誌が出土したと伝えられています。一方、古田氏の説明では、茶臼山から出土したとされます。漢文で、王後首が豊浦宮(推古帝)や飛鳥宮(舒明帝)に仕え、668年に松岳山に殯葬(妻や兄の墓も並んで)したと書かれています。7世紀後半から8世紀のころは、当地一帯は河内国飛鳥戸郡の資母(シモ)郷なので、古田氏は推測として、辰孫王または王辰爾が飛鳥大神として古くからここに祀られていた可能性を考えられていました。

 

・立石2の裏。下側にも穴が掘られています

 

【オオヤマト古墳群や佐紀古墳群との関係】

このように墓誌の内容からすると、確かに松岳山古墳群の大半が船氏の共同墓地だと考えたくなる気持ちにもなりますが、この墓誌の存在を踏まえて、久世氏は古市古墳群とは関係ないと考えられているという事です。松岳山古墳群の直ぐ南にある、時代が近い玉手山古墳群の墳形が、奈良県桜井市のオオヤマト古墳群(行燈山古墳、渋谷向山古墳、桜井茶臼山古墳など)に近かったり、松岳山古墳群と同時期の王墓が佐紀古墳群になることから、玉手山古墳群が桜井のヤマト王権と密接な関係をもつ河内勢力の古墳であり、松岳山古墳群の方は佐紀のヤマト王権と関係の深い古墳だと考えられています。

 

・神社境内

 

【オオヤマト古墳群の伝承からみた当社ご祭神】

辰孫王一族の船氏が古代この地域に関わったことは間違いなさそうですが、どうしても当社ご祭神の大国主命、少彦名命がなぜ勧請されたのかの理由につながりません。理由もなしに有名なこの二柱が祀られたというのは、あまり考えたくありません。やはり、背後の松岳山古墳などのこの辺りの古墳群の方が気になります。

東出雲王国伝承の「古事記の編集室」「親魏倭王の都」や「出雲王国とヤマト王権」では、桜井市のオオヤマト古墳群は、九州東征勢力と対抗した出雲王国分家の豪族・登美氏(後、賀茂・大神氏へ)の造営した古墳である可能性を主張します。また、久世氏の挙げた佐紀陵山古墳についても、出雲からやって来た野見宿禰の子孫が造営したと説明しています。さらに。松岳山古墳群から多く出土している三角縁神獣鏡は、九州勢力に対抗したこの登美氏やアマ氏(後、海部・尾張氏へ)らによる先住大和勢力が製作したものだと言います。古墳の名前にもそれは感じられて、向井山茶臼塚古墳にもつく「向井」は、渋谷向山古墳にも同じ名前が入り、東出雲王家・富氏の別名、向氏と関係あるかも、と勝友彦氏は書いています。更に私案ですが、おびただしく付いている「茶臼」の名に出雲との関りを強く感じることは、太田茶臼山古墳の記事で事例を挙げて触れました。

 

・本殿東側の八咫烏石像と境内社。手前から春日社、八幡社、住吉社。八咫烏がいるのは、やはり・・・

 

私案はともかく、出雲伝承と久世氏のお考えを突き合わせると、松岳山古墳群(や玉手山古墳群)は、古市古墳群ではなく先住大和勢力の出雲系登美氏に関わるようにみえてきます。ただ、当時のヤマト王権の有り様の捉え方が、一般定説と出雲伝承の主張では異なっているのです。そして、出雲伝承を前提とすると、そもそもこの地に出雲神の信仰が有った可能性が感じられ、ご祭神が理解しやすくなります。さらに、飛鳥大神が飛鳥坐神社の神と関わると見ると、やはりそもそも出雲系のご祭神だったという説明を関連付けたくなります。そしてそこに5世紀、百済系渡来人が入り込んできたという事になるのでしょうか。

 

・本殿西側の境内社。神明社、稲荷社。とにかく、石垣に板石っぽいのが多いです

 

ただ一点、オオヤマト古墳群に関する出雲伝承の言及に関して違和感もあります。「出雲王国とヤマト王権」での桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の被葬者特定説は、邪馬台国の時代より前の人を挙げておられるのは首肯しにくいです。現在考えられている築造時期は、前者が3世紀末から4世紀初の古墳時代前期前葉、後者が4世紀前半の同前期後葉であり、富士林雅樹氏の被葬者はあまりに古すぎるように見えます。富士林氏は、被葬者の時期と古墳の築造時期は相当ズレる可能性を例を挙げて指摘されていますが、考古学へのより具体的なアドバイスを期待したいです。

 

・神社前

 

【出雲系と朝鮮渡来系】

これまでも何となく感じて来たことですが、出雲伝承から見ると出雲系氏族との関係を考えたくなる地が、定説では朝鮮渡来系氏族ゆかりの地だと説明されることが結構あると感じています(三島鴨神社阿久刀神社天照大神高座神社など)。当社や松岳山古墳などは、まさにその典型です。そこで思うのは、3世紀の亀岡市で゛出雲の国譲り゛はあったけれども、その後も出雲系氏族(つまり鴨氏、大神氏)は一定の政治力は持ち続けていたのが、河内王朝の時代についにその政治的な力が縮小させられ(一言主神の土佐流し秦氏と同時の山城へ移住など)、朝鮮渡来系に押し出されていったようなイメージが湧いています。出雲というと古くから朝鮮と親交があったとされる事からすると、妙な考えにも思えますが、今後も考えていきたいと思います。

 

・国分神社と松岳山の北側を流れる大和川。遠くに見える古墳は、市野山古墳(允恭天皇陵)でしょう

 

(参考文献:国分神社掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、矢澤高太郎「天皇陵古墳の謎」、久世仁士「古市古墳群をあるく」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍

 


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