摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大海神社(だいかいじんじゃ:大阪市住吉区)~津守氏と同祖の尾張氏が関わる「海部氏系図」の最近の論考

2023年06月03日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

 

久しぶりに住吉大社を訪れて、前回は参拝していなかった摂社・大海神社を参拝させていただきました。住吉大社の北側に隣接するのですが、駐車場を挟んだ少し離れた位置にひっそりと佇んでいるという感じで、本社とは随分と雰囲気が違いましたが、それでも参詣者は時折見受けられ、根強く信仰されている感じがしました。社殿の構造は、住吉大社と同じ住吉造で、見ごたえは本社に引けを取りません。

 

住吉大社から向かうと駐車場側にも入口があります

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、海幸山幸神話に登場する、海宮の竜王とその娘である豊玉彦と豊玉姫です。これは、「住吉松葉大記」「特撰神名牒」「社記」などによるもののようですが、渡会延経の「神名帳考証」は大綿津見命と玉依姫命、「神祇志料」は塩土老翁、豊玉姫、彦火火出見尊などの他説も存在します。

「延喜式」神名帳には゛元名津守安人神゛とあり、「住吉松葉大記」や「神名帳考証」などでは、゛安人神゛を゛氏人神゛と見ます。「住吉松葉大記」には、神功皇后の時代に三大神此地に鎮座し給うに及んで、田裳見宿禰の嫡子を以て大海神社を祭らせ給うに依りて、嫡男を大領氏と云う、とあり、これを元に「式内調査報告」で奥野茂壽氏が゛津守氏の嫡男大領氏が代々、大海神社の社司となる゛と書かれています。

しかし、「日本の神々 摂津」で大和岩雄氏によると、「住吉松葉大記」の別の所では、大領氏は大海神社の経営をするが祭祀は行わない、とあり、「住吉勘文」にも、大海神社を大領氏が祀ったとは書いていないようです。田中卓氏は、゛氏人神゛とするのは校訂の誤りであり、本来は゛現人神゛の意味だろうとされ、大和氏もこれに同意します。理由は、住吉の神を゛現人神゛とする信仰が顕著だからです。

 

こちらは西側の入口鳥居で、その奥に見出し写真の西門があります

 

【「現人神」信仰】

大和氏は、このような信仰は、津守の現人神としての海神(わたつみのかみ)の信仰によるもので、白い髭をはやした老翁の姿で庶民に親しまれているものだ考えられます。そして、住吉大社のご祭神、筒男三神と同一神に見立てられている塩筒老翁と重なり、津守の現人神とはこの塩筒老翁のこととなります。

塩筒老翁は、海幸山幸神話で彦火火出見尊を龍宮に案内した海導者です。西田長男氏は、志賀海神社の縁起にある安曇磯良も海導者なので、記紀説話でいえば塩土老翁にあたるとされますが、安曇磯良は神功皇后紀で新羅に向かう船を案内した゛磯鹿海人名草゛であり、「磯鹿」は「志賀」です。「住吉大社神代記」には、新羅に国守神として鎮祭せられた゛墨江大神の荒御魂゛に祝として奉仕したのが゛志加乃奈具佐(磯鹿海人名草)゛だとあり、さらに同書に゛志賀社、新羅時、挟抄(カジトリ)゛とあります。「カジトリ」は海導者の意味です(なお、大和氏は、船の「揖取(かじとり)」が、「香取」の語源だと考えられ、香取神宮と海部の関りを説かれています)。

筒男三神と共に少童三神が生まれたと神話は言いますが、少童は磯童で、安曇氏の祖の少童神が安曇磯童(磯良)であり、この少童神が老翁となって顕現したのが、津守の現人神だろうと、大和氏はまとめられています。

 

拝殿

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

津守氏は住吉の神の祭祀に関わると共に、外交にも関わっていたことが「日本書紀」に見えます。欽明天皇の時代には津守連己麻奴跪が遣百済使として、皇極天皇の時代には津守連大海が遣高麗使として、そして斉明天皇の時代に津守連吉祥が遣唐使として派遣されているのです。さらに「続日本紀」の宝亀8年(777年)にも゛遣唐主神(神主)゛として津守宿禰国麻呂の名があり、「住吉大社司解」天平3年(731年)では津守宿禰客人が遣唐神主、そして「津守系図」にも津守宿禰池吉が遣唐神主、津守宿禰男足が遣渤海神主になっています。

「先代旧事本紀」の天孫本紀の尾張氏系譜では、火明命の五世の孫建筒草命が多治比連、津守連、若倭部連らの祖だと書かれていて、「新撰姓氏録」の摂津国神別には、津守宿禰は尾張宿禰と同祖で、火明命の八世孫大御日足尼の後裔だとあります。津守氏は住吉大社の神主だけでなく、摂津国住吉郡の郡司にも任ぜられていました。

 

【安曇氏と摂津】

「日本書紀」の653年に、孝徳天皇が僧旻を阿曇寺に見舞ったという記事があります。この阿曇寺の位置として、かつて山根徳太郎氏は、京都山科の安祥寺の鐘がかつて安曇寺にあったもので、その鐘銘に゛摂津渡辺安曇寺洪鐘一口゛と有る事に着目され、坐摩神社のお旅所(旧の坐摩神社鎮座地)付近が古くは「渡辺」であったことから、現在の天満橋付近を安曇寺のあった所と推定されていました。「新撰姓氏録」の摂津国神別にも阿曇犬養連が載っています。このことから、安曇氏と難波は密接だと、大和氏は考えられます。そういえば、茨木市にも磯良神社があります。

大海神社を祀ったという田裳見宿禰は津守氏の祖であり、その嫡子大領氏が祭祀を行わなかったのは、安曇氏に神社の祭祀をまかせ、津守氏は大領として神社を管掌したためであり、その事が「住吉松葉大記」の伝承になったと、大和氏は考えておられました。

 

境内。社殿前に山幸彦が海神より授かった潮満玉を沈めたとされる「玉の井」があります

 

【尾張氏と「海部氏系図」の最近の論考例】

「日本の神々」で大和岩雄氏は、上記のように津守氏と尾張氏が火明命を祖とし、また海部と関係すると要所で触れられます。東出雲王国伝承でも取り上げられる「海部氏系図」(と「海部氏勘注系図」)への興味により、一般の学者さんの説を見てみたいと思い、鈴木正信先生(成城大学文芸学部准教授)の「古代氏族の系図を読み解く」を読みました。「紀伊国造次第」「円珍俗姓系図」とともに「海部氏系図」について、過去の研究成果にも触れながら論考されている書です。この中で鈴木氏は、「海部氏系図」に関しては、一種の仮冒系譜(祖先を詐称した系譜)だと結論づけられます。

「海部氏系図」は、貞観13年(871年)から元慶元年(877年)の間に成立したと考えられています。古代国家成立の画期にあたる、7世紀後半から8世紀前半にかけて、諸氏族の間で自氏の祖先の系譜や伝承が整備され、八世紀中頃から諸氏族は本系帳を編纂していったことが知られています。また、貞観年間からは、全国の神社に奉仕する氏族も本系帳を毎年提出していました。その9世紀初頭には多くの氏族が自氏の系譜を遡らせて神統譜につなげる、氏族秩序を再編する傾向が見られたようです。

 

社殿は1708年築造で、住吉大社の社殿より古く、重要文化財になっています

 

鈴木氏はまず、火明命の子孫と称する尾張連氏と同祖系譜を形成する氏族が、各地の海人集団を率いた氏族の含めて大規模である事に触れ、一覧表を提示されます。そして「先代旧事本紀」天孫本紀で、火明命の10世孫淡夜別命と11世孫乎止与(オトヨ)命の血縁関係の記載がなく系譜が断絶しており、乎止与命の上から火明命までは、9世紀になって付け加えられる「架上」をされたという1969年の新井喜久夫氏の説を採用されます。

また、尾張連氏の本宗が天武天皇の時代に宿禰姓となって以降も、引き続き連姓だったり、カバネを持たない尾張氏がいたりすること等々から、尾張氏が複数の系統から構成されていて(2013年加藤謙吉氏説)、海人集団の海部直氏などが尾張連氏の大規模な同祖関係の中に取り込まれた、というのが鈴木氏の結論です。そして、天香語山命や武砺目命(建斗米)、意富那毘、美夜受比売、建稲種命などの神々は、異なる集団のそれぞれの祖であり、それらが火明命を頂点として統合されていったことを物語る、というご説明です。となると、海部氏と尾張氏、そして乎止与命より古い時期に分かれた津守氏も、そもそもは無関係な氏族だったということになります。

なお、一方の「勘注系図」については、中世から近世にかけて述作された「丹後風土記残欠」の文章が引用されており、その成立は17世紀後半頃にまで降るとみられるという、福岡猛志氏の2013年の説(元伊勢籠神社の記事で取り上げました)を引用し、「勘注系図」は後世の人々が「海部氏系図」を再解釈して注釈を加えたものであり、「勘注系図」を用いて「海部氏系図」を復元することは、手続きとしては適切ではないということです。

 

本殿。住吉造

 

【系図研究への素人市民の印象】

鈴木氏の論考は、現在の専門研究者の古代史系図に関するお考えとして大変勉強になり心に留めたいと思いました。しかし一方で、東出雲王国伝承が折に触れて主張する、「海部氏系図」「勘注系図」もベースとしたアマ~海部氏の伝承系譜を否定するものであり、なんともロマンのないお話でもありました。参考文献も提示されており、機会をみつけて読んでさらに勉強できればと思いますが、「系図」を公表した海部氏の思いはいかばかりかと感じます。

専門家の大学准教授様のお話に素人が何も言える事などないのですが、歴史の研究者さんの文章を読んでいると、゛なぜそんな発案ができるの?゛゛その考えの元になったデータがある?゛などと感じる事が有ります。おそらくは、技術でいう「当業者の常識」に相当する、過去の膨大な研究のベースやそこからの積み上げた知見・常識を踏まえて論考をされているのでしょうが、それらを知らない素人の一市民としては、なぜそうなるの?となる事があるのです。技術の話と同じことを求めるなど全く不適切ですが、習性上どうしても感じてしまいます。やはり伝承を見る時と全然違い、識者の論考に対する根拠への期待は大きくなります。

 

境内

 

鈴木氏の説明は、尾張連氏がこんなに大規模なんだから、大元が一人ということはあり得ないよね、という発想が元になっているように感じました。ただ、なぜあり得ないのかの証明データは提示されていないように思います。また、本宗の姓が変わっても他の親戚には関係ない、という事はあり得そうな気がします。ある人が勲章をもらっても、親戚には一切関係ないですね。記紀に記載していない氏族系譜は、基本的に後世の創作や架上であるとの意に読み取れますが、そういう動きが平安時代に確かにあったようですが、記紀に当時の氏族系譜の事実が全て記載されていたと考えてよいのでしょうか。「海部」は、倭の五王時代からの職業集団なのであり、それより古い「海部氏」の存在は認めないのが、一般の学者さんによる定説なのだと理解しています。

また、こういった系図研究に対して、大和岩雄氏がどうお考えになっていたのかも気になります。尾張連氏の祖先として火明命が架上されたという新井氏の説は1969年と古いですが、大和岩雄氏が「日本の神々」の文章を出されたのは1980年代です。多くの説を挙げた上で自説を論ずる大和氏が、新井氏の説を知らなかったとは思えませんので、当時有力な説ではなかったのでしょうか。大和氏は一貫して尾張氏や海部など関連氏族の始祖として火明命を挙げ、饒速日命と同じだとする「先代旧事本紀」の記述を重視されていました。

 

社殿向かって右の志賀神社。ご祭神は、底津少童命、中津少童命、表津少童命

 

【伝承】

鈴木氏の幾つかの疑問のうち、「先代旧事本紀」で尾張氏の乎止与命の血縁関係の記載がない点については、富士林雅樹氏が提示されていた尾張氏と海部氏の系図や斎木雲州氏、勝友彦氏の話を前提とした場合、当然のように感じます。つまり乎止与命は海部氏(まだアマ氏か)から尾張氏の真敷姫に婿入りした御方だというのです。だから、尾張氏の淡夜別命とは血縁が繋がっていなく、記載のしようがなかったろう、と想像されます。東出雲伝承が史実であると言えるデータは提示されてませんが、起こりえるは可能性はある話であり、あり得ないと否定できる学問的なデータも見た事がありません。それに「先代旧事本紀」は物部氏の書物なので、海部氏についての細かい事はいちいち書かない事はありえそうです。

海部氏、尾張氏と同系の津守氏が、安曇氏の少童神(阿曇磯良)が老翁となって顕現した゛現人神゛を祀ることは、海の向こうから多くの゛海童゛(海を渡ってきた少年・少女。伝承が関係すると云う、海童神社が出雲と佐賀県などに有る)を連れて来た゛火明饒速日命゛が、これら氏族の共通の祖であるという出雲伝承の主張と重なるようにみえます。海童は数千人規模だったらしく、火明命はそのボスだったということで、皆血縁が有ったわけではなさそうです。また、「お伽話とモデル」には、住吉大社への祈りで現れたという「一寸法師」は、その海童(の子孫。唐子)が都に出て出世した事を喩えた童話だという不思議な説明があり、大和氏の説明された現人神信仰と関係するのかもしれないと想像しています。

 

テレビでの古墳の取り上げ方など見ていると、考古学も含めた古代史の学問的な見方では、弥生時代あたりから国内各地でクニや名も知れない有力者が現われだして、古墳時代あたりからその後古代史の有名人となるような王や氏族が出現し、その権力者たちによって自分たちの起源をさかのぼる伝承が作られていった、というのが基本的な考え方となっているように思えます。一方、伝承は、弥生時代に特定の地域で活動していた有力な氏族から、氏族どうしの婚姻関係が複雑に絡み合ったりして子孫や分家が展開し、その後の大王や豪族・氏族、皇族につながっていったと語ります。やはり伝承は最初から有名人の登場するストーリーをもって語っているので、どうしても話としては(陰謀説みたいに)面白いです。面白さだけで歴史を追うのは問題でしょうから、バランスに気を付けて空想のロマンを楽しみたいです。

 

 

(参考文献:住吉大社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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