摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大依羅神社(大阪市住吉区)~万葉歌人の関係者が関わる八十島祭の名神大社

2023年06月17日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

[ おおよさみじんじゃ ]

 

なかなかの難読漢字をお名前にもつ、初歩の歴史好きには少し縁遠い神社と思われます。しかし、住吉大社とも深く関わり、平安から鎌倉時代にかけて天皇の即位儀礼として難波津で斎行されていた八十島祭で、難波の地主神として幣帛が供えられる規程となっていた重要な神社の一つです。あびこ駅から徒歩で向かって、依網池址石碑の有る大和川側から境内に入りましたが、学校の校庭を迂回したりでだいぶ遠回りで、見出し写真の住宅街側から入った方が近いです。

 

こちらは大和川側の入口鳥居。参道は少し草が繁っています

鳥居の正面に依網池址の石碑が鎮座

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、依羅我孫(ヨサミアビコ)氏の祖、建豊波豆羅別命と、住吉大神である底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三神の四神が主神ですが、ホームページでは大巳貴命、月讀命、垂仁天皇、五十猛命、櫛明玉命の配祇神も併記されています。というのも、かつて大巳貴命から五十猛命の四柱がご祭神とされた時期もあるようです。

 

大和川側入口にも神社名の石標と門があります

 

「古事記」に、開化天皇と葛城垂見宿禰の女鸇比女との間に生まれたのが建豊波豆羅別命であり、道守臣、忍海部造、御名部連、稲羽忍海部、丹波竹野別、そして依羅阿毗古の祖であると書かれています。この依羅我孫氏が登場するのが、「日本書紀」の神功皇后新羅遠征の件で、住吉大神から゛和魂は王の身を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろう゛と教え頂き、その祭りの神主とされた依網吾彦男垂見が見えます。

 

拝殿。社殿は火災に遭い昭和46年に復興したもの

 

続く仁徳天皇の四十三年にも、依網屯倉の阿耶古が変った鳥を捕まえて天皇に奉り、゛私はいつも網を張って鳥を捕っておりますが、まだこんな鳥を捕ったことがありません。珍しいので献上いたします゛という話があり、鷹狩の起源とされています。さらに、皇極天皇の時代にも、河内国の依網屯倉で百済の王子を召(よ)んで射猟に親しんだ話もあり、「日本の神々 摂津」で東瀬博司氏は、これらの記事から「依網」の名は網によって鳥を捕らえることを得意としたことから生じた名前だろうとする、真弓常忠氏の説を引用されています。

 

幣殿と連なる本殿。流造です

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

奈良時代に入り、「続日本紀」の聖武天皇746年に、依羅我孫子忍麻呂に従五位下が授けられた記事を始めとして、孝謙天皇750年には摂津国住吉郡人の依羅我孫忍麻呂等五人が依羅宿禰の姓を、神奴意支奈、祝長月等五十三人が依羅物忌の姓を賜ります。さらに称徳天皇767年には、河内国志紀郡人の依羅五百世麻呂や、丹比郡人の依羅造里上等十一人が依羅連姓を賜るなど、依羅氏は幾度も登場します。

 

境内。右側が社殿

 

「新撰姓氏録」によると、依羅宿禰、依羅連は日下部宿禰と同祖、彦坐命の後だと書かれるようで、「古事記」では建豊波豆羅別命と異母兄弟だとされている彦坐命の後だと違う説明になっています。なお、依羅連については、彦坐命の後の他に、河内国諸蕃の百済系依羅連、そして左京神別、右京神別にそれぞれ饒速日命の後の依羅連がいて、一系統ではなかったと理解されています。

 

拝殿前の道祖神社。八衢比古命・八衢比売命・久那土神の三柱

 

神社としては、仁明天皇の847年に社殿修造の上で官社に列せられ(「続日本後記」)、859年には従五位下に昇叙し、877年に朝廷より奉幣、祈願があり、879年には広瀬、龍田、住吉社と共に神財を受け(以上、「三代実録」)、醍醐天皇の909年には正二位に昇りました。

 

稲荷社。前には鳥居を持ちます

 

「延喜式」神名帳では、大依羅神社四座とあり、堂々の名神大、月次、相嘗、新嘗祭にあずかりました。さらに同書の臨時祭によれば、八十島祭に際して座別の幣帛として、゛五色帛各五尺、糸一詢、絹一屯、倭文一尺、褁料布三尺゛を賜り、奉仕料として住吉祝とともに布一端が支給されたことから、住吉大社に次ぐ重い扱いを受けていたことになると、先に東瀬氏は書かれていました。

 

櫛明玉命。ご祭神名で表記されています

 

【中世以降歴史】

鎌倉時代も当社の繁栄は続き、藤原定家が有名な歌゛君が代は依羅の杜のとことはに松と杉とや千とせ栄えむ゛が残っています。しかし、南北朝時代に依羅氏が滅亡するとともに当社は衰えていったようです。住吉大社の援助をもとにかろうじて祭祀を保っていて、江戸時代には零落仕切った姿が「住吉松葉大記」に描かれました。明治時代に入ると無格社となりましたが、古代の名神社であったことが評価されていき、やがて郷社、神饌幣帛供進社と格上げされていきます。明治41年には式内社であった草津大歳神社と奴能太比売神社を始めとした五社を境内社として合祀し、昭和5年には府社にまでなりました。

 

依網吾彦男垂見(左)と気長足姫が新しめの祠で祀られています

 

【鎮座地】

「日本書紀」推古天皇十五年に゛河内国に戸刈池、依網池を作る゛とみえる依羅池は、かつては十万坪を越える大きな池でした。当初は河内国でしたが、隣接する摂津国に編入されたと見られています。当社は古来、この池のほとりに鎮座していて、周辺の広大な水田の守護神として旧庭井村、安孫子村地域の氏神でした。依羅池の方は、1704年の大和川付替え工事でその三分の二が河川敷となって縮小し、さらに翌年に残りの大半が埋め立てられて田地となったので、今は小さな池になってしまったという事です。

上記した、諸蕃の依羅連が百済系である事は、依網池の築造にあたって帰化系氏族が関わったことや、依網屯倉阿耶古や依網吾彦男垂見が帰化系氏族の出身だったとも想像できると、真弓常忠氏は「式内社調査報告」に書かれています。

 

龍神社。ここに龍大神・龍神井が祀られています

 

【社殿、境内】

境内には、有名な井戸が二つあります。一つは西南の隅にある龍神社の「龍神井」です。依網池に住む竜が美女に化身し、通りがかった農夫に池に沈む鉄を取り除いてくれるように懇願しました。その願いを聞き入れた農夫にお礼として、旱魃の時にはこの井戸の水を汲んで神前に供えて祈れば必ず雨をふらせよう、と約束したとの伝承を持つと言います。昭和の時代まで、旱天になると村民が集まってこの井戸を開き、神社に七日間籠って雨乞をしていたそうです。

もう一つは北側に昭和の時代まであった井戸で、「依羅井」「庭井」と呼ばれ、「摂津名所図会」にも描かれるほどの有名なものでしたが、今は石碑が残るのみです。

 

庭井の址

 

【伝承】

斎木雲州氏による「古事記の編集室(古事記と柿本人麿)」は、最初は「古事記」編纂に至る天武天皇時代の話から始まり、だんだんと「古事記」の内容である古代史伝承の話に入っていくという少し凝った構成になっていますが、現在出版中のタイトルの通り、そのはじめのパートと、最後のその後日譚の話に、柿本人麿が重要人物として登場します。さらにその妻、依羅姫も登場し、摂津国の当社に住んでいたと書かれているのです。近江の高島の郡役所に勤めていた人麿が、巻向山の墨坂(桜井市西峠)にあったという家に帰れる事になった時、依羅姫がその家に行って掃除して待ったという仲睦まじいエピソードにも触れられています。そして、「万葉集」に残されたいくつかの歌について、伝承を元にした意味・背景がいくつか説明されています。

詳しく存じ上げていないですが、一般的には依羅娘子は石見国だった江津市二宮町の恵良の里の豪族のお姫様で、人麿の現地妻と見る向きもあるようで、その石見国で人麿は亡くなった話があるようですが、出雲伝承はそうではないと云います。依羅姫は難波で船に乗る人麿を見送り、再び会うことなく、「万葉集」3218の歌を詠んだらしいです。

 

イト大神と白龍大神。共に神社でも創祇年代不明で、地域で篤く信仰されてきたそうです

 

(参考文献:大依羅神社公式HP、江津市観光サイト、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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