摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

意賀美神社(枚方市枚方上之町)~物部の祖伊香色男・伊香色女が高龗神を祀った伊加賀村

2023年08月26日 | 大阪・南摂津・和泉・河内

[ おかみじんじゃ ]

 

高槻市から淀川を挟んだお隣にも関わらず、これまで北河内の神社が少なかった事(蹉跎神社堤根神社)が気にかかってにわかに調べ始めましたところ、かつて゛伊加賀村゛にあったというこの意賀美神社がたいへん興味深い事と思ったので、早速参拝させていただきました。

 

入口の急な登り階段

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、高龗神、素戔嗚命、大国主神、大山咋神です。「延喜式」神名帳の河内国茨田郡に属する小社で、式内社です。

言うまでもなく、神社名は主神と言える水の神様、高龗(タカオカミ)神に由来するものです。「枚方市史」には、開化天皇の御代にこの地の豪族伊香色男(イカガシコオ)、伊香色女(イカガシコメ)の邸内にこの神が鎮座していたという伝えが載っているようです。この御二方は物部氏の祖として知られ、後者は記紀では孝元天皇の妃で、そして開化天皇の皇后でもあり崇神天皇をお生みになったとされる御方です。「日本の神々 摂津」で田村利久氏は、北河内が物部氏の根拠地であった事、当社の旧鎮座地が「伊加賀(イカガ)村」だったことからして、いちおう注目してよい伝承であり、この水神をこの地に鎮座した由緒はこの話以外は伝えられていないと書かれています。なお、「新撰姓氏録」右京神別上では、饒速日命六世孫の伊香色雄命の後裔が、交野郡(枚方市、交野市)の肩野連だとあります。

当社が素戔嗚命をご祭神とするのは、871年に天下に疫病が大いに流行したとき、清和天皇が当社現鎮座地にあった須賀神社に、疫病退散に霊験ある牛頭天王(素戔嗚命)を祭祀した事に依ります。また、大国主神、大山咋神は、同じく現在地近くにあった日吉神社のご祭神で、明治43年に須賀神社、日吉神社が、意賀美神社に合祀され、須賀神社のあった現在地に遷座したのが現在の意賀美神社ということになります。

 

枚方八景の一つ、万年寺山の緑陰。万年寺跡地の梅園で、観梅の名所となっています

 

【和泉国の意賀美神社】

和泉国和泉郡と日根郡(現在は岸和田市と泉佐野市)にも意賀美神社があり、こちらも式内社となっていますが、これら和泉の意賀美神社については、聖武天皇の時代の732年に起こった畿内の旱魃の時に、この神に幣帛を捧げて大雨を得たという伝えや、陽成天皇の時期の884年の祈雨のときにも霊験あらたかだったという伝えが残っているようです。田村氏は、おそらく当社も、淀川水系を利用した北河内の農耕民が祭祀してきたものであったと思われる、と述べられています。

 

万年寺ゆかりの石像九重塔。南北朝~室町時代のもの

 

【高龗神】

高龗神をご祭神とする神社で最も有名で親しまれているのは、やはり京都の貴船神社でしょう。ただ、貴船神社が正史に登場するのは、「日本紀略」の弘仁九年(818年)の条で、この年から祈雨止雨の奉幣を受けた記録が頻繁に見られます。それ以前の朝廷による祈雨止雨の奉幣はもっぱら大和・吉野の丹生川上神社に対してされていました。それ以降も、祈雨止雨については丹生川上神社と貴船神社が「丹貴二社」と称されて、丹生川上神社も引き続き奉幣を受けました。

 

境内

 

「延喜式」に、丹生川上神社の神に奉幣の時は大和神社(天理市)の神主が勅使にしたがうと定められているのは、丹生川上神社が大和神社の別宮であるためだと書かれています。大和神社には、境内末社として高龗神社(雨師明神)があり、丹生川上神社はこの分祀だという事になります。丹生川上神社のある地域の古老の伝承に、その雨師明神の「タカクラオオカミ」を遷したのが丹生川上神社だ、という伝えがあったようです。その丹生川上神社の創祇は、吉野の氏族と深い因縁のあった天武天皇が、神武天皇が天神を祀って厳瓮を沈めたと伝えられる丹生川上の地に当社と祭祀した時ではないか、との考えが有ります。

大和神社の祭祀氏族は大倭直氏で、椎根津彦を祖とし大和国造に任命され、天武朝に連姓や忌寸姓を賜っています。椎根津彦は神武東征で案内者として登場する御方で、珍彦や宇豆彦(ウズヒコ)または神知津彦(カミシリツヒコ)とも呼ばれます。大倭直氏は、奈良時代には宿禰姓を賜り、゛大和宿禰゛として奈良時代を通じて大和神社の祭祀を司ったようです。

 

拝殿

 

【鎮座地、発掘遺跡】

意賀美神社の旧鎮座地の近くには鷹塚山遺跡があり、弥生時代の小型重圏文鏡(径7センチ)や分銅型土製品、皮袋状の異形土器などが出土しています。これらは吉備や播磨との交流を物語ります。

現在の社殿は、かつての万年寺の境内であった万年寺古墳の上に建っています。4世紀前半の前期古墳で、明治37年の枚方小学校の運動場拡張工事中に8面の銅鏡(うち6面は三角縁神獣鏡)が発見されました。80年代時点の調査状況によれば、東は静岡県、西は福岡県の古墳から出土したものと同范・同型の関係にあり、田村氏は被葬者の性格を推測されると考えられます。すなわち、この古墳は淀川水系の水上交通を押さえて交易などにたずさわったものの墓であり、これらの鏡と関係するだろうという事です。更にその後の平成17年には、万年寺山展望広場から同時期の箱式石棺墓も見つかりました。

 

整えられた木々で取り囲まれた拝殿

 

【茨田郡伊加賀村】

意賀美神社の旧鎮座地伊加賀村は、「和名抄」によれば古代茨田郡伊香郷の地で、「行基年譜」に733年伊香村に救方院・薦田尼院を建立したことがみえるので、古代より存在し続けてきた地名だと理解できます。現在の町名では、枚方市伊加賀《本町、東町、西町、南町、北町、寿町、緑町、栄町≫・枚方《元町、上之町、公園町》、菊丘町、菊丘南町、三矢町、高塚町、堤町、桜町、山之上西町、出口一丁目、香里ヶ丘六丁目が該当し、相当に広い範囲だったようです。確かに、物部氏の祖・伊香色男、伊香色女に由緒を持つ土地だったのかもしれない、と感じます。

 

本殿

 

【伝承からの高龗神と伊加賀地名の思案】

斎木雲州氏にる「出雲と大和のあけぼの」に載る、竈山神社の氏子さんの言葉によると、大倭直氏の祖とされる珍彦は高倉下(タカクラジ)の子孫であり、その後に紀伊国造になったとされます。東出雲王国伝承は、高倉下の父が香語山命であり、さらに高倉下の兄弟となる天村雲命の子孫が海部氏、尾張氏になったという「海部氏系図」をベースにした説明を一貫してされます。つまり香語山命から後がアマ氏系氏族として関連すると主張するのです。この海部・尾張氏になる人たちが、出雲王国から摂津三島を経由して大和にやって来た分家氏族・登美氏(のち、鴨氏、三輪氏)とともに初期大和勢力(先住勢力)を構成したらしいです。

さらに出雲伝承は、大国魂神を祀る大和神社は出雲系神社であると説明しますが、その神社を大倭直氏が祭祀するのは、上記の繋がりからあり得そうに感じます。雨師明神の別称であるタカクラオオカミとは、高倉下と関係があるのでは、とのロマンも湧いてきます。そうなると、意賀美神社はその初期大和勢力と関係の深い神を祀る神社であり、その勢力が3世紀に(田原本町あたりで)作成したという三角縁神獣鏡が出土する事も、繋がりそうです。

 

境内社、琴平神社

 

しかし、上記したとおりこの地で高龗神を祀ったのは、出雲伝承が初期大和勢力と敵対したと主張するところの物部九州東征勢力の子孫にあたる伊香色男、伊香色女だと一般に理解されていることになります。出雲伝承によると、東征勢力が大和にやって来た1回目はオオヒビ大王の少し前の時代で、その頃から大和は混乱し始めたらしいです。いわゆる「倭国大乱」です。その中で先住勢力側であったオオヒビ大王は東征勢力と妥協し協力しようとしたと、出雲伝承は説明します。物部氏は出雲王国の領地だった摂津三島やさらに近江地域まで先住系氏族を追って行ったとの出雲伝承の記載があるので、その話を前提とすると、伊香色男達が先住勢力の地盤に乗り込み(直ぐ南に蹉跎神社も有ります)、その信仰を取り込んでこの地を勢力下に治めたのではと想像します。物部東征はこの後もう1回あったらしく、そこで優勢が決定的になったので、「伊加賀」の地名が生まれる程の力をこの地で持つようになったのではないでしょうか。なお、物部氏が九州から近畿地方に移動して来た事は、安本美典氏など学者でもそう考える方は居られます。

 

稲荷神社

 

【伊香色女とイニエ王】

記紀は共に、伊香色女がクニクル大王の妃で、オオヒビ大王の皇后だと記載しています。中村啓信「古事記」では、オオヒビ王が継母を皇后にした、と書かれています。継母という言葉は一般的な言葉なので読み過ごしてしまいますが、出雲伝承を語る斎木雲州氏は「古事記の編集室」で、こんな不義な関係は当時もタブーだったと主張されます。これは、イニエ王の母君をだれにするか悩んだ記紀の制作者が、(おそらくは、同じ氏族系であるとする)伊香色女を当てはめた結果だと説明されています。ただ、イニエ王の父母が具体的にどの御方なのかは、言及はなかったと記憶しています。なお、伊香色女がクニクル大王の妃であったことは、出雲伝承は認めています。

冷静に考えると、継母と結婚し皇子を生むというのは確かに大いに疑問を持たれても良い記述だと感じますが、この継母の記述を問題視する論考は見た事がありません。というより、崇神天皇の前は、後の氏族につながる人物を列記しているだけで、実在性は怪しいとする考えが一般には強いようですので、あまり真剣に捉えられていないのでしょうか。その部分を、その後の時代につながるストーリ―を以て語っているのが出雲伝承であり、興味をそそられるポイントの一つとなっています。

 

梅園の隣、豊臣秀吉の御茶屋御殿跡展望広場

広場からの淀川越しに高槻市方面が望めます。伊香色男も、ここから機を伺った?

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津/大和/山城」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍

 


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