摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

鏡作坐天照御魂神社2(磯城郡田原本町八尾 / 三宅町石見)~初期大和政権を思わせる唐古・鍵遺跡も近接する青銅鏡の聖地

2020年09月19日 | 奈良・大和

(2023.5.21写真追加)

 

奈良県磯城郡の鏡作神社の続きです。前回はご祭神の経緯や二つの神社掲示の齟齬、香語山の後の尾張氏との深い関り等を話題にしました。

 

【鏡作神社と物部氏】

鏡作神社は尾張氏だけでなく、物部氏とも無関係ではない、と谷川健一氏編「日本の神々 大和」で、大和岩雄氏は云います。原本町の保津に鏡作伊多神社が2社ありますが、中世の「大和国十郡衆徒郷土記」に”保津、保津志摩、物部姓”とあり、また、「大志」、「万葉代匠記」は、「万葉集」巻一三の長歌"みてぐら奈良より出でて 水蓼穂積に至り 鳥網貼る 坂手を過ぎて・・・"の”穂積”を保津としており、この説を有力視します。

 

・連棟式の五間社流造り。内陣のある柱間に千鳥破風を設けて明示したもの

・組物の間の彫刻付蟇股。獅子?

 

らに”坂手”については、「日本書紀通証」に゛城下郡阿刀村、在坂手村東南廃゛とあり、阿刀村の阿刀氏は饒速日命の天磐船の降臨に従った氏族であり物部系だとします。阿刀氏が居住したとみられる坂手(阪手)は北は鏡作神社、鏡作麻気神社がある八尾・小坂と隣接し、西は保津と接しています。「旧事本記」天孫本記に゛物部鍛冶連公は鏡作小軽女連等の祖゛ともあり、鏡作は物部氏とが深のです。

 

・本殿横にもお賽銭箱のある摂末社が鎮座するので、近くまで入りました

・若宮

 

【銅鐸から鏡へ】

当社、八尾の鏡作神社には唐古・鍵遺跡が近接しており、その弥生後期前半の自然流路から、銅鐸鋳型の破片などの銅鐸製造遺構が出土しています。この唐古・鍵の銅鐸製造技術を持っていた工人が、その銅鐸祭祀をやめさせた権力によって、その技術を生かして鏡を作るようになったのだろう、と森浩一氏や和田萃氏は述べています。この事は、神武東征に対し物部系鍛冶師の始祖や高尾張のヤソタケルが抵抗した伝承から推測され、つまりこの伝承は銅鐸祭祀を行っていた土着勢力の敗北にまつわる古伝の反映と思われるのです。その工人が後に尾張系倭鍛冶となったので、葛城邑を高尾張と呼ぶようになった、となります。

 

・唐古・鍵遺跡史跡公園。史跡になって20年の約2年前にようやく公園として整備されたそう

 

【渡来系氏族】

「古事記」に゛鍛人天津麻羅を求めて、石凝姥命に科せて日矛・日の鏡を作らしむ゛との記述が有るのに対し、「播磨国風土記」波国の伊頭志君麻良比という人物がいる事が注目されます。そして、マラとヒボコは共に男根のイメージを持つので、天つマラは新羅からやって来たという天日矛と対応するという説があるのです。大和氏は、天日矛は出石君麻良比や天津麻羅が祀った神であり、真良比とは客人天日矛の後裔の鍛人の長で、一方の天津麻羅は物部系と考えます。鏡作神社周辺は秦氏や新羅系渡来集団の居住地であり、唐古池は新羅人が作った゛韓人池゛だと想定されていました。また、平成以降の田原本町の調査からは、有名な渦巻柄付き楼閣絵画土器が出土していたり、壺に描かれるのが龍の意匠だったり、さらには褐鉄鉱容器遺物の内部に元々あったと予想される兎余粮(うよりょう)が不老不死を理想とする道教の薬だろうとされる事から、弥生時代から中国大陸の影響が濃厚にあったとも考えられています。

 

唐古・鍵考古学ミュージアムの展示。楼閣?の渦巻飾りや寄棟建物など

渦巻飾り付き建物と女性シャーマン

褐鉄鉱容器と中に入ってた勾玉。薬である兎余粮を出して勾玉を入れたと推定されます。アマと出雲の習合?

 

【葛城のヤソタケル】

石見の鏡作神社も含めた鏡作を冠する5社と、七代孝霊天皇黒田廬戸宮跡を結ぶとほぼ正方形に近い位置関係になります。五代孝昭天皇や六代考安天皇の宮はいずれも葛城にあり、孝昭天皇の后鏡作神社1の記事で書きました葛城津彦の妹とされる事からすると、孝霊天皇の宮が黒田にあったという伝承は、葛城(高尾張)の倭鍛冶(赤銅のヤソタケル)が移住してきた事を思わせます。孝霊天皇については、鳥取県の多くの楽々福神社に、皇后や皇子女とやって来て鬼退治をした、という有名な伝承があります。楽々福神社はタタラ師が祀る神社であり、その神社が孝霊天皇と結びついている事から、鏡作の倭鍛冶と伯耆のタタラ師を結びつけるような、葛城や吉備が鍵となる何らかの回路があっただろう、と大和氏はまとめられていました。

 

・唐古池と復元楼閣

 

【神宝の鏡】

鏡作神社には神宝の鏡があります。一説には、中国製説のある三角縁神獣鏡で、外区が欠失しているという珍しいもの。和田氏は゛近傍の古墳から出土した鏡に手が加えられ、ある時期からご神体として奉祀した゛と推定されましたが、大和氏は、森浩一氏の鏡製作の原型だとする推定を採用し、工人が原型として使っているうちに外区が欠けてしまい、使用不能になったため神社に奉納し、それが神宝としてつたえられたのだろう、と考えられていました。

 

・八尾の鏡作坐天照御魂神社。鏡池の前の、鏡石と御神鏡写真の掲示

・鏡石。江戸時代に鏡池より出土。凹部に鏡をはめ研磨作業をしただろう、という堀内篤夫氏の説明が掲示されてます

 

実は、この鏡の同笵鏡が愛知県の東の宮古墳から出土しています。4世紀後半の築造で、当時の首長は丹波県君、丹波県主です。「旧事本記」天孫本記では火明命を祖とする建稲種命が、丹波県君の祖大荒田の娘玉姫を妻とし、その子尻網根命が尾張連の姓を賜った、と書かれており、こうして文献上でも尾張氏と関係が有りそうな事が確認されています。

(参考文献:谷川健一編「日本の神々 大和」、雑誌「邪馬台国」138号)

 

・こちらは石見の鏡作坐天照御魂神社

 

【伝承】

古典の「先代旧事本紀」によると、神武東遷に先立ち、物部氏の祖、饒速日命が三十二の神々と物部二十五部の人々と大和に天下った、とされており、九州と大和の地名の類似性から、物部氏は九州を起源とする氏族だと説明する論者もおられます。東出雲王国伝承から見ると、「旧事本記」の話は、物部氏に先立って出雲王国や丹波・丹後地方からの日本海系氏族の大和への移住も全てひっくるめた話になっているように見えます。さらに出雲伝承では、部氏の東遷は2回有り、その1回目で銅鏡祭祀を持ち込み、先住系氏族政権の銅鐸との間で宗教抗争が起ったと説明します。そして、先住氏族も銅鏡祭祀を取り入れていったそうです。

 

石見の鏡作坐天照御魂神社。拝殿

 

九州勢力の勝利となった2回目で、対抗する先住大和勢力が連帯のシンボルとしたのが三角縁神獣鏡であり、呉から大和に亡命して工人が、田原本町の鏡作神社の地で製作したと云います。一方で、九州勢力の先遣部隊を率いた田道間守も、大和に来て以降真似て作ったので鏡作神社が2カ所存在する、と「飛鳥文化と宗教争乱」に斎木雲州氏が書かれています。言うまでもなく、田道間守は天日矛の子孫です。また、”唐古゛については、紀元前三世紀に秦からやって来た、道教を信奉する海童の子孫(丹波・丹後系、後の海部・尾張氏)がいた可能性が高いと、「出雲国とヤマト政権」で富士林雅樹氏が述べられています。カラは中国の゛唐(カラ)゛だということです。

 

石見の鏡作坐天照御魂神社。本殿

 

田道間守については、ある王(出雲伝承の中では九州勢力を率いた中心人物とされる)誠心を描いた美談が記紀に載りますが、実は王に取って代わろうとしていたらしく、最後はその王の命で゛富宿禰゛に追っ払たらしいです。田道間守は洛陽に、そして王自身も郡に行っていて、いわゆる「魏倭人伝」でも中国風に読られた名前が載っていると云いす。田道間守は魏から重をもらいましたが、記紀では色のミカンを持って帰っ変えられたらしいです。ただ、数は合っているそうです。

 

石見の鏡作坐天照御魂神社。社叢


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