摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

大和神社 (おおやまとじんじゃ:天理市新泉町) ~ 戦艦大和に御分霊が祀られた、伊勢神宮に続く神階を持った古社 -

2019年05月25日 | 奈良・大和


このGWの10連休、時間がたっぷりあったので、自分の時間をもらって、5月の令和の幕開けに、山の辺の道~三輪山~桜井を散策してきました。慌てないで済むように、天理の石上神社は機会を改めてじっくり訪れることとし、JR長柄から歩き始めました。ということで、最初に訪れたのが、この大和神社でした。


延喜式神名帳の大和国山辺郡筆頭の「大和坐大国魂神社三座」にあたり、持統6年、藤原京地を定めるにあたり朝廷から奉幣を受けた神社の一つ(他は伊勢、住吉、紀伊(国前)、菟名足)。神階は、897年には正一位を受け、伊勢神宮に次いで重視された神社でした。一の鳥居は旧上街道に面し、社殿まで堂々200mの長い参道が続きます。


・一の鳥居


・ちゃんちゃん祭の横断幕



 

ご由緒は日本書紀の記述によります。つまり、崇神天皇の時代、この大和大国魂神は天照大神とともに天皇と同床におられましたが、国内に疾疫が多くなり恐れ多いとして、天照大神が豊鋤入姫により笠縫邑に遷されたのと併せて、大和大国魂神も淳名城入姫により祭られました。しかし、淳名城入姫は髪堕ち体は痩せて祭祀をする事が出来なくなりました。その時、「大田田根子を大物主の神の祭主とし、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主とすれば、必ず天下は太平になろう」とお告げがあり、それぞれが祭主となり、国内は静まったと云います。

続く垂仁期にも、天照大神が倭姫と共に伊勢に去ったあと、淳名城稚姫が登場しての同じような話があり、結局は長尾市宿禰が祭主となったとあります。その当初の鎮座地「穴磯邑、長岡岬」は現鎮座地の東方にあり、そこから移ったとされてますが、旧地については、公式HPにも記載の通り諸説あります。山の辺の道沿いにある御旅所もその一つ。


・境内

 

祭神は、春日造の本殿3坐の中殿に大国御魂神、左殿に八千矛神、右殿に御歳神がお祀りされています。ご由緒の記載はともかくとして、まず一座が市磯長尾市を祖とする大倭直氏により祀られたのだろうと考えられます。「新撰姓氏録」では大倭直氏は椎根津彦を祖とし、大和国造に任ぜられた氏族。椎根津彦は神武東征の水先案内人で珍彦(ウヅヒコ)または神知津彦とも呼ばれ、豊後水道或いは明石海峡あたりを本貫とした海人族とされています。


・拝殿


・本殿(よく見えません)。春日造の3殿

 

4月1日に行われる例祭「ちゃんちゃん祭」は奈良県の指定文化財となっていて、平成最後の祭の名残が一の鳥居の横断幕で残っていました。神輿を担いだ行列が本社から御旅所まで練り歩くもので、昔は中山町の小川にさしかかると長岳寺の僧侶が鉦鼓を”ちゃんちゃん”と鳴らした事から名前がついたようです。

(以上、参考文献:日本の神々 大和。谷川健一編)

 

・境内末社、高龗神社。祭神は雨師(アマシ)明神。吉野の丹生川上神社は当社の分祀。

 

この神社の御分霊が、あの戦艦大和に祀られたことも有名であり、今も大和との関係を忍ばせるゆかりの碑があります。そして、「戦艦大和関連展示室」という建屋があり、神社に奉納されたと思しき物品や写真が展示されています。大和の模型が幾つも展示されたのが印象的でした。

 

・境内摂社、左から事代神社、厳島神社、朝日神社。


大倭直氏の祖である椎根津彦命(珍彦)については、綿積豊玉彦命の四代後の御方という見方が一般的でしょうか。一方、元伊勢籠神社では倭宿祢と呼び、宮司家海部氏の四代目と説明しています。これら公に言われている事に対し、大元出版の「出雲と大和のあけぼの」に記載されている、竈山神社の氏子さん(彦五瀬命の子孫とのこと)のインタビューでは、珍彦についてこんな話をされていました。

「(彦五瀬命の敵は)古事記に書かれている、高倉下の子孫ですよ。(中略)高倉下の子孫の珍彦が、敵だったのです。日本書紀には、珍彦が速吸之門(豊後水道)から来たと書かれているけれど、東征は瀬戸内海を通ったのではありません」

「高倉下の子孫は紀伊の国造家になりました」

東出雲王国伝承の云うアマ氏の始祖は、天火明命の御子、天香語山です。その後に天村雲命が続いて、尾張氏・海部氏に分かれていく、としています。一方、高倉下は天村雲命の別腹の兄弟だとしています。なので籠神社或いは氏子氏いずれの系譜であっても、珍彦もアマ氏の子孫と理解されます。そうなると、持統帝が奉幣した大和、住吉紀伊(日前)社はすべてアマ氏の神社となりますね(菟名足(宇奈太里?)はわかりません)。


そして持統帝の夫君、天武帝は即位前は大海人皇子です。この名はアマ~海部から来ていると、伝承は説明しています。天武帝の養育者が、アマ氏の分家、安曇連家だったからだそうです。

・大和神社から東に歩くと、のどかな景色に


・だんだん登っていき、大和平野が一望できるようになります


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