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Lester:「私は、あなたに全ての道を案内しようとしています。」 2015-10-04-09:45JST

私は誰か? - ラマナ・マハルシの教え - 01

2012-06-16 09:05:46 | KEYS TO THE ULTIMATE FREEDOM
私は誰か? - ラマナ・マハルシの教え - 01

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私は誰か?
ラマナ・マハルシの教え

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私は誰か?

ラマナ・マハルシの教え

SRI RAMANASRAMAM

Tiruvannamalai

2012

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Sri Ramanasramam

Tiruvannamalai

初版:2012

2000 刷

CC No : 1035

ISBN :

Price : Rs.

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はじめに

『私は誰か?』という題名は、真我探求に関する一連の質疑応答に与え

られたものである。それらの質問は、哲学専修課程を修了し、南アルコッ

ト地区の税務署の収税官として働いていたシュリー・M ・シヴァプラカー

シャム・ピライが、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシに尋ねた

ものだ。1902 年、収税官の仕事でティルヴァンナーマライを訪れていたシ

ュリー・シヴァプラカーシャム・ピライは、アルナーチャラの丘を登って、

ヴィルーパークシャ洞窟にいたバガヴァーンに出会った。そしてこのとき

彼はバガヴァーンに、霊的な指導と真我探求の疑問に対する解答を求めた

のである。当時のバガヴァーンは話をしなかった。沈黙の誓いを立ててい

たというわけではない。語ろうという衝動が起きなかったのだ。それゆえ、

バガヴァーンは答えを指で砂の上に書き、それを手でかき消すと、また次

の答えを指で書いた。シュリー・シヴァプラカーシャム・ピライは、全部

で十三あった問答を記憶し、それを紙に書きとどめた。この記録は 1923 年

にシュリー・ピライによってタミル語版として出版された。その初版には、

いかにバガヴァーンの恩寵が彼の疑問を晴らし、人生の苦境に直面してい

たシュリー・ピライを救ったかを詠った数編の詩も含まれている。

その後、
『私は誰か?』は度々版を重ねた。初版では問答が十三あったが、

後のいくつかの版には二十八の問答が収録された。その後バガヴァーンは

自分自身でこの質疑応答集の中の質問や答えの文章を練り直し、いくつか

を削除して、散文体に書き直した。現存する英訳はこの散文体のものであ

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り、現在のこの小冊子は二十八の問答を含んでいる。

『真我探求』
(ヴィチャーラサングラハム)とともに、
『私は誰か?』は

師自身の言葉による教えの最初期の記録である。バガヴァーンの著作の中

でも散文体で書かれているのはこの二作品だけで、どちらも真我探求が解

脱の道への王道であることを明記している。特に『私は誰か?』では、特

定の様式を用いた探求に関する分かりやすい説明が見られる。

心は想念から成り立つ。心の中に最初に現れるのは「私」という想念で

ある。
「私は誰か?」という探求を忍耐強く繰り返したとき、その他すべて

の想念は破壊される。そして最終的には「私」という想念自体も消え去り、

至高なる非二元性の真我だけが後に残る。そのとき、真我ではない身体や

心という現象と真我との偽りの自己同一化は終焉し、直接体験としての啓

示が起こるのである。

むろん探求の過程は容易なものではない。
「私は誰か?」と探求を始める

やいなや他の想念が起こるからだ。だがその想念の後を追うのではなく、

「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきである。これをするには、

極端なまでの注意深さが必要となる。心がさ迷い出し、それ自体が創り出

した想念の迷宮に迷い込むのを許さず、たゆまぬ探求を通して心を源にと

どめなければならない。呼吸制御や神の姿への黙想といったものは、補助

的な修練と見なされるべきだ。そのような修練は、心を静まらせ一点に集

中させるという限りにおいて有益である。なぜなら精神集中に熟練した心

にとって、真我探求は容易になるからだ。絶え間ない探求を通して想念が

破壊されたとき、
「私」という想念さえ存在しない「沈黙」の体験の中で、

究極の実在である真我は実現されるのだ。

これがバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの『私は誰か?』の教

えの要諦である。

T.M.P. マハーデーヴァン

マドラス大学

1982 年 6 月 30 日

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バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ 21 歳

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私は誰か?
Nan Yar

生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ

とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ

る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ

る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、

人は自分自身を知らねばならない。そのためには、
「私は誰か?」という問

いで探究する知識の道が最も重要な方法である。

1 私とは誰でしょうか?

七つの要素*1 から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、

聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、

味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である

言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ

と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす

るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸

気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で

さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働

きもない無知も、私ではない。

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The Bhagavan Sri Ramana Maharshi website
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ダウンロード先:www.sriramanamaharshi.org/downloads/Who_am_I_Japanese.pdf (全16ページ)

http://www.sriramanamaharshi.org/downloads/Who_am_I_Japanese.pdf
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