カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

フィクションというもの  11oct2011

2011-10-11 | エッセイ

この話はフィクションです。
 地震体験車というのがアトラクションとして出ていた。私は順番待ちの行列に並んだ。15名ほどが一列に並んでいて、その最後尾についた。「行列や、並ぶときはいつも最後尾」という川柳ともいえぬ言葉をもごもごと口の中で言いながら並んだのだった。行列はあまり好きではない。私が並んだというように、横目で何となくどうしようかと迷っていた人たちがいたのか、あっという間に私の後ろへもう一列分くらい行列ができた。偶然と言えば偶然なのだが、最近の日本人の「前へならえ的な」奇妙な集団人間心理ということかもしれない。情けないといえば情けない。他人と違うぞと大見え小見えを切るのもその心理の裏返しだろう。係りのお兄さんが何人ですかと訊いていた。その地震体験車は4人まで乗れるらしく、1名ですと答えると、「それでは前の子供2名と3人で一緒に乗ってください」とのことだった。その2名は小学校の1,2年生といった感じだった。順番が回ってきていざ乗ろうとしたその直前に1歳から3歳くらいのガキが2名、その前の二人に合流して列に割り込んできた。とっさのことでその時私は特には何とも思わなかったのだが、どこかで親が見ていてタイミングを見計らい、それゆけ今が割り込みのチャンスだ、と2名のガキを押し出したのかもしれなかった。こんなのはもうガキでよい。他人の子供をガキと言ってはいけません、という大人がいる。大抵分け知りの顔をした知識人だったりする。そんなことを言うとき、その人は私の目を見ては言わない。目をそらしたまま言う。その人の顔を逆によくよく見ると、どこか狐でも憑いた顔をしていたりする。社会の宝だからだの、バチがあたるだのという屁理屈、小理屈が付いたりする、あるいは真理なのかもしれない。それではジャリとでも言うか。ところで昔、私もガキと言われたことはある。大抵そんなところだろう。地震体験車のすぐ脇で控える別の係りの男が、「小さいから子供をだっこして乗れば4名ということで乗れます」と言った。さっきとは別の係りだから割り込みも見ていないし、見ていてもまあ大目に見てそれが他人の子供であるかどうかは関係なく良いアイデアを出したということなのか。他人の子供をだっこして乗る気などあるものか。その男に「前の二人のガキは、私とは別です。」と言った。「そこの係りの人が先ほど、3人で乗ってくれと・・・。他のそれより小さなジャリ2名はどこかの馬鹿親の差し金でたった今割り込んできたのだよ」と言った。それとも親無し子かもしれない。その地震体験車は東北震災のチャリティー祭りの会場のアトラクションなのである。こんな可哀そうな子たちをガキ、ジャリ呼ばわりして、と非難の矢を掛けるための罠かもしれぬ。係の男は「分かりました。」と言った。最近はガキの親に政府が現金を渡すという末期的症状が現れている。親に小遣いを渡す政府か・・・。他にやり方は思いつかなかったのか。「手抜き」どころか思考停止の「頭抜き」なのではないか。おかしなことはいくらでもあるのである。
 地震体験車はもちろん揺れたが、私と一緒になったガキ2名は、私と同様に好奇心に満ちた目で楽しんでいるようだった。他のジャリ2名は後にでも乗ったのだろう。あるいは乗らずに済んでむしろ良かったのかもしれない。





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