日常あるいは平穏な日々

日々思う事をつれづれなるままに書いていこうと思います。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 その2~

2011年05月06日 | 自分教
早速友人がコメントを付けてくれた、このシリーズ。
有り難い事です。

こういう事を話題の俎上に載せるというのは、日本では、どちらかと言えば禁忌視されている節があって、
これを書くにあたっては、実は少し躊躇もあったのです。
しかし、今の日本の社会や教育に対する私の危機感センサーの針は振り切れっぱなしだし、
東日本大震災もあって、広く、こういう事を考えることの切っ掛けを作る事も必要なんじゃないかと思ったのが、
これを書くという一歩を踏み出させた切っ掛けだったりします。

そいう事もあって、友人のコメントは、有り難かったなと。

というワケで、これを読んでくださった方には、是非一度、「自分が生きるという事」について、
見つめ直していただけたらと思っています。
そして、このシリーズが、「自分が生きるという事」を考える一助になればと思っています。


さて、前回は人の死を、生の終端と位置づけました。
逆に言うと、生の終端を迎える前は、生きているという事になります。

そして、ここで得られる気付きとしては、生と死は不可分であり、連続したものである事です。
と同時に、人は生きている事を当たり前の日常として受け止めている面がありますが、
もし生が日常の一コマであれば、死も日常の一コマに過ぎないのでないか、という思いに至ります。
死というものは、生の時間に比べ、あまりにも短い間に行われるために、生に比べて特別視し価値ですが、
でも、死も生の一部なのだというのが、今の私の考え方です。
この事から私は、生と死は等価であると捉えています。

生が無ければ死も無く、生まれなければ死も訪れないわけであり、
生とは、『誕生』も『死』も含め、誕生から死までの一連の事象なのですから。

そこで私は思うわけです、生と死が等価であり、死の訪れが早いか遅いかの違いこそあれ不可避なのであれば、
無条件に執着する様なものでは無いなと。また、徒に恐れたり悲しんだりするのとも違う気がします。
とは言え、友人知人の突然の死は、非常に辛いものに変わりは無いのですが。

また、死を徒に恐れたり悲しんだりするものでは無いからといって、自らに死を齎す事は、
これはやはり罪なのだと考えています。
これは先の、「自らを守る事が人を守る事に繋がる」に通ずるものにもなるのですが。

結局、生とは、誕生から始まって、終端の死を迎えるまでの連続した流れの中での活動なのだと捉える事ができます。
また、生とは誕生や死の様な一瞬の出来事の連続を、生というもので刻んでいるとも言えます。
そのため、生の中の一瞬一瞬は、死の一瞬と同じだけの意味を持つ様に思っています。
すると、生というものは、今この一瞬も非常に貴重な一瞬である事に気付きます。
そう考えると「生きるという事は、疎かにできないな」と思うわけです。
だからこそのジレンマも、勿論あるわけですが。


といったところで次回は、生というものが、如何にして成り立っているか、という点について掘り下げてみたいと思います。


※ この辺の考察を開始して、既に10年以上は経過している内容のため、私の中では、当然に思えてしまっている部分もあり、
一部、表現が分かり難い部分もあるかも知れません。そういう点については、是非、コメントでご指摘いただきたいと思います。
なるべく平易に書いているつもりですが、見落としも多いと思うので。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 その1~

2011年05月06日 | 自分教
私が思うに、自分というものを確立する上で、自分をより理解するという事は非常に大切に思うのですが、そのためには

・社会の中の自分とは
・自分にとって嬉しい事、悲しい事
・自分が善く思う事は何か

など、考える事は山ほどあります。
それらについては、過去、色々と考えて来たわけですが、そういう考えを一度、文字としてまとめておく事も重要かと思い、このカテゴリを追加してみました。
因みに、これらの考えを深めて行くと、だんだんと内容が宗教じみてきます。とは言え私は、特定の宗教に属しているというわけでは無いので(とは言え日本人なので、
自然の内に、神道の影響を色濃く受けているわけですが)、自分なりの宗教という事で、タイトルに『自分教』と入れてみました。

まずはじめは「生と死」についてから書こうと思います。

生と死について考える時、まず、死とは何かを考える事から始めたいと思います。
死を自分の中で定義付けする事で、自分にとっての生というものを逆説的に捉えられると考えられるからです。

私の思考は、
「人は、ただ漫然と生きているいるだけで、生きていると言えるのだろうか?」
「ただ生きるだけであれば、死んでいるのと変わり無いのではないか?」
というところから始まります。
まぁ、良くある話ですね。

では人の死とは、一体何であろうか?生きながらにして死んでいるというのは、あるのだろうか?
結論としては、生きながらに死んでいるというのは無いですね。
生きている時は生きているし、死んでいるという事は無い。
あるとしたら、自分という【存在】を殺して、殺されて生きるという事でしょうか?
これは、所謂【無視する・される】という状態ですね。または【存在】を【認識しない・されない】。
でもこれは、【存在】が無い事にされているだけで、死というものとは別物です。
死は生の延長線上にあるものであるし、【存在】が無い事にされているというのは、【在る】の対局となるので。

という事で、生や死は、存在の有無とは異なるという事です。
死んでも死体であったとしても、その人は存在するし、生きていれば尚更です。

通常、心肺停止というのは、人の死を意味する場合が多いわけですが、
しかし世の中には、心肺停止後、蘇生するという事例も報告があるわけです。これを、どう捉えるか?
死というものが生から切り離されたものであり、不可逆なものであるなら、心肺停止というのは、
必ずしも死では無いという事になります。
もう1点は、脳死状態を如何に認識するか?

私が思ったのは、死というのは生の終端であるという事です。
終端であるのであれば、再開というのは無いので、心肺停止というのは『=死』では無いという事になります。
脳死についても同じで、脳死から帰還するケースの報告がある以上『=死』では無いという事ですね。

では、その生の終端は、どの様な状態なのか?

ここ1つの可能性について考えます。
もし人に魂が存在するとしたら?
もし人に魂が存在するのであれば、死とは、その魂と肉体が完全に引き離され、戻れなくなった状態と考えられないか?
人にもし魂が存在するのであれば、これによって生の終端を、説明できる様な気がします。

魂の存在について関する考察は、まだまだ先の事として、もう少し、生について考えてみたいと思います。

※補足
個人的には、脳死=死という認識は無いのですが、脳死となった場合の臓器移植を否定するものではありません。
なんと言っても私は、ドナーカードを所持しており、脳死時の自分の臓器提供に同意しています。
自分の事を言えば、脳死となって意識を取り戻せる奇跡を待たずに、最後の役目として、臓器を提供するのでも良いじゃないかという認識なのです。
世の中には、自分の死を省みずに他者を守る人も居ますし、それは尊い行為だと思います。
脳死後の臓器移植は、その中でも、自分にとっては比較的抵抗の少ない部類なのかな?と思うのです。
痛みや苦痛も認識できないですし。
勿論、自分を守る事によって人を救う事もできますから、それもまた良き行為なのだと思っています。
何より人の死は、自身に近しい人の心を傷付けますので。
だから、もし脳死による臓器提供に同意するにしても、親や家族などの理解が欠かせないと思っています。