早速友人がコメントを付けてくれた、このシリーズ。
有り難い事です。
こういう事を話題の俎上に載せるというのは、日本では、どちらかと言えば禁忌視されている節があって、
これを書くにあたっては、実は少し躊躇もあったのです。
しかし、今の日本の社会や教育に対する私の危機感センサーの針は振り切れっぱなしだし、
東日本大震災もあって、広く、こういう事を考えることの切っ掛けを作る事も必要なんじゃないかと思ったのが、
これを書くという一歩を踏み出させた切っ掛けだったりします。
そいう事もあって、友人のコメントは、有り難かったなと。
というワケで、これを読んでくださった方には、是非一度、「自分が生きるという事」について、
見つめ直していただけたらと思っています。
そして、このシリーズが、「自分が生きるという事」を考える一助になればと思っています。
さて、前回は人の死を、生の終端と位置づけました。
逆に言うと、生の終端を迎える前は、生きているという事になります。
そして、ここで得られる気付きとしては、生と死は不可分であり、連続したものである事です。
と同時に、人は生きている事を当たり前の日常として受け止めている面がありますが、
もし生が日常の一コマであれば、死も日常の一コマに過ぎないのでないか、という思いに至ります。
死というものは、生の時間に比べ、あまりにも短い間に行われるために、生に比べて特別視し価値ですが、
でも、死も生の一部なのだというのが、今の私の考え方です。
この事から私は、生と死は等価であると捉えています。
生が無ければ死も無く、生まれなければ死も訪れないわけであり、
生とは、『誕生』も『死』も含め、誕生から死までの一連の事象なのですから。
そこで私は思うわけです、生と死が等価であり、死の訪れが早いか遅いかの違いこそあれ不可避なのであれば、
無条件に執着する様なものでは無いなと。また、徒に恐れたり悲しんだりするのとも違う気がします。
とは言え、友人知人の突然の死は、非常に辛いものに変わりは無いのですが。
また、死を徒に恐れたり悲しんだりするものでは無いからといって、自らに死を齎す事は、
これはやはり罪なのだと考えています。
これは先の、「自らを守る事が人を守る事に繋がる」に通ずるものにもなるのですが。
結局、生とは、誕生から始まって、終端の死を迎えるまでの連続した流れの中での活動なのだと捉える事ができます。
また、生とは誕生や死の様な一瞬の出来事の連続を、生というもので刻んでいるとも言えます。
そのため、生の中の一瞬一瞬は、死の一瞬と同じだけの意味を持つ様に思っています。
すると、生というものは、今この一瞬も非常に貴重な一瞬である事に気付きます。
そう考えると「生きるという事は、疎かにできないな」と思うわけです。
だからこそのジレンマも、勿論あるわけですが。
といったところで次回は、生というものが、如何にして成り立っているか、という点について掘り下げてみたいと思います。
※ この辺の考察を開始して、既に10年以上は経過している内容のため、私の中では、当然に思えてしまっている部分もあり、
一部、表現が分かり難い部分もあるかも知れません。そういう点については、是非、コメントでご指摘いただきたいと思います。
なるべく平易に書いているつもりですが、見落としも多いと思うので。
有り難い事です。
こういう事を話題の俎上に載せるというのは、日本では、どちらかと言えば禁忌視されている節があって、
これを書くにあたっては、実は少し躊躇もあったのです。
しかし、今の日本の社会や教育に対する私の危機感センサーの針は振り切れっぱなしだし、
東日本大震災もあって、広く、こういう事を考えることの切っ掛けを作る事も必要なんじゃないかと思ったのが、
これを書くという一歩を踏み出させた切っ掛けだったりします。
そいう事もあって、友人のコメントは、有り難かったなと。
というワケで、これを読んでくださった方には、是非一度、「自分が生きるという事」について、
見つめ直していただけたらと思っています。
そして、このシリーズが、「自分が生きるという事」を考える一助になればと思っています。
さて、前回は人の死を、生の終端と位置づけました。
逆に言うと、生の終端を迎える前は、生きているという事になります。
そして、ここで得られる気付きとしては、生と死は不可分であり、連続したものである事です。
と同時に、人は生きている事を当たり前の日常として受け止めている面がありますが、
もし生が日常の一コマであれば、死も日常の一コマに過ぎないのでないか、という思いに至ります。
死というものは、生の時間に比べ、あまりにも短い間に行われるために、生に比べて特別視し価値ですが、
でも、死も生の一部なのだというのが、今の私の考え方です。
この事から私は、生と死は等価であると捉えています。
生が無ければ死も無く、生まれなければ死も訪れないわけであり、
生とは、『誕生』も『死』も含め、誕生から死までの一連の事象なのですから。
そこで私は思うわけです、生と死が等価であり、死の訪れが早いか遅いかの違いこそあれ不可避なのであれば、
無条件に執着する様なものでは無いなと。また、徒に恐れたり悲しんだりするのとも違う気がします。
とは言え、友人知人の突然の死は、非常に辛いものに変わりは無いのですが。
また、死を徒に恐れたり悲しんだりするものでは無いからといって、自らに死を齎す事は、
これはやはり罪なのだと考えています。
これは先の、「自らを守る事が人を守る事に繋がる」に通ずるものにもなるのですが。
結局、生とは、誕生から始まって、終端の死を迎えるまでの連続した流れの中での活動なのだと捉える事ができます。
また、生とは誕生や死の様な一瞬の出来事の連続を、生というもので刻んでいるとも言えます。
そのため、生の中の一瞬一瞬は、死の一瞬と同じだけの意味を持つ様に思っています。
すると、生というものは、今この一瞬も非常に貴重な一瞬である事に気付きます。
そう考えると「生きるという事は、疎かにできないな」と思うわけです。
だからこそのジレンマも、勿論あるわけですが。
といったところで次回は、生というものが、如何にして成り立っているか、という点について掘り下げてみたいと思います。
※ この辺の考察を開始して、既に10年以上は経過している内容のため、私の中では、当然に思えてしまっている部分もあり、
一部、表現が分かり難い部分もあるかも知れません。そういう点については、是非、コメントでご指摘いただきたいと思います。
なるべく平易に書いているつもりですが、見落としも多いと思うので。