音信

小池純代の手帖から

雑談11

2021-08-04 | 雑談
三人の茂吉の一首。

ゴオガンの自畫像みればみちのくに山蠶殺ししその日おもほゆ
              山蠶:やまこ

斎藤茂吉『赤光』「折に觸れて」(大正元年)の一首。
「山蠶」は新字では「山蚕」。比べてみると別の生きものに見えるが、失礼して
以下、すべて新字表記で進めます。引用は主に次の三冊から。

    TK:塚本邦雄『茂吉秀歌『赤光』百首』
    TT:玉城徹『茂吉の方法』
    OT:岡井隆『斎藤茂吉ー人と作品』


TK:私はこの「ゴオガンの自画像みれば」を、『赤光』の白眉とするのみでなく、
  近代短歌の秀作の第一に数へたいくらゐに思ふ。


とてつもない高評価のこの歌、平たく言うと、

OT:「ゴオガンの自画像」はおそらく画集かなにかを見ているのだと思います。
   それとじぶんの郷里の東北で野生の蚕をみつけて殺したその日のことが
   思われるというのを繋げている。


こういう歌です。

OT:「ゴオガンの自画像」とみちのくでやま蚕を殺した追想とはなんの関係も
   なさそうです。けれども、


けれども、
「タヒチへ流れていった伝説付のゴーガンという画家」「原色の世界」と、
山蚕を殺すような「子供の殺戮本能」とは、
「直接の関係はないのだけれども、なにか強烈な原色というもので結びつけられる」
と続きます。
ほかのお二方は、「自画像」と「山蚕殺し」を繋げるものとして、

TK:幼児、少年の虫類虐殺は、その本性に根ざしたもので、長じて後も、
   時として一種の戦慄として蘇る。
   ゴーギャン肖像と山蚕殺戮を繋ぐ透明な線は人間の業(ごふ)であり、
   作者は「その日」の「その」に、宿命的な悪行の創まりを暗示してゐるのでは
   あるまいか。


TT:ゴオガンの自画像と、「みちのくに山蚕殺しし」思い出を結びつけるものは、
   けっきょく、ある悪霊(デーモン)的なものだと言ってよかろう。


三者三様ながら、
「強烈な原色」「人間の業」「悪霊(デーモン)」と、なかなかおどろおどろしい
どこか根源的なものが揃いました。

ゴーガンの自画像は何枚もあるそうですが、
三浦彩子氏の探求(「短歌」2003年4月号「ゴオガン探索ー茂吉が見たのは、どの自画像か?」)
によると、この帽子をかぶった自画像が相当有力なようです。


    

自画像の背景にある絵画は重要なエピソードを担っていると言うことです。
さて、どんな?




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