音信

小池純代の手帖から

雑談3

2021-06-30 | 雑談
ジャコメッティといえばこの詩の「青銅の彫像」が
『エクリ』でのにべもない応答よりも連想がしやすい
のではないか。


  BLUE
  
 いま
 去っていく秋の
 ブルーの風
 の
 なかに
 いて
  
 ジャコメッティの
 青銅の彫像
 の
 ように  
  
 孤独
 の
 憂愁
 の
 直線
 の
 ブルーの長い影
 を曳き  
  
 白とブルー
 の
 縞
 にみちた
 海
 のブルー
 を
 見ている人の
 細い背中
 も 
 ブルーである
        (北園克衛『BLUE』)



『BLUE』は1979年刊行の遺稿詩集。

こんなことをしたら形象詩の美が台無しだが、
一連を一行にしてしまうと、


 いま去っていく秋のブルーの風のなかにいて

 ジャコメッティの青銅の彫像のように  
 孤独の憂愁の直線のブルーの長い影を曳き  

 白とブルーの縞にみちた海のブルーを
 見ている人の細い背中もブルーである


777を基調に、555的な連打を差し挟んでの長歌、
あるいは長歌よりもっと昔の「うた」のかたち、とも
言えなかろうか。

「ブルーを見ている人」ならぬ『花を視る人』のなかに
こんな一節があった。

 「九句か十一句か、そのくらいの短い長歌を、体験として
 かさねることは、もっと試みられていい。すくなくとも、
 ‘二首’の短歌に分散してしまう内容を、一首の長歌によって、
 より充実した表しかたをすることは可能であろう。」
             岡井隆「短い長歌へのあこがれ」


1981年の時評から。
『BLUE』への言及ではないことをお断りしておくが、
根っこでどこがどうつながっているのかは、
知らないし見えない。


『エクリ』書影もブルーである。





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