慈覚大師は延暦13年(794)に栃木県下都賀郡に壬生氏の子どもとして生まれました。9歳で大慈寺の高名な僧広智に預けられ、大同3年(808)に15歳で、広智に連れられて比叡山に入りました。伝教大師最澄の弟子になるためです。
24歳で伝教大師とともに古里の関東に赴きました。大慈寺では伝教大師から潅頂と円頓戒を受けました。伝教大師の入滅の直前には、慈覚大師だけに一心三観の妙義が伝授されました。29歳のことです。それから30歳で止観業の年度分度者として12年籠山(ろざん)に入り、それを経てから比叡山を出て、法隆寺や四天王寺での法華経の講義、東北布教などに力を注いだのでした。
転機が訪れたのは、40歳になって重い病気にかかったからです。横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で、6千部を目標に如法写経に挑戦し、それで健康を取り戻したのです。そこでの写経を納め、本尊として祀り建立されたのが、横川の根本如法堂です。
病後に慈覚大師は、「天台教学の心髄と密教を伝えなさい」との伝教大師の夢を見て、それで最後の遣唐使の一員として中国に渡りましたが、希望していた天台山には向うことはかなわず、秘かに求法の旅を決意し、弟子二人と五台山で、禅の必要性から止観の妙旨を伝授せられたほか、念仏三昧の行法も習得しました。また、五台山の法要(引声阿弥陀経)や、仏教の法要に欠かせない声の音楽である声明(しょうみょう)なども体得しました。唐の都の長安では、胎蔵界、金剛界とともに、天台宗の台密では「胎金の両部を不二(ふに)ならしめる第三の契経である蘇悉地経(そしつじきょう)」などを受法しました。
胎金の両部と蘇悉地経の三つを、天台宗では「三部三昩耶」と呼んでいます。仏典や曼荼羅なども入手し、武帝の仏教弾圧を逃れるべく、日本に帰国したのでした。足掛け10年にわたった苦難の求法を書き記したのが国宝である『入唐求法巡礼行記』です。
持ち帰った経典は584部802巻に及んだのでした。曼荼羅などの図像法具も21種あったといわれ、天台密教の大成に尽力したのでした。その功績によって、第三世の天台座主になられ、勅旨での初の任命でした。そして、没後2年にして、日本で初めての大師号が清和天皇から贈られたのでした。最澄が伝教大師となったのも、そのときのことです。