会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

会津天王寺の由来についての一考察    柴田聖寛

2010-01-31 09:39:02 | 日記
会津天王寺の由来


 ○天台宗は国教 

 会津美里町の天王寺の縁起によると、光孝天皇の時代にあたる元慶二年〈883〉僧観裕の開創になるといわれます。つまり、平安初期にまでさかのぼることになり、会津を代表する名刹であったのです。
 同じ町にある龍興寺も嘉祥年中〈848~851〉といわれています。天台宗の寺が相次いで会津地方で建立された可能性が強いのではないでしょうか。
 会津や筑波を拠点にし、日本の天台宗の開創者である伝教大師最澄と論争した徳一が遷化したのは、承和年間〈834~838〉とみられています。徳一没後に、奈良との関係が深かった法相宗が勢いを失い、一挙に天台宗が会津に浸透したことを教えてくれています。
 いうまでもなく、最澄は弘仁十三年〈822〉にこの世を去っていますから、その時期は、天台宗の座主が東国出身者で占められている時期とピッタリと符合します。
 最澄の跡を継いで、初代座主となった義真、二代座主の円澄は、それぞれ相模と武州でしたが、三代座主の慈覚大師円仁、四代座主の安慧、五代座主の猷憲は、会津に隣接する下野出身であったからです。
 徳一と伝教大師が論争を繰り広げたのは、徳一教団と、天台宗の影響下にあった道忠教団とが対立していたからです。道忠というのは、唐から渡ってきた鑑真の弟子で、没年は延暦十九年頃〈800〉ですが、東国で一大勢力を誇っていました。
 日本の三戒壇の一つであった、下野の薬師寺に派遣されたといわれています。そこには鑑真とともに来日した如宝が駐在していましたが、五人の正式に受戒した僧が必要とされていたために、道忠が選ばれたようです。
 最澄が弘仁六年〈815〉か弘仁七年〈816〉に東国を訪れたのも、道忠教団にてこ入れをすることで、天台宗を広めようとする思惑があったからでしょう。
 生前に道忠は、弟子や孫弟子を比叡山で修業させ、最澄の下で僧の資格をとらせたのでした。最澄の東国入りに同行した円仁も、もともとは道忠の門下でした。
 円仁が三代座主となると同時に天台宗は、会津ばかりでなく東北地方をアッという間に席巻したのでした。
 岩手県の奥州市にある薬師如来像には、造物の年代が貞観四年〈862〉と墨で記されていますが、嘉祥二年〈849〉に円仁によって造立されたという伝説が残されています。
 天台宗が国家仏教としての地位を不動のものとすると、それこそ、徳一開基といわれる磐梯町の恵日寺も、宗派替えを行ったのでした。
 あえて東北の地で抵抗するのではなく、その傘下に入ることで、領主権を主張することができたからです。天皇を中心とした国家の一翼を担う意味からも、天台宗に楯突付くわけにはいかなかったのです。
 さらに、徳一が種を蒔いた薬師信仰や観音信仰は、天台宗とも無縁ではありませんでした。会津の人々にとっては、薬師信仰を通して仏教に近づいたわけですから、違和感を持たれることもなかったようです。
 
 ○開基者は光孝天皇の皇子

 天王寺の名前の由来を考えるにあたって、朝廷との結び付きを無視するわけにはいきません。会津美里町に現存する田中文庫の古文書には、天王寺の観音様についての由来が次のように記述されています。
 
 観音尊像の由来を考えるに、人皇五十八代の光孝天皇がまだ皇子でおられたころ、人知れず通っておられる女性がおられました。その女性のおなかには、皇子の子どもを身ごもっておられました。このため、世の中を憚って秘かにお寺に預けて、出家の形を取ったので、このことを知る人はほとんどいませんでした。
 この皇子は、成長して観裕法印と名乗られ、徳が高く、学問にも秀でておられたので、やがて探題、そして、貫主として出世され、檀宗徒の信頼も厚いものでした。
 しかし、三十歳のあるとき、行基の作った十一面観音像を笈に収めて、夜にまぎれて山門を忍び出て、地方行脚の旅に出られたのであります。
 その後何年か過ぎたとき、この高田の地に来られたのです。おりしも、真夏の暑い最中で、暑さのために冷水を求められましたところ、にわかに、涼しい風が吹いてきて、柳の葉を動かしました。首を回して見てみると、柳の側に一つの清らかな清水がありました。
 観裕法印は、この水をすくって飲んだところ、不思議なことに心身が健やかになり、たちまちのうちに暑さを忘れてしまうほどの心地になったのであります。
 しばらくの間、木陰で笈をおろして体を休めているうちに、思わず眠気を催して、草木を枕に眠ってしまわれました。そのとき、忽然と、えもいわれぬまことにいい匂いが漂ってきたのです。
 笈の戸を開けると、煌々と光明が四方に輝き、菩薩の像が厳然として現れたのでありました。観裕法印は、驚いて恭しく礼拝されましたところ、菩薩は声高らかに「爾カ是ヲ飲テ忽心身健カナルハ則是仏性ヲ得タルナリ 此水億万ノ衆生ヲシテ則真如ノ月ヲ観セシムルノ良縁アレハ、吾必ス此ノ所ニ止マルベシ」と言われたのを聞いて夢から覚めたのでした。
 近くに人がいたので、その泉の名を聞いてみると、法性清水と呼んでいるとの答えでした。観裕法印は喜びの余り、近くにいた里人に今見た不思議な夢を物語ったのですが、皆が不思議に思ったのでした。
 そこで、早速この地に仮の草堂を作って、菩薩を恩地したのであります。その後、遠近を問わず、皆がこの菩薩を信仰しておりましたが、月日を重ねる度に、菩薩の霊験が次第にあらたかであったため、国主さえも深く信仰して菩薩にお参りするようになりました。国主は、この菩薩のために数十町の土地を寄付して、新しく伽藍を造営して、すぐ側にはお寺も建て、皇子の縁を鑑み、天王寺と名付けられたのでした。
 その後は、国主の信仰もますます深くなり、年を重ねるごとに寺も荘厳さを加えてまいりました。元亀・天正年〈1570~1590〉ころには、七堂伽藍や坊舎を合わせると三十二もの建物が甍を並べておりました。その様は、「金殿は雲に聳え、玉堂は朝日に輝き、衆生の闇を照らすともいわれておりました」。

 天王寺の観音信仰は、当初は現世利益的なものであったみられますが、平安時代の中期頃からは浄土信仰的な色彩が強まったのではないでしょうか。
 大乗仏教としての天台宗は、東北の布教にあたって、薬師信仰や観音信仰を重視しました。現世での幸福を願う人々を無視できなかったからです。清水の効能に感謝して十一面観音像を祀る寺院が立てられたという縁起はは、日本における観音信仰の古い形を今に伝えてくれています。
 また、第五十八代の光孝天皇の子どもであった観裕法印が開基した寺であったがゆえに、天王寺と名付けられたというのは、皇室とゆかりのある寺として認められていたことを物語っています。貴種流浪伝というのは、日本のどこにでもありますが、寺の名前として残すには、それなりの根拠がなければ難しかったはずです。
 光孝天皇は、仁明天皇の第三子で、母親は藤原総継の娘澤子。小倉百人一首に「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」がとられています。天皇に即位したのは元慶八年〈830〉のことで、すでに五十五歳になっていました。
 第五十七代の陽成天皇の振る舞いが、あまりにも常軌を逸していたというので、当時、実権を握っていた藤原基経によって、その地位を得たといわれます。
 親王としての時代が長かったこともあり、即位以前に、すでに二十九人もの子どもがいたともいわれますが、自らの立場を考えて、その多くは源姓を賜って臣列に入ったのでした。
 このため、光孝天皇の子であった源定省も、一度は臣籍降下していたのを、わざわざ親王に就任させてから、第五十九代の宇多天皇となったのです。
 観裕法印の境遇がどんなものであったかを知るよしはありませんが、国家仏教としての天台宗の先兵たらんという思いがあって、高田の地に足を踏み入れたのではないでしょうか。
 
 ○没落と再興の歴史

 天王寺が没落したのは、会津を支配していた芦名が伊達に敗れ、高田の地の神社仏閣は占領され、貫主も信者も住み慣れた寺を捨ててゆくことになったのでした。放置された寺は荒れ果てて、梟や狐やタヌキの棲みかとなってしまいました。
 このままにはしておけないと、現在の地にお堂を建て、菩薩を移し、以前の土地を古観音堂と呼び、法性水を笹清水と呼び名を変えたのは、元和時代の末〈1622~3年頃〉になってからです。
 ここで注目されるのは、会津地方の天台宗が勢いを盛り返すには、天海大僧正の存在を無視してはかかれません。龍興寺が上野国新田郡世良田長楽寺の末寺となったように、ある種の政治的な力が働いたようです。
 いかに天下を統一しても、豊臣秀吉は、関白どまりで、征夷大将軍には就くことができませんでした。源氏の血が流れていないからです。そこで、芦名の一族ともいわれる天海が、妙案を思いついたのでした。
 源氏の正統である新田一族の寺を、徳川家発祥の寺としたのです。それまで臨済宗であったのを天台宗とし、会津美里町の天台宗の寺をその末寺としたのです。
 これによって、脚光を浴びたのは、天海が得度したとされる龍興寺でした。その一方では、天王寺は隅に追いやられることになったのです。
 享和三年〈1803〉から文化六年〈1809〉にかけて編纂された『新編会津風土記』でも、「天王寺 境内東西三十六間、南北四十四間年貢地、天台宗、龍興寺の門徒なり、開基の僧を観裕と云、何の頃の草創と云こと知らず、本尊阿弥客殿に安ず」と書き記しているだけです。
 それでも、ようやく再建されて尊厳さを取り戻したにもかかわらず、文政九年〈1827〉に思いがけない災難に遭ってしまい、それから二十五年間は菩薩を草堂に安置することになったのです。
 そのときに立ち上がったのが、大沼郡下中川の村野井善右衛門でした。妻子に数年間帰ってこないと告げると、再建のための浄財を集めるために、必死になって飛び回ったのでした。一人では限界がありますから、三年で壁に突き当たってしまいました。家族を捨て、財産をすべて投げ出したにもかかわらず、性も根も尽き果てる一歩手前でした。
 その逆境に打つ勝つことができたのは、やはり信仰があったからです。「ぜひとも観音様の功徳を知らしめていただきたい」と熱心に祈り続けたのでした。すると、その信心深さを伝え聞いた人たちが心を動かされ、ぜひとも寄付したいという人たちが大勢現れて、再興することができたのでした。
 嘉永四年〈1851〉に発行された「高田天王寺観音再建勧進帳」では、「請て早ク蒙テ十方檀那の助縁ヲ再建シ伽藍ヲ欲スル奉ント安置於会津廿八番札所十一面観音菩薩此尊体ヲ勧進之状」と書かれており、多くの賛同者を得たのでした。
 会津地方は仏都会津といわれるのは、古くから仏教が根づいていたからといわれています。とくに、会津の仏教を語る上で忘れてはならないのは、欽明天皇元年〈532〉に、蜷川荘根岸の里に、梁国震旦の僧青岩が草庵を結んで、高寺号と評したという伝説が残っていることです。
 徳一が恵日寺、勝常寺、法用寺を建立したのも、そうした土壌があったかであり、徳一以後は、天台宗が会津の人々の信仰を集めた時期があったのです。薬師信仰や観音信仰は、素朴な民衆の祈りによって支えられてきたし、その祈りの心は、平成の世の今も受け継がれているのです。 
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