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会津天王寺通信

ジャンルにこだわらず、僧侶として日々感じたことを綴ってみます。

第258世天台座主に大樹探題がご上任 柴田聖寛

2021-12-04 17:39:24 | 天台宗

 

 第257世座主大僧正森川宏映猊下の逝去に伴い、天台宗と総本山比叡山延暦寺は先月22日、第258世座主に次席探題で書写山圓教寺(姫路市)第140世長吏の大樹孝啓(おおき・こうけい)師の就任を発表しました。大樹師は大正13年(1924)6月兵家県生まれ。97歳。昭和11年出家得度。大正大学予科卒。昭和59年書写山圓教寺長吏に就きました。平成22年には最高法階である探題に就任されました。平成28年からは一隅を照らす運動の会長を務めています。書写山圓教寺開創千年余の古刹で、西国三十三観音霊場の第二十七番札所として、多くの巡礼者が訪れています。
 大樹新天台座主は、祖師先徳鑽仰第法会を記念した特別授戒会が全国各教区で行われたときには、伝戒和上を勤められ、伝教大師の「忘己利他」「一隅を照らす」の教えを説かれました。また、一隅を照らす運動会長に就任されたときには「最澄様は浄仏国土を目指された。そのためには在家の菩薩を一人でも二人でも増やさなければなりません。菩薩を作るためには『布施 持戒 忍辱 禅定 智慧』の六行の実践が必要です」と述べておられました。
 私も一隅を照らす運動の40周年東日本大会が平成21年、一隅を照らす運動45周年東日本大震災復興記念大会が平成26年にいずれも郡山市のユラックス熱海で開催されましたが、当時私は事務局の大役を仰せつかりましたので、大樹新天台座主のお言葉の一つ一つに深い感銘を覚えたものでした。
 上任式は去る11月22日午後3時から滋賀院門跡で営まれ、天台宗と延暦寺の両内局が見守る中、阿部昌宏天台宗宗務総長から梶井袈裟が贈呈されました。天台宗は新たな師表を迎え、私もまた天台宗の教えを広める先頭に立つべくお誓い申し上げます。 

     合掌


森川宏映天台座主猊下のご遷化 柴田聖寛 

2021-12-04 17:25:33 | 天台宗

 

 

 一僧侶として多くの方の死に立ち会って供養をさせていただきましたが、人間の命というものが儚いものがありますが、だからこそ誰もが成仏するという天台宗の教えに、私は導かれて今日まで歩んでまいりました。天台宗の第257世座主大僧正森川宏映猊下が、去る11月22日午前7時30分、ご遷化されました。世寿97歳。  
 天台ジャーナル令和3年11月23日号が号外として発行され、平成27年12月14日、第256世半田孝淳天台座主のご遷化に伴い、同日に大僧正森川宏映猊下が上任されたことに触れるとともに、そのご功績について「祖師先徳鑽仰大法会第二期の各法要や事業の推進を先頭に立ってご教導くださったほか、比叡山宗教サミットを通してローマ教皇はじめ世界の宗教者と親交を深められるなど『世界平和』実現に尽力された」と書かれています。
 森川座主猊下は大正14年10月22日に愛知県春日井市のお生まれになり、京都大学農学部を卒業されました。農学部で学ばれたこともあり、人間ばかりではなく、動植物、鉱物などあらゆる存在は仏性をもち、成仏できるという天台本覚思想の「草木国土悉皆成仏」についても、「私はこれこそが仏教の中心思想だと思っています」と述べておられました。また、地球温暖化、生態系の変化、自然災害の猛威に関しても常々憂慮され、「草木国土悉皆成仏」のよってのみ解決することができると主張されていました。
 密葬儀は11月26日に滋賀院門跡にて執り行われました。本葬は令和4年1月18日午後1時から天台宗務庁にて天台宗葬で執行されます。葬儀委員長・喪主 宗務総長 阿部昌宏。、総務奉行 延暦寺執行水尾寂芳、遺弟代表 延暦寺一山眞藏院住職櫻井行尚。

 合掌


伝教大師伝⑧『依憑天台集』で法相や真言などの他宗を批判

2021-10-13 13:58:57 | 天台宗

 

 伝教大師最澄にとって衝撃であったのは、桓武天皇が延暦25年3月17日に70歳で崩御されたことです。このため桓武天皇の御功績を讃えるために、比叡山では毎年3月17日を天皇講と称し、御供養申し上げる行事は現在も続けられています。 
 天台宗の年度分限者が認められるようになったわずか2カ月半後に桓武天皇はお亡くなりになられたのでした。また、その御栄に浴したのは天台宗ばかりではありませんでした。それ以前は法相宗と三論宗とで10名の割り当てがありましたが、それは形式上のことであり、国からお墨付きをもらいという権威づけではありませんでした。
 だからこそ、法相宗の勝虞らの5名の僧綱が「仏法の太陽が沈んでしまおうとしている時に、天皇の戈(ほこ)によって再びあげられ、仏法の綱が殆ど切れそうになってしないそうになっているのに、天皇の心の索(つな)そそえることによってまた続くことが出来るように」「釈門の老少誰か抃躍(べんやく・手を打って喜ぶ)せざらん」(『最澄辞典』田村晃祐編)と述べたのでした。伝教大師最澄は日本仏教の再興にも大きな役割を果たしなのでした。
 これによって、南都の律宗と華厳宗は各2名、三論宗と法相宗は成実宗と俱舎宗を加えて3名ずつとし、そこに天台宗2名が割り当てられたのです。前回も書きましたように、天台宗の2名には、それぞれ『摩訶止観』と『大日経』を専門に読むべき僧という条件が課せられたことで、天台円教と密教が盛んになる道筋が作られたのでした。弘法大師空海との急接近もそうした背景があったのです。
 しかし、それは伝教大師最澄の本意ではありませんでした。中国に出かけて学ぼうとしたのは、大乗仏教の天台の教えであり、法華経であったからです。そこで弘仁7年(816)『依憑天台集』を著わし、南都六宗や密教の根本には天台の教えがあると主張したのです。
 これがきっかけとなって会津在住の法相宗の僧徳一との論争が繰り広げられることになりましたが、弘法大師空海は一切反論することはありませんでした。
『依憑天台集』の序文において、伝教大師最澄は「天台(智顗)が伝える法は諸宗にとって明鏡である。陳、隋以降、唐が興る以前、[天台という]人は歴代[皇帝]から大師と称され、[天台が伝える]法は諸宗によって証拠とされてきた」(大竹晋訳『現代語訳最澄全集・第一巻入唐開宗篇』)と書いたのです。   
 伝教大師最澄からすれば、もっとも古いのが天台であり、その影響を受けなかった諸宗はなかったと断じたのでした。さらに、伝教大師最澄は、法相宗については「[玄奘(602―664)が法相宗の所依の経綸を翻訳し始めた]貞観19年(645)、権(“方便”)が振るい、実(“真実”)が隠れた日に、家々は義憤を発し、人々は実が滅びたのを歎き、雄雄しい筆を執って檄を馳せ、よこしまな敵を摧(くだ)いて幢(はやぼこ)を建てた。そうでありにせよ、海外における内額の者(仏教徒)はただ吠え声を出す苦労を有するだけであり、いまだ知が少ない事の委曲を理解していない」(『同』)、真言宗については「新しく来た真言家(真言宗)は[面受の相承を重んじ、]筆授の相承を滅ぼしている」と批判したのです。法相宗を中国に伝えた玄奘の訳が間違っていると指摘するとともに、書物に重きを置かない空海の真言宗も痛烈に批判したのです。

 

 


「十二年籠山行」で「好相行」に導かれた渡部光臣師 柴田聖寛

2021-09-20 16:41:51 | 天台宗

 

 比叡山時報令和3年9月8月号では、前号に続き「比叡山と十二年籠山行」のことが後編として特集され、現役の侍僧として真に道心ある菩薩僧を目指す渡部光臣師へのインタビュー記事が掲載されています。
 その一部を皆さんに紹介したいと思います。渡部さんは山形大学理学部地球科学科卒で、大学時代から仏教に興味があり、比叡山で在家から延暦寺の僧侶を要請する「叡山学寮」のことを知って入寮しました。渡部さんはあらかじめ選ばれた人だと思うのは、そこに入るにあたって「山形県から半年をかけての旅路のなか、四国のお遍路を経て学寮へと入寮いたしました」と書いているからです。心に絶えず問いかけながら、自らの意思で天台宗の僧となったのです。平成14年4月、叡山学院第5期生として入山、同10年に得度、その後叡山学院、叡山学寮、本山交衆の諸課程を経て、同21年4月に「浄土院」の住職に就任したのでした。
 一時は、渡部さんは再度旅に出ることを考えていましたが、「十二年籠山行」を遂行された112人目となる侍真僧で、当時叡山学院の院長であられた堀澤祖門己講大僧正の本を手にし、「好相行」(行者が仏の姿を目の当たりにすること)に興味を抱くようになり、それを機会に一山住職になろうと決心したのでした。
 同年6月16日には「好相行」へと入行、75日目の8月29日午後1時ころ、「好相」を感得。これが先達の宮本祖豊師により証明され、9月11日、戒壇院にて大乗菩薩戒(十重四十八軽戒)を自誓受戒。それから浄土院で侍真僧として十二年籠山行へと入行し、本年の4月1日に同行を遂業したのでした。
 渡部さんはお勤めをしている時に、直接伝教大師様(最澄)から受け取ったメッセージとして「ご遺誡」にある「口に麁言無く、手に笞罰せず、今我が同胞、童を打たずんば、我が為に大恩なり、努力めよ、努力めよ」でした。いつも穏やかな気持ちでいなさいということですが、それは同時に、渡部さんにとっては、欲を無くすことであり、伝教大師様の『願文』にある「常に仏事を作さん」というのを自覚することでもありました。日々の御勤めは比叡山にとどまらず、全国の寺社仏閣で行われており、各家庭でもお仏壇に手を合わせています。このことに指摘しながら、渡部さんは「そのネットワークが我が国を覆っている。大袈裟な話になってしまいますが、その祈りの総体で日本は護られている。そんな気がしています」と語っています。
 そして、同行を遂業した感想として、人と比べるのではなく「心の持ち方一つで物事は変わる」と述べるとともに、エネルギー問題の解決で世界平和を実現することを、自らの果たすべき「利他行」であり、「そのすべての実践が菩薩行に繋がると思っているからです」と自らの今後に関しても述べています。
 十二年籠山行の厳しさを知っている者として、私は渡部光臣師の話に心動かされました。「浄土院」では今もなお生きているがごとく、毎日侍真僧によってお給仕が続けられていますが、それ以外には「好相行」を感得することはできないのです。


伝教大師伝⑦最澄と空海 柴田聖寛

2021-09-13 11:58:01 | 天台宗

 

 

 —写真は伝教大師最澄—

 伝教大師(最澄)の入唐の目的は天台の教えを日本に伝えることでしたが、帰国後は密教の普及に力を割かれることになります。弘法大師(空海)も伝教大師(最澄)と同じ遣唐使に便して留学をしましたが、伝教大師(最澄)よりも一年遅れて帰国しました。この差が密教の世界で大きな意味を持つことになるのです。弘法大師(空海)は長期間の滞在が許される留学僧でしたが、伝教大師(最澄)は期間が限定された還学僧としての入唐だっただけに、後れを取ったと言われても仕方がありません。
 弘法大師(空海)との密な交際が始まる以前の延暦二十五年(八〇六)正月三日、毎年所定の得度者の各宗派別定員について、新たに提案を上奏したのでした。
 それを受けて「太政官符治部省から年料度の数、並びに、学業を分かち定むべきこと」とという文書が出されました。ただし、天台宗法華宗の学業は、一人は「大日如来」もう一人は「摩訶止観」を読むことが定められたのです。桓武天皇が病気であったこともあり、密教手法の担い手としても、伝教大師(最澄)に期待が集まったのです。
 弘法大師(空海)は日本の真言宗の開祖ですが、延暦二十三年(八〇四)に伝教大師(最澄)の一行と共に唐に渡り、長安青龍寺で、恵果から胎蔵界と金剛界の灌頂、並びに伝法阿闍梨位に即位する灌頂まで受けたのでした。唐の永貞元年(八〇五)十二月十五日、其の恵果の入滅を送った後の翌年八月、越州から明州に出て、帰国の途に就き、十月には筑紫に到着。当初の予定より早かったために、大同二年(八〇七)ないし三年には、大宰府に滞在していたといわれます。
 恵果阿闍梨に関しては『岩波仏教辞典』では詳しく取り上げており、唐の密教のトップであったとみられています。
「恵果 けいか746―805 中国長安の東の照応で生まれる。俗姓は馬。はじめ曇貞につき、のち不空に師事して主として金剛頂経系の密教を授かり、また善無畏(ぜんむい)の弟子玄超から大日系と蘇悉地経系の密教受けた。金剛頂経の密教の大日経系の総合社と目され、金剛界と胎蔵界との両部曼荼羅の中国的な改変にも関与したと思われる。『十八契印』とか『秘蔵記』など密教の実習法の関する著作が恵果に帰せられるが翻訳はない。住坊である長安の青龍寺には、中国のみならず東アジア各地から弟子が集まった。空海は最晩年の弟子で、金剛界・胎蔵の両部密教を授かり恵果の滅後、碑銘を撰した。それは空海の『性霊集しょうりょうしゅう』巻2に収められている。真言宗の付法(ふほう)、伝持の第7祖」
 本流の密教を学んだ弘法大師(空海)に対して、伝教大師(最澄)は礼を尽くし、弘仁三年十二月十五日に弘法大師(空海)から金剛界の灌頂を授けられましたが、胎蔵界のためには別の日を選ぶ必要があったにもかかわらず、一方的に誤解したともいわれます。
 自らを愚といって恥じぬ伝教大師(最澄)は、自分の弟子を次々と弘法大師(空海)のいる高雄山寺に送り込みました。円澄、泰範、賢栄らですが、それは思い通りに進むことはありませんでした。とくに泰範をめぐってでした。もともとは元興寺の僧でしたが、病に伏した伝教大師(最澄)が「山寺総別当は泰範師、文書司を兼ね」と決めていただけに、弘法大師(空海)のもとへ去ったことによる衝撃は大きいものがありました。さらに、法門の借覧も弘法大師(空海)が『理趣釈経』を断ったことで、両者の関係は決定的となります。「秘蔵の奥旨は文を得るを尊しとせず」と弘法大師が拒絶の手紙を書いてきたからです。伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)との違いは顕教か密教化の違いでもありますが、天台の密教は台密と呼ばれるように、その後、同じく中国に渡った慈覚大師円仁らの力で、独自の展開を遂げることになったのです。

         合掌