子どもが繰り返しやること。私はセラピストの端くれとして、子どもが繰り返しやることを大事にしています。これは1つの経験則です。子どもが繰り返しやることには、はじめはその意味が分からずとも、その子どもにとって、計り知れないほど大事な意味があることに繰り返し気付かされてきたからです。
私はもともと知的障害のある子どもの施設の職員でしたから、最初は知的な障害、中でも自閉症の子どもとの関わりの中で、子どもが繰り返してやることが、いかに大事なことなのかを教えられましたね。本当にありがたいと思います。セラピストとしての私の眼を、育ててくれたからですね。と同時に、相手の子どもが育っていくことのお手伝いもできたからです。片方だけが育つ、ということは、実際にないんです。ですから、学校の先生も、家庭のお父さん、お母さんに申し上げたい。「この子は何で育ちが遅いのかしら」、「あの子は進歩がないね」と言いたいときには、その「育ち」、その「進歩」がないのは、眼の前の子ども、と言うよりも、それを言う教員としての自分、親としての自分の方だ、ということを忘れてはなりません。
ひとつ、自閉症の、当時3年生の男の子が繰り返しやったことに触れておきましょう。その子はもともと、彼が4才の時に知的障害のある子の幼稚園(知的障害児通園施設)で一年間担任をしてきた子どもです。3年生の4月から週に一度週末の午後、その子がいつも遊ぶ遊びを一緒に遊ぶようになりました。その時半年間毎回繰り返したのは、自動販売機遊びでした。それは、百円玉(十円玉の時もありました)を自販機に入れる遊びです。ジュースの自販機ですから、百円玉を入れるのは、ふつうはお目当てのソフトドリンクを買うためですね。この子も、そうする場合も、もちろんあったんですね。しかし、この「自販機遊び」は、入れた百円玉を、返却レバーを押して、取り戻す、という遊びだったんですね。これは、イナイ・イナイ・バーの遊びの一種だったのです。でもね、はじめから、そうと分かったわけではありません。フロイトの「快楽原則の彼岸」(『フロイト全集』第6巻,p150-194)の中に出てくる1歳半の子どもの遊びや、新訳聖書の「ルカによる福音書」第15章に出てくる、「失くした銀貨」「迷える子羊」「放蕩息子」の3つの「失くしたものが見つかる」譬え、そして、エリクソンの「Seeing is Hopeng」(見ることは大きな望みを抱くこと)Toys and Reasons 『おもちゃと叡智』にある、「繰り返し、見失って、見つける相手を、新鮮に価値あるものと認めることが、人生で最初の礼拝です」(p.48)という言葉を繰り返し読む中で、はじめて、事の重大さに眼が開かれたわけですね。この遊びは、その自販機を管理している人に見つかれば、「いたずらは止めてください」、「保護者でしたら、ダメって言うのが常識ですよね」などと、繰り返し言われてきました。その場合は止めにしてもらうこともあったのですが、その「いたずら」の遊びには、根源的信頼感を豊かにする計り知れない意味があったんですね。
先日も、絵画療法をしている女の子が、繰り返し棚の中に入っては、出る、という遊びをしていたんですね。予定していた絵をなかなか始めなかったのですが、子どもが繰り返しやること=計り知れない価値がある、ということが分かってましたからね、その遊びを続けてもらいました。どんな意味があるかって? それはこの次のお楽しみ、ということにしておきましょうね。
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