こちらは、名古屋市東区撞木町 山吹谷公園を北へ入ったところにある、鳥屋筋の長屋 屋根神様です。
何でこんな高い所にあるの?
江戸時代の風俗を書いた文献では、町の入り口に疫病除けの神を祭った、とありますが、この慣習がそのまま伝わったのかわかりません。
理由として思いつくのは…
一般的に神棚の上を人が歩くことを嫌います。そこで、地上から人が足をかけないだろう、高いところへ…がついにこんなところに。
もしくは、神社、お社を祭る地面が家が立ち並び無くなり、長屋の上へ…となったのか?推測の域を出ません。時代は、江戸から、明治大正にかけて?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/c7/e82314c2bfa1f2df1273e090c8a75c25.jpg)
普通、お社の祭礼日は、1と15日。この日にお供えを供えますが、
お供えを供える、高いところでの作業は危険を伴います。それに、戦後になって車社会になりまして、ますます、はしごをかけての、屋根神様の手入れに危険が伴うようになった。その結果、各地にあったであろう屋根神様は伊勢湾台風を境に衰退の一途をたどります。
それと、高度経済成長時から、長屋そのものが無くなりつつある時代の変化も見過ごせません。借地借家法(旧 借地法 借家法)の優遇措置の改正など法令面や、不動産経営の仕方の変化などが、長屋経営から、アパート、マンション、駐車場へ変わる要因になっているのかも?
(私は法律の専門家ではありませんので、詳しくはしりませんよ。)
数が減り、近年、逆に歴史的価値が出てきた「屋根神様」
別に私は屋根神様を無くす決断をした方々を責めるつもりはありません。
私が仮に当時の決定権者であったら、地上から下ろす(無くす)決断をしたでしょう。けが人が出てからでは遅い、と。
今ある屋根神様へ注文もありません。町内人口の減少、町内の持ち物であると言う認識の希薄。町内の人が減る事で、町費も減り、金銭面での負担増。
(少子高齢化と続いたら、なんか、現状の政治問題と無縁でないように思えてきた)
できる範囲でやれば良い。たとえ、無くす決断をしても、私は何も言いません。
こういってしまうと、歴史探索、民族学系ブログらしくないのですが、このわたくしの姿勢は、山車祭りや民族的な祭礼、神事でも同じです。
(というより、私にとやかく言う発言権もないし、権限もないから)
ただいえることは、そんな祭礼、神事、今述べている屋根神様を見守り、記憶に記録に留める事です。
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(祭礼日でないので、戸は閉まったまま)
場所はヤフー地図だと
拡大すると二葉館の近くです
goo地図だと分かりにくいかも?
goo地図通常版
続く 東区の屋根神様その参 建中寺山門前の旧屋根神様