お祭り 歴史探索の旅   ~尾陽雑記抄~
活動拠点をやいと屋知足斎の日記に移しました
 



今年の春は何処の山車祭へも行きませんでした。その身ながら、我が山車祭を宣伝する横着さをお許しください。
 我がふるさとの山車祭 名古屋市東区筒井町 「筒井天王祭」が6月1,2,3日に行われます。江戸時代天保の頃より「津嶋神社」より御札を頂き、お社にお祭し、箱札をやまに付け、賑々しく山車を曳きまわす祭です。隣の出来町天王祭は3輌のやま。筒井は2輌のやまです。尾張徳川家菩提寺「建中寺」門前所有の「神皇車」と旧称 情妙寺前所有の「湯取神子車」です。

 本年の6月2日は旧暦では4月17日 東照大権現 神君 徳川家康の祭礼日(東照宮祭)にあたります。筒井町、湯取車は江戸初期から中期にかけては、東照宮祭に曳かれていたやまであり、数百年の時を超えて同じ日に曳かれる事に、不思議な宿命すら感じさせます。

 6月3日は東区天王祭に曳かれる山車が、徳川園に揃います。

 3日の夜は、それぞれの山車が華麗なフィナーレを飾ります。そこまでお付き合いできますれば、これ以上の喜びありません。

 この6月2,3日はにしびの祭でもあります。にしび、出来町と共に筒井天王祭もよろしくお願い致します。



出来町天王祭&徳川園山車揃え (平成18年度版)

筒井天王祭(平成18年版)

信長が愛した天王祭

感動を分かち合うのは ア・ナ・タ

(湯取神子車 略歴)
 徳川家康三周忌に当たる元和3年(1617)より東照宮の祭殿が完成しないまま、付近の住民によって祭礼が行われる。祭礼にやまが曳かれるようになったのは元和5年、七間町の住民が西行桜の人形を乗せた車を曳く。これに気分をよくして七間町の人たちは「橋弁慶車」をつくる。これより遅れて万治元年(1658)名古屋市中区桑名町で「東照宮祭」に曳かれるやまが登場する。「湯取神子車」因みにこの時代は江戸初期 水戸光圀(生誕 寛永5年(1628) ~ 死去 元禄13年(1701))であり湯取車登場の時 光圀30歳。考えてみれば水戸黄門の時代には 湯取車は曳かれていたことになる。
 やまそのものは、文献でたびたび修復されたことがわかる。だが桑名町は湯取車を江戸、大正、昭和まで押し通す。江戸中期の姿は「張州雑誌」でうかがい知る事が出来る。

 江戸中期 紀州より将軍職に就いた「徳川吉宗」(暴れん坊将軍)により倹約令が出され、祭礼もその規制のもとにおかれる。将軍職を逃した尾張徳川家6代当主 継友の弟であり、七代当主となる「徳川宗春」により、倹約令は除外。東照宮祭は以前のように華麗になる。時に享保18年には長者町より「二福神車」伝馬町より「林和靖車」が曳き出され、祭礼は黄金時代を迎える。この時、林和靖車に乗せた「鶴」は大変精巧に造られていて、その鶴の調整にたびたび名古屋を訪れる男がいた。その人は後に「玉屋町」に住み「玉屋庄平衛」を名乗るようになる。(初代 玉屋庄平衛)
 宗春はそれまで尾張にくすぶっていた「紀州と一戦すべし」という主戦論に押されてか、兵1万を超える大規模な巻き狩りを企画する。この狩の目的は江戸に進撃する為と云う説もあるが真意のほどはわかっていない。
 吉宗にとって目障りな宗春はその後、失意のうちに蟄居謹慎となる。吉宗死後は「御下屋敷」に幽閉される。余談ながらこの地は名古屋市東区であり現在 永平寺別院となっている。伊勢湾台風以前、湯取車、神皇車が曳かれたこともあるらしい。

 宗春が謹慎された後、木曾三川工事に薩摩武士が使われる。宝暦治水と呼ばれる事件である。薩摩の総責任者平田靱負は最後責任をとって切腹となり、これより尾張は薩摩に恨まれる事となるが、宗春が当主なら、むごいことにはならなかっただろうと、愛知の人は云う。
 湯取車は、延享2年(1745)人形師治郎八により人形が修復されたらしい。

 尾張より危険な人物を輩出したくない。その為、吉宗の血を引く「後三卿」より十代 斉朝が尾張当主となる。皮肉なもので、彼は宗春のように各地を歩き、祭りを楽しみ、後世の人に親しまれる人物となった。

 その天保年間(1830~1843)に桑名町は湯取車をそっくりそのまま新調し、古車を情妙寺前に譲られることとなった。(有力説では石橋車も愛知郡に売られたとする説もある、また 静岡県にある二福神車は、東照宮祭長者町の部材で造られたものとうかがわせるが真意はわからず)天保年間は江戸では老中水野忠邦による天保の改革、伊勢のお蔭参りの大流行、また大塩平八郎が大阪で乱を起こす時代である。大塩家は宗家は尾張にあり、その先祖は徳川家康の親衛隊であった。平八郎はそのことを誇りに思い、腐敗した世が許せなかった。
 天保年間は遠山左衛門尉景元(遠山の金さんのモデル)が活躍した時代でもあった。

 東照宮の由緒正しきやまという事が、情妙寺周辺の住人に重くのしかかってくる。人形の修理もままならず、その地の とある有志により修復されることとなる。

 江戸が終わり明治の世になって、情妙寺前の人たちは一大決心し、やまを大々的に修復することとなる。日々の生活から金を積み立て、水引を渡辺杏堂下絵の四瑞(麒麟、鳳凰、龍、神亀)の刺繍を施したものを新たにつくり、大幕には渡辺圭一の書により「筒井町」と大書され、我らがやま 筒井町所有の湯取車と生まれ変わった。山車も修復し、大正3年には前人形の笛吹きを六代目玉屋庄兵衛正芳により新調されることとなる。六代目玉屋庄兵衛は、明治中期に小牧湯取車の人形を造り、昭和には六代目玉屋庄兵衛の高弟荒川宗太郎により、半田市亀崎 宮本車の湯取人形が造られる。これらは兄弟と言って良いかもしれない。

 太平洋戦争でやまは奇跡的に残るが町内は壊滅的打撃を受けるが、町内有志の手により、戦後、湯取車は見事な復活をとげる。先人達の辛苦を想うと目頭が熱くなる。よくぞ復活して頂いたと感謝の念しかない。しかしながら、お祭町内の規模が極めて小さいなどの理由から祭礼の継続は困難を極め、伊勢湾台風後、山車はお蔵入りとなる。名古屋まつりには曳き出されるが、天王祭でも再びやまを曳きたい。昭和50年代、地元の若手により湯取車は6月の筒井天王祭に再びその勇姿を見せることとなる。提灯をつけた姿を見て、涙を流すものもいた。昭和末より平成にかけて高覧、幕等を新調し、漆黒の麗しきやまとなった。特に建中寺前 神皇車は朱が美しいやまであり、赤と黒の対照的で覚えやすい祭となった。最近、人形が二代萬屋仁兵衛文造氏の手により、修復。

 カラクリは平安の大陰陽師阿倍晴明をモデルとされる神官を大将に置き、やま前部には、湯立釜を置き、神子が神官に湯取神事の許可を得ると、釜の前で神かがりになり、釜から湯の花に見立てた「紙吹雪」が飛ぶというもの。前だなには笛吹き(愛称 鼻こすり)と太鼓打ち人形の2体を置く。(江戸の古絵では、ザイ払い人形も確認される)特に鼻こすりは囃子の太鼓の音に驚き目をパチクリさせる。

 囃子は宮流神楽笛を使い、独特のものである。熱田神楽の赴きもある。道中囃子に雨降囃子(七間町囃子)を使い、帰り囃子には進車なる囃子を使う。(他所では帰り囃子に七間町を使う)小牧 上本町の湯取車や亀崎宮本車とも類似性があり興味深い。

 近年、祭存続の為、関係者は死に物狂いで打開策を図る。




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