引っ越しが終わって、二週間近くたちました。
引っ越しすると、不用品もそうですが、いろいろなものが出てきます。
たとえば、遺品などです。
その中に、ツレの父親である、(私からすると義父)をしのんだ追想集なるものが
出てきましてろいろと考えさせられました。
いつも、なぜか、次男であるツレが、いわゆる「法事」(父親、母親など)を行うのが通例に
なっていました。
長男だったツレの父親(私から言えば、義父)の法事には、義父のきょうだい以外に
参加する身内はありません。(いとこなどで代替わりで参加する人はいない)
また、新婚のときから、嫁の私が疑問に思っていたこと・・。
義父は、気難しいところなど、いろいろあったようですが、法事なのになぜか
亡くなって、故人になった義父のゴシップしか、話題にあがらないのです。
ひとは、悪い面だけではありません。
義父の追想集を読むと、たくさんのエピソードがつづられていますので、なおさら考え込んで
しまいました。
故人をしのぶ法事の席で、その故人の悪口しか話題にあがらない・・・
お義父さんは、あの世があるとすれば、そこでどう思っているだろう?
追想集なので、写真ものっていますが、印象的な写真がありました。
長男であり、一家を支えるために就職して、初めて帰省した際の写真です。
疲れ切って、精細を欠いた義父と、フツーに帰省を喜んでカメラにおさまっている(きょうだいたち)家族の写真。
私は、もう、法事をする必要がないのではないか、と思いました。
子供(ツレなど)たちで、心をこめて、「ありがとう」と、お坊さんにお経をあげてもら
ことで、簡単にすませてもいいのではないか?
今年は法事の年なのですが、とにかく忙しいのと、年寄りになった「叔父、叔母」の安全も
ありますので、ツレの気持ちを思い切って聞いてみることにしました。
やはり、負担になっていたようです。
長男である義兄夫婦は、キリスト教を信仰しており、普通の感覚の弟のツレにバトンが
いやいや回ってきていたいきさつもあるのでしょう
「そうするよ」
手短に答えて、ツレは仕事に突入していきました。
そういうわけで、供養とは、そもそもどういうものか、ということですが
私は、「真心」がない、形だけの供養は、正直、意味がない、と思います。
親戚の憩いの場になっている、そういう点で「法事」を行うのはよいと思いますが
あまりこだわらなくても、よいのではないか、とも感じています。