hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●「ぞくぞぞぞ」 狩野宗信《化け物絵巻》

2017-09-27 | Art

板橋区立美術館で出会った狩野宗信が忘れられず(日記)、「ぞくぞぞぞ」という絵本にたどり着いた。

九州国立博物館が所蔵する、宗信の「化物絵巻」からいくつかのシーンを抜粋し、短い擬態語だけを足した、子供向けの絵本なのだ。

「きゅーはくの絵本5 化物絵巻」2007年

 

もとの「化物絵巻」17世紀には、詞書はない。絵巻は約8メートルにわたり、様々な妖怪が次々と登場する。

鳥居のシーンから始まる。狐が化け準備中(画像は絵本から)

 

絵本には全部の化け物は出ていないのが残念だけれど、たいへん素敵な絵本。

狸、きつね、ふくろう、鶴、かわうそ、ネコ、蜘蛛、ナマズ、タコが妖怪になっている。雪女と河童もいる。

妖怪は、驚かしていたり、怖くなかったり、楽しそうだったり、心臓止まりそうだったり。

宗信の描く絵が、とにかくたいへん愛らしい。(こっそりのせてしまう)

 

巻末には、素晴らしいことに、水木しげるさんの対談が載っている。

水木さんは、化物絵巻のとてもいい理解者であり共感者であることが伝わる。特に心に残ったところを抜粋(青字)。

・ああ、石燕が活躍する前だ。この化け猫は、しっぽがふたつに割れていないね。これは素朴な化け猫だ。珍しい貴重なものだね。

  

これは私の一番お気に入り「野禽(のぶすま)」

これはモモンガだね。野禽ともいいます。暗い森のなかをあるいていて、布団のようなものが突然飛んでくんだから、かなりこわかっただろうなあ。

でも顔もキュート。

 

「大鳥」、鶴の妖怪かな。足までよく描けてるなあ。

この絵描きは上手だ(←水木さんに言われると大変うれしい大雨で空き腹の時は、傘が重くなったような感じがするよね。(略)こうして一人で歩いているときなどは、お化けを強く感じてたんだろね

神官、まじびっくりしている。

 

「蜘蛛」は、雪女の獲物を横取りしようと?

 

河童。頭の上にへこみはあるが、皿はない。これは河童の初期形態とのこと。今のような形になったのはいつの時代なのだろう?

 

宗信、驚ろかせる顔もびっくりする顔やおびえる顔も、よく描けている。皆いい(?)顔している。そういえば板橋の屏風でも、みみずくや猫が忘れられない程いい顔をしていたっけ。

 

最初は、あの板橋の水墨の立派な屏風とこの化物たちと、本当に同じ絵師なんだろうかと思ってしまった。

でも、水木さんのインタビューも併せながら見ていると、この化物絵巻とあの板橋の屏風の宗信は、矛盾してないとも思う。

・昔はお化けも動物も一緒に遊んでいたわけだし、お化けというものは、ある意味、心が落ち着いて、自然と一体になれる瞬間を与えてくれるものだったんじゃないかなあ。

板橋の屏風でも、右隻には、動物は自然の木や草花とともにあり、気持ちがあるようだった。その自然の中に立って気配を感じ取っている宗信の実感があった。

一方で左隻には、自然の厳しさと、その中で生きる動物の姿を写している。

この化物絵巻でも、自然や気象が描かれている。

激しい急流や、ふぶく雪は命にかかわり、夜の闇や深い山はそれだけで恐ろしい。

自然は近しいもの。自然はおそろしいもの。宗信の実感はどちらにも流れている。

 

本の終わりに、宮島新一さんが書いていた。

今では動物と人間の結びつきというと、ペットか家畜しか考えられませんが、西洋の科学的な考え方が伝わる前にはもっと違う関係がありました。関係というよりは、境がはっきりしていなかったのです。動物と人間の間はとても近く、入れ替わることさえあると考えられていました。

(略)人間は動物と共存することを通して、自然に敬意を払ってきたのです。こうした自然信仰は、宗教が勢力を張る前は、地球上のどこでもごく当たり前の考え方でした。

宮島さんはもう一つ面白い指摘をしている。 〝襲われているのも、お坊さんや神官といった聖職者なら、狸やキツネが化けているのも聖職者である” と。聖職者の本性を風刺しているのかな?

 ますます惹かれる狩野宗信、でも検索しても他に絵が出てこない。

板橋美術館の安村先生の「別冊太陽 狩野派決定版」(山下裕二、安村敏信、山本英男、山下善也)2004にも、「もっと知りたい狩野派」安村敏信2006にも、宗信は登場しない。松木寛さんの「御用絵師 狩野派の血と力」1994にも、同名の元信の長男のほうだけ。

わかっていることは少ない。

(板橋美術館の展示より)生没年不詳。狩野松雪の息子。狩野安信の門人。通称半左衛門、延善斎と称す。安信よりはかなり年長者と思われ、画風も安信よりも古風で、室町期の狩野派画風を慕っている。

(ぞくぞぞぞ、巻末の宮沢新一さんの解説より)京都の出身で、江戸に出て安信に学ぶ。歌舞伎役者の市川竹之丞が踊る様子を寛文6年(1666)に描いたことが知られる。のちに狩野派はこうした主題を手掛けることは禁じるが、まだ規則がゆるやかだったよう。このころの狩野派には、堅苦しさがなく、けっこう楽しい作品が残っている。

これから研究が進んで、作品が見られる機会があることを期待しよう。

 


●板橋区立美術館 「江戸の花鳥画-狩野派から民間画壇まで」2 民間画壇

2017-09-24 | Art

1狩野派の続きです。

二室は民間画壇の花鳥画。18世紀以降の作品が並びます。

江戸時代も後半、経済力のある町人の台頭。博物学・園芸学・本草学なども盛んになり、花鳥画が豊熟する土壌もたっぷり。沈南蘋が伝えた花鳥画は、宋紫石らによって南蘋派として広まり、江戸では抱一や其一による江戸琳派も盛んになる時期。

以下、備忘録です。

**

前半には南蘋派

華やかでありつつ、一部不気味な花鳥ワールド。

なぜ不気味と思うのか?。捕食シーンがあるなのからだ。正直言って自然界のそれが苦手。以前に見た、蟄居中の渡辺崋山が描いたその捕食シーンは、やがて自害を迎える自分の心情を吐露したものかと思っていたけれど、彼だけが特別ではないのかもしれない。この会場の鳥や猫たちが、今まさに捕食中であったり、贄を狙っていたり。まんじりとそのシーンを描くのは、南蘋画の特徴なのか?自然観?か。花鳥のリアル。

さて、民間画壇では、やはり南蘋派の作品はみものぞろい。ざっくり経脈図であらわすとこのようになる。(Wikipediaに勝手に足したり引いたりしたもの)

展示の始まりは、諸葛監(1717~1790)の二点から。この人、日本人だったのか。しかも長崎に遊学したこともなく、江戸で中国画を買い集めて研究し、勝手に中国風の号を名乗って画を売り出す。多くの門人がいたそうだけど、変わり者ではあったらしい。

「ケシに鶏図」は、妖しいケシの影で、今まさに鶏がバッタ?を捉える。はらりと落ちた花びらは、その瞬間に絶たれた命の代弁なのか。映画の演出のような仕掛けに、無常な余韻が残ってしまう。

物陰で行われる犯行は、淡々と描かれる。

解説の冒頭のキャプションは、「静かなる捕食」(←この展覧会では、各作品に一言だけキャプションがついている。これが言い得て妙で軽妙で、見るのが楽しみだった)。諸葛監のもう一点の「白梅二鳥図」(キャプションは「クセがすごい!」)に比べ、濃厚さをやわらげ、すっきりとした江戸の気質になじみやすくして仕上げている、とあったけれども、私的には不気味さが濃厚になっているように見えてしまった。葉も花もシュールだ。花びらや羽には、細い線がびっしりと入れられており、細密だった。こういう細かい限界に挑戦したくなるのも、日本人が南蘋派にひかれる所以かもしれない。

 

宋 紫石(1715~1786 )、その名前はよく見るのに、実物は多分初めて。昨年、実践女子大学香雪美術館で見た「江戸の文人画大集合」で、佐藤一斎の所蔵品の「宋紫石画譜」1765を見たことがある。この画の中にはゴーヤがあったのだけど、第一室で見たゴーヤの流行と合点がいく。

「牡丹小禽図」18世紀

こちらは諸葛監に比べ、毒々しくない。あっさり、匂いたつようにしっとり。

花びらは細密、しっとりなめらか。マイセンの薔薇みたい。マイセン自体がチャイナから影響を受けたのだから似ていて当然なのかな。

紫石は、長崎で沈南蘋の唯一の弟子である熊斐に直接学んだ。平賀源内の「物類品しつ」の挿絵を手掛け、大名家にも人気。酒井抱一の兄の藩主には御用絵師として重用され、松前藩家老の蠣崎波響は弟子入りした。

「鎖国後の長崎展」があるといいなあ。

 

紫石の息子、宋紫山「鯉図」も細密。生々しい迫力。うろこがぞわっとするほど。

 

魚の皮の張りや触感までも見て取れる。身がしまって煮つけにしたらさぞおいしそ...。鯉は立身出世を願って描かれる。

キャプションは「ぎょろり、ぬるり、ぎらり」。そのまんま!。

 

北山寒巌(1767~1801)「花鳥図」1800 ここまで濃い絵が続く中、水墨にほっと一息つける。

でも決して静かな世界でない。画自体の動き、この線。二羽の交わす鳴き声が聞こえそう。授帯鳥とか。

谷文晁の師というか同志というか。寒巌の祖先は、明末期に長崎に渡ってきた明人。父で浅草明神の宮司であった父に画を学び、浙派を参照したというのもひかれる。さらに蘭学者と交流して、ヴァンダイクならぬ「汎泥亀」と名乗って洋画も描く。かなり面白そうな人物なのに、35歳で亡くなってしまったとは惜しいこと。またどこかで出会えるといいな。

 

岡田閑林は、谷文晁の弟子。「花鳥図押絵貼屏風」は6曲一双の屏風。どこもここも見ごたえあった。ドラマに満ちていて、この一双で一年中たっぷり楽しめそう。

鳥たちが生き生き。

アクロバティックな南天、毒々しいザクロ。

鶏は葉っぱとシンクロ。

写実と虚構がどちらも説得力がある。このドラマティックな迫力は魅力的。

 

そしてまたこんなシュールな世界に誘ってくる。

椿椿山「君子長命図」1837 まもなく捕食となる。

椿山といえば最初は穏やかな画の印象だったのだけれど、最近印象が変わってきた。このワルそうなネコったら。もはや猫の触手は動いている。

オケラの末路はもう見えている。細密に描かれたところがかえって哀れな。しかもこの猫、体は向こうに行きかけているのに、ひょいとオケラを見つけたようだ。たまたま運が悪いだけで命運がきまる。全く別次元のように関知しないたんぽぽや、幻想的に大きな蝶。

それでもこれは、題に語呂合わせをした、おめでたい絵だという。竹=四君子(竹、梅、蘭、菊)のひとつ。蝶=長。猫=「みゃう」→命。それでどうしてこんなシュールな絵に??。

渡辺崋山の絵にもこういう絵が折に触れてある。これは二人の師、金子金陵の世界を見てみたいもの。

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後半には、江戸琳派。

酒井抱一が二点なんだかやっぱり安らぐ。

「白梅雪松小禽図」

外は寒いけれども、ほっこりあたたかい。よりそう二本の樹と二羽。それぞれ恋の歌のよう。もしかして松と梅は情熱的な恋?。

抱一「白梅鶯図・紅葉鹿図」は、大変気に入った作品。梅も紅葉も、鶯も鹿もやっぱり気持ちがある。みんなかわいらしいなあ。

琳派の鹿はやっぱり物寂しい。第一室で見た南蘋の鹿と大違い...。

たらしこみはどうしてこんなに見飽きないんだろうと思う。南蘋派のような写実も迫力だけれど、それと反対。心にしみてくる美しさ。

 

弟子でも、鈴木其一はそんな抒情に浸った絵は描かない

「双鶴春秋花卉図」1852 一般的な取り合わせなのに、主張がすごい。

皆、騒がしい。菊も紅葉も歩き出しそう。鶴も迫力。牡丹と梅は、抱一ならばお互いに静かな会話を交わすのだろうけれど、其一が描くと、二者の視線はからみすらしない。三幅の登場人物すべてがランウェイを歩くモデルみたい。私が一番美しい、と。

 

其一の長男の、鈴木守一の「雑画帳」は、キャプションの通り「守一のすてきな日常」。こうつけるここの学芸員さんもすてき。ツイッターでは楽しんでつけたそうな。

気楽に的確に。犬の背中がかわいいなあ。色もほんのりいいなあ。

画像で展示してあった他の部分も、花鳥だけでなく、生活感がある。「漁師の影」「海苔干し」「鵜飼い」「鬼瓦」などがツボ。

 

池田 孤邨(1803~1868)も抱一の弟子。「浮世美人図」は、岩佐又兵衛の息子の勝重模写だそう。確かに、畳のヘリ、着物の柄、本の背表紙、屏風絵まで、たいへんな細かさ。

 

山本光一1843~1901「狐狸図」江戸~明治 ここまでくると、現代画のような、草花もたらしこみも美しい琳派の系譜。抱一の弟子の長男。山本道一の兄。

しっかり写生したのだろうと思うタヌキとキツネ。タヌキは一見、目つき悪そうなんだけど、実はカタクリを愛でている。

細部に繊細な光一。青麦が好きなところ。

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以降の絵は、多岐にわたる画風、ということになるのかな。

織田瑟々(1779~1832)の桜にも再び出会えた。「江戸法来寺桜図」実践女子大で見て以来(日記)。

瑟々そのもの、命そのもののような桜。

これはまた、はああどういっていいかわからないほど美しい。 

とめどもない葉は自分の精そのもの。花びらは透明感もあり、ふっくらとしていて、瑟々はひとつひとつの花をどれほど愛しているんだろう。じっと見ていると、幹は女性の体、花はまとったレースのドレスのようにも見えてくる。

 

長谷川雪旦は「草花図」。てっせんやタンポポ、鬼百合など、色鮮やか。江戸で流行していた園芸文化が背景にあるそう。

 

最後は、今回の大お目当ての柴田是真が二点。

柴田是真(1807~1891)「猫鼠を狙う図」1884

ザクロを食べる鼠を、じっと覗う猫。衝立の画のような牡丹。水差しや篭の仏手柑は文人趣味ともとれるとのこと。葉の描きかたも文人画っぽい。キャプションは「深まる謎、室内のドラマ」。何らかの寓意が潜んでいそうだが、解決の糸口が見えず謎が深まる、と解説に。上方の影は意味ありげでもある。

野生と飼いねこの性の間で揺れ動く?。肉食動物だからには、隙をつき飛びかかりたい衝動もある。でも赤いリボンをつけて白い毛並みもふかふかの生い立ちでは、「ど、どうしよう、怖いかも。。」と腰が引けてる感じ。ねこよりずっと、赤いザクロの実と、それを盗み食う鼠のほうが生々しい。捕食シーンとしてのリアルはこちらかも。

是真のもう一点は「果蔬蒔絵額」1876

 蟻が本物みたい。金で施された栗のイガイガにも感嘆。

大満足このうえない展覧会でした。これだけのコレクションがあることも素晴らしいと思うし、魅力的な作品を選び出してくれる美術館の皆さんも素晴らしいなあと思いました。

入口の「永遠の穴場」に深く深く頷いたのでした。

  


●トーハクくんに会った日の東博

2017-09-22 | Art

雨の日の東博

ロビーに、トーハクくんとゆりのきちゃんがいた。

会えて嬉しいよ!


お名刺もいただいた。

トーハクくんて、ヒロシくんていうのね。


この日の常設。
なぜかあちこちで踊っている。


一遍上人絵伝ではぎゅうぎゅうで踊り念仏を

遊行上人縁起絵巻でも

皆さんも


伝菱川師宣の風俗図では、町衆が鮮やかに輪になり、

列になり、

のりのり٩(^‿^)۶

今日は皆どうしたんだろ⁈。

他に嬉しいのは、
✳︎念願のぎょくえんぼんぼう(念願なら漢字で書こうよと言われそうだけど携帯からなのでお許しください)はじめ、禅僧の絵!
✳︎岩佐又兵衛が6点も!
✳︎池大雅の書がどれもこれもすばらしく楽しく
✳︎渡辺崋山らの書。比べると人柄が出る
✳︎下村観山が春草の死を悲しんで描いたという鵜図屏風
などなど

そしてこの仏様にじんわり

思い出してもじんわりする。
なぜかはよく把握できないけれど、東博にはその日に響くものがなにかある。

また改めて写真とともに記録を書きます。


●板橋区立美術館「江戸の花鳥画-狩野派から民間画壇まで」 1狩野派

2017-09-18 | Art

板橋区立美術館「江戸の花鳥画」館蔵品展 江戸の花鳥画ー狩野派から民間画壇までー

2017年9月2日~10月9日

室内にいながら草木や鳥を愛で楽しむことのできる「花鳥画」は、時代や流派を問わず描き継がれてきました。花鳥画とは、山水画・人物画と並ぶ東洋画題の一つで、広くは、草花のみを描いた花卉図、蜂や蝶のいる草虫図、水中の鯉などを描いた藻魚図、さらには獣に花木を配した図をも含むと言われています。江戸狩野派が様式を確立し、民間画壇が充実した江戸時代には、花鳥画の表現・技法もより多彩になり、魅力溢れる作品が数多く生まれました。
本展では、第1室で江戸狩野派による花鳥画をご紹介します。江戸狩野派は、幕府の御用絵師として安定した制作を行う一方、新たな表現にも挑み続けました。花鳥画においても、その貪欲な姿勢が見て取れます。第2室では、写実的で色鮮やかな宋紫石や諸葛監らによる南蘋派、江戸琳派の酒井抱一や鈴木其一が手掛けた、洗練された作品をはじめ民間画壇の花鳥画を幅広く展示します。
江戸の地で花開き羽ばたいた、花鳥画の世界をどうぞお楽しみ下さい。

楽しみにしていた展覧会。受付でチケットを買おうとしたら、「無料です」と言われてびっくり。所蔵品とはいえ、そんな太っ腹な。しかも今回は撮影可。ありがとうございます!

以下備忘録です。

第一室は江戸狩野。

大型の屏風絵がずらりとならぶ。

狩野派といえば、元信、松栄、永徳、山楽、探幽、尚信などたいへん素晴らしいと思うけれど、時代が進むにつれ、粉本主義の弊害か、御用絵師の地位に胡坐をかいたか、というイメージだった。

でも、その固定観念を覆された作品ばかりだった。ごめんなさい今まで。見もしないで "没個性"とか思ってて。

狩野派の本流の中にも、自分の嗜好を追及していた個性的な絵師たちがいた。これは、板橋美術館の館長さんや学芸員さんたちのすばらしいチョイスのおかげでもあるのでしょう。

無料なのに、親切で簡潔な解説も。「花鳥画とは」というパネルから始まり、「花鳥画成立以前」「南北朝~室町時代の花鳥画」「桃山時代の花鳥画」「江戸時代初期(17世紀)の花鳥画」「江戸時代中期(18世紀)の花鳥画」「江戸時代後期(19世紀)の花鳥画」と、時代に特徴づけられる区分も腑に落ちた。

写真に入りきらない程、大きな狩野派系図のパネルも。鑑賞しながら時々見に戻ったり。

さて、1点目からたいへんお気に入りで、足が次へ進まない。

狩野宗信「花鳥図押絵貼屏風」17世紀 6曲1双

宗信(生没不詳)は狩野松雪の息子、そして安信(探幽の弟)の門人なので、中橋狩野に属する絵師ということになる。安信よりはかなり年長らしいので、1600年代の前半に活躍したということだろうか。室町水墨を慕ったとのこと。

右隻

どこもここも見入ってしまう。室町を思わせるような墨だけの世界だけれど、室町とは違う平穏にして柔らかな筆。元信の花鳥図屏風もたっぷりと鳥がちりばめてありユートピアだったけれど、そこには緊張感があった。なのにこれ、タッチや構図が室町風なのに、ゆる~い世界になっている。宗信って好きだなあと思う。きっといいひとだ

動物たちが本当に愛らしい。彼らの間には会話があり、時には樹や花とも会話し、ともに生きている。

二扇「柳に燕」の燕のぷくっとしたところが。室町水墨の質実で渋い筆の柳なのに、燕の遊びに参加しちゃってるし。

三扇「猫にコバン」じゃなくて「牡丹に猫」

素人考えだと、ちょっと端にずらすのが和の様式かなっておもうのだけれど、このボタンはどまんなかにぬっと立って、大きな花で猫を見る。起こして遊びたいのかな?そしてその上に蝶がひらひら~。なんだか天然っていうか。しかもこの完全に平和ボケした猫の寝顔ったら。

このやわらかさは何でしょうと思ったら、宗信は背景に筆であたたかな空気を描いている。

4扇「枇杷」の固そうな葉もお気に入り。枇杷の実も意志をもっている。

5扇「雉」はクロスした尾が、親鳥の強さを。母雉は虫をくわえて3羽のヒナのうちの一羽にあげようとしている。毛並みもたいへんに細密、シダなどの草の様子も実感があるなあ。

6扇「みみずく」は最もお気に入り。ひょいと恥ずかしそうにのぞき込む子供みたいでかわいい。菊とお友達になりたいのねきっと。

毛並みも細やか。竹や葉の墨の濃淡も手慣れたスピードも、すてきだなあ。菊は現実を離れ、かわいらしさをデザインしている。狩野のおじさま絵師とは思えないほど!

これだけの卓抜した技術でもって、このおとぼけた世界を描けるって、ほんとにすごい!!

と思ったら、左隻になると空気が一変。気温が急低下し、寒い。秋から冬へ、厳しい季節。

3扇「蓮に白鷺」は、神々しいほどの鷺。枯れた葉の潔い構図。どきどきしてしまった。

この人の墨や筆つかいを目で追ってるだけで、ここから離れたくない。。

「芦雁」もドラマティック。気迫あふれるのは、元信のようでもある。このふっくらと丸みのあるジグザグでおりなすリズムというか、一体感というか、語彙が貧弱でなににうっとりしてるの自分でわからぬ。

でも目は野生。

「粟に鶉、葵、雀」も、すごい。すばらしい。

鶉の複雑な模様もこんなにも美しく。スマホのシャッター音消音アプリで撮ったので画像が不鮮明だけれど、実物はもっとすごい。幾何学的に超技!

 葵のしべや、葉の虫食いなんかも実感があって、イキイキと胸に入ってくる。

最後は、雪の日。凍るような厳しい寒さを感じながら、12か月が終わりました。

 左隻では、右隻と打って変わって、自然の中で生きる鳥たちの厳しさ、野性味を、尊厳を持たせて描いたような。

ゆるさと厳しさの両面を併せ持ち、緻密な観察眼と画力をもった宗信。他の絵も検索すると、少ないながら風変わりな絵もヒットする。ただ狩野元信の早世したと思われる長男も宗信という名。注意が必要。こちらの宗信さんの絵には次はいつ出会えるかな。

 

宗信が好きすぎて、長くなってしまったが、第一室には11作展示されている。

狩野常信「四季花鳥図屏風」17~18世紀

常信(1637~1713)は尚信の息子、木挽町狩野の二代目。15歳の時に父を亡くし、探幽の画風の影響を受ける。繊細な資質を生かした瀟洒な作品に傑作を残す、と。

激しい水流、高潔な樹の幹や岩、金砂子、本流って感じ。

山鵲(さんじゃく)

白鷴(はっかん)の親子は、ひねりが効いてる

左隻になると、水流はおだやかに流れ着いている。ひねりまくりの鳥があちこちに。

鷽(うそ)という鳥は、このほかの作品でもよく登場。ぽっちゃりしててかわいい。

白うさぎも。

常信は、探幽に倣い、「常信縮図」を残した。 この作品一作を模写すると、狩野の本流が学べそう。

 

その木挽町狩野の7代目、狩野惟信(1753~1808)、「四季花鳥図屏風」。

ここにきて、やまと絵に回帰するのは、個人的な嗜好なのか、顧客の拡大戦略なんだろうか?。わからないけれども、岡田美術館で見た、彼の小さな掛け軸のやまと絵はとてもキュートで、好感。これも細部までかわいらしく、見どころがあちこちに散りばめられている。奥方様や姫様たちにはたいそう喜ばれたのでは。自分の好きな場所を見つけられる。

右隻 満開の桜と踊るような幹、リズミカルな流れが、明るい気持にしてくれる。

左隻 展示室では左隻右隻並んで見られたので、もみじと桜の呼応が楽しめるという贅沢。

ありえない枝ぶりの樹、実感のない鳥と、虚構の自然。仮想空間に漂うのもまた、楽しいものである。

私のお気に入りは、山並みと、左隻の端っこのカワセミのところ

 

木挽町狩野が続きます。尚信の奔放な画風に打たれたけれども、その末裔も、権威の中枢にありながらも、それぞれ独自の路線を楽しんでいるなあ。

狩野栄信「花鳥図」1812 木挽町狩野8代目。惟信の息子。

真っ青な背景は、中国の徐煕、超昌に似た作があるので、舶来画をもとに製作されたらしいとのこと。解説に、「文人画家の柳沢淇園も洋風画よりの類似の作を描いた」とさらっと付け加えられているのも、気になる。柳沢淇園は岡田美術館で見て以来、もっと知りたい人。

この赤白ピンクの三色牡丹は、其一の「牡丹図」1851を思い出す。んんん、赤い牡丹や赤いつぼみなど、そっくり。いや全部似ている。元ネタはこれか、たどって中国絵画の学習なのね。

 

狩野養信(1796~1846)「群鹿群鶴図屏風」19世紀

木挽町狩野の9代目。橋本雅邦や狩野芳崖の師。

この濃さ、若冲レベル。

水戸徳川家の用命で、沈南蘋を模写したもの。このひと模写魔とのことで、舶来写実の原画に彼の執念が上乗せされて、この迫力なのでは。

沈南蘋が日本にやってきたのは、1731年。若冲が南蘋派に影響を受けたことが、この鶴を見るとよくわかる。

木や葉、花の描き方は、その後の南画の絵師たちに影響を与える。源流が見られてうれしい。

 

沖一峨(1796~1855?)「花鳥図」 鳥取藩の御用絵師。

ここにも青い背景が。細部まで上手いなあ。あ、熟したゴーヤが。江戸初期に舶来し、新しもの好きな一峨はよく描いたそう。このころも食べたかな?

 

狩野探淵「鷹図」 沖一峨の師の狩野探信の、息子。鍜治橋狩野8代目。

上等の絵具、大幅と、大名家からの出産祝いか端午の節句の注文品らしい。御用絵師らしく、固まったような定型の絵だなあというのが第一印象。

でもよく見ると、はまってしまった。

ぱっちりした目に端正な顔。おなかの毛並みも良く美鷹だわ。御用絵師の描く鷹は、さすが育ちがよさそう。微妙な陰影のある花びらも美しいなあ。

こちらは背中の透明感のある羽。松の葉は写真はぼやけてしまったけれど、実物はこまかな線が入っていて、西洋の抽象か幻想絵画のように感じたり。

 

最後は女性画家 融女寛好(1793~?)「渓流小禽図」 浜町狩野の門人 

7歳から師について画を学び、これは11~22歳頃の作とか。結婚後も画業を続けたそう。かわいらしく楚々とした絵。清原雪信といい、狩野派を学んだ女性絵師の絵は、無理して男っぽく描いているわけではないのね。しっかりとした技術でもって、かわいらしく上品な作を。お得意様も奥方様や姫様なのでしょう。奥へ呼ばれることも思えば、立ち居振る舞いもきちんとしているのでしょうね。。

第一室だけで長くなってしまった。あれ、そういえば、ロビーの奥にも屏風があって、後で見ようと思ってたような。それがリストの狩野了承だろうか?見忘れたっ(涙)。

第二室の民間画壇は次回に。

 


●「上村松園ー美人画の精華ー」続き

2017-09-17 | Art

「上村松園ー美人画の精華ー」1章(日記)の続き

松園以外の画家の美人画も、存在感ある女性たちばかり。男性画家の絵もすらです。たとえば、守ってあげたくなるよなふわわんとした女性だったり、妄想の女神とかミステリアスなマドンナだったりとか、そういう女性像ではなくて(そう言う絵もいいけれど)、対象をまっすぐに見て描いた女性像を中心に集めたのではという印象でした。

以下いつものだらだら備忘録です。

2章は、文学と歴史を彩った女性たち

・小谷津任牛(1901~66)「朝・夕のうち夕」1951 古径の弟子だそう。弟子の三牛=土牛・村田泥牛・任牛。きっといい人そうな気がする。「夕」は、一曲の屏風。天空の青を背景に、大きな機織り機の前に物思いを抱える織姫。織機にかかった真っ白な布、織姫の衣のピンク、空の青と、色も印象的。魚やウサギの模様もロマンティックな感じ。筆目が残してあった。もう一曲には彦星が描かれているそうなので、一双で見てみたいもの。

 

・月岡栄貴(1916~97)「鉢かつき姫」1981 大きなお椀を頭にかぶった姫のお話は、子供の時に、小学館「日本の昔話」で読んだ。姫の母は亡くなる前に、きっと姫を守ってくれるとこの鉢をかぶせた。それから姫は鉢をからかわれ継母にこき使われながら生きてきた。月岡栄貴は、青邨に師事したとのこと。タッチは青邨に似て、壁画のような風合い。落ち葉の散る寒い中、水くみに来たのか、運命に翻弄される姫をドラマティックに描き上げていた。この姫は、私が子供心に思っていた、小さいのに母を亡くして一人ぼっちになったかわいそうな姫ではなくて、女性的な激しさも秘めた若い女性に成長していた。

 

森田曠平(1916~1994)は三作。歴史上の女性像を多く描いたそう。キッとした目に独特な雰囲気をまとう女性たち。

「出雲阿国」1974は、大きな金の屏風絵。舞いの激しい動きに、人物が画面の外に踊りだしてきそうな。

等身大程の目の前の人たちの目線の強さに、目を見張ってしまう。ただでさえ切れ長の目力はシャープなのに、被り物でますます強調される。そして色が強い。男装の阿国の羽織物は紫。わきの4人も着物も手拭いも派手。世を沸かせたかぶき踊りは、度肝を抜いてなんぼ。かぶいてなんぼ。小物までいちいち見もの。印籠に青い巾着袋、ロザリオ、阿国の被る笠の模様は螺鈿のよう。安土桃山の新進にして絢爛な空気を想像した。

 

「夜鶯(アンデルセン童画集より)天使の涙」1985

ナイチンゲールの美しい鳴き声は、帝の心の琴線に触れ、はらはらと涙が。ナイチンゲールのいたいけな姿にジーン。横に詞書があるけれども、その字が師の安田靫彦に似ている。そういえば舞う女性たちの姿もどことなく靫彦に似ているような。

 

「百萬」1986は、観阿弥作の能。子供を探す狂女が川を渡ろうとする場面。目は正気ではないのだけれど、美しい着物、青い波と、完成された絵だなあと思う。本来は笹をもっているのを、絵では桜を持たせているのは、場面の嵯峨野という設定によるとのこと。

こうしてまとめて見る機会に恵まれると、森田曠平の絵をもっと見てみたくなる。歴史の一場面として、その国や時代がビジュアライズできて面白かった。

 

・小山硬「想」1981も、歴史上の女性。大友宗麟の妻、ジュリア。

 

小林古径では3点。

「小督」1901、こんなに初期の絵は初めて見た。やっぱり上手い。18歳の男の子が描くとは思えない、淋し気な女、悲しみに暮れる侍女。わびしい住まい。小督が弾く想夫恋の琴の音。高倉天皇の寵を受けた小督(こごう)は、清盛によって追われる。帝の命で小督の行方を捜していた源仲国が もう一幅に描かれているそう。

 

「河風」1915は、浮世絵を連想させるが、卑俗さは払しょくされており、ユニークな水は紫紅の影響、と解説に。

余計な線がどんどん減っていく。顔は艶めかしくも、仏性につながっているのではと思うほど。土牛の旧蔵品。

 

清姫(1930年)のシリーズのうち、「寝所」と「清姫」が展示されていたのも、たいへんうれしい。日本画の教科書展で「鐘巻」「入相桜」を見た時(日記)には、清姫の哀しい姿に寄り添うように描かれた古径のやさしさが、切なく。だから今回も、その流れで見てしまう。

とはいえ第2場面の「寝所」では、不穏な影が物語の始まりを暗示している。

屏風の牡丹、揺れる灯が赤く艶めかしく。物陰からそっと僧を見る姫は、手を伸ばす。畳に流れる一すじの髪は、蛇のように僧のほうに這っていきそう。若い僧の唇は赤く、一途すぎて(思い込みの激しい)姫を夢中にさせるのに十分。

第4場面の「清姫」、僧を追いかけて山をも空をも超える。

画像で見ていた時には、なびく黒髪に妄執を感じていたけれど、こうやって実際に見ると、(わりに太めな)足がしっかり描かれ、一生懸命走っている。怖いというよりも、なんだかね、まっすぐすぎなんだ、この姫。

清姫は画面の右よりに描かれて、まだまだたどりつくには距離がある。次の第5の場面「川岸」では、安珍は画面の左寄りに舟ととも描かれてて、もう逃げおおせたかと思えたのだけど...(合掌)。

 

・片岡球子の一点が「北斎の娘 お栄」1982だったのは、なんてタイムリー。

18日には、NHKのドラマ「眩」でお栄を宮崎あおいさんが演じるし、10月6日からはあべのハルカスの北斎展でお栄の肉筆も展示されるのだ(喜)。球子がお栄を描いたのも意外というか、なるほどというか。長いキセルを持った、堂々と気の強そうなお栄。着物の着方だっておおざっぱ。官能的なほどの大柄の花の着物は、お栄の画を念頭に置いてのことかな?。

 

3章は、舞妓と芸妓。ますます華やかさを増してゆく。

お気に入りはこの二点。

・奥村土牛「舞妓」1954

土牛は、動物の眼が楽しいから 動物を描くのが好きなんだと言って、魚や牛を描いていた。そのくるくる生き生きした眼はなんともいえずかわいらしくて、孫を見るようなやさしい土牛の視線を感じたのだけれども、まだあどけない舞妓さんの眼も、牛や魚と同じ(笑)。土牛はかわいい動物みたいに愛でている。だけどちゃんと、舞妓さんの晴れ舞台を迎える気持ちを尊重して、舞妓の格ともいえる着物や帯も美しく。祇園祭の日の舞妓さん。

 

小倉遊亀「舞う(舞妓)」1971「舞う(芸妓)」1972

伸びやかでおおらかで、いいなあ。姉さん芸妓は、新米舞妓の動きを迎え入れるように、手の動きや角度を工夫したとのこと。舞妓の初々しい一生懸命さもかわいいなあと思うし、姉さん芸妓の余裕もあこがれる。

器の大きな女を描かせたら、小倉遊亀って素晴らしいなあと思う。先斗町の料亭「大市」の実在の女将を描いた「涼」もそうだった。この芸妓と舞妓も、その大市で三日間にわたり衣装を着けてもらって描いたそう。金地の厚み、着物の柄までとても細密に気を払っていた。

 

4章は、古今の美人ー和装の粋・洋装の粋

伊藤小坡「虫売り」に再会できたのもうれしい。やっぱり隠れた顔になまめかしさが。(日記:山種美術館 松岡美術館

この青い市松の屋根が不思議だったのだけれど、江戸時代の風俗書の「虫売り」の項に出ているのだとか。虫売りの画は好評で、数点制作されたそう。

 

・伊東深水は全部で5点も深水は、いつもリスペクトをもって女性を描いている気がする。それとも深水が描く対象が、そうさせてしまう魅力をもっているからなんだろうか。

「吉野太夫」1966

吉野太夫は世に聞こえた美貌とともに、幅広い知性と美的センスを持ちあわせ、豪商の息子、灰屋紹益に引かれた後はその優れた人格で灰屋の家族にも認められるようになったという、スーパー女性。穏やかな金地に、なんてあでやかにたおやかな。 顔の気品と知性、それでいて心の広やかさもあって、あこがれてしまう。

 

「婦人像」1957は、小暮美千代だそう。金、赤、漆の黒というこのゴージャスな色に負けてない。一般人にはない女優オーラ。

この妖艶さ。こうやって堂々とトップ女優はるまでになった、この人の生きざままでもがこの微笑みに昇華してるんでしょう。漆の机にも映っている。

 

「紅葉美人」1947は、柏模様の着物。大正から昭和のモダンな。深水は現代風俗を重視する一方で和装の美しさも大切にしたとのこと。

 

 「春」1952は、少し抽象のような、キュビズムのような。抽象画が流行した当時の時代も関係あるのかな?。

 

今回のもっとも謎な一枚はこれ。

池田輝方のおおきな屏風「夕立」。額堂に集う雨宿りの六人。

右隻

美人画というより、男性のイケメンぶりに目が点。なんだろうこの色っぽさは。女性よりずっと男性に力が入ってる。しかも対照的なタイプの二人。

”袖をまくり上げた白いシャツからのぞく、力強い彼の腕”って、女性がくらっとくる男性のしぐさランキングに入るよね。

こちらは、色白乱れ髪の悩まし気な。先ほどの男性はひげの剃り跡が青かったけれど、こちらは女性より美しい陶器肌。もしや男性に好まれるタイプなのだろうか。その辺りはわからぬ。

どなたの解説だったか、そして誰の絵だったか、ひざから下があらわになった男性の浮世絵は、顧客の奥方様達へのサービスショットだなんて聞いたけれども、これもそうなのかしら?。

婚約中の池田蕉園のもとから失踪したなんて経歴を持つ輝方の、危なげな世界。なんにしても、耽美な屏風だった。

 

浮世絵では、春信、清長、歌麿と充実。なかでも月岡芳年の「うるささう」「いたさう」などの形容詞シリーズは、見もの。たいへん鮮やかな刷り昔も今も、やってることや考えてることはそう変わらないなと、くすっ。「買いたさう」は福寿草を買おうか迷っている、寛永年間のおかみさんの風俗。「にくらしさう」は着物がゴージャス、安政年間名古屋嬢の風俗。名古屋嬢って言葉が当時にもあったとは。「うれしさう」は蛍狩り。手で捕まえてる!丸いあかりがかわいいなあ。

 

菱田春草「桜下美人図」1894も、見もの。20歳の作。春草は浮世絵の研究もしていたのね。線も流暢、足元のタンポポや、散る桜も美しい。が、左端の妙な小動物は何だろう?。犬に見えない。浮世絵のなにかと宗達の犬を混ぜたような??。

 

第二室のほうでは、京都絵美さんの「ゆめうつつ」2016年が、印象深かった。

思いのほか時間がかかってしまいましたが、満ち足りた気持ちになる展覧会でした。15センチの近さでじっくり見られる山種美術館はほんとうにありがたいです。

本日の和菓子は、古径の「清姫」をイメージした「道明寺」を

怖い清姫じゃなくて、かわいらしく作ってあるのが、古径の思いに沿っているようでうれしく。コーヒーと一緒に。

9月26日から展示替え。浮世絵が入れ替わります。


●「上村松園ー美人画の精華ー」1 山種美術館

2017-09-13 | Art

「上村松園ー美人画の精華ー」山種美術館 2017.8.29~10.22(一部展示替え有)

山種美術館所蔵の上村松園(1875~1949)18点を一挙公開。

初見のものも多かった。松園以外の画家の作品も、松園に恥じぬ中身も内面もしっかり描かれた女性ばかり。雨の日に実は腰が重かったのだけれど、やっぱり行ってよかった

松園の美人画、私は昔は、美しさに憧れつつも、「現実を生きてたら、あんなにお人形みたいに清らかでいられるわけが...。」と、懐疑を抱いていた。

それがいつのまにか惹かれている。何年前かのある時、ふと見たあの清らかなまなざしが、突然にリアリティをもって見えたのだった。松園の経てきたものの先に、あのまなざしにたどり着いたんだと気づいた瞬間だった。泥に這い、道に踏み迷ったことのある者でなければ、描けない清らかさ。

それ以来、もう人形みたいには見えない。その時見た美人画は、りんと美しくて、着物もはっとするほど大胆な色合わせ。そのころヨレヨレに弱ってた私に力が染みわたってきたのだった。

そんなとこから始まって、それから線描の美しさにも見惚れ、仕事ぶりの丁寧さにも打たれ。

最近は、ホテルオークラで見て以来、構図の大胆さに惚れ惚れしている(日記)。

清らかなだけじゃなく、秘められた松園の思いも含んでいるのだろう。「牡丹雪」では、表に出さない戦時中の思いについて、美の巨人で推察していた(日記)。藝大コレクション展で見た「草紙洗小町」には、悪意をさらりとかわす女性の矜持を(日記)。

それにつけても、松園があの清らかなまなざしにたどり着いたのは何歳くらいの時なんだろう?とずっと思っている。

あまり画風が変わらないイメージだったけれど、展示を通して変遷も少し感じられた。

展示の一番初期のものは、「蛍」1913(大正2年)38才

昔ここで見て、日常のシーンでもこんなに美しくなりえるものかと、初めて松園に惹かれた絵。

今日はウエストの細さに目が釘付け。「蚊帳に美人というと聞くからに艶めかしい感じをおこさせるものですが、それをすらりと描いてみたいと思ったのがこの図を企てた主眼でした。」

松園は、意識して、清らかに上品な女性を作り上げていたのだ。「廓の情調でも思い出させそうな題材を却って反対に楚々たる清い感じをそそるように、さらさらと描いたものです。」

着物の模様や色合いも上品に涼やかに。「水のような青い蚊帳」と表現した通り、蚊帳も着物も青くさらさらと流れる水のよう。絞りの入った紺の百合がいいなあ。(ショップにこの百合のコサージュがあった。絞りはさすがに施されていなかったけれども、とってもきれいだった。)

松園は、浮世絵や古画をずいぶん研究していたそう。浮世絵の女性に特徴的な、するりと曲線を描く身体のライン。そこから上流階級の女性を思わせる美人に到達させている。

着物や髪の結い方や装身具については、江戸後期の文化に惹かれており、「変化に富んだ発達がある」と。展示の入り口に、時代や年齢、立場によって異なる髪の結い方の一覧図があったのは、みものだった。

松園の眉もふんわり、なんて美しい。アイペンシルじゃなくて、ふんわりパウダーで描いた感じ。プロのメイクアップアーティストの技だわ。「眉ほど目や口以上に内面を如実に表現するものはない。うれしい時はその人の眉の悦びの色を帯びて甦春の花のように美しく開いているし、哀しい時にはかなしみの色を浮かべて眉の門は深く閉ざされている。」眉に秘めた思いを語らせる。

大正時代の作の「夕照」、昭和に入ってすぐの「桜可里」(1926~29)と合わせ、ここまでの三作の肌の線描は、この後と違い、ほんのり桃色。大正ロマンな感じもする。そして目線は、なんともやわらかく、清らかな。

 

それが「新蛍」1929年(昭和4年)には、少し趣が変わったような。上手く言えないけれども、目に強さが加わったよう。

袖から少しのぞく赤色も、大人の女性のつやっぽさ。それでいて媚びない。

この作の前には、「花がたみ」大正4年、「焔」大正7年といった、恋に踏み迷う女性を描いた時期がある。松園も年下の男性との恋に悩んだらしい。ひとつの恋を終わらせると、一枚なにかを脱ぎ捨てたように、女性は美しく強くなるんでしょう。

それにしても簾の細密さが、すごい。一本一本の葦を描き、その一本にも影を加えている。簾の上下、左右でも彩度を変えている。上方では夜の暗さを、蛍のあたりではほんのり明るく。松園の極め切った観察眼に恐れ入るばかり。松園は「蛍」で「水のような」と意図したけれども、この絵も全体が水のよう。細かくも、着物のすその絞りの水流が、簾の合間から流れ出している。

 

そして簾のもう一点、昭和10年の「夕べ」になると、あれ、松園さんもうすっかり変わったんだなあ。昭和10年代の絵はとても魅力的。

目線もキレがあって、毅然と。そして帯の大胆さ、自由さ。60歳。

この前年には、最愛の母を亡くしている。そこを越えた時に、またひとつ別の境地に至るのかしら。女性って喪失と再生の生き物なのかな。これ以降の松園の画には、ゆとりの境地すら感じられる。

団扇に入ってしまった秋の月は明るく周囲を照らしている。着物に萩、赤い内着には白い菊。季節をほんの少し見え隠れさせる松園の美意識。

 

表装にも松園はこだわったそう。「春のよそおひ」昭和11年も、波間に揺らぐ扇が楽しい。ファッションも楽しんでいる。

 

「つれづれ」昭和16年 緊迫した高尚な美人だけでなく、くつろいだ美人も。

これとそっくりな画を富士美術館コレクションで見たことがある。帯の模様の配置が違うくらい。この年に類似作を数点制作したそうだけれど、人気作だったのかな。私も一枚お部屋にいただけるなら(無理か)、これを所望。周囲関係なく自分の好きなことに没頭して、しかもほんのり楽しそうなところが好きなんだと思う。ちょっとだけ挿した赤色がとってもいい

 

「砧」昭和13年は、撮影可の一枚。

せっかくなので人のいないときに細部を接写♪。生え際が超人的。

松園はこのころ謡曲を習い始めたそう。夫を待つ妻を元禄の風俗にして描いた。「砧打つ炎の情を内面にひそめている女を表現するには元禄の女のほうがいいと思った」。藝大でみた「草紙洗小町」(日記)も謡曲のシーンだったけれど、その次に砧を描いたそう。 

 

昭和15年の「春芳」「春風」は、鮮やかな着物に、大胆な色のストライプの帯が印象的。手が隠れているところもかわいい。とりわけ「春芳」は表装も豪華。一文字には、絹糸の光沢が美しい刺繍が施されていた。

 

晩年になると、上品でありつつも、庶民的な日常を描いている。「折り鶴」昭和15年は、和ハサミをおいて折り紙を折る母子。(←姉妹と、山種美術館のツイッターに)。松園の愛情深い面が出ているなあと思う

 

「娘」昭和17年は、針に糸を通そうと集中する娘がほほえましい。なんだか手つきがおぼつかなくて(笑)。

黒い襟に麻の葉模様の鹿子の帯の取り合わせは、京娘の典型だそうな。展示作ではないけれど、障子の破れを繕う「晩秋」昭和18年を見てみたいもの。

 

そして戦争の影「牡丹雪」昭和19年は、以前の日記に描いたように、戦争に対する松園の秘めた思いがあったのかどうか、確かめたくてじいっと見てみた。

がっ、この日は屏風用のガラスケースに展示されていて、間近で見ることはかなわず。むしろ晩年の松園の構図の大胆な思い切りに見とれてしまう。でもやはり感情を隠したような目が気にかかる。前年の「晩秋」と違い、紋のついた着物。

 

展示の最も晩年の絵は、戦後、昭和23年の「杜鵑を聴く」。見えない杜鵑の鳴き声に耳を澄ます、一瞬の停止。

 

同じく同年の「庭の雪」。雪の中に身を縮める娘の頬の赤みは、松園にしては珍しく筆目が見える。耳タブもほんのり赤く、ほんの少し除いた指先ととともに、娘の体温を感じる。肩にかけた布は、「襟袈裟」といい、江戸後期以降の風習で、着物につとの油がつくのを防ぐ布だそう。

 

すこしずつ変化はあるものの、一貫して美人画を描き続けた松園。風景や花鳥画は描かなかった。当時の日本画家も西洋画家も、時局や社会の変化に迷い、画風を変遷したり新しいことに挑戦したりするなか、松園だけは超然としている。My Wayが揺らがない。

「目まぐるしいほど後から後から変わっていく流行の激変に、理想的な纏まりがないとでもいうような不満なものがある」

「何もかも旧いものはすたれていく時代なのですから、なおさら心して旧いものを保存したい気にもなります。これは何も、時代に反抗するようなそんな激しい気持ではなくて、自分を守るという気持ちからです。」

 図書館の画集で松園の明治期の美人画を見てみた。12歳から描き始めただけあって、素晴らしく上手。でも2,30代の人物は、どこか挿絵のような感じ。なぜかと考えてみると、松園の人物のもつ存在感が、その後にどんどん強くなっていくからなんでしょう。年を重ねるにつれ、人物に実体が加わり、強さと余裕が増していた。60代過ぎてからはより、大胆に自由に。そんな年の取り方をしたいもの。

 他の画家の絵はまた次に。


●上野公園のわき道

2017-09-04 | 日記

芸大美術館の帰り、ふと芸大と上野公園の間の道を右折してみた。

よく通るのに、道を変えたのは初めて。
今工事中の「旧東京音楽学校奏楽堂」の壁が、仮囲いの上から見える。
う、動物っぽい臭いがすると思ったら、上野動物園の裏手。見上げると、そびえる金網の鳥舎に大きな鷲?コンドル?がとまっていた。

クラシックな建造物は、動物園の「旧正門」

現在の表門と池之端門の他にも門があったとは。
明治44年に建てられたもの。門番小屋、切符売り場も見える。現在は、一般には使用されておらず、皇族方が来園する際などに開けられるそう。

植え込みで見つけた小さな花


全て名前がわからない、、



↑この形、なにか見た覚えのある形状だと思ったら、これか。(ウィキペディアから)



 


●藝「大」コレクション第二期ーパンドラの箱が開いたー

2017-09-04 | Art

藝「大」コレクションーパンドラの箱が開いたー 第二期 

あっという間に9月。第二期は10日までです。(一期の日記

藝大美術館は金曜日でも17時閉館。もうあまり時間がないっていうのに、上野駅内の浅野屋で遅いランチ。パンダ印の黒糖あんぱん。

ずっと前からあるけど、テレビで見る子パンダの映像がかわいいせいか、この日ついに手に取ってしまった。子パンダ、ちょっと前までお茶碗サイズだったのに、今日の体重測定のニュースではお鍋サイズになっていましたね。


さて、芸大コレクション二期、今回も目移りしてしまう品ぞろえでした。「パンドラの箱が開いた」の意味を考える間もないほどでした。いいもの見たなあと思ったものを、以下、羅列します。

■名品編

狩野芳崖の「観音下図」明治21年ごろ。大きな羽で宙を舞う天女の下図数点と、天女の裸体の下図が数点。衣を身に着けた天女を描くにも、中身?の身体を意識して描いている。平櫛田中が五代目尾上菊五郎の鏡獅子を彫るのに、裸体の試作品まで彫っているのを思い出す。おおこの観音下図、芳崖が病で亡くなったその年の作だ。悲母観音を描き上げたのが、11月の死の4日前というから、それより前ということだろうか。次の作品の構想だろうか。もっともっと画を極めたかっただろうな...

 

「孔雀明王像」鎌倉時代、13世紀、妙な迫力がお気に入り。

孔雀明王の4本の手は、倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持つ。孔雀は害虫や毒蛇を食べるので、厄災を取り除くと信仰の対象になったそうだけども、とりわけこの孔雀は真正面を向いて、前を見据える。明王とダブルで、たいへん目ぢから強し。楕円のバランス力もよし。お腹のあたりの羽毛も細密、立体感とお肉感があったのが印象的。

 

・「観音堂縁起絵」室町時代 英語のScenes of the Life of Gensei syonin」で源誓上人を描いたものと分かった。

下のほうの小僧さんは、源誓上人の下積時代だろうか?。中ほどでは街の神楽や獅子舞の様子が描かれ、頭光をつけた仏たちの姿も。上部のほうのりっぱな法衣の僧侶たちを率いているのが源誓上人だろうか。最上部には彼方の海も描かれている。

 

土佐光起「貝尽図」江戸時代

土佐派でこんな細緻な写実画もあるのかとびっくり。貝の模様は針のごとく細密な描線で描き出されていた。光起は院体花鳥の学習も行っていたとのこと。

 

若冲「鯉図」

比較的初期のものらしい。でもやっぱりおもしろい。口からは泡がでていて、鯉の目は意志をもって泡を見ているみたい。

 

小堀鞆音「経政詣竹生島」明治29年

平経政が枇杷を弾くと、明神が龍に姿を変えて現れた。龍は灯りを巻き込むように、遠慮がちに訪問してきている。経政と龍の目が合っていて、音楽を愛する者どおし気持ちが通じ合うふたり。さすが安田靫彦の若いころの師、細部まで丁寧で、木や毛の質感もばっちり、上手いなあ~。

 

伊東深水「銀河祭り」昭和21年

七夕に、水に映った星明りで針に糸を通し、裁縫の上達を願う。赤い糸と赤い短冊、わずかに見える赤い鼻緒、少しだけの赤の点在がいいなあ。着物の柄で季節を表すのも、なんだかほっこりする。月見草だろうか。

 

少し離れたところには二帖以上ある大型の掛け軸が並んでいた。

上村松園「草紙洗小町」昭和12年は、思い切りのいい大胆な構図に見惚れる。

この大胆さと人物の繊細さがあれば、背景なんてなにもいらないんだなあ。大きく、三角に画面を分断する。そこに小三角、小四角でリズムがつく。一すじ流れ、くるんと巻く髪は、女性のしなやかな動きの軌跡なんだろうか。上にあげた手、下に下げた手も、とても動きに満ちた掛け軸だった。

陰謀を知って草子を洗い流す小野小町の謡曲。この女性もかすかに微笑み、目線は艶っぽく生き生き、機知に富んでいる。松園の描く女性には、美しいだけの女性なんていないと、またしても実感。

 

・橋本雅邦「白雲紅樹」明治23年

人の入らない深い自然。墨にちょうどよい分量の紅い葉と緑の樹。圧倒的な雲と岩山の下のほう15%くらいのところに、サルがいる。流れには紅葉が浮かんで、風流を愛でるのは猿二匹のみ?。狩野派の達筆で描かれた樹の中にはファミリーの猿たちが遊んでいた。雅邦は美校の教授として遠近を取り入れ、新しい日本画を目指したそう。

 

河合玉堂「鵜飼い」昭和6年、これは先日の探幽の風流な鵜飼い見物屏風と違い、荒々しい波にもまれている。かがり火は金で描き、夜のすごみがあった。多くの人が鵜飼いを描くけれど、そんなにいいのかな。一度見に行かなくちゃね。

 

松岡瑛丘「伊香保の沼」大正14年、しどけない着物や髪、どこかこの世ならぬものような姫。葉は先が茶色く枯れ始めている。榛名湖畔に入水した姫が、実は白蛇になっていたという伝説に基づく。赤いあやめが不思議な感じだけど、画像検索したら、赤いのも確かにあった。

 

曽我蕭白「柳下鬼女図屏風」

嫉妬に狂う女が元夫を呪い殺そうとする、謡曲の鉄輪の場面ではと解説に。鬼の顔貌だけれども、手や足は若く滑らかで女性らしい。なぜか恐ろしいとも醜いとも思えない。安倍晴明に追い返されるらしいけれど、この鬼女はどうしようか次策に途方にくれているように見える。

 

他には、尾形光琳「槙楓図屏風」、肉眼では判別不能なほど超絶模様の後漢時代の「狩猟文銅筒」など。

 

■美校の仏教彫刻コレクション

破損仏の断片が並んでいる。布がむき出しになった乾漆像の断片、仏手の断片など。破損物も大事な研究教育資料として活用している、と。作る人らしい言葉。

 

■「平櫛田中コレクション」

前期には展示されていなかった田中の「尋牛」大正2年が!。ずっと見たかった。

 禅の「十牛図」のうちの「尋牛」。真の自己は牛の姿で現され、真の自己を追う自己が牧者の姿で。

オーラがすごい。気持ちが前へ走っている。前側の手も牛を捕まえてやるという気持ちで、すでに動いている。後ろに回り込んで見てみても、後ろ姿から前へのベクトルがめらめら。片目を見開き、片目はつぶっているのは、牛を見つけようという気持ちだろうか。

新美術館で展示中のジャコメッティの歩く人を思い出す。あの彼は歩いている。この牧者は、「さがす」人だった。

 

田中太郎「ないしょう話」に再会。やっぱりひきよせられる。

改めて、三人の密閉感がすごい。なのに耳は出ている。もはや話すこと聞くことよりも、三人で結束していることの確認のほうが、重要なんだろう。

 

■記録と制作ーガラス乾板・紙焼写真資料からみる東京美術学校

・小川一馬の写真がみもの。以前東博で1893年のシカゴ万博に出品された品々が展示されていた時に、日本館の「鳳凰殿」が素晴らしかったことを知った(日記)けれど、小川一馬はその内部の障壁画を撮っていた!。「障壁画扇面流図」の写真は、絵の詳細までは見えにくかったけれど、鳳凰殿は戦後に焼失してしまったので、これは貴重。鳳凰殿の建築に携わった日本人大工の素晴らしさは現地で話題となったようだけれども、その設計、装飾、調度品を請け負ったのは、東京美術学校だった。この扇面流図を描いたのは誰なのだろう?

同じく一馬の「セントルイス万博出品本校各教室」明治37年ごろ も展示されていた。当時の藝大の教室風景。着物や洋服の学生たちがイーゼルを立てて、ギリシャ風の石膏像をデッサンしていた。後ろからの写真だったけれど、きっと後に知られる画家もいるんだろう。

 

■藤田嗣治資料 

藤田の手紙やパスポート、写真などが展示されている。

中でも、私の好きな近藤浩一路からの手紙。二人は美校の同級で親友だったのだそう。1949年のもの。こたつでフジタの妻の君世が本を読んでいる挿絵付き。この年に念願かなってパリに戻ったフジタに、奥さんも出発できるのを待っているよ、と近況を知らせている。

フジタの1947年の日記も展示。戦犯として裁かれることはなかったものの、戦争画を描いたことを非難される。1947年にパリ行きが決まり、「フランスに行ける。パリに行ける。今度は長くいる。死んでもいい。パリの土になる覚悟だ。」と、にじみ出る喜びを記しているけれども、なんやかんだで実際には出発は二年後になってしまったのだそう。

 

■藝大コレクションの修復ー近年の取り組み

修復を終えた葛揆一郎「外科手術」明治37年が印象的。手術室の清潔で静謐な空気。ボウル(っていうのか?)、台の脚など金属類の質感が素晴らしかった。

 

他には、ラグーザの「ガリバルディ騎馬像」1882~1892、小磯良平「彼の休息」昭和2年、など。

 

■石膏原型一挙公開

石膏と同型のブロンズが並び、比べられる。解説に、口元や衣のひだなどの違いを比べてくださいとあったので、しげしげ見比べてみた。

・中でも高村光太郎の「獅子吼」。石膏とブロンズではずいぶん印象が違い、石膏のほうがずっと生々しい。白いぶん表情に陰影が加わり、ひだや口元など細部も繊細に感じられる。

 

淀井敏夫の「聖マントヒヒ」昭和41年は、なんでしょうこれは!。石膏とブロンズが並んでいるけれども、違い云々の前に、その原始的な異形さ!その向こうの「聖」に達する域。古代エジプトでは、ヒヒは知恵の神の化身なのだそう。カイロ博物館で見た木や石膏のマントヒヒが、動物園のマントヒヒと重なって見え、その感動をモチーフにした、と。石膏のほうは、石膏でも黒っぽく、ところどころに黄土色の点のような剥落か着色かが見え、それが金色に輝いて見えて、神々しいオーラを増していたのだった。大ファン

 

■真似から学ぶ、比べて学ぶ

勝川春章「竹林七妍図」向井大祐「風俗12か月図」平成29年が並ぶ。向井のは、MOA美術館所蔵の重要文化財、勝川春章筆「風俗12か月図」のうち、失われた1月と3月の幅を、想像して復元したもの。残りの10か月は模写したもの。

風俗12か月図の1~6月

7~12月

右から1,2,3月。

下図も情報もないものを、場面や登場人物から生み出すって、そんなことが可能なのか。向井さんの膨大な研究の結果なんだろう。この12幅には全然違和感がない。見下ろす視線の角度もそろえ、線や色調など画風が似ているだけでなく、春章の指向まで。

1月は、向井は母子3人を登場させた。少女のたらいの中には、亀が元気よく。母に抱かれた赤ちゃんは手を伸ばして伸びあがり、好奇心いっぱい。この赤ちゃんのやんちゃぶりは、6月の水浴び中の赤ちゃんと同テンション。たらいの外にはお魚のおもちゃが飛び出していた。盆栽やついたての画も抜かりない。建具の角度も6月の幅と合わせてあるような。

3月は、潮干狩りの様子。貝が鮮やかな浜辺には、なんとカレイがぺろんと。女の子は持ち帰ろうとして、母や侍女?もびっくり。

他の月に勝川春章が盛り込んだ要素を、向井は多すぎず少なすぎず、盛り込んであるのでしょう。基本には、平凡な日常の生活の中の、女性や子供の生き生きと楽しみに満ちた姿。そして2~3人でおりなすラインの美しさ。例えば赤色なら、時にはたっぷりと、時には差し色として少し入れるなどの色の使い方。窓の外の景色や植栽で現す季節感。人物のしっかりした会話の設定。

そして細かいとこにちょっと入れておく遊び心。無難にうめてもつまらない。春章の大胆ぐあいも検証し、しかも自分らしさも織り込む。

向井さんの大成功の仕事、すごいと思う。もっと私なんかには気づいていないポイントがいっぱいあるんだろうな。博士審査展のこちらに評がある。1988年生まれ、若っ!

 

■現在作家の若き日の自画像

前期に続き、卒業時の自画像。俺はこっちの方向へ進むぞ、って決意が見えるようだった。

気になったのは、大竹えり子さん(ねじれた天狗の鼻)、川俣正さん(ゴムシートがひとまき置いてあった・・)、宮島達男さん(神田川の遠景や人影などのビデオ。数字のインスタと速度が似ているような)。前期に見た、松井冬子さん、村上隆さんなどは展示が平置きになっていて、角度が変わるとさらに印象深かった。

 

■卒業制作ー作家の原点

建築系が興味深い。今和次郎「工芸各種図案」が。写生をもとにしたドローイング。

吉田五十八「レクチュアホール」も。1/20の建築図面。タイルや壁、床など西洋建築の意匠のドローイング。モダン建築への興味が見て取れるというようなことが解説にあった。私にとっては、小林古径邸など和風建築のイメージだったのだけれど、確かに和とモダンがうまく組み合った堂々とした建築が多い。五島美術館、成田山新勝寺、旧歌舞伎座、青梅の玉堂美術館もそうだったのね。見たことがない所では中宮寺本堂なども。

絵では、下村観山「熊野御前花見」をみられてうれしい。

熊野の池田宿の長の娘が、熊野の国司であった平宗盛に見初められ寵愛を受ける。背景の山は熊野とのことなので、これは出会う前?それとも寵愛を受けた後?。人々は噂しあい、熊野御前は心もとなさそう。これはこの先の運命を暗示しているのかな?。山間の宿場町の庶民的な街の様子。表情や、町並み、小物類まで、細やかな描写。人物や顔の表情への深い描きこみは、晩年の中国の歴史人物画へと脈打ち続けていたんだろうか。

このかわいい丸ぽちゃな犬はなんでしょう

高潔な絵を描く観山だけど、たまに動物愛がこぼれてしまう一面を見つけてしまう。鹿やメジロは人間みたいに心ある顔をしている。それとも古典研究の成果ゆえ宗達や応挙に倣ったのかな?。

 

他には、杉山寧「野」、晩年のものより好きかも。

山本丘人「白菊」、「一人の少女に託しての青春の歌」と。興味ある画家のひとり、回顧展があるといいのに。

 

現代の活躍中の作家のものに心打たれるものがあった。

坂井直樹さん(平成15年)「考・炉」、「作り手は求められる美に対し、つくる喜びを手に入れた」と。見る私も心楽しくなるような造形たちだった。

野澤聖さん「見立ての図像たちー家族ー」(平成26年)、大きな等身大のハリボテ?が林立。写真かと思っていたら、コンテの手描き。

前期は通り過ぎたのに、今度はお父さんやお母さん、おじいさんたちの顔をみていると、じわっと心がいっぱいになってしまった。モデルになった家族のちょっと恥ずかしそうな、でも愛情にみちたやさしい顔。「(略)生きた痕跡を絵として記録できるのは、絵描き冥利。描くことがどんな意味を持つのか、当時の精いっぱいの表現」と。

 

吉野貴将さん「~森~」、菅亮平さん「White Cube」、山脇洋二さん「犬」も印象深かったもの。

 

最後に残った時間ででもう一度、前期もあった高橋由一「鮭」「花魁」へ。鮭は少し展示位置が高く、鮭頭のあたりをよく見たかったので、もう少し下げて展示していただけたら...ぼそっ 。

 


●関口芭蕉庵

2017-09-02 | 日記

永青文庫へ行く途中、神田川の向こうに、大好きな芭蕉の木を発見🍌。


いつもは雅叙園側から行くので、早稲田側のこちらからいくのは初めて。
都内でも屈指の落ち着いた高級住宅街に繁るこの山は、関口芭蕉庵。

橋を渡り、永青文庫へ上る坂「胸突坂」の中ほどに、入り口がありました。


永青文庫の帰りに寄ってみました。

「関口芭蕉庵」


松尾芭蕉がここに住んでいたとは知らなかった。http://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kanko/spot/shiseki/bashoan.html
1677年から3年間、神田川の仕事を請け負った際に住んでいたと。「人足の帳簿付け」の仕事をしていた時期らしい。
(Wikipedia)延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる[9]。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている。

番屋か水小屋のような建物に住んでいたらしい。後に芭蕉を慕う人々によって建物や塚が建てられ、今に至る。中には資料室のような建物があるけれど、これは戦後に建て直されたもの。

都心にこの森が残っているのは貴重。永青文庫の庭、根津松美術館の庭、明治神宮・・、東京にもあなどれない深い森がある。


回遊式


「芭蕉爺之墓」。1750年、弟子たちが短冊を埋めて墓としたとある。

「五月雨や かくれぬものや 瀬田の橋」

芭蕉が群生。




高い!幹が太い!沖縄や奄美で見たのより、どっしりとしている。

「鶴の鳴くや その声芭蕉 やれぬべし」

花も付いているけど、バナナになるかな。


青紅葉と芭蕉の不思議な。


棕櫚も立派!




これは教えていただいたところによると、極楽鳥花らしい。こんなに大きくなるとは。

芭蕉も棕櫚も極楽鳥花も相当の樹齢のようだけれど、これを植えたのは誰なんだろう。

夢中に撮りまくり満足して我にかえると、足に蚊が鬼のように群がっているではっ∑(゚Д゚)。。
強烈な刺激痛が、ゲリラ状に勃発。ひざ下から生足だったので数十か所刺されてしまった。
一か所二か所なら平気だけど、さすがにムヒ探してお店に駆け込みました。(次の日にはすっかり完治。跡も残らず普通の蚊のようです、念のため。)

 関口芭蕉庵に北側に隣接する敷地にも、歴史を感じさせる立派な邸宅や蔵があるけれど、そちらは旧田中伯爵邸(非公開)。芭蕉庵と同じく講談社が所有、管理しているようです。