hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●東博 下村観山「弱法師」、小林永濯

2016-12-23 | Art

この日の東博

展示中の下村観山の「弱法師」を見に行きました。

初めて見たときは、金地と梅があまりに美しい屏風に、言葉もないほど。年が明けて初詣イベントで混まないうちに、目の前ばーん、視界遮蔽物なし、で観たかったのです。


下村観山(1873-1930) 「弱法師」1915年

 

能の淑徳丸(ストーリーはこちら)。

能に疎く、実は初めて見たときには、この美しい梅にひたるあまりに、人物は描かなかった方がよかったんじゃ。。。などと不埒なことを思ったもの。

でもこの日は、淑徳丸の姿に泣きそうなくらい。

淑徳丸とその周囲が、とにかくやさしい。慈悲という言葉が浮かぶ。

淑徳丸の眼は、見えない日の光を感じているし、花びらが舞い降りるのも、香りも感じている。辛い中にいるのに、美しいものを感じている。

淑徳丸の手は、仏のよう。線描も仏画のように優しい。

花散る足元も美しく。でも少しさされた青色が少し悲しい。

望まない様々なことが降りかかるけれど、そこにある自然はいつも優しく、変わらない。辛いことがこれでもかとあったその向こうに気づくことであるならば、決して望ましいことではないのに、その境地にいるものはこんなに仏性のように清らかなんだろうか。なにかもう悲しくもあり、たったひとつの救いでもある。根源的なものは荘厳でかつ悲しい、というのは戸嶋靖昌の絵のような。

梅もどこを観ても、夢のよう。

細い枝先は触った感触まで感じる。たらしこみがほんのり。

大きな日輪は、筆目がわずかに見えて、観山が丁寧に心を澄ませて描いている姿が浮かんでくる。

屏風の左側から歩いていくと、次々に花枝が現れて、夢心地の体験だった。

三渓園の臥竜梅に着想を得たもの。原三渓の援助を受けた観山は三渓園に住んでいたこともあった。

観山の描く人物の顔は、独特で少しくせがあるんだけれども、いつも見入ってしまう。表情や左右それぞれの眼に、その人の人格や内面、感情、バックグラウンドといったものを、観山はものすごくつきつめているんだと思う。

 

それから、観山とその周辺の日本美術院系の画家たちの合作の絵巻も。

「東海道五十三次絵巻 巻一」1915 横山大観・下村観山・今村紫紅・小杉未醒

少し前には別のバージョンが展示されていたけれども、何巻あるのだろう。皆で旅しながらのリレー作。道中お金が無くなって、高島屋の社員さんがお金を持ってきてくれたという話も聞いたところ(「高島屋と美術展」)なので、親しみがわく。

そして当時の町の様子や生活もかいまみえてる。

好きなシーンがいくつもある。

日本橋から出発。今も日本橋の柱にいるあの"羽のある麒麟”がすでに描かれている!今の日本橋にもこんな行商人がいたらステキだ。 未醒画

調べるとこの麒麟像は、1911年に設置されたらしい。100年ずっとここに!

品川に帆船がいた時代 紫紅画

 大森もこんなに牧歌的。桜のころに、農家の庭先の鶏がかわいい。お洗濯ものもいい感じ。 観山画

川崎では、張り子の犬? 大観画

 保土ヶ谷は、山の中の畑がいい情感。観山画

戸塚まできました。小杉未醒の犬がめちゃくちゃかわいい。

未醒は面白いなあ。金太郎の絵もかわいいものね。

絵巻でエア旅、楽しかった☻。

 

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こちらも、当時の様子が見える作品

前田青邨の、題は忘れてしまったけど、温泉の三幅

左幅は、昼の草津温泉

空の青さを映しこんだような温泉。白い湯気とのコントラストが明快で。青空の露天風呂って開放感がいいのよね。

湯けむりの中、お客さんがお着きです。

真ん中は、まだ明けきらない朝の修善寺。ふわりと立ち上る湯気。朝ぶろも、気持ちいいのよ。

 日が暮れたころの伊香保を墨の濃淡で。川にもうもうと立ちのぼる湯けむり。とがったところのない墨の色。

通りを歩く人影も、蓑に傘。雨が線で描かれている。

温泉行きたい。

 

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他に心に残った作品。

小林永濯(1843~1890)に再会できて感激。練馬美術館のプチ展覧会以来。

「美人愛猫」

名古屋帯など江戸の風俗を映しつつ、さすが小林永濯、どうどうとした人物像。

体つきも、着物の内側に人体を意識しているようだし、何か現代的。後ろの黒い着物の女性は、顔もふっくら、手もぽっちゃり。

基本は浮世絵や歴史画。そこから西洋画の影響をとりいれつつも、ぶれず、新しい段階に進む。

幕末生まれの絵師は、強いと思う。

女性は浮世絵風なのに、ねこは写実的のふんわり毛並み。練馬美術館で見たちょっと妖しい猫を思い出す。永濯は相当な猫好きなのか?、今みたいに当時も猫ブームだったのか?

穏やかな人柄で、河鍋暁斎と仲良しだったという小林永濯。穏やかな中にも、ヒトクセありげで興味ひかれる。小林永濯展を熱望します。

 

時間がなくて18室しか見られなかったけれど、満足でした。


●岡田美術館の常設

2016-12-22 | Art

「若冲と蕪村ー江戸時代の画家たち」2 (1の続き)

 

目録(クリックすると拡大)

入ると、大きな金屏風が並んでいるコーナー。

釘つけになったのが進藤尚郁「四季花鳥図屏風」 元文2年(1737。狩野常信の弟子。

美しく、澄んでいて、きらめいている印象に驚いた。葉も花も幹も翡翠も、生き生き瑞々しい。透明感を感じる江戸狩野派の屏風なんて他にあったかな。藍色の水の流れは勢いがあって、波が白と青のグラデーションも美しかった。梅と椿の織りなす一角もおしゃれというかセンスよく、たっぷりの余白が心地よくて。洋画のように彼の実感を追体験している気がするのに、はしばしに架空の世界であることも感じたり。

他の絵も見てみたいけれど、検索してもあまり出てこないのが残念。小樽のニシン御殿「貴賓館」の四季花鳥図がよさそう。(こちらの方の日記に

 

同じ狩野派の金屏風で別の意味で驚いたのが、狩野邦信 源氏物語図屏風」 江戸時代後期 19世紀前半。素人が描いたお人形みたいな顔。波もちょちょちょみたいな。適当な鴨。砂糖菓子みたいな梅。粉本主義っていうにしても。パーツばかりに目がいったけれど、構図はどうだったかしら?.狩野邦信は中橋狩野のひとり、法眼の地位に。小さな画像を検索した限りではほかの絵は立派なので、初期の作?もしかして深い意図が?。牧谿も宗達もきっちり描いていない絵も素敵だし??。思い出してみればかわいい鴨ではあった。

 

「菊図屏風」 尾形光琳 

花びらが立体的で、一本一本の存在が強かった。無数の菊は其一の朝顔図のように意思を持ってくねりつつ上へ斜めへ。


次の水墨のコーナー。

なんと、韓流ドラマの「イサン」が描いた絵が。葡萄図 正祖(李?) 朝鮮時代 18世紀後半。2011年にイサン作と知られたばかりとか。ブドウが画面を踊るように。バランスも絶妙に。実の陰影も葉の陰影も繊細。一つ枝を枯れさせていた。名君と称されている上に、絵もこんなに上手とは。

 

春画の部屋では、渓斎英泉はやはりcool。「十二ヶ月風俗画帖」 江戸時代後期 19世紀前半、今の感覚でも美人で、玉のような肌がうらやましい。髪や着物の鮮やかさとキレときたら。雪が舞う中に傘の裂け目から、っていう春画の構成も粋?。

葛飾北斎の春画は、波千鳥。こちらはほんのり紅くそまった肌。北斎は女性の感覚をわかっている気がするのが不思議。

 

北斎では、「秋から冬へ」の特集コーナーでも肉筆画が二点観られて嬉しい。

「雪中鴉図 」葛飾北斎 江戸時代 弘化4年(1847は、濃い雪雲のなか、孤高な感じのからす。まっ黒でなく、少しチャコール系だった。北斎では、夢見る瞳の鷹の絵もみたけれど、それと似ている印象。

「雁図」葛飾北斎 江戸時代 弘化4年(1847は、黒々した羽で見上げ、口を開ける雁。なにか形にならないものを求めているような。雁っぽくないというか、雁の新解釈。半ば紅葉したもみじが美しかった。写実っぽくもあり、不思議な情感。

86才の北斎のからすと雁。北斎の鳥って、気持ちがあるよう。北斎の独特の解釈。それとも自分を投影したものなのか、なにか心もちを抱いているようで、いつも心に残る。

 

「後赤壁図襖」 谷文晁 江戸時代後期 19世紀前半 蘇東坡の風景。鶴がいた。この襖絵を開いて入ることを想像したら、岩山の精の内部に足を踏み入れるようででどきどき。

 

「秋草に鶉図」 土佐光起  江戸時代前期 17世紀後半、ウズラに子ウズラもいた。菊までかわいらしい。土佐光起では「粟穂鶉図屏風」というとても素敵な屏風を見てみたいと思っていたので、同じく秋の情景にかわいい鶉というこちらに触れられてよかった。

 

近現代のコーナー

西郷孤月「群鷺」 明治時代後期 20世紀初頭

満ちる光とともに、白鷺も輝いているよう。観山や春草とともに出発した日本美術院仲間で、雅邦の娘婿。しかし、1年余で妻と離別、放蕩と放浪。春草はずっと気にかけていたという。孤月は何度か人生を立て直そうとしたけれど、すでに活躍する美術院仲間に水をあけられている現実。台湾で再起をかけるも、30半ばで病没。悲運の画家という言い方もあるようだけれど、それが自分の招いた悲運であるからなおさら、やるせなさが。非凡な才能が泣く。

 

菱田春草「松間の月」

どこまでも静かに月がてらしている。五浦の崖上から月を見上げ、砂浜を見下ろしていたのだろうか。二つの視線に、春草がここにいた姿がしんと浮かぶ。最後に海の波面を見ること、なんだか寂しい感じも広がってくる。

 

「晩秋」下村観山 大正~昭和時代初期 20世紀前半

見るたび好きな作品。観山の線がとても美しい。色もほんとうにいいなあと思う。一つ残った、鳥と同じ形のからすうりと、下から仲間にいれてほしいみたいに顔を出す一本の笹。なんだか観山の気持ちがやさしい。4羽は強い顔をしている。寒いけどがんばれ、みたいな。

 

木村武山「松に鶴図屏風」1927、木村武山の金屏風は今回も見とれた。

金に透ける鶴の淡さにうっとり。左の一羽の羽はまるで天使の羽みたい。しっかりした足取りの鶴は、満ち足りて前向きな顔していた。たっぷりの空間は、金地自体が内から光を放つようで、少し薄墨もひいてあったり、余白自体に入りたくなるほど。最小限に小鳥と竹。生命力ある松。これだけシンプルなのに奇をてらっている風もなく、武山の絵はどこか素直な感じ。

 

小茂田青樹「双鷺図」、先日の速水御舟展以来改めて見てみたと思っていたので、見られてよかった。宗達にも影響を受けたということ、ふわりとした感じはそうかもしれないと思った。

 

今回も時間がなく、三回めなのにいまだに五階の仏像の部屋のドアを開けられたことがない。お庭の散策や周辺の散歩もしたいし、次回こそは泊りで成川美術館にも足をのばしたいものです。

 


●岡田美術館「若冲と蕪村ー江戸時代の画家たち」

2016-12-21 | Art

岡田美術館「若冲と蕪村ー江戸時代の画家たち」 2016.9.5~12.18

 

若冲はもちろん、池大雅渡辺始興を見たくて箱根へ。

あまり時間がないので、今回は1,2階の青銅器と陶磁器は諦め、4階の企画展コーナーへ。

 解説に1716年(享保元年)という年について触れていた。尾形光琳が亡くなり、若冲と蕪村が生まれた年。それから少し遅れて、応挙、呉春、池大雅、長沢蘆雪、曽我蕭白と。江戸も面白いけれど、18世紀の京都はとりわけ面白い画家が乱舞した時代。

 

一章:若冲の世界

7点のうちほとんどは東京都美術館の若冲展で見ているはずなのに、覚えていなかったりする。

若冲「笠に鶏図」(40代後半?)

若冲の墨だけの作品は、見ると好きになる。極彩色の絵も濃密で詰まった感じがするけど、墨の絵も一瞬静止したみたいな緊迫感だった。若冲の動体視力はカミソリのごとき。それでいて顔がこれ^-^

超高速進化形コマみたいな笠の波動と、一本足で乗っている鶏の迫力に、鶏といっしょに目を見張ってしまう。

濃墨の尾は、意外に筆の速度が抑えてあるのはどうしてだろう。薄墨の上に濃墨と、二回ひく慎重さ。笠の超高速と鶏の目線に意識が凝縮されるように?。とか浅知恵でいろいろ考えて、時間がもったいなくも過ぎてしまった。

 

若冲「月に叭々鳥図」のびっくり目もすてき。

月の大きな円、叭々鳥の三角、紙の四角、仙厓の〇△□の禅画を思い出す。相国寺も禅寺でした。

勢いのまま一気に描き上げたように見えたけれど、解説を読むと、細かい技がかしこに仕込まれてある。

・月は微細な光を放っているけど、これは単なる外隈ではなく膨大な横線でシルエットを描き出している。

・尾にも無数の斜め線が引かれている。

・背中の八の字の模様は濃墨の上に胡粉を入れ、さらに薄墨で仕上げる。と。

簡潔に見える水墨にも若冲の緻密さが隠れていたとは。

それにしてもこの背中の模様の魔的な美しさときたら。闇夜の雲間にさす月光のよう。

深遠な感じ。気づけばタイトルにも月とありました。

 

若冲「三十六歌仙図屏風」1796 食べ物がいっぱい♪

お豆腐田楽がおいしそう。

凡河内躬恒と在原業平がお豆腐を切り、藤原元真と藤原兼輔が串にさす。中務はお味噌をすり(すり鉢が大きい!)、小野小町が焼く。背景にはお豆腐料理の流行があるらしい。

 源信明たちはおはぎを作っている。薄墨に濃墨のあんこ感がおいしそう。

他にもタコを担ぐ人、里芋を担ぐ人、シャボン玉で遊ぶ人、ヨーヨーで遊ぶ人(この時代からあったとは)、かくれんぼで琵琶に隠れる人(はみ出している)。伏見人形が歩いていたのもうれしかった。

若冲81才、やりたい放題。流行にも敏感。若冲がおじいさんになるって気がしない。

 

極彩色の絵もひとり占めで観られた。

 「花卉雄鶏図」、「梅花小禽図」は、動植綵絵に同じ取り合わせのものがあるけれど、こちらのほうはわりに余白を残してある。改めて動植綵絵のあのすさまじい密度はなんなのだろうと思う。

 「雪中雄鶏図」(40代後半)

解説では、雪面についているの足の爪にだけ胡粉を重ね、雪がかすかに載る様子を表しているとか。言われても肉眼では判別できない。

映画のヒーローみたいに、なめるようにゆっくり登場する鶏。動体視力もすごいのだけれど、逆に数秒を超スロー再生みたいに描き出す時間感覚もすごい。。

 

極彩色の目玉は、今年83年ぶりに再発見されたという「孔雀鳳凰図」だったのに、一点だけ陶磁器の階に展示してあったため、後で観ようと思って忘れて帰ってしまった(涙)。

 

二章:光琳から応挙へ

江戸中期は、「旧風革新の時代」とあった。

目当ての渡辺始興(16831755)「松竹梅群鶴図屏風」江戸時代中期、18世紀後半

解説の要約:狩野派に学び、光琳に倣う。近衛家熈が絶賛した狩野尚信風の筆墨と、家熈好みの写実の融合。

おそらく晩年の作。

マナ鶴、丹頂鶴、ナベ鶴と三種。羽の墨が見とれるほど。とりわけ着陸しそうなナベ鶴の三段階の黒がきれいで。白い羽の部分は透けるよう。

タケノコの皮が実物そっくり!。根津美術館の応挙のタケノコもそっくりだけど、応挙は始興に影響を受けたそうなので、タケノコには気合入ったのかな。下村観山の絶筆もタケノコだったけど、巨匠はタケノコにひかれるのか?。

渡辺始興では別階に「渓上遊亀図」  江戸時代中期 18世紀もお気に入り。(例によって下手なメモ)

水墨だけど、竹林を淡い光がすり抜けて、渓流の水面がわずかに照らされていた。二匹の亀が岩の上で甲羅干ししていて、空気があったかくて。でもさすがは始興、亀の顔はきっちりは虫類だった。

なかなか見る機会がない始興だけれど、今年はいい絵に出会えてよかった。

 

尾形光琳(16581716)「雪松群禽図屏風」18世初頭

始興がリスペクトする光琳のこの絵も、飛んできたばかりの雁がいる。二本の絡まる松が妙な奥行き感を出していて、どこかなまめかしいのも其一を思い出す。光琳の雁もかなりな写実ぶりでした。

 

この流れを受けて、円山応挙17331795)が10点。

応挙「南天目白図」1792、目白の目力ばっちり。三羽の動きがとってもかわいい。一羽の見返りぐあいが最高。また見たい一枚。

応挙「立雛図」18世紀後半、男雛も女雛も何とも悠久な感じのお顔。先日の七難七福図でもそうだけど、応挙は人間でも動物でも顔をよくとらえているなあと思う。袴の模様など本物みたいに緻密、色も美しく豪華。三井家のためのものなのかな。

 

「三美人図」応挙と弟子の源琦との合作。左右を源琦、真ん中を応挙が描く。

応挙

帯や着物の細密ぶりと彩色の鮮やかさに驚いた。布の質感まで描き分けていた。島原の遊女ヒエラルキーTOPの太夫、りんと高雅。

源琦は、良家の奥様と、若い娘。

応挙と区別つかないほど。弟子の鑑だ。着物の質感も応挙にひけをとらないほど。娘の着物のグラフィック感に見とれ、奥様の上品な着物に合わせる帯が龍模様なのに驚き。

三人三様の特徴をとらえている表情が興味深かった。それにしても太夫の美しい存在感。

 

応挙「群犬図」1773は父犬と母犬と10匹の子犬がころんころんしていた。母犬がまっ白いところが「百万回生きた猫」みたい。優しそうなお父さん犬だった。

犬では、「子犬に蕨図」も蕨の脱力感がよくて、「子犬に綿図」は綿にまけじと丁寧に犬のもふもふ感

一本の木に黄色い花から実がはじけて綿になるまでの50日余を描いていて、茶色犬ももののあはれを感じていた。

応挙は冷静だけど、情感豊かでやさしくて、少しだけ寂しい気持ちも抱き合わせていたおじさんのような気がしてきた。

 

三章は与謝蕪村(17161784)と文人画

これも大変見ごたえあり。この時代の京都の人気絵師が勢ぞろいしていた。

文人画の極意?とは。解説に、詩書画一致、脱俗、自敵意(意にかなう)、写意の系譜と。ビギナーなのでこれは胸に入れて。

 与謝蕪村「桃林結義図」1771

蕪村にこんなにハートフルな顔の作があるとは。桃とスモモの木の下に、劉備、関羽と張飛。三人が義兄弟の契りを交わす場面。嬉しさ満開の張飛の顔がかわいくて。

大鉢の中は桃のコンポートかなとか。蕪村はもっと簡素な文人画のイメージだったので、これは楽しい。

 

与謝蕪村「飲中八仙画帳」1776 酔っぱらってる8人の仙人のアルバム。

 

李白なんか、この有りさま。山田五郎さんの言葉を借りれば「ダメになっちゃってる」おじさん感が愛らしい。

 

岩の書き分けも様々。中にはアバンギャルドなのも。小さな画帳でも文人画の岩は生き物みたい。

絵もいいけれど、横に合わせた松下烏石(16691779)の書にも見惚れた。篆書、行書、草書、隷書、楷書と。中林梧竹の書を初めて見たときはミロみたいなリズムに衝撃を受けて大ファンになったけれど、この書たちも、文字として絵を補完しながらも、絵のような表現力。書のかもしだす世界に久しぶりに打たれた。

一文字一文字みても臨書したくなるほど。とりわけ、この最後の文字、困った顔みたいな篆書体の「眠」はかわいい。

眼花落井水底眠(まなこくらみ、井戸に落ちて、水底に眠る)という一文。身に覚えが(._.)

 与謝蕪村「渓屋訪友図」も見ていると、文人の「脱俗」って脱ストレスになれるんだなあと思う。先日千葉市で見た浦上玉堂は、脱藩して脱俗していたんだなあ。

 

池大雅も三点。

池大雅の「関帝像」。大雅は自由自在、筆が生き物のようにくねって、さえぎるものなく池大雅のリズム。着物の模様にも龍が見え隠れしていた。

大雅はんてほんと面白い。端午の節句に頼まれたものらしく、菖蒲とヨモギの葉が描かれていた。

 池大雅「終南山図」は、全体にふっくらとして印象に残った。深い山もどこかあたたかかく、雲ごこち。

 

柳沢淇園17031758)の「彩竹図」

この色使い。素人じゃない感じの男性?いや女性?と。男性ならなんだかちょいワルおやじそうな匂い。大胆なのに小さな葉も描き込まれていて細やかなのも。遊びを尽くしたものだけがわかるような。余裕と自信がないと描けなさそう。

と思ったら、側用人柳沢吉保の大老の次男。絵も学問もエリート教育、身分にも才能にも恵まれた。奔放放蕩な人生だけど、意外と骨太なところもあるそう。

「桃に小禽図」は桃が少し毒々しかった。ウィキに出ている「花卉図」も相当。

オランダ絵画みたい。これを着物にしたら着こなせるのは相当の女性じゃないと無理そうだけど、こう描くのも相当の男じゃないと。

柳沢淇園は池大雅の師。池大雅の才能を見出したのは淇園だった納得。

 

 4章は芦雪と蕭白

蘆雪の「群犬図」は、一人だけちょっと親犬から離れて振り返る子が気にかかる。

 

蘆雪「牡丹花肖柏図屏風」(左隻)、いつも牛に乗って出かけた肖柏という連歌師。号が牡丹花。牛は後ろ向きに乗られるわ、頭に牡丹つけられるわ(..)。

ここまでゆるくなれる蘆雪に尊敬と羨望。なのにダイナミックな滝の流れと岩の強い筆致。大胆不敵なやつ。

蘆雪はほかのもひとくせある作品だった。「鯰図」は、ぬるりと大きい奇想に驚く。魚を超えて、池のぬし化していた。

「蓬莱山・双鶴図」は、おめでたい絵なのに、鶴が舞い降りたら妙に現実感。「清流翡翠図」は、くどくどしい朱の足が印象的。「牡丹孔雀図」もどこか奇妙。繊細すぎる牡丹が現代画か長谷川潔っぽい。

あまり見たことがないけれど、蘆雪にどっぷり浸るのも面白そう。今年は師匠の応挙展があったので、来年は蘆雪展も続くといいな。

 

蕭白も「山水図」「鬼退治図屏風」と凄みのある絵だった。。


江戸時代の京の絵師たちは、個性的。ちょっとかわりもん。輝きを放つ男っぷりでした。

 


●日展 平成28年

2016-12-03 | Art

日展 新国立美術館  2016.10.28 ~12.4

 

先日行ってきました。今年もいくつか好きな絵に出会えたので、備忘録を少し。(平日は申込書に記名すれば写真可です。)

 

「野仏図」伊東正次

羅漢なんでしょうか?耳をふさいでいる野仏は、どことなく困ってるみたいでかわいい。光がさし、黄色い蝶に気付いた。踏みしだく枯葉の山道に、通り過ぎた人の気配。野仏も判別しがたいくらい木々に溶け込んで、彼ら自身がいつか通り過ぎた人のような気がしてきた。

仏様の世界と、人の歩く世界が別のものではなくて、ふとチューニングを合わせれば、交錯することができるのかもしれない。蝶はどちらの世界に住んでいるのだろう?いったりきたりしているのかも。

じっと見ると、ひたすら描き続けたような鉛筆?の線が、無数に画面を埋めているのに驚いた。底なし沼に沈み込みそうなほどの線。どれだけの時間、鉛筆を動かし続たのだろう。

大きな絵なので上のほうの野仏さまがよく見えなかったのが残念。脚立貸してくれないかな(無理か)。もういちど見たい絵。

 

 

「遠い遠い近く」加藤晋 

こんなに農村で育ったわけではないけれど、子供のころはこんな中で生きていた。手前には遠く隔たってしまった時間のような湖があり、でもちゃんとあの家への道がついている。

重なる山々が夢のように美しくて、どこか朴とつに描かれた森の木々にじんわりしていたら、

こっそりいろいろなものが忍ばせてある!。龍、とら。そしてわからないくらい小さく、天狗だったり青鬼、赤鬼、うさぎ、いぬ・・ネタバレになったらいけないのかな。でも点みたいなひよこちゃんなんか見つけたときは本当にうれしかった。

楽しい時間でした。これもまた見たい絵。

 

 

「雪餘」土屋礼一 

墨絵の突然の出現に驚きました。木の精気が闇の中で内から放っているような。この気に打たれてみたいと思った。雪をまとった人の肢体のようにも見えてくる。暗闇に目が慣れると、朱や緑のかすかな色を放っていた。この木の奥に広がる闇が深くて、でも怖い感じじゃなく、濁っていなくて。奥へ奥へどこまでも深くて美しいです。

これは他の絵もみたいなと思いましたら、画像で見る限りですが、浄龍寺という禅寺の襖絵が素晴らしそう。この方が描く龍図を見てみたい。

 

ほかにもひかれる絵、参考にさせていただきたい色や書き方の絵などたくさん。

「畏怖」山内登喜雄、尾が重量感ある孔雀。若冲も応挙も岡本秋きも孔雀に神秘や生命を見る。この絵は、尾がざらついた岩肌のようで、宇宙のように感じたのはなぜか?。火星の表面のようだったからかな。

 

雪花の森」稲田亜希 一見ファンタジックな絵のに、木の幹の荒く強い筆致に見とれた。日本画の魅力のひとつは私にとっては筆致だと改めて思った。そこに散る真っ白な雪の花はパタン化されていて、素敵だった。

 

「善悪の交錯」谷川将樹 せめぎあう感情が爆発するよう。狼の間に人の手が。特に狼の眼は内なる慟哭のようで、通り過ぎることができなくなった。

 

「風音」森美樹 枯れたものがこんなふうにひょうひょうとしている絵、好きだな。昔の日本画や水墨は余白に入り込めるのが魅力なんだけど、今頃の多くの日本画はしっかり描き込んでいて余白がないのが寂しい(涙)。でもこの方の絵は余白が多くて、しんとした耳に風の音が聞こえそうだった。

 

「朝ー大坪の里」高増暁子 ホルスタイン♪。のどかでちょっとシュールで。千葉でカフェと美術館とを併設されているようなので、いつか行かなくては。

 

「朝の始まり」東俊行 ト音記号みたいにそかすかな動き。そっと目を覚ましていく波動のような。

 

「Demeter and Kore」藤島大千 美しい二人。娘は無垢な瞳、母はこれから来るできごとを予感しているかのような陰のある瞳。手や足の線描が仏画みたいに美しくて、見惚れること。筆ネイティブ。

 

きりがないので、この辺で。

毎年見ていると、今年はあの方はどんな作品を出されているのかなと楽しみにもなります。また、初めて知る方の絵になんの先入観もなく出会えるのが、うれしい。

今年は時間がなく日本画しか見られなかったけれど、工芸も感嘆する作品が多いので、来年に。