邨田丹陵‐時代を描いたやまと絵師
たましん美術館 2024.1.13~3.31
20年ぶりくらいに立川へ行ってきました。
伊勢丹と高島屋SCがあって、カフェなんかが並ぶ遊歩道みたいなのがはるか遠くまで伸びていて、おしゃれに変貌していました。
そういえば、再開発が終わったのですね。
邨田丹陵展の評判がたいへん良いので、はるばる来たのです。
邨田丹陵( 1872年 - 1940年 )の名前を聞いてもピンとこなかったのですが、日本史の資料集で見た大政奉還を描いたのがこの方だそう。
大政奉還(1935年)
個人的には、香川の金刀比羅宮の「富士二之間 「巻狩図」」を描いた方だというのに、現地まで行って見ておきながら、なんとうかつな。そもそもこの二作が同じ画家だったとは。
この襖絵を見たのは覚えているのですが、室内には入れず遠目だったのと、若冲の奥書院の特別公開と
応挙のトラが目当てだったため、邨田丹陵の名前は全く記憶にありませんでした。
応挙のトラが目当てだったため、邨田丹陵の名前は全く記憶にありませんでした。
しかし今回、丹陵の絵を間近で拝見したことで、これは金刀比羅宮の馬と武者も近くでじっくり見たいと思いました。
丹陵の描く人物の目力、そして人だけでなく馬までも、表情と目力が際立っていたからです。
「両雄会湖畔図」明治27年
これはさぞ金毘羅宮の武者も馬も、おそらく鹿も、顔はみものだったでしょう。
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邨田丹陵 (1872年 - 1940年 )は、旧田安家に仕えた儒学者・村田直景の子として生まれ、父から史学や故実を学ぶ。
父の勧めで、川辺御楯に弟子入り、10代から歴史画で受賞を重ねる。
1901年、寺崎鉱業や小堀鞆音と日本青年絵画協会を結成し、日本美術院にも特別賛助員として参加。
関東大震災を機に、現在の立川市砂川町に転居。
1904年、日露戦争の戦地に赴き、戦地や兵士などを描写。
日本美術院が中心になり政治的な駆け引きの場になった展覧会から距離を置き、
1907年の文展を最後に、出品をしなくなる。
以降は質素な暮らしの中で、気の向くままに筆を揮った。
30代半ばでの引退の結果、その名が長く忘れられることとなり、丹陵の画業や生涯の研究は皆無となった。
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早くに展覧会出品を取りやめたせいか、今回の展示作も、多くは個人蔵の掛け軸でした。
賞のつく展覧会への大型作品ではないからか、ギラギラした感じや挑戦的な感じではないのが、なんとなく感じ取れました。
どんな場面も、仰々しすぎない。しかしその範疇で最大限に緊迫感や迫力がこもっている。
線は走りすぎず乱れさせず、しかし伸びやかにハリをもって、色は赤や緑、青などの鮮やかな色を多すぎず効果的に。
端正なのです。
そして、自分の思う美、歴史上の人物や場面の解釈を、自分のペースで描いている、という感じがしました。
例えば、巴御前。騎馬姿で描かれることが多いのですが、このように弓を張り、戦さ支度をする場面は珍しいのだそうです。
弦を咥えるくちもと、弦を張る腕には力がこもり、たいへんな強さと気迫を感じます。
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そして、掛け軸の縦の画面の使い方も、無理なく、配置があっさり、しかも絶妙。
雲上鍾馗図(1901年) は上半分に鍾馗が浮かんでいて、下は何も描かれず、鍾馗の足はふわっと霞に消えている。でも口元はきっと下唇をかみしめていて、悪を寄せつけない強い眼と、ギャップがユニークな鍾馗でした。
犬追物図では、背景が描かれないのに、小さな画面にあの緊迫と動き。無駄な線は一本もなく、少ない色で最大の効果を生んでいるということなのでしょうか。
犬の顔と馬の毛並みの柔らかさも印象邸でした。歴史画なのに、細部が大変写実的なので見ごたえがあります。
鎮西八郎為朝の掛け軸も見ものでした。流された伊豆大島でも大島を占領してしまい、追討軍の船に弓矢を構える場面です。
砂浜に立つ為朝ははだしで、構える弓は無骨な木の枝そのままに弦を張ったものです。海風を受けて髭と蓬髪がなびき、為朝の荒々しさが伝わりました。
その為朝ひとりを浜辺に立たせるのでなくて、為朝の手前に、為朝の見る方向と逆向きの斜めに幹がたわむ松を一本描いている。しっかり力強く根付いた松のパワーもクロスして、たった一人戦う為朝はより力強く感じられました。
外隈で表された波も見事でした。
この二作の時はまだ20~30歳ごろなのですが、線は緩みなく、この若さですでに完成しているレベルなので感服します。
金刀比羅宮の襖絵を手掛けたときも、まだ30歳の若さだったのですね!
迫力だけでなく、情景が余情をのこすのも印象的でした。
雪月花(1906年)
梅の枝を手に、その梅の木を振り返る菅原道真。足跡もついていたりします。
月の薄闇の中の道真の心情を考えてしまうのです。もしかしたら、雪の落ちる音に何かを思い出したのかもしれないし、ふと梅の木の気配に後ろ髪をひかれたのかもしれない。
雪と梅の木の描き方も印象的でした。線ではなく、外隈でかたどり、胡粉を重ねて、たいへん丁寧に描かれていました。
丹陵は、描いたものはどれもたいへん丁寧に手掛けているのです。愛ですね。
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彩色だけでなく、丹陵の墨だけの作品も印象的でした。
月夜望嶽(1897年)は、夜に月の微かな光で富士山が浮かび上がっています。森の墨の濃淡、霞みのぼかしがたいへんきれいでした。
日月松竹図(1907年)は、松と竹の二幅対。薄墨濃墨の重なりがたいへんきれいで、速い筆致だけども、激しすぎず、乱さず。気負いがないのが見ていて心地よいのです。差し上げる方のために、さらさらと描いたような。
丹陵、高橋松亭、今村輿宗の青年協会の3人で、浦島太郎、塩土老翁、竹内宿祢を合作した墨だけの作品がありました。席画のようですが、落款がないとわからないくらい、三人の線が似てて、彼らレベルになると皆で線をあわせることもお手のものなのでしょうか。
金毘羅さんにも墨で富士を描いた襖絵がありますが、雑味のない墨色と延びる稜線、雲の静かさに、心洗われるよう。(展示作ではありません。画像は金毘羅さんのHPから。)
富士一之間 「富士山図」
丹陵と金毘羅さんの関係が気になるところですが、1901年、高松市の有力者から請われて、高松を訪れたそうです。
丹陵の絵でもよく画題とされている、源平の古戦場を廻り、中国地方の古戦場にも足を延ばしました。
翌年再び、香川を訪れ、金刀比羅さんの襖絵を描きました。
私が水墨で最も気に入ったのは、ひょうたんの小さな作品です。
酒瓢(1909年)
宿で即興で描いたのではとのこと。水分たっぷりの筆で、くるくると一筆書きのように弧を取っています。
描くのがとても楽しそう。
興が乗っても、やっぱりこの乱れのない、完璧な弧の美しさ。
そして最後、紐のリボン結びは、とてもかわいらしく書きあがっています。
そう、絵を通して思うのですが、丹陵という方の絵は、完璧だとクールで事務的になりがちなところが全然そうではなく、どことなくやさしさがあって、温かみがあるのです。
描くものに、気持ちがかよっているというか。
描く対象に対する愛情ゆえなのでしょうか。
春暁和色の梅の木の幹も枝も、輪郭をつけず、淡墨と淡彩を重ねつつ、細かくとんとんと大事に描き進めていく感じ。木の体温を感じるような。淡い感じが、この日の空気感を伝えてきました。
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愛情は写生から生まれるのか、愛があるから写生をするのか?。
丹陵は富士山が好きで、生涯で一万点描いたと言っていたそうですが、富士も土佐派的な細かな筆致ですが、山も漁村の様子も写し取っています。
丹陵が何を見ていたのか、実感を感じる気がしました。
富士山1936年
伊東に滞在し、写生に明け暮れたそうです。
丹陵の画に実感と体温が感じられるのは、その写実にあるのかもしれません。
滝の絵がありましたが、その水煙としぶきの様は、相当に見尽くして、その動きをとらえたのだと伝わります。それをまた、丁寧に再現している。
蓬莱山を描いた絵でも、波の様子が写実的で、伝説ではなく、どこか実際に見ているような気になりました。
丹陵が波や水の様にたいへん惹かれていたのかなと想像します。
父譲りか、丹陵が絵を、父が賛を書いた作品もありました。父の字ものびやかで張りがあり、乱れず落ち着きがある。儒学者っていっても、堅苦しさもなく、偉そうな感じもしない。
そこは丹陵にうけつがれているようです。
義兄の寺崎廣業が右隻にリンドウを、丹陵が左隻に牡丹を描いた屏風も、たいへん心に残っています。
胡粉の花びらの端のシルエットだけで描いた白い牡丹の花は、神秘的なほどで、におい立つように美しかったです。
これが、画家の「精神性」ってものが現れているということなのでしょうか。
菊づくりにも打ち込んだ、丹陵の晩年の言葉が、深く心にしみました。
菊を作り
(ココ忘れてしまった…)をながめ
叢に虫を聞きつつ
しずかに絵筆をとるとき
わしは自分独りで
幸福なんだと思ってゐる
(昭和10年)
私も日本が大好きです。
>素敵なところですね。... への返信
すみません。「日本が」は「日本画」の
間違いでした。
コメントありがとうございます^^。
私も歳に連れ、どんどん好きになっていってます。