はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●アートフロントギャラリー「浅見貴子 特別展」、「常設作家 新作展」

2018-06-09 | Art

「浅見貴子 特別展」、「常設作家 新作展」アートフロントギャラリー

2018年6月1日(金) – 6月10日(日)

 
先日の日経日本画大賞展で惹かれた(日記)、浅見貴子さんの作品を見たくて、代官山のヒルサイドテラスへ。
この日はその前に青山スパイラルに行っていたので、偶然にも槇文彦先生の建築が続きました。
 
浅見さんの作品は、5点。
大賞の「影向図」は2015年の作品でしたが、それより前の作品が4点と、2016年の作品が1点。(写真は許可をいただけました)
 
「山椒の木」2016
 
この作品も紙の裏から筆を押しあてて、動かして描いたよう。
葉っぱ越しに、ぱあっときらめく光の粒、木漏れ日、葉っぱのきらめき、枝と葉に水分がいきわたる時のみずみずしさ、そういうものを感じていました。
 
ひとしきり時間を過ごした後でふわ~と広がる、よろこびのような感情。上手く言えないけれど、うれしくもあり、濁りが取れたような安心感もあり。
あまりにきれいで、なぜか喜ばしい気持ちになる。
 
 
ここから年代をさかのぼって、木の作品が続く。
 
「松図1401」2014  2m×2mの大きな作品
 
大きな木の中に入る感じ。先程の山椒と比べると、たしかに松の木。
木が生きているのが見える感じ。松の硬くて、エネルギッシュな。
 
 
 
「樹木図6」2007 
 
下から見上げる位置にいるんだろうか。裏から濃さの違う墨で描き、表から胡粉と墨で描き、複雑に何段階にも重なっている。茂る葉、重なり、無数の枝の線。
 
この作品から「影向図」まで10年(!)、「影向図」はずいぶんシンプルな描き方になっていたのだ。10年、この墨の手法を続けてこられたのだなあと思う。大賞展の図録の推薦文に「磨き上げられ、研ぎ澄ましてきた」とあった。浅見さん自身も余白の取り方を工夫したとおっしゃっていた。
 
この先、墨の木の作品を、浅見さんはどんなふうに描かれるんだろう。少しずつ変わっていくのかな。来年もまたどこかで拝見したいもの。
 
 
木の作品以前の作品も、とても心に残る作品だった。
木の作品も、"目にはさやかに見えねども、風の音にぞ”感じるような作品だったけれども、それよりさらに10年前の作品も、具象を描くことなく、それを表したような。
 
「深閑」1994  
 
夢かうつつかのようなたらしこみに、銀箔が流れるように。
 
月の夜空をみるような。銀河を見るような。むしろブラックホールかもしれない。
いえ、何万光年も先の惑星の表面のような。水の痕跡が見える。ような、ばっかりだけど。
 
深淵ななにか。夜の闇のここちよさ。無意識の遠い記憶に刻まれているのかも?。どこかに「還る」のだとしたら、その還るべき場所のような。(還るなんて言葉が浮かび、ちょっと書くのがはずかしくなる。)
 
木の作品もそうだったけれど、なんだかやっぱり安らぐ感じ。
 
「精Ⅲ」1998
 
胎内のような?。放出される生命のもと。水中のようでもあり、なにかの生命の根源的なものような。
 
目に見えないどころか、意識にも把握することのできない、体内の誕
生レベルからの記憶の痕跡に触れたような。
 
画風は違うけれども、木の作品にずっとつながっているような感じも。
 
 
このギャラリー全体が深淵な空間でした。
時々見たい、ふと見たくなる絵。影向図もそうでしたが、見て最後にはなんだか心が整うというか、ああ見に来てよかったと思う。