はなナ

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●「加藤晋 日本画展~昔も今も~」藤屋画廊

2018-04-15 | Art
「加藤晋 日本画展~昔も今も~」
 藤屋画廊 2018年4月3日~14日
 
昨日で会期が終わってしまったのですが、先日拝見してきました。
大好きな絵で、日展などで多くの作品を見た後でも、途中や帰る前にはもう一度見に戻ってしまう。個展を待ちわびていました。
この日は、加藤先生が在廊されていらっしゃって、とても緊張したのですが、お話しを伺うことができて嬉しい出来事でした
 
 
日春展出品の「昔の約束」に再会でき、ナゾが解明されました(喜)!
 
この風景はどこなのだろう?と気になっていたこともうかがうことができました。
三蔵法師一行や動物や龍たち以外にも、もっとなにかいる気がするとあやしんではおりましたが、聞いてびっくり、そんなたくさん隠れていたとは!。
そしてあの肩を落とした青い服の子は、浦島太郎ではなくて(恥)、白蛇伝の許仙だったのです。(1958年の東映アニメ。もの知らずで恥ずかしいですが、雨月物語と清姫の純愛版のようなお話なのですね。youtubeで少し見ると、背景までとてもきれいな絵でした。しかも原画を、日本画の絵具で描いている!)
 
 
 
「こちらの向こう側」の絵で正体を表しちゃった嫁狐の、その後も知ることができました。
「花の宴」
 
夢のように、または狐のくせに自分が憑かれたように、踊っている。その顔が雲中菩薩かなにかのようで。
杉の板の木目は不思議な気を漂わせて、狐たちはどこか向こう側の世界にいる感じ。
 
 
 
加藤先生の大きな風景の絵の中から、外に出てきたようなものたちが他にもいました。
 
風神雷神もいましたよ。
でもこの二人のタイトルは、「風雷坊」でした。
 
まだローティーンな男の子たち。
風神は、袋を制御しきれず悪戦苦闘。雷神の打ち鳴らすイナビカリは、出てはいるけど、イマイチ迫力に欠ける感じ。
今までに見てきた風神雷神図は、あれは熟達したキャリア神だったのですね。
まだ不完全なものたちの一生懸命さ。彼らにはまだ、宗達や其一たちの風神雷神が背負ってくるバックの暗雲がない。
丸腰な感じ。たとえ暗雲があっても情けない雲だったりしそう。
そのかわりに、二人はなにかで結ばれている。
いつか一人前の風神雷神に成長したら、きみたちも雲を背負うのかな。
 
 
 
「空 大地と共に」と、「大地 空と共に」は、気になって心に残る二作。
 
 
 
馬は、ほんとうに邪気がなくてやさしい顔をしていた。板の木目が砂丘のようで、空も大地もその境も、汚れない感じでとてもきれい。でもどこでもないような思い出のような、不思議なところ。
このタイトルの違いが不思議で、「空 大地と共に」では馬の耳になったつもりで空に耳を澄ませてみたり、「大地 空と共に」では馬の足になったつもりで大地を踏んでみたり。とかしてしまった。
 
 
 
大きな桜にも、こっそりいろいろなものたちがくつろいでいるとは。小鬼たちにも再会、かわいいなあ
 
 
桜の花びらも、風景の絵に遠く感じるのと重なるような色合いでした。思い返してみれば多くの桜の画はとてもはかない感じで、とめたくてもとどめようもない寂しさすらよぎりますが、この桜の世界は、それを超えて、とどまっているというか普遍的な感じがしたり。現実と向こう側の世界が同じ世界にあるような。小鬼たちはこの世界に住んでいるようだし。お話しをお聞きした桜の花の裏側のついて気になっているのですが、来年の桜の季節に見てみようと思っています。
 
 
桜の絵のもう一作には、花さかじいさんのポチがいましたよ。
「花陰」
 
 
そのやさしい顔がなんとも・・涙。おじいさんはいないのかな?と捜したけれど、ポチの視線の先に、こうやって会いに来るのがおじいさんの場所なんでしょうか。大事な人やペットを亡くした人が見たら泣いてしまうかもしれない。 
 
 
どうして、いろいろなものたちをこっそり小さく描かかれるのか、気付かないものもあるのでもったいないのではと、素人のたわごとで伺ってみました。
そうすると、気付かなくてもいいかな、というようなことをおっしゃっておられました。
 
そんな謙虚な(!)。音楽でも絵でもほとんどのアーティストは、私の世界を見てくれ、私を理解してくれ、みたいなイメージでしたから。
 
入っていける絵、とおっしゃっていました。
「花鳥の夢」で、狩野松栄が、狩野永徳の絵を見て、上手いが見る者が入るところがないというようなことを言っていたのを思い出したり。
改めてこれまで拝見した作品の日記から画像を見返してみると、こんなに広く深く入ることのできる空間が絵の中に広がっていたのかと思う。空間的にも時間軸としても吸い込まれそうなくらい果てなく広い。
 
加藤先生の絵には、本当に遊びにいける感じ。出入り自由というか。
観光地のようにさあさあどうぞっていう感じではなくて、静かにそこにある場所、みたいな。旅のようでもある。
入ってまた出てくる。
その時には、なにやら充足感に満たされている。
 川端康成が色紙に書いていた、ドイツのシュピタール門に刻まれていたという言葉、「歩み入るものにやすらぎを。去りゆく人に幸せを。」を思い出しました。
 
 
そしてそこにいるものたち全部は気づけてないかもしれないけど、
見つける喜びを残してくれている。
発見したときの嬉しさ。最初の一回は一度しかないので、
見つける喜びを奪わない
 
この棚(!)
 
 
小さな作品が展示されていました。丸いかたちの木に描かれた、つばめ、馬、トナカイ、シロクマ・・
 
後ろにもっとあるとのこと。
 
えええ、なぜそんな誰も気づかないところに!
お聞きしたら、少し棚のスペース空けといたほうがいいかなと思ってというようなお答えでしたが、またそんなもったいない(!)
 
触ってもいいですよとおっしゃっていただけたので、ずうずうしく後ろのも全部見て来ましたよ。
 
おおお、あじさいの後ろには、はりねずみがこっそり隠れている
 
 
月見うさぎもいた。かわいい!!
 
山のふもとの子牛もまったり!かわいいなあ
 
 
そして猿。ぶら下がるの、すわってるの、歩いてるのはいたけど、飛ぶ猿は珍しいかも。
しかも富士をひとっ飛び。
 
 
楽しかった~。まさに見つける喜びでした。しかも出てくるのが、どれもほっこりして、見るごとに固まってた気持ちがほぐれていく感じ。
 
以前の日記で、加藤晋先生ワールドに遊びにいく、と書いたけれども、
この画廊のお部屋自体が、遊びに行く、中にはいる、という感じでした。 
 
しかも、帰りのエレベーターにも、きつねが。行きは人が立っていて気付かなかったのです。
 
 
この狐の手や顔を見ていると、また戻って、ポチと鬼とサルと馬ともう一巡りしてきたくなりましたが、恥ずかしいので断念しました。
 
もう次回作に描く場所も見つけてあるとおっしゃっていました。
わくわく。
 
とてもよき日になりました。