1狩野派の続きです。
二室は民間画壇の花鳥画。18世紀以降の作品が並びます。
江戸時代も後半、経済力のある町人の台頭。博物学・園芸学・本草学なども盛んになり、花鳥画が豊熟する土壌もたっぷり。沈南蘋が伝えた花鳥画は、宋紫石らによって南蘋派として広まり、江戸では抱一や其一による江戸琳派も盛んになる時期。
以下、備忘録です。
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前半には南蘋派。
華やかでありつつ、一部不気味な花鳥ワールド。
なぜ不気味と思うのか?。捕食シーンがあるなのからだ。正直言って自然界のそれが苦手。以前に見た、蟄居中の渡辺崋山が描いたその捕食シーンは、やがて自害を迎える自分の心情を吐露したものかと思っていたけれど、彼だけが特別ではないのかもしれない。この会場の鳥や猫たちが、今まさに捕食中であったり、贄を狙っていたり。まんじりとそのシーンを描くのは、南蘋画の特徴なのか?自然観?か。花鳥のリアル。
さて、民間画壇では、やはり南蘋派の作品はみものぞろい。ざっくり経脈図であらわすとこのようになる。(Wikipediaに勝手に足したり引いたりしたもの)
展示の始まりは、諸葛監(1717~1790)の二点から。この人、日本人だったのか。しかも長崎に遊学したこともなく、江戸で中国画を買い集めて研究し、勝手に中国風の号を名乗って画を売り出す。多くの門人がいたそうだけど、変わり者ではあったらしい。
「ケシに鶏図」は、妖しいケシの影で、今まさに鶏がバッタ?を捉える。はらりと落ちた花びらは、その瞬間に絶たれた命の代弁なのか。映画の演出のような仕掛けに、無常な余韻が残ってしまう。
物陰で行われる犯行は、淡々と描かれる。
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解説の冒頭のキャプションは、「静かなる捕食」(←この展覧会では、各作品に一言だけキャプションがついている。これが言い得て妙で軽妙で、見るのが楽しみだった)。諸葛監のもう一点の「白梅二鳥図」(キャプションは「クセがすごい!」)に比べ、濃厚さをやわらげ、すっきりとした江戸の気質になじみやすくして仕上げている、とあったけれども、私的には不気味さが濃厚になっているように見えてしまった。葉も花もシュールだ。花びらや羽には、細い線がびっしりと入れられており、細密だった。こういう細かい限界に挑戦したくなるのも、日本人が南蘋派にひかれる所以かもしれない。
宋 紫石(1715~1786 )、その名前はよく見るのに、実物は多分初めて。昨年、実践女子大学香雪美術館で見た「江戸の文人画大集合」で、佐藤一斎の所蔵品の「宋紫石画譜」1765を見たことがある。この画の中にはゴーヤがあったのだけど、第一室で見たゴーヤの流行と合点がいく。
「牡丹小禽図」18世紀
こちらは諸葛監に比べ、毒々しくない。あっさり、匂いたつようにしっとり。
花びらは細密、しっとりなめらか。マイセンの薔薇みたい。マイセン自体がチャイナから影響を受けたのだから似ていて当然なのかな。
紫石は、長崎で沈南蘋の唯一の弟子である熊斐に直接学んだ。平賀源内の「物類品しつ」の挿絵を手掛け、大名家にも人気。酒井抱一の兄の藩主には御用絵師として重用され、松前藩家老の蠣崎波響は弟子入りした。
「鎖国後の長崎展」があるといいなあ。
紫石の息子、宋紫山「鯉図」も細密。生々しい迫力。うろこがぞわっとするほど。
魚の皮の張りや触感までも見て取れる。身がしまって煮つけにしたらさぞおいしそ...。鯉は立身出世を願って描かれる。
キャプションは「ぎょろり、ぬるり、ぎらり」。そのまんま!。
北山寒巌(1767~1801)「花鳥図」1800 ここまで濃い絵が続く中、水墨にほっと一息つける。
でも決して静かな世界でない。画自体の動き、この線。二羽の交わす鳴き声が聞こえそう。授帯鳥とか。
谷文晁の師というか同志というか。寒巌の祖先は、明末期に長崎に渡ってきた明人。父で浅草明神の宮司であった父に画を学び、浙派を参照したというのもひかれる。さらに蘭学者と交流して、ヴァンダイクならぬ「汎泥亀」と名乗って洋画も描く。かなり面白そうな人物なのに、35歳で亡くなってしまったとは惜しいこと。またどこかで出会えるといいな。
岡田閑林は、谷文晁の弟子。「花鳥図押絵貼屏風」は6曲一双の屏風。どこもここも見ごたえあった。ドラマに満ちていて、この一双で一年中たっぷり楽しめそう。
鳥たちが生き生き。
アクロバティックな南天、毒々しいザクロ。
鶏は葉っぱとシンクロ。
写実と虚構がどちらも説得力がある。このドラマティックな迫力は魅力的。
そしてまたこんなシュールな世界に誘ってくる。
椿椿山「君子長命図」1837 まもなく捕食となる。
椿山といえば最初は穏やかな画の印象だったのだけれど、最近印象が変わってきた。このワルそうなネコったら。もはや猫の触手は動いている。
オケラの末路はもう見えている。細密に描かれたところがかえって哀れな。しかもこの猫、体は向こうに行きかけているのに、ひょいとオケラを見つけたようだ。たまたま運が悪いだけで命運がきまる。全く別次元のように関知しないたんぽぽや、幻想的に大きな蝶。
それでもこれは、題に語呂合わせをした、おめでたい絵だという。竹=四君子(竹、梅、蘭、菊)のひとつ。蝶=長。猫=「みゃう」→命。それでどうしてこんなシュールな絵に??。
渡辺崋山の絵にもこういう絵が折に触れてある。これは二人の師、金子金陵の世界を見てみたいもの。
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後半には、江戸琳派。
酒井抱一が二点。なんだかやっぱり安らぐ。
「白梅雪松小禽図」
外は寒いけれども、ほっこりあたたかい。よりそう二本の樹と二羽。それぞれ恋の歌のよう。もしかして松と梅は情熱的な恋?。
抱一「白梅鶯図・紅葉鹿図」は、大変気に入った作品。梅も紅葉も、鶯も鹿もやっぱり気持ちがある。みんなかわいらしいなあ。
琳派の鹿はやっぱり物寂しい。第一室で見た南蘋の鹿と大違い...。
たらしこみはどうしてこんなに見飽きないんだろうと思う。南蘋派のような写実も迫力だけれど、それと反対。心にしみてくる美しさ。
弟子でも、鈴木其一はそんな抒情に浸った絵は描かない。
「双鶴春秋花卉図」1852 一般的な取り合わせなのに、主張がすごい。
皆、騒がしい。菊も紅葉も歩き出しそう。鶴も迫力。牡丹と梅は、抱一ならばお互いに静かな会話を交わすのだろうけれど、其一が描くと、二者の視線はからみすらしない。三幅の登場人物すべてがランウェイを歩くモデルみたい。私が一番美しい、と。
其一の長男の、鈴木守一の「雑画帳」は、キャプションの通り「守一のすてきな日常」。こうつけるここの学芸員さんもすてき。ツイッターでは楽しんでつけたそうな。
気楽に的確に。犬の背中がかわいいなあ。色もほんのりいいなあ。
画像で展示してあった他の部分も、花鳥だけでなく、生活感がある。「漁師の影」「海苔干し」「鵜飼い」「鬼瓦」などがツボ。
池田 孤邨(1803~1868)も抱一の弟子。「浮世美人図」は、岩佐又兵衛の息子の勝重模写だそう。確かに、畳のヘリ、着物の柄、本の背表紙、屏風絵まで、たいへんな細かさ。
山本光一1843~1901「狐狸図」江戸~明治 ここまでくると、現代画のような、草花もたらしこみも美しい琳派の系譜。抱一の弟子の長男。山本道一の兄。
しっかり写生したのだろうと思うタヌキとキツネ。タヌキは一見、目つき悪そうなんだけど、実はカタクリを愛でている。
細部に繊細な光一。青麦が好きなところ。
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以降の絵は、多岐にわたる画風、ということになるのかな。
織田瑟々(1779~1832)の桜にも再び出会えた。「江戸法来寺桜図」実践女子大で見て以来(日記)。
瑟々そのもの、命そのもののような桜。
これはまた、はああどういっていいかわからないほど美しい。
とめどもない葉は自分の精そのもの。花びらは透明感もあり、ふっくらとしていて、瑟々はひとつひとつの花をどれほど愛しているんだろう。じっと見ていると、幹は女性の体、花はまとったレースのドレスのようにも見えてくる。
長谷川雪旦は「草花図」。てっせんやタンポポ、鬼百合など、色鮮やか。江戸で流行していた園芸文化が背景にあるそう。
最後は、今回の大お目当ての柴田是真が二点。
柴田是真(1807~1891)「猫鼠を狙う図」1884
ザクロを食べる鼠を、じっと覗う猫。衝立の画のような牡丹。水差しや篭の仏手柑は文人趣味ともとれるとのこと。葉の描きかたも文人画っぽい。キャプションは「深まる謎、室内のドラマ」。何らかの寓意が潜んでいそうだが、解決の糸口が見えず謎が深まる、と解説に。上方の影は意味ありげでもある。
野生と飼いねこの性の間で揺れ動く?。肉食動物だからには、隙をつき飛びかかりたい衝動もある。でも赤いリボンをつけて白い毛並みもふかふかの生い立ちでは、「ど、どうしよう、怖いかも。。」と腰が引けてる感じ。ねこよりずっと、赤いザクロの実と、それを盗み食う鼠のほうが生々しい。捕食シーンとしてのリアルはこちらかも。
是真のもう一点は「果蔬蒔絵額」1876
蟻が本物みたい。金で施された栗のイガイガにも感嘆。
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大満足このうえない展覧会でした。これだけのコレクションがあることも素晴らしいと思うし、魅力的な作品を選び出してくれる美術館の皆さんも素晴らしいなあと思いました。
入口の「永遠の穴場」に深く深く頷いたのでした。