はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

笠岡市カブトガニ博物館

2024-10-23 | Art
岡山の笠岡市カブトガニ博物館へ。
ずっと行ってみたかったところの一つです。

瀬戸内海に面した入江のようなところでした。





研究所もかねています。
海中にいるところはさすがに見られませんでしたが、水槽にはたくさんいました。





わりと速く移動していました。
ひっくりかえってジタジタしているのもかわいい。


古生代の世界を垣間見た気になれます。


東南アジア沿岸やアメリカ東海岸にもまだいるんですね。





中は立派なスタジアム状の観客席や恐竜などの展示もあり、子供たちで賑わっていました。


廊下にとってもかわいいポスターが貼ってありました!
タコがいますね。
岡山はタコがとてもおいしいのです。

こちらはこの後に笠岡港から渡った島の船着場にあったタコツボ。


博物館のある公園には、メタセコイアやソテツがたくさん。
どちらも私の大好きな木なのです。






恐竜がいい感じになじんでいました。






カブトガニ祭りもあるらしいです。楽しそう。




笠岡港から渡った島から見た瀬戸内海もとてもきれいでした。

船から。




大飛島から。








瀬戸内海は春と思っていましたが、秋の瀬戸内海も見飽きませんでした。











邨田丹陵‐時代を描いたやまと絵師

2024-03-19 | Art
邨田丹陵‐時代を描いたやまと絵師
たましん美術館 2024.1.13~3.31

20年ぶりくらいに立川へ行ってきました。
伊勢丹と高島屋SCがあって、カフェなんかが並ぶ遊歩道みたいなのがはるか遠くまで伸びていて、おしゃれに変貌していました。
そういえば、再開発が終わったのですね。
 
邨田丹陵展の評判がたいへん良いので、はるばる来たのです。

 
邨田丹陵( 1872年 - 1940年 )の名前を聞いてもピンとこなかったのですが、日本史の資料集で見た大政奉還を描いたのがこの方だそう。
 
大政奉還(1935年)
 

個人的には、香川の金刀比羅宮「富士二之間 「巻狩図」」を描いた方だというのに、現地まで行って見ておきながら、なんとうかつな。そもそもこの二作が同じ画家だったとは。
 
 
この襖絵を見たのは覚えているのですが、室内には入れず遠目だったのと、若冲奥書院の特別公開と
応挙のトラが目当てだったため、邨田丹陵の名前は全く記憶にありませんでした。
 
しかし今回、丹陵の絵を間近で拝見したことで、これは金刀比羅宮の馬と武者も近くでじっくり見たいと思いました。
丹陵の描く人物の目力、そして人だけでなく馬までも、表情と目力が際立っていたからです。
 
「両雄会湖畔図」明治27年
 
 
目といえば、細い線描きの眼だけで無言の圧を醸し出す安田靫彦もすごいと思うのですが、丹陵の武者はストレートに目に迫力があって、さらに口元にも力がこもっています。
これはさぞ金毘羅宮の武者も馬も、おそらく鹿も、顔はみものだったでしょう。
 
***
邨田丹陵 (1872年 - 1940年 )は、旧田安家に仕えた儒学者・村田直景の子として生まれ、父から史学や故実を学ぶ。
父の勧めで、川辺御楯に弟子入り、10代から歴史画で受賞を重ねる。
1901年、寺崎鉱業小堀鞆音日本青年絵画協会を結成し、日本美術院にも特別賛助員として参加。
関東大震災を機に、現在の立川市砂川町に転居。
1904年、日露戦争の戦地に赴き、戦地や兵士などを描写。
日本美術院が中心になり政治的な駆け引きの場になった展覧会から距離を置き、
1907年の文展を最後に、出品をしなくなる。
以降は質素な暮らしの中で、気の向くままに筆を揮った。
30代半ばでの引退の結果、その名が長く忘れられることとなり、丹陵の画業や生涯の研究は皆無となった。
***
 
早くに展覧会出品を取りやめたせいか、今回の展示作も、多くは個人蔵の掛け軸でした。
賞のつく展覧会への大型作品ではないからか、ギラギラした感じや挑戦的な感じではないのが、なんとなく感じ取れました。
 
どんな場面も、仰々しすぎない。しかしその範疇で最大限に緊迫感や迫力がこもっている。
線は走りすぎず乱れさせず、しかし伸びやかにハリをもって、色は赤や緑、青などの鮮やかな色を多すぎず効果的に。
端正なのです。
 
そして、自分の思う美、歴史上の人物や場面の解釈を、自分のペースで描いている、という感じがしました。
例えば、巴御前。騎馬姿で描かれることが多いのですが、このように弓を張り、戦さ支度をする場面は珍しいのだそうです。
弦を咥えるくちもと、弦を張る腕には力がこもり、たいへんな強さと気迫を感じます。
 
** 
そして、掛け軸の縦の画面の使い方も、無理なく、配置があっさり、しかも絶妙。
 
雲上鍾馗図(1901年) は上半分に鍾馗が浮かんでいて、下は何も描かれず、鍾馗の足はふわっと霞に消えている。でも口元はきっと下唇をかみしめていて、悪を寄せつけない強い眼と、ギャップがユニークな鍾馗でした。
 
犬追物図では、背景が描かれないのに、小さな画面にあの緊迫と動き。無駄な線は一本もなく、少ない色で最大の効果を生んでいるということなのでしょうか。
犬の顔と馬の毛並みの柔らかさも印象邸でした。歴史画なのに、細部が大変写実的なので見ごたえがあります。
 
鎮西八郎為朝の掛け軸も見ものでした。流された伊豆大島でも大島を占領してしまい、追討軍の船に弓矢を構える場面です。
砂浜に立つ為朝ははだしで、構える弓は無骨な木の枝そのままに弦を張ったものです。海風を受けて髭と蓬髪がなびき、為朝の荒々しさが伝わりました。
その為朝ひとりを浜辺に立たせるのでなくて、為朝の手前に、為朝の見る方向と逆向きの斜めに幹がたわむ松を一本描いている。しっかり力強く根付いた松のパワーもクロスして、たった一人戦う為朝はより力強く感じられました。
外隈で表された波も見事でした。
 
この二作の時はまだ20~30歳ごろなのですが、線は緩みなく、この若さですでに完成しているレベルなので感服します。
金刀比羅宮の襖絵を手掛けたときも、まだ30歳の若さだったのですね!
 
 
迫力だけでなく、情景が余情をのこすのも印象的でした。
雪月花(1906年)
梅の枝を手に、その梅の木を振り返る菅原道真。足跡もついていたりします。
月の薄闇の中の道真の心情を考えてしまうのです。もしかしたら、雪の落ちる音に何かを思い出したのかもしれないし、ふと梅の木の気配に後ろ髪をひかれたのかもしれない。
 
雪と梅の木の描き方も印象的でした。線ではなく、外隈でかたどり、胡粉を重ねて、たいへん丁寧に描かれていました。
丹陵は、描いたものはどれもたいへん丁寧に手掛けているのです。愛ですね。
 
**
彩色だけでなく、丹陵の墨だけの作品も印象的でした。
 
月夜望嶽(1897年)は、夜に月の微かな光で富士山が浮かび上がっています。森の墨の濃淡、霞みのぼかしがたいへんきれいでした。
 
日月松竹図(1907年)は、松と竹の二幅対。薄墨濃墨の重なりがたいへんきれいで、速い筆致だけども、激しすぎず、乱さず。気負いがないのが見ていて心地よいのです。差し上げる方のために、さらさらと描いたような。
 
丹陵高橋松亭今村輿宗の青年協会の3人で、浦島太郎塩土老翁竹内宿祢を合作した墨だけの作品がありました。席画のようですが、落款がないとわからないくらい、三人の線が似てて、彼らレベルになると皆で線をあわせることもお手のものなのでしょうか。
 
 
金毘羅さんにも墨で富士を描いた襖絵がありますが、雑味のない墨色と延びる稜線、雲の静かさに、心洗われるよう。(展示作ではありません。画像は金毘羅さんのHPから。)
富士一之間 「富士山図」
丹陵と金毘羅さんの関係が気になるところですが、1901年、高松市の有力者から請われて、高松を訪れたそうです。
丹陵の絵でもよく画題とされている、源平の古戦場を廻り、中国地方の古戦場にも足を延ばしました。
翌年再び、香川を訪れ、金刀比羅さんの襖絵を描きました。
 
 
私が水墨で最も気に入ったのは、ひょうたんの小さな作品です。
酒瓢(1909年)
宿で即興で描いたのではとのこと。水分たっぷりの筆で、くるくると一筆書きのように弧を取っています。
描くのがとても楽しそう。
興が乗っても、やっぱりこの乱れのない、完璧な弧の美しさ。
そして最後、紐のリボン結びは、とてもかわいらしく書きあがっています。
 
 
そう、絵を通して思うのですが、丹陵という方の絵は、完璧だとクールで事務的になりがちなところが全然そうではなく、どことなくやさしさがあって、温かみがあるのです。
描くものに、気持ちがかよっているというか。
 
描く対象に対する愛情ゆえなのでしょうか。
春暁和色の梅の木の幹も枝も、輪郭をつけず、淡墨と淡彩を重ねつつ、細かくとんとんと大事に描き進めていく感じ。木の体温を感じるような。淡い感じが、この日の空気感を伝えてきました。
 
**
愛情は写生から生まれるのか、愛があるから写生をするのか?。
 
丹陵は富士山が好きで、生涯で一万点描いたと言っていたそうですが、富士も土佐派的な細かな筆致ですが、山も漁村の様子も写し取っています。
丹陵が何を見ていたのか、実感を感じる気がしました。
 
富士山1936年
伊東に滞在し、写生に明け暮れたそうです。
 
丹陵の画に実感と体温が感じられるのは、その写実にあるのかもしれません。
の絵がありましたが、その水煙としぶきの様は、相当に見尽くして、その動きをとらえたのだと伝わります。それをまた、丁寧に再現している。
 
蓬莱山を描いた絵でも、波の様子が写実的で、伝説ではなく、どこか実際に見ているような気になりました。
丹陵が波や水の様にたいへん惹かれていたのかなと想像します。
 
 
父譲りか、丹陵が絵を、父が賛を書いた作品もありました。父の字ものびやかで張りがあり、乱れず落ち着きがある。儒学者っていっても、堅苦しさもなく、偉そうな感じもしない。
そこは丹陵にうけつがれているようです。
 
義兄の寺崎廣業が右隻にリンドウを、丹陵が左隻に牡丹を描いた屏風も、たいへん心に残っています。
胡粉の花びらの端のシルエットだけで描いた白い牡丹の花は、神秘的なほどで、におい立つように美しかったです。
これが、画家の「精神性」ってものが現れているということなのでしょうか。
 
菊づくりにも打ち込んだ、丹陵の晩年の言葉が、深く心にしみました。
 
 菊を作り
 (ココ忘れてしまった…)をながめ
 叢に虫を聞きつつ
 しずかに絵筆をとるとき
 わしは自分独りで
 幸福なんだと思ってゐる
    (昭和10年)


 


 

ベトナム版鳥獣戯画?

2024-03-15 | Art

黄金の大ナマズ(日記)の近くのベトナム料理屋さんで、ベトナム版「鳥獣戯画」みたいな絵に出会いました。

 
日曜だったせいかベトナムの人率90%。満席で、地元日本人にも人気のお店らしいです。
 



 吉川駅はそんなに大きな駅ではないようだけど、ベトナム料理屋さんが3〜4軒あるよう。
 
そして私の席の後ろの壁にこんな絵を発見。
 


上段は対ネコのためのネズミの処世術指南?。
下段はネズミの嫁入りかな。

これはカエル界のヒエラルキー?
 
かわいくて、身近な動物を擬人化しているところが鳥獣戯画に通じるものがあるような。
カエルもネズミもネコも鳥獣戯画の主要キャラですし。
 
この絵は、「ドンホー木版画」というベトナムの伝統的な版画だそうです。
ドンホー村というハノイから30キロほどの村で作られ、お正月などに求められてきたそう。
 
生活や行事、風刺をテーマにし、ネズミの嫁入りは最も人気の絵とのこと。
 
絵だけでなく、紙と絵具も興味深い。
紙は、ゾーという木の皮から作られたもの。それに、ホタテの貝殻を砕いて餅米などの糊と混ぜたもので表面をコーティングするらしいのですが、素材がやはりアジアだなって親しみがわきます。
 
陶磁器の絵付けのようで印象的だった色は、朱色は石(レンガという説もあり)を砕いて、黒色は竹の葉を燃やし、黄色はエンジュの花の蕾から、緑は藍や銅のサビから作るのだそうです。
 
今では職人さんもたいへん少なくなってしまい、ユネスコの緊急保護無形文化遺産の登録を目指しているそうです。
 
この版画にははっきりとした漢字が書かれているのでなんとなく内容がわかりましたが、ネットに出ている多くは、それっぽいけどなんか違うみたいな不思議な漢字?が書かれていました。「チュノム」という、ベトナム語を表記するために漢字を元に作られた文字だということです。さほど定着せずにアルファベット表記に移行したようですが。
 
他の壁にもたくさん掛けられていたので全部見てまわりたいところだけれど、満席だったのであまりに不審すぎようと断念。
 
ランチは生春巻とデザートのチェー付きでした^^
 


 
 

室瀬和美作の金箔大ナマズ

2024-03-14 | Art
武蔵野線吉川駅前に、どーんと金の大ナマズがいました。


人間国宝の室瀬和美作。平成7年に設置とのこと。
ちょっと得意げなソリがかわいい。





子ナマズ付きでほのぼの。
香箱などの小さな金箔や漆、螺鈿の逸品に室瀬さんがリスなどの動物をモチーフに用いるとふっくらとても愛らしいのですが、(以前の日記●室瀬和美「蒔絵ー伝統を創る」と、正倉院の螺鈿 - hanana)、これだけの巨大作品でもやはり同じくハートフルなのですね。

深みある金色と思ったら、そこはやはり室瀬さん。
金箔の下は漆塗りですと。
「金胎漆塗」という、銅などの金属を叩いた後に漆を重ね塗る古くからの技法で、甲冑などに用いられてきたそうです。

それにしても風雪に晒されて大丈夫なのかなと心配になりましたが、むしろ化学系の塗料よりも半永久的に持つのだとか。

室瀬和美さんも当時の吉川町からこの依頼を受けた時に、「屋外にあって丈夫なもの...。金閣寺だ」と金の大ナマズの着想を得たそうです。
詳しい経緯はこちらの方のブログに。
『吉川市と人間国宝』

『吉川市と人間国宝』

こんにちは!吉川美南不動産の石井です。本日、重要無形文化財(蒔絵)保持者 漆芸 室瀬和美さんとお会いすることができました。吉川市民ならまず見たことはあるでしょ…

吉川美南ではたらく社長のブログ ~まちづくりをする不動産会社~

 

照明も設置されていました。ライトアップされてこの金ナマズが闇に浮かび上がったら…。

吉川市は「ナマズの里」として町おこしを目指しているようです。
駅横に小さなお土産ショップもありました。


ナマズグッズが勢ぞろい。
栗入りパイを美味しく頂きました^^。








相国寺光源院 加藤晋奉納襖絵 

2024-03-11 | Art

京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺光源院 2024年1月8日~3月18日

 

先月ですが、京都の相国寺に行ってきました。

お目当ては、塔頭の光源院。

加藤晋さんの描いた襖絵が公開されています。
 
コロナ前から描き始め、2021年にお納めされたようですが、コロナを経てようやく落款を入れ、公開となったようです。
 
いつも日展で拝見するのを楽しみにしている、加藤晋さんの世界。広くて遠いあの山並みと里の風景。それをお寺で拝見できるのを楽しみにしていました。
 
 




(お庭は撮影できますが、室内は撮影できませんので、絵の画像は光源院さんのWebサイトからお借りしました。)
 
 
本堂に入ると、仏間と室中の間をはさむ、下の間に「春」、上の間に「夏秋冬」。
二つの世界がそこにありました。
 
「春」の間では、満開の桜に、目を奪われました。
 
行く前に画像で拝見した時には、桜の後ろの空が、襖を通り越え、その向こうへどこまでも広がっているようだと、見る前から感動していたのでした。
 
しかし、実際に絵の前に立つと、なにより桜の美しさに、思わず声がもれてしまいます。
 
 
とてもきれいでやさしい色なのです。
以前個展で板に描かれた桜の絵を拝見したときも思ったのですが、亡き人がこちらに微笑みかけてくれているようで、ちょっと泣きそうな気持になります。
 
半分、浄土をかいまみている?という感じもします。
あまりにきれいでやさしく、そうするとはかなくて悲しくなる、そういうきれいさがあるのかもしれないと思ったりしました。
 
そうはいっても、この絵のなかには、いろいろなものが息づいているのです。
里では狐の嫁入り行列が進み、桜の花蔭には小さな七福神たちがこっそり隠れています。
 
そう簡単には見つけられないのがまた、彼らのかわいいところなのです。
(光源院さんには、ネタバレのパネルも置かれていますが、これを見ては負けだと、意地でも自力で探し出す謎の意地…)。
 
拝観の方が次々にお入りになっていましたが、七福神を一人、二人と数えながら探し出していたり、懐かしい昔話の登場人物の話に花が咲いたり。
年配の方から若いカップルの方まで、こんなにみんなが楽しそうな美術館もお寺も、いままで見たことがないと思いました。
 
そして上の間の「秋冬夏」へ。
 
こちらにはさらに、昔話から出てきた多種多様な動物がいて、ますます探すのが楽しいのです。
三蔵法師の一行(自由すぎる猪八戒がかわいい)、クマ、龍、白へび、弧を描くキツネ。
かさ地蔵は私の大好きな昔話の一つです。
象がいましたが、これはお釈迦様の化身だということです。
桃太郎のキジもとてもかわいいし、子鬼たちに再会できたのも嬉しいです。
 
(門の看板に少し画像があります。)
 
それにしても、この4面の襖絵のなかに、夏秋冬と、気づけばいつのまにか季節が移り変わっているのです。
そして、四季の果てに、凍る冬の世界が広がっていたことが印象的でした。
しんと凍った池の周辺は、幽玄な世界。
白い山並みを背に飛ぶ鶴の光景はとても美しくて、鶴の恩返しのラストも思い起こしつつ、心に残っています。
 
ひとがいなくなってから、もう一度春から戻って、畳に座って、四季の変化をめぐれたことは、至福の時でした。(なんなら布団しいて寝ながらみていたいレベル。)
 
視線が低くなると、絵にはちゃんと、この世界に入れる小径が描かれていることに気づき、
気づいたときにはもう意識は中に入ってしまっていて、遠くの山並みを改めて眺めているのでした。
こんなに広くて深い世界だけれど、里の風景、山の風景、どこを切り取ってみても、そこにも深い森が深まっていくので、見飽きません。
(それにしても山々は、近い山は木々の緑色に見えますが、遠くなると薄青に見えるのはどうしてか誰か教えてほしい。)
 
そもそも日本画は、自宅やお寺などのふすま絵や掛け軸や板戸として、空間をつくり上げていたのだと、改めて思われました。絵によって空間には風も吹き、温度も変わり、威圧の空間にも癒しの空間にもなりえます。
 
見る人が入るのと逆に、絵からは「風来坊」という風神雷神見習い中みたいな二人が飛びだしていました。まだ風や太鼓を制御不能みたいなところがエネルギーいっぱいで、ほほえましいです。
 
 
光源院にはまだまだ動物がたくさん。
室中の間の襖絵は、水田慶泉(1914~1997)が12支を描いています。
 
さらには、お庭にも12支の生き物がいるのです。(なぜかチーズ岩も。)
 
 
 
牛と兎は、「あ、そうかも」と思えました...
 
 
 
 
 
光源院は、足利義輝の菩提寺であり、義輝の院号から「光源院」と名付けられたそうです。
相国寺と言えば、若冲の承天閣美術館ですが、こちらの住持、維明周奎は相国寺の115代住持も務め、若冲の弟子であったと言うこと。維明周奎の描いた梅の掛け軸も展示されていました。
 
こんなにハートフルな空間の塔頭があるとは。
もし京都でにっこりほっこりしたいと思ったら、こちらがおすすめです。
 
 
 
 

讃岐高松城 タイの餌やり

2024-02-08 | Art
香川県の高松城へ。
JR高松駅から信号を渡ったところにあります。

ずっと松平家の居城でした。その初代は水戸光圀の兄の松平頼重です。




瀬戸内海の目の前。


すぐ横の港からは、直島や小豆島行きの船がでています。

海城なので、お堀は海水です。



なのでお堀には瀬戸内の真鯛がたくさん。
餌ヤリをしてきました。


エサは100円でガチャガチャで買えます。
満潮の時がいいらしく、この時ちょうど満潮でしたよ。

城内の二箇所でできるようなのですが、駅に近い水門のほうへ。

タイがピチピチ状態。



顔かわいいな。
と思ったとこで、高松松平家といえば「博物図譜」と思い出しました。

以前、静岡県立美術館で、高松藩の博物図譜を見たことがあります。大名なかまで貸し借りしていたらしい。

5代藩主、頼恭が制作させた魚、鳥、植物の博物図譜はたいそう超絶で、コロナ前に展覧会も開催されていました。





こんなに海の近く、いやもうシーフロント住んでいたお殿様って他にいるかな。

🐟🐟🐟

餌ヤリして10分しないうちに、電車に乗れてしまいました。

ほどなく瀬戸大橋。


 
船が下を通り抜けて行きます。







穏やかな海でした。














百歳万彩 アンペルギャラリー

2023-12-26 | Art
東京駅に近いアンペルギャラリーで椿の絵を見てきました。



ご長寿で知られる3人の画家が描いた椿が並びます。

小倉遊亀100歳
奥村土牛101歳
堀文子105歳



(写真は、著作権が残っているものがあるため、会場全体を撮る感じであれば可とのことです。)

見ていてすぐ、3人ともに椿を見る愛情深い気持ちが絵から伝わってくるように感じました。
椿への愛、そして日常の暮らしへの愛情のような。
生きていること、絵を描けること、それ自体への喜びかもと思いました。


土牛の作品です。

土牛は101歳、亡くなるその歳まで描き続けました。
84歳の時の言葉が紹介されていました。「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完で終わるかだ。余命は少ないが1日を大切に精進していきたい。」


堀文子の作品です。

堀文子も100歳まで描き続けました。
堀文子の椿は瑞々しさが際立っていました。一輪一輪に多幸感があふれているような。
描かれた椿の花が嬉しそうなのです。

そして堀文子の椿は、シベがとてもかわいいのです。しべの先の黄色い花粉の点々が、小さくても一つ一つ丸くぽってりとつけてあって、なんとも愛らしい。


小倉遊亀の椿は、写実的な堀文子とは逆かもしれません。デフォルメされた花、金泥の空間の亀裂のような枝。椿は椿にして椿を出る、みたいな。
椿と同じくらいに花器が丁寧に描き込まれていたのも印象的でした。
小倉遊亀はよく自宅の花器を描いているので、小倉遊亀の日常の暮らしが垣間見えるのですが、日常なのに絵は型破り。常にチャレンジング。


昨年、一昨年も年末にこのギャラリーに椿の絵を見にきました。
来年も来れますよう。


水墨画展

2023-12-12 | Art
以前通っていた水墨画の先生とお仲間の方からお知らせをいただき、展覧会を拝見してきました。

先生は中国の方で、何十年も日本にお住まいです。幅2メートル近い月梅図が圧巻でした。




こちらの芭蕉は画家でいらっしゃった先生のお父様の作品です。


私も大好きな芭蕉の水墨画。江戸時代などの日本の画でも見かけると嬉しくなります。


湿潤な空気と、雨に打たれる葉の面の重さを感じるようでした。
二度はない墨と水の軌跡に見あきませんでした。

こちらは書道の先生でもある方の作品。速さと墨の色の美しさに身惚れてしまいました。




背景も含め阿修羅像の画の周囲の空気が違っていました。





先生の関係の方か、中国の方の作品もいくつか展示されていました。
中国の方は梅は赤いのが好きなのだそうです。






龍の顔と渦巻き🌀模様がステキです。





日本と中国、古いのから現代まで集めて、龍の展覧会があるといいな。

楽しい時間でした。











東博常設

2023-12-11 | Art

しばらく展覧会に行けない生活だったので、投稿も久しぶりです。

東博に来たのも、昨年の12月に年間パスポートを作って以来。年パスの意味が…。

平成館ではやまと絵展が開催中なので、この日の常設の2階でもやまと絵を中心に展開されていました。

一階では、柴田是真四季図屏風に再会。色も鮮やかなまま保たれ、どこを切り取っても完璧です。

 

「光風斉月帖」1936にも再会。

橋本関雪、小林古径、前田青邨、安田靫彦、大観、鏑木清方、玉堂、菊池契月、富田渓仙、和田英作の合作の巻物。

なんとなく画家の字と絵の線がシンクロしていて、ほほえましい。幅、リズム、きっさき、筆勢、字は絵も性格もあらわすのかな。

特に、前田青邨の魚のピチピチ生動感は、青邨の字にも重なります。字がそのまま生きた魚に見えてきたり。

 

横山大観 字のままですね。

 

安田靫彦

 

見惚れるのは、菊池契月「八幡伝説」

色紙大の小さな紙に、洒脱な短い線で素速く人と馬を生み出し、金と胡粉をすうっとはいただけなのに、無限の広がり。

 

2階では「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承ー」特集。

宗達工房の屏風から、土佐派、住吉派、板谷派も。さらには琳派、復古やまと絵まで、あしかけ300年をひとめぐり。

印象的だったのは、宗達工房「四季図屏風」17世紀。

一つ一つの花の存在感が強く、気を発しているよう。

400年たっても古い感じがしないのがすごい。

 

嘉永の大嘗祭の悠紀屏風(1948)土佐光孚 は、青い色があまりにきれいでくぎ付け。

孝明天皇の即位の大嘗祭のもの。近江が描かれています。

金だけじゃなく、青いすやり霞を見たのは初めて。

と思っていたら、昨日(11月27日)放送のNHKの「大奥」で、将軍家茂が上洛して、孝明天皇に拝謁するシーンの間に、このような青い霞が。

先述の屏風も孝明天皇の時代。

現在の京都御所もこのような襖絵であるようだ。 



(土屋貴裕著「やまと絵」より)


NHKの美術さんの時代考証は抜かりない。

(それにしても、NHKの時代劇の襖や掛け軸、着物は、人物のキャラや状況に合わせて、しかも美しくて、つい人物のうしろにくいついてしまいます。「大奥」でも、江戸城の家茂の間は狩野派っぽい水墨の山水画だし、和宮とその母の間は豪華なやまと絵ふうだったり。「どうする家康」でも、大阪城の金の襖絵の豪華なことときたら。)

細部は土佐派らしく細やかで、菊が美しいのでした。

 

近衛信尹和歌屏風(安土桃山~江戸)も見入ってしまいました。

ゆるまないスピードと打ち付けるようなリズムで書きつけられる書。信尹がはりつめた中に興に乗って、最高のステージに達した短い時間、これまた400年たってもライブ状態。

本阿弥光悦松花堂昭乗とともに寛永の三筆と称される信尹。秀吉とのなんやかやで数年薩摩に流され、その時に書体も変化をしたらしい。島津の庇護のもとで充実した暮らしだったらしいですが、どのように変化したのか、見る人が見れば、この書がいつ頃のものかわかるのでしょうか。

 

非業の死を遂げた復古やまと絵派の二人、冷泉為恭田中訥言が並ぶ一角もありました。

田中訥言「舞楽図」17世紀

左に陵王と、右側の蛇を持つのは還城楽。平面の画なのに、動きが迫真で鮮烈な印象。

両者とも息ぴったり。二人で左上がりの無限「∞」ループのかたちをなしているよう。

 

訥言ファンとしては嬉しいことに、別のコーナーに、平等院鳳凰堂の模写も6面展示されていました。

田中訥言模写「日想観図」19世紀

 

田中訥言模写「中品上生図」19世紀

 

冷泉為恭「後嵯峨帝聖運開之図」19世紀

百姓から献上された米を洗ったところ、亀が現れ、運が開けて天皇になれたという言い伝えとのこと。

まるでその場の会話が聞こえそうなほど、人物が自然な感じに再現されていました。

藤袴の足元の亀がかわいいです。

 

栄花物語図屏風 土佐光祐 17世紀

女性だけ着色されていないので、未完なのかと思ったら、こういう趣向のよう。(姫君の塗り絵用にも使える?)

よくよく見ると、色をつけずとも、着物の柄は線で大変精緻に書き込まれていたり、胡粉で盛り上げてあったり、型押し?で凹凸がつけられていたり、

↓この打掛は、白地に白で微かな模様。アンミカの「あんな、白には200色あんねんで。」が脳裏に浮かんだ瞬間。

土佐派のお顔は、ほっぺたほんのりなのがかわいいです。

 

住吉具慶源氏物語絵巻 17~18世紀

萩の美しいこのシーンは心に残りました。住吉派もお顔がかわいいです。

 

「車争図屏風」狩野山楽 1604年

六条御息所と葵の上の車争い。もとは、淀殿が養女と新郎のために新築した九条御殿の襖絵だったものとか。このシーンを新婚の家に設える淀殿って…。

しかしどこを見ても見飽きないのです。山楽すごい。

右の整列から、左の蜂の子を散らしたような騒ぎへ。解説には、乱闘場面あたりが「円環状の構図」をなしているとあったけれど、たしかに、旋風のごとく渦を巻いています。

どの人物も手を抜かない山楽。表情と動きにただただ圧倒されました。

乱闘だけでなく、周囲の庶民のようすもおもしろいです。

この屏風ひとつを映画に再現したら、何十分にもなるであろう中身の濃さ。そして外観上の構成の妙。たいへんおもしろい時間でした。

 

このころには疲れてしまって、屏風ルームに来たときにはもう、真ん中のソファに座りこんで一休み。

色鮮やかで精緻なやまと絵を見てきた後だからか、一見しただけでは、この部屋の3方向どの屏風も、状態も悪く色もうす暗い印象。そう目の端に感じつつ、絵も見ないで休んでいました。

ところが。しばらくして顔を上げると、まるで別世界だったのです。

目の前にこのぽっかりとした山。

深江芦舟「蔦の細道図屏風」18世紀

自分がここに入りこんで立っているような不思議な感覚。楽しい体験でもありました。描きこまないシンプルな形が、疲れたところにちょうどいい。

深江芦舟は尾形光琳の門人らしい。絵から頑張っちゃってるところを抜いた感じ(どんなん)が通じるかも。

 

そして左を見ると、ナビ派を想起させる森。

なんだか洋画を見ているようで、400年も前の絵師が描いたという感じがしない。

「桜山吹図屏風」伝俵屋宗達 17世紀

↓このあたりのナビ派に重なったのでした。ナビ派もジャポニズムの影響を受けているので、あながち的外れでもないかも。

この屏風もナビ派も、せかせかコマコマしていなくて、ゆるいひと時。深い休息の呼吸が戻ってきます。

それでも、近づくと、この桜の生気に圧倒されたのでした。

 

そして最後の一作を見ると、またしても最初の印象が一変。月がこうこうと輝いていたのです。

「柳橋水車図屏風」作者不詳 16~17世紀

恐ろしいほどに独特。

二隻にわたって大きくかけられた橋が大胆。黒々とした幹をしならせる動きに目を見張る。

それに対して、柳の葉や水流の線は乱れず規則的という、このギャップ。

水車は設計図レベル。

クレイジーなこの絵師は何者??

 (2024年1月追記:これとそっくりな「柳橋水車図屏風」が香雪美術館にあります。長谷川等伯筆の重要美術館。人気の画題だったらしく、長谷川派の工房作のものが他にも30程度あるそう。)



これが定型なのか、非定型なのか。定型と非定型を両方を兼ね持つのが、日本の伝統なのか?

題材や技法は伝統的なものであるのに、400年500年たっても、全く古びないと思えるのは、どうしてなのか?。絵師が唯一無二なところで描いているからなのか?。

精緻で雅びなやまと絵のあとに、なぜこんなざっくりとした屏風をここに揃えたのかと不思議に思ったのですが、この体験を狙った構成だったのかと勝手に解釈し、東博ってすごいと充幅に包まれて帰しました。

やまと絵という日本古来の伝統的な絵の特集の日だったのですが、その系譜のいくつもの作品に、古風を感じず、なんなら今より自由で、突き抜けた作ぞろいであることに、固定観念を壊されたのでした。

 


市美術展

2023-07-17 | Art
友人が出展していると案内をいただき、市展を拝見してきました。
すっかり美術展に行けなくなって久しいので、心に水を得た感じで楽しんできました。


日本画、油彩、水墨画、染色、彫刻、彫金など多岐に渡っていました。

特に印象的だった作品です。(勝手ながらお名前は略。写真に小さく入っていますが、見えないかも。)

油彩画
「いきものたちの楽園」



「喪失」




「明日へ」
並んだ背中にしばし思いが。
海に見入ってしまいました。
この方は奄美のご出身とのことで、海や空がとても美しいので毎回楽しみに拝見しているのです。

 
「多面体」
タイトルと合わせちょっと笑いを取られてしまいました。

しかし笑っている場合じゃなかった。表情に引き込まれました。手に絵札を持っているので自画像かもしれません。
特に右側の顔には、前田青邨の自画像を思い出しました。


こちらはツボ中のツボ。
「さる山」

もはや無敵。

かわいいし明るくて力強くて気分も楽しくなり、絵のパワー恐るべしです。

「レリーフ アマビエくん」



染色
「掛軸 梅」

絵も素晴らしくて、しかも染物ってすごいです。





鉛筆画
「黄昏のアリア」
超絶すぎる。



彫金
「庭の一隅」
これが金属とは思えないほど、やわらかく繊細なのに驚きでした。

染織
「悠久の時 道頓織 帯」





外はもう37度とかありそうですね。
水分、塩分、気をつけなくては。













笠森寺の風神雷神(千葉県)

2023-03-24 | Art

ご無沙汰です。
スマホから投稿してみます。
すっかり展覧会にも出掛けられない日々を送っております。

久々に遠くに行くことがあり、千葉の長南町の笠森寺https://kasamori-ji.or.jp/というお寺に立ち寄ってきました。


創建は784年(延暦3年)とのことです。

こちらの山門の風神雷神像が、なかなかに異彩を放っていました。

風神

剥落も相まって、凄みのある顔相。


赤い舌がぴょろん、と。

舌がここまでしっかり出ている風神雷神は、像でも絵でもみたことがない気がしますが、たまにあるのかな?
いつ頃の時代のものなのか、現地にもウェブサイトにも説明はありませんでした。

(舌といえばヌートバー選手。舌が出たままのダイビングキャッチは、噛まないのか心配になるけど、もしやパワーを呼ぶのかも?。それにしてもWBCはもう全試合に感動しました!)

こちらは雷神。


風神雷神どちらも、筋骨隆々、いやむしろあばら骨が浮き出て痩せているように見えるのだけど、微妙な。そういえば宗達の風神雷神もムキムキというより皮がたるんとしてるかも。

 
そして風神の後側の空間には、閻魔様。


雷神の後側には、おばあさまと小さいおじさん。
閻魔様と向かい合っているので、おそらく奪衣婆ではないかと思います。
こちらも説明がないので詳細不明ですが、二人揃って、印象的な笑み。


何百年か前の誰かが彫り上げた、表情の生々しさにおののきました。


笠森寺は自然林に囲まれ、山門に至るまでの参道は切り通しの山道。


樹齢何百年かありそうな巨木、大木だらけでした。




三本杉


のぞきこむと、観音様が光に包まれておられます。


清水寺のような四方懸造りの観音堂は、大きな岩場の上に建てられています。

1028年、後一条天皇の勅願により建立され、現在のものは、昭和35年に全解体復元されたもの。


足がすくみつつ階段を上がって、本堂へ。

本堂内の小部屋「参籠の間」には狩野安信の大絵馬がありました。
本堂内は撮影禁止でしたので、不鮮明ですが長南町公式ホームページの画像から。

日蓮がこの参籠の間に37日間籠り、地元の住人が日蓮の説法に感銘を受けて帰依したという伝承を描いたものだということです。

四方ぐるっと見晴らし。





安藤広重(二代)が浮世絵に描いています。

(かなり盛ってます…。)

帰りの裏参道にたくさん見かけた花は、帰って調べるとミミナガテンナンショウというようです。

よい散歩になりました。





















●水海道風土博物館 坂野家住宅

2023-01-11 | Art

茨城県の常総市へ。

豪農屋敷「坂野家住宅」を見学してきました。

大河ドラマの「篤姫」「龍馬伝」や「JINー仁」など多くのロケ地としても使用されているとのこと。いわれてみれば、既視感が確かにありました。

坂野家は500年ほど前に、旧大生郷村のこのあたりに土着し、有力な名主だったそうです。

竹林に囲まれた3000坪の敷地に、主屋、二階建ての書院、蔵、数棟の納屋などが建っていました。

主屋元禄時代(1688~1704年)に建てられ、その後1838年ごろに座敷の棟などが増築されたようです。月波楼と呼ばれる二階建ての書院は、平屋だったのを大正時代に二階を増築したようです。

平成10年に市が土地・建物を譲り受け、解体修理が行われました。

 

建物内には、当時の掛け軸や襖絵がそのまま使用されていました。それがさらっと、奥原晴湖だったり!、藤田東湖山岡鉄舟だったり!。

幕末・明治期、11代当主・坂野耕雨(1802-62)、その嫡子の12代当主・坂野行斎は、二人とも文人当主と呼ばれたそうで、二人の交流が偲ばれました。

所蔵品目録を見ても、亀田鵬斎田能村竹田立原杏所木村武山菅井梅関椿椿山など、茨城や栃木ゆかりの人物を中心とした書家や画家の作品がてんこ盛り。

二人の当主の趣向や、この家を行き来した文人たちの足跡が感じられて、興味ひかれました。

 

周辺は水田や林が広がる、民家もまばらなところ。

 

豪農の屋敷ですが、門構えは武家屋敷のよう。

薬医門(元禄時代:国指定重要文化財)

坂野家は幕府の役人が逗留することもあったため、城郭や武家屋敷などに認められた薬医門の形になっているとのこと。

室内も、武家屋敷と豪農屋敷、商家がミックスされたような感じを受けました。500年前の新田開発の頭取を命じられて以来、この地域のさまざまな役目をになってきたのかなと思いました。

二宮金次郎も、天保期(1830~1844年)に荒地再興の為、坂野家住宅に滞在したそうで、書簡などが残されています。

 

向かって右側の主屋が元禄時代の築。(国指定重要文化財)

左側の棟が、1838年の増築部分でしょうか。この棟の玄関は、式台を設けてあり、最も格式の高い座敷に続きます。この玄関は、身分の高い人のためのもので、当主でさえ使用することはなかったそう。

 

 

主屋は、土間、茶の間、仏間など生活感のあるスペースと、身分の高い人物を迎え入れる「座敷部」で構成されていました。

帳場

 

茶の間。奥に土間。

 

かまどとお鍋が大きかった!

 

冷蔵庫

 

蔀戸(しとみど)

横にスライドさせて、通風や採光を調節可。天井から下がる金具に引っ掛けて全面開放することもできる優れもの。

 

戸の上に槍が。撮り忘れましたが、別の戸には、天狗党が押し入った際の刀傷と言われる跡がついていました。

 

脇玄関襖絵(右襖) 「富貴図」根本愚洲 ((1806-73)、大槻磐溪賛

この日は一面しか見えませんでしたが、左襖は、岡本秋暉筆ですと!

岡本秋暉(1807~62)といえば、展覧会で何度か、千葉県柏市の名主・寺嶋家の摘水軒コレクションからの出品だと拝見したことがあるけれど、秋暉は1846年ごろに寺嶋家に逗留していたとか。時期が合うけれど、双方つながりはあったのでしょうか。寺嶋家は、私の好きな亀田鵬斎とも交流があったとのこと、坂野家の所蔵品のなかにも亀田鵬斎の書があり、気になるところです。

摘水軒コレクションは、秋暉はじめ、北斎や若冲でも色鮮やかな肉筆絵画がたくさんあるようなのですが、坂野家には、カラフルな画はなかった印象です。ほぼ墨だけで描かれた画ばかりで、むしろ書が多い。坂野家に泊まった客人が書いていった、主と書簡をやりとりした、文人つながりで入手した、そういう経緯の画や書をたいせつに保管したり、室内に設けたりしてきたのでしょうか。

 

座敷部分は、一の間、二の間、三の間と見渡せます。

 

一の間は、二の間、三の間に比べて天井も高く、最も格式の高い部屋。

一の間

床の間の掛け軸は、奥原晴湖

 

脇床の違い棚に置かれた額は、藤田東湖

 

脇床の天袋に貼りこまれた絵は、特に解説がなかったのですが、なにか由緒ありげな…。

と思ってあとで検索してみたら、「漁師図」は、高久隆古高久靄厓の跡継ぎ)。

 

「驟雨図」、福田半香。

 

菊は、小池池旭大沼枕山(知らないけど漢詩人だそう)の妹)。

 

この絵も気になるのですが、誰かわからず。

高久隆古、福田半香、池旭・枕山兄妹は、11代当主・耕雨のとき、ともに坂野家に滞在し、その折に描かれたようです。筆を渡されれば即興で描ける、皆で興にのって描くって憧れます。

 

一の間の欄間も見もの。

左右で文様が違いますが、家人はずっと家紋の蔦の欄間(上の一枚目の写真)と思っていたところ、あるとき蔦の部分が落ち、下から菊の透かしが現れたそう。江戸時代には菊で作られていたが、明治に入り天皇家と同じでは恐れ多いということで、蔦を取り付けたのかも、と解説シートにありました。

ほかの欄間もひとつひとつがどれも佳い風合いでした。

屋敷全体に、華美にはしないように心掛けつつ、格式を高く設えたことが感じられました。

 

仏間 

掛け軸は、当主・坂野耕雨によるもの。

 

渡り廊下から二階建ての書院・月波楼へ。

もとは主屋とともに平屋で建てられたものを、大正9年に2階に建て直したとのこと。

月波楼は、この地方の文化サロンの拠点であり、江戸からも文人墨客を招聘したそうです。

相当多くの人が一同に集うことが多かったのでは。あの大かまどといい、そして印象的なのが、坂野家はトイレが多いこと。主屋にもいくつかありましたし、月波楼の一階、二階にもそれぞれふたつずつ。

 

月波楼の一階座敷

書は、富岡鉄舟。

 

その右側、書院の地袋組子障子

地袋はだれかわからず。

 

二階へ

月波楼の二階は眺望良好。月も見えたのでは。

当時のままのガラスは、ゆらぎがいい風合い。

 

掛け軸は、1858年に、鷲津毅堂・西村以寧・秋場桂園・坂野耕雨による連句を、鷲津毅堂が記したもの。

 

押入の襖は、川村雨谷の四君子。扁額の「月波楼」の書は中村不折

 

二つの間を仕切る襖の絵も、川村雨谷。

富貴平安・歳寒二友図を4面に。開けてあったので梅と牡丹のみ拝見できました。

その裏の襖絵は落款もなくだれということもないのかもしれないけれど、ほのぼのしていてお気に入り。

 

月波楼の組子も、どれもさりげなく美しくて目移り。六本木の小山富美男ギャラリーで見たソピアップ・ピッチを思い出しました。

 

二階の欄間 真ん中で別の模様に切り替わっています。

 

どこだったかな?(広くて順路に随って回っているうちに自分がどこにいるかわからなくなります)

 

こちらの障子もさりげなくそよ風な感じがいいです。月波楼だけに、さざ波か月光かも。

 

月波楼の一階の浴室。

タイルが大正モダン。

見上げてびっくり、天井が六角形。から傘天井というらしい。

このお風呂は、沸かすところはなく、女中さんが主屋で沸かしたお湯を運んできたそう。

 

「文庫蔵」

 

「三番蔵」

農産物の蔵?。屋敷内では文人的側面が印象的でしたが、やはり豪農の屋敷だと実感。

 

地面のこういうぬかるみ後の乾き方、久しぶりに見ました。

 

出てくると月がでていました。

 

興味尽きないお屋敷でした。坂野家の多くの所蔵品は、常総市のデジタルミュージアムで見られますが、いつか展覧会が開催されることを期待します。


●東博 渡辺崋山と椿椿山の「佐藤一斎」

2022-12-30 | Art

先日ですが、東博の常設を見に行きました。

渡辺崋山(1793~1841)が描いた「佐藤一斎(五十歳)」1821年 に再会。

怖いのですよ、この儒学者。気難しそうで、猜疑心強そうで、いい加減にしてたりテキトーにすまそうとしたら怒られそうで。

佐久間象山や渡辺崋山も一斎のもとで学び、教えを受けた者は3000人。

崋山が28歳の若いころに描いた師の肖像。内面をえぐるほどに見透して描き出す崋山がこう描くのだから、実際もこんなような人物だったのだろうと思う。

 

隣には、この一斎(1772~1859)の70歳の肖像も展示されていた。

崋山の弟子であり友でもある、椿椿山が1841年に描いた二幅。

一斎は70歳になっても、鋭いまなざしと気迫は健在。

むしろ、ますます気骨が深みを増した感。

比べると、崋山の描いた50歳の一斎には、多少まだ青臭さもあったかに見える。

崋山の鋭すぎる感性のせいかもしれない。

 

椿山がこの肖像を描いたのは、1841年。

すでに崋山は蛮社の獄で蟄居の身。そして田原の自邸の納屋で自刃したのが、この1841年の11月23日。この肖像が描かれたときはおそらく、崋山は生きていたかもしれない。

椿山は、崋山を助けようと奔走し、蟄居後は経済的な支援をしたりしたけれど、一斎は崋山を擁護するために何もしなかった。椿山の縁者(椿山の長男の嫁の父)に崋山救済運動に力を貸すよう頼まれても、その者に、懇意であると示すことは賢明ではないと忠告さえした(このあたりは、ドナルド・キーン「渡辺崋山」に詳しい。)。一斎の本心はわからないけれども。

 

それにしても、お気の毒に見えて仕方ないのは、左幅に描かれた一斎の奥様。

この面持ち、さぞやストレスMAXの何十年だったのでは…。

こんな気難しそうなだんな様に仕えて、気の休まる日はあったのだろうか。「茶がぬるい」とか叱られそう…。

二幅を同時に見ても、今とは時代が違うとはいえ、叱ってる人と、叱られてる人、みたいにも見える。

 

2016年に、実践女子大学で、佐藤一斎の晩年の書を見たことがある。(日記:「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館)

気迫と激しさのあるかすれ。丸みも柔らかみもない、厳しく強い印象。

一斎の肖像と重なる。書はその人を良く表すのだろうか。

 

書というと、この日の東博には、大好きな中林梧竹(1827~1913)の書も展示されていた。

梧竹の字は、いつもリズムが流れている。

初めて梧竹の書を見たときは、書というより、絵画だ!ミロか?!、と感動したものだった。

この作品も、字と字の間の、何も書かないところにも、リズムが流れている。字と字のあいだの白い「間」のところにも、音楽があり、「間のはば」もたいせつな音楽を構成する一部であり、表現の役割を担っているのだ。

 

ほれぼれと梧竹の作品に取り込まれたあと、隣の大久保利通の書を見る。立派な料紙だ。

字と字の間に間隔がないことで、とたんに息苦しさを覚えるような気がしてしまった。大久保利通の書には、音楽はない。(勝手に偉そうにごめんなさい、大久保さん。)上から下までまっすぐに、間をおかずに突き進んでいる。

 

しかし、その隣の西郷隆盛の書を見ると、おおらかさが感じられ、ほっと呼吸も復活。筆を動かし、リズムにのっている西郷の腕の太さ、頼もしさが思われた。

 

脱線してしまいました。

東博はもう年末休み。新年は1月2日から。

常設の年間パスを買ったので、今年はこまめに行けると嬉しいのだけれど。

 


●国立能楽堂「柴田是真と能楽-江戸庶民の視座ー」

2022-12-23 | Art

国立能楽堂「柴田是真と能楽-江戸庶民の視座ー」

2022年10月29日~12月23日

 

千駄ヶ谷の国立能楽堂へ行ってきました。

 

能楽堂の中の資料展示室にて、柴田是真(1807~1891)と能のかかわりについて、展示されています。

(能の公演は見ず、展示室だけ見る場合は、ぐるっと左のほうに回ったところに資料室の入口があります。)

 

柴田是真というと、花や草木をモチーフにしているイメージでしたが、能の画題については、初めての視点でした。

能の写生、下絵、本画など幅広く展示されています。先日の日記に、東京藝大で拝見した是真の写生帖の素描について書きましたが、その写生帖95冊のうちほかの冊も展示され、パネル展示もあり、人物の素描もたっぷり見ることができました。

なかでも20代の写生帖からは、是真が初歩から能について学んでいく足跡をたどることができました。

 

一室だけの展示ですが、点数も多く大充実。無料です。

能以外にも、花草木の屏風や掛け軸、仏画、櫛や文箱、印籠なども。是真のオールマイティさには改めてうならされます。

以下、備忘録です。(画像は画集から)

今回の企画展でうれしいのは、写生帖、下絵、手控えと、素の是真を垣間見れたこと。

是真の筆跡やデザインはいつもスタイリッシュで魅力的なので、超越したひとと思っていたけれど、天才は一日にしてならず。B5より少し小さい画帖にびっしりと描かれた写生は、地道そのもの。

氷山の下に、この95冊にも及ぶ写生と多くの下絵の模索がある。

 

能についての写生は、是真が22歳のときから始まっている。道具類や面も写生し、それらの名称や使途、演目を書き添え、能について学ぼうとしている。

観世大夫邸での稽古能の写生 文政11年(1827年)

絵師としてはすでに、浅草・東本願寺の障壁画を受注するほどだったそうだけど、能とは縁のない階級に生きる一絵師。それがどういういきさつか、観世大夫邸への出入りが叶い、練習中の現場を描きとめている。

動画を撮るとかできない時代、見ながら、リアルタイムに筆を動かす。つくづく、是真を含め江戸時代の絵師は、手から筆がはえているのじゃないかと思う。

 

そんな駆け出し状態から、年を重ねるごとに、演者の個を追求していく下絵や本画が増えてくる。

粉本 三番曳図・麦雲雀図

演者の着物の柄の鶴が美しく、本当に飛んでいるように見える。袖から手、扇へと、その動きが見える。

大きな麦が不思議だと思ったら、全く関係のない絵を上下から描いているのだそう。是真は紙を大事にしたので、他にもこうした下絵が多く残されているとのこと。

 

下絵では、同じ場面を何枚も描いている。手や足の角度がわずか10度ずつくらい違う下絵がいくつもある。その中から、一番これぞという姿態を本画にしている。是真の研ぎ澄まされた模索の足跡が見える。

 

羽衣福の神図屏風 嘉永6年(1853年)左隻

同 右隻

私は能に詳しくないのだけど、是真の描く本画の演者は、その身体の芯が、しっかり一本通っている。体幹がぶれてない。歩みだす足先にも強さがある。

足元は、どんなに早い動きのときでも、うわつかず常に地に根差している。そして、翻る袖を形作る是真の筆は強くて緩まず、動きの速さまで描き表されてしる。

演者からは気迫と緊迫が満ち、これは是真の画力の業か、舞う演者の力量ゆえか、それとも両方が合わさって昇華したのか。

(ところで、脇の人物の顔は妙に写実的な面貌なのだけど、これは実在の人物に似せて描いたのかな?)

 

是真は、能楽に題材をとった作品も多く手掛けていく。

高砂図 (40歳代ごろ?) 

木の洞からちょうど姥が出てくるところ。高砂図のなかでもこのシーンは、是真が好んで描いたらしい。小さく打ち寄せる波の様子や、シンプルに描いた松の達筆ぶりにも見入ってしまった。

 

猩々図扁額 明治12年(1879)

赤坂氷川神社へ、表伝馬町からの奉納されたものらしい。是真73歳の作。

写生帖のメモ書きによると、この演者は子方で、(面をつけない)直面(ひためん)の猩々だった。子供とはいえ、速く強い線で書き上げられた後ろ姿は存在感が強い。一方で華やかな着物の模様は細密に描かれており、美しかった。

 

展示の後半は、能以外の作品も多岐にわたって展示され、たいへん充実。

花や草木、動物にいたるまで、地位を得ても綿密に写生をしている。枝や花の立ち姿の描くライン、葉の向き、花弁の角度、細部の写実、是真のこだわりどころが詰まっている。

 

その写生から取って是真が組み合わせると、魔法みたいにすべての花木がステキな仕事をしている。構図の妙が冴えている。

木蓮、トケイソウ、鷺草などを取り合わせている。

 

花車蝶図蒔絵下絵 

引き戸の下絵。縦は90㎝くらいだった。9代目市川團十郎の注文品らしい。

 

仕上がった漆や金蒔絵の箱や器類を直に見ると、是真は卓抜したセンスを持つ”デザイナー””なのだと感じ入ることしきり。

どれも、構図と配置が大胆で、印象的。100年たっても斬新。

 

烏漆絵盃 (50歳ごろ)

 

木葉蒔絵文箱 (40歳代)

このふたの裏には蜘蛛が一匹。

ほかの蓋物も、ふたの裏に、表の衣装と呼応するモチーフを控えめに施してある。こうきたかとしびれてしまう。ふたの表がひとつの自然の光景なら、裏を返すと、そこからもう一足、ふみ入ってみた世界が広がっている。配置とデザインがこれまたとってもかっこいい。

大胆な配置の前段に、写実があるからこそなのか、現実感があり、現代的でもある。

 

蝶漆絵硯箱 (40歳代?)

漆絵の濃淡と金泥で描いている。

 

そして40年を経て80歳の作品、より大胆にかっこよくなっている(!)

蝶絵蒔絵硯箱 明治20年(1887) 

画像では見えにくいけれど、蝶の文様のなかに小さく螺鈿が埋め込まれていて、きらめく!。螺鈿好きには感動的。

 

蒔絵の合間にも、小さな螺鈿の粒々が埋め込まれていて、きらきら✨。

大橘蒔絵菓子器 明治時代

越後の豪農、押木原二朗の注文品らしい。

 

雛図

描表装にも眼をみはってしまった。ひな祭りの道具類を墨と金泥で書き尽くしている。

 

2018年に藝大コレクション展のときにたくさん見た(日記)、丸い天井画の下絵もひとつ再見。3期に分けて展示替え。

千種之間天井綴れ織下図 明治20年(1887)

直径1.2mくらいある大きさ。これが112枚もあるのだからすごい。そんなに植物の種類があるのもすごいけど、丸のなかの入れ込み方も様々パターンを変えていて、湧き出るアイデアがすごい。

明治宮殿の天井のための下絵という、大事業。是真の次男の柴田真哉に注文されたものだけれど、実は、造営宮司は是真が容易に引き受けないことを見越して、真哉に注文。真哉は是真に相談することを見越してのことだと、是真も見透かし、結局は是真が多くを描き、真哉が着色した。

 

是真はどんな父親だったのだろう?。真哉はどんな製作活動だったのだろう?

展示の解説では、藝大が保有する写生帖95冊は、是真は次男の真哉に譲ると遺言を残していたそう。真哉は、長男の令哉に申し入れたうえで写生帖を相続した。しかし、真哉は4年後に自殺。写生帖は是真の3男(真哉の異母弟)が譲り受け、その娘から藝大へ渡った。

 

是真がどんな人物だったのかわからないけれど、是真の描く動物は、とてもかわいい。

漆絵青海波兎図 明治時代

 

多色刷鯉図 明治時代

 

それで、たぶん是真は猫好きで、猫を飼ってたと思う。

雪中母子虎図 江戸時代

母トラは眼が大きめでかわいい。毛描きもふかふか。よく見ると、子トラが二匹、母にくっついている。子供を抱えて、母トラは警戒しているのか前方を見据える。

 

粉本 猫筆紙図 江戸~明治時代

この白地にハチワレ頭の猫は、見覚えがある。

2017年の板橋美術館の江戸絵画展で出会った、是真の「猫鼠を狙う図」(1884年)の猫では?(日記)。

ちょっと黒ブチの付き方が違う気もするけど、板橋のこの猫は是真の晩年77歳ごろの作なので、代々の飼っていたのかも。

(源氏物語に出てくるネコも、沈南蘋が描くネコも、こんな白黒ネコだけど、三毛ネコとかトラネコじゃダメなのかな?)

 

粉本 徳若御万歳図 明治時代

蓑亀を5匹、五重塔のように重ねて赤いひもで縛ってある。カニも二匹。蓑亀は、口を開けているの、閉じているのといて、黒目がちのかわいい顔をしている。

ふしぎなタイトルだと思って図録の解説を読むと、この組み合わせは是真がしばしば描いたとあり、これにまつわる是真の逸話が興味深い。

:ときの光格天皇(1771~1840)のおり、「徳若に御万歳」を音で表すようにとの勅題があった。京の絵師はだれもできないでいたが、ちょうど1830年、24歳で江戸から京に赴き、岡本豊彦のもとで修行していた是真がこのお題を解き、絵を描いた。つまり、”亀は万年”なので5匹で、御(=五)万歳。その結わえた紐を、徳若に(=解くはカニ)と。

是真の機知の才は、もうすでに若いころからだったか。

そしてこの「徳若御万歳」にはもうひとつ、のちの逸話があるそう。

:深川の菓子商・船橋屋(←くずもちの船橋屋とは違うのかな??)がこの図を菓子にして得意げに持ってきたが、是真は、「勅題を食べるとは不遜」として追い返したとか。

上述の明治宮殿の造営宮司も知っていた、是真のちょっとめんどくさい性格がうかがわれるかも。

 

興味の尽きない是真。今回は、藝大、国立能楽堂、江戸東京博物館の所蔵だけでなく、個人蔵のものも多く拝見できる、貴重な機会でした。

ちょうど能の公演中で、かすかに笛の音も聞こえてきました。

 

 

 


●静嘉堂文庫美術館「響き合う名宝ー曜変、琳派の輝き」

2022-12-17 | Art

静嘉堂文庫美術館 2022/10/1(土)〜12/18(日)

「静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展Ⅰ 響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」

 

この度、世田谷から丸の内へ移転。

開館記念ということで、岩崎弥太郎、小彌太親子が集めた、茶道具・琳派・中国書画、陶磁器・刀剣など、国宝、重要文化財が目白押しの貴重な機会。

人数制限されているので大混雑というわけではありませんが、列に並んでゆっくり進みながら観る、たまに「立ち止まらないでお進みください」とスタッフの声掛けがある、といった状態でした。

特に、曜変天目茶碗は黒山の人だかり。前に見たことがありますので、今回は残念ながらあきらめました。ひとめ見ちゃったらたいへん。吸い込まれて進みたくなくなるのは分かっていますから。

 

今回は、酒井抱一「波図屏風」をお目当てにやってきたのです。

念願かなって、やっと実物を見られました。

しかもなぜか、他の部屋に比べて、この琳派の部屋だけはすいていました。波図屏風とその隣の(伝)尾形光琳「鹿鶴図屏風」の前は、並ぶひともなく、前後左右からゆっくり見られました。

 

酒井抱一(1761~1829)「波図屏風」1815年 (撮影禁止なので、画像は日曜美術館から)

大きな画面に、銀の闇、冷涼さ。”月下波図”といってもいいのでは。

酒井抱一のこんなに荒ぶる筆を見た記憶がなく、圧倒されました。

割れ、かすれをものともしない太く強い筆跡は、藁筆を用いたらしい。

白波には胡粉を用いています。

そして、ところどころに少し白緑。夜の海の冷たさ、海水の実感を感じました。

地は、銀箔。銀が黒ずむことなく、まだ輝きを保っていて、状態が良いのに感激しました。

偶然ではなく、抱一は黒ずみを防ぐため、銀地のうえに薄墨をはいておいたのだそうです。薄墨の水が流れたような跡も少し見えました。

 

抱一は光琳の波に着想を得て、この波図を描いたと言われているそうです。

波の波形など共通する部分もあり、確かにそうかもしれない。光琳の「風神雷神図」を踏襲して抱一も描いたように、「波を描く」ことで光琳の足跡を追ったかもしれない。

でも、素人目には、抱一には、光琳にはない波の実感が強い気がするのです。

波の実感で思いだされるのは、むしろ、円山応挙(1733~1795)のいくつかの波涛図です。

抱一は応挙ほど写実感を追求していないけれども、光琳よりむしろ応挙的な現感覚が強いような。。

抱一の右隻には、上から襲うように沸き立つ波、遠くから白波をたてて押し寄せる波。左隻には、幾重にも繰り返し押し寄せてはうねる波。波頭を立てては砕ける波。

抱一は海を遠くまで見渡しつつ、足元間近に波と水を実感している。どこかでそんな荒い海を体験をしたのだろうか?。

玉蟲敏子「都市の中の絵ー酒井抱一の絵事とその遺響」には、江戸からあまり出ることのなかった抱一だけれど、「江の島詣でを欠かさなかった」と。

江の島とか七里ヶ浜だった可能性大かも?!。

そして、この本には、光琳から100年を経た抱一の生きる江戸後期という時代性に触れていました。「明清画のしんねりとした波型の残影が認められる」と。

 

それにしても、応挙の波涛図を思い起こし、両方を頭に浮かべるにつけ、抱一の波図には月光の意図があるように、いっそう強く感じられました。

そしてますます、描かれていない月の光が際立って、思い出されてくる。描いたモチーフの向こうに、描かれてはいない物語と感情を感じてしまう。やはり抱一だと感じた次第でした。

そして筆一本でこの世界を生み出してしまう、暗さと月の光まで見せてしまう、水墨画ってすごい、と改めて思いました。

 

この屏風については、注文主であろう本多太夫なる人物にあてた書簡も残っています。実家の姫路藩、酒井雅楽頭家の家老と推察される人物らしいですが、抱一も会心の作だったようで、「自慢心にて御めにかけ候」と書いています。心身ともに自己を波の間に持っていき、2度とは描けない絵なのでしょう。

 

だらだらして描いてしまったけれど、この展覧会のもう一つのお目当て。

沈南蘋「老圃秋容図」 清時代 1731年

虫を狙うぶちネコがかわいくて。

とびかかる0.5秒前みたいに、もう前足も上がっています。顔もかわいい。

夏の終わりか、朝顔、菊、トロロアオイも見えます。

虫はたいへんだけれど、のんびり平和な日常の絵。ネコが吉祥画題というのもうなずけます。

 

他には、抱一の「絵手鑑」の画帖も見ものでした。琳派風、水墨など、さまざまな描き方を使いこなしていました。

赤が美しい蔦紅葉を繊細に描いたかと思えば、黒い楽茶碗などは、あの無骨さ、黒い塗りの質感まで、ざっくりと墨だけで再現し得てていました。釉薬のたれたところも、墨のにじみでうまく表していて、思わず恐れ入りましたよ。

茄子も魅惑的。

 

弟子の鈴木其一は「雪月花三美人図」の三幅。花も着物の模様も細密に美しく、絵の具の発色の良さにも見惚れました。

 

静嘉堂文庫が入る明治生命館は、1934年(昭和9年)に竣工。岡田信一郎設計。戦後はアメリカ極東空軍司令部として接収され、マッカーサーも何度も会議に訪れたそうです。

今回はいけませんでしたが、ショップも大きくなり、地下にはカフェやレストランもあるので、便利になりました。

通路側の壁には、俵屋宗達の源氏物語澪標図屏風がモニターで次々と大きく展示されていて、細部まで見られます。

東京駅周辺がますます魅力的になりました。