わりと速く移動していました。
東南アジア沿岸やアメリカ東海岸にもまだいるんですね。
カブトガニ祭りもあるらしいです。楽しそう。
大飛島から。
黄金の大ナマズ(日記)の近くのベトナム料理屋さんで、ベトナム版「鳥獣戯画」みたいな絵に出会いました。
京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺光源院 2024年1月8日~3月18日
先月ですが、京都の相国寺に行ってきました。
お目当ては、塔頭の光源院。
しばらく展覧会に行けない生活だったので、投稿も久しぶりです。
東博に来たのも、昨年の12月に年間パスポートを作って以来。年パスの意味が…。
平成館ではやまと絵展が開催中なので、この日の常設の2階でもやまと絵を中心に展開されていました。
*
一階では、柴田是真の四季図屏風に再会。色も鮮やかなまま保たれ、どこを切り取っても完璧です。
「光風斉月帖」1936にも再会。
橋本関雪、小林古径、前田青邨、安田靫彦、大観、鏑木清方、玉堂、菊池契月、富田渓仙、和田英作の合作の巻物。
なんとなく画家の字と絵の線がシンクロしていて、ほほえましい。幅、リズム、きっさき、筆勢、字は絵も性格もあらわすのかな。
特に、前田青邨の魚のピチピチ生動感は、青邨の字にも重なります。字がそのまま生きた魚に見えてきたり。
横山大観 字のままですね。
安田靫彦
見惚れるのは、菊池契月の「八幡伝説」
色紙大の小さな紙に、洒脱な短い線で素速く人と馬を生み出し、金と胡粉をすうっとはいただけなのに、無限の広がり。
2階では「近世のやまと絵-王朝美の伝統と継承ー」特集。
宗達工房の屏風から、土佐派、住吉派、板谷派も。さらには琳派、復古やまと絵まで、あしかけ300年をひとめぐり。
印象的だったのは、宗達工房の「四季図屏風」17世紀。
一つ一つの花の存在感が強く、気を発しているよう。
400年たっても古い感じがしないのがすごい。
嘉永の大嘗祭の悠紀屏風(1948)土佐光孚 は、青い色があまりにきれいでくぎ付け。
孝明天皇の即位の大嘗祭のもの。近江が描かれています。
金だけじゃなく、青いすやり霞を見たのは初めて。
と思っていたら、昨日(11月27日)放送のNHKの「大奥」で、将軍家茂が上洛して、孝明天皇に拝謁するシーンの間に、このような青い霞が。
先述の屏風も孝明天皇の時代。
現在の京都御所もこのような襖絵であるようだ。
NHKの美術さんの時代考証は抜かりない。
(それにしても、NHKの時代劇の襖や掛け軸、着物は、人物のキャラや状況に合わせて、しかも美しくて、つい人物のうしろにくいついてしまいます。「大奥」でも、江戸城の家茂の間は狩野派っぽい水墨の山水画だし、和宮とその母の間は豪華なやまと絵ふうだったり。「どうする家康」でも、大阪城の金の襖絵の豪華なことときたら。)
細部は土佐派らしく細やかで、菊が美しいのでした。
近衛信尹の和歌屏風(安土桃山~江戸)も見入ってしまいました。
ゆるまないスピードと打ち付けるようなリズムで書きつけられる書。信尹がはりつめた中に興に乗って、最高のステージに達した短い時間、これまた400年たってもライブ状態。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに寛永の三筆と称される信尹。秀吉とのなんやかやで数年薩摩に流され、その時に書体も変化をしたらしい。島津の庇護のもとで充実した暮らしだったらしいですが、どのように変化したのか、見る人が見れば、この書がいつ頃のものかわかるのでしょうか。
非業の死を遂げた復古やまと絵派の二人、冷泉為恭と田中訥言が並ぶ一角もありました。
田中訥言「舞楽図」17世紀
左に陵王と、右側の蛇を持つのは還城楽。平面の画なのに、動きが迫真で鮮烈な印象。
両者とも息ぴったり。二人で左上がりの無限「∞」ループのかたちをなしているよう。
訥言ファンとしては嬉しいことに、別のコーナーに、平等院鳳凰堂の模写も6面展示されていました。
田中訥言模写「日想観図」19世紀
田中訥言模写「中品上生図」19世紀
冷泉為恭「後嵯峨帝聖運開之図」19世紀
百姓から献上された米を洗ったところ、亀が現れ、運が開けて天皇になれたという言い伝えとのこと。
まるでその場の会話が聞こえそうなほど、人物が自然な感じに再現されていました。
藤袴の足元の亀がかわいいです。
栄花物語図屏風 土佐光祐 17世紀
女性だけ着色されていないので、未完なのかと思ったら、こういう趣向のよう。(姫君の塗り絵用にも使える?)
よくよく見ると、色をつけずとも、着物の柄は線で大変精緻に書き込まれていたり、胡粉で盛り上げてあったり、型押し?で凹凸がつけられていたり、
↓この打掛は、白地に白で微かな模様。アンミカの「あんな、白には200色あんねんで。」が脳裏に浮かんだ瞬間。
土佐派のお顔は、ほっぺたほんのりなのがかわいいです。
住吉具慶の源氏物語絵巻 17~18世紀
萩の美しいこのシーンは心に残りました。住吉派もお顔がかわいいです。
「車争図屏風」狩野山楽 1604年
六条御息所と葵の上の車争い。もとは、淀殿が養女と新郎のために新築した九条御殿の襖絵だったものとか。このシーンを新婚の家に設える淀殿って…。
しかしどこを見ても見飽きないのです。山楽すごい。
右の整列から、左の蜂の子を散らしたような騒ぎへ。解説には、乱闘場面あたりが「円環状の構図」をなしているとあったけれど、たしかに、旋風のごとく渦を巻いています。
どの人物も手を抜かない山楽。表情と動きにただただ圧倒されました。
乱闘だけでなく、周囲の庶民のようすもおもしろいです。
この屏風ひとつを映画に再現したら、何十分にもなるであろう中身の濃さ。そして外観上の構成の妙。たいへんおもしろい時間でした。
このころには疲れてしまって、屏風ルームに来たときにはもう、真ん中のソファに座りこんで一休み。
色鮮やかで精緻なやまと絵を見てきた後だからか、一見しただけでは、この部屋の3方向どの屏風も、状態も悪く色もうす暗い印象。そう目の端に感じつつ、絵も見ないで休んでいました。
ところが。しばらくして顔を上げると、まるで別世界だったのです。
目の前にこのぽっかりとした山。
深江芦舟「蔦の細道図屏風」18世紀
自分がここに入りこんで立っているような不思議な感覚。楽しい体験でもありました。描きこまないシンプルな形が、疲れたところにちょうどいい。
深江芦舟は尾形光琳の門人らしい。絵から頑張っちゃってるところを抜いた感じ(どんなん)が通じるかも。
そして左を見ると、ナビ派を想起させる森。
なんだか洋画を見ているようで、400年も前の絵師が描いたという感じがしない。
「桜山吹図屏風」伝俵屋宗達 17世紀
↓このあたりのナビ派に重なったのでした。ナビ派もジャポニズムの影響を受けているので、あながち的外れでもないかも。
この屏風もナビ派も、せかせかコマコマしていなくて、ゆるいひと時。深い休息の呼吸が戻ってきます。
それでも、近づくと、この桜の生気に圧倒されたのでした。
そして最後の一作を見ると、またしても最初の印象が一変。月がこうこうと輝いていたのです。
「柳橋水車図屏風」作者不詳 16~17世紀
恐ろしいほどに独特。
二隻にわたって大きくかけられた橋が大胆。黒々とした幹をしならせる動きに目を見張る。
それに対して、柳の葉や水流の線は乱れず規則的という、このギャップ。
水車は設計図レベル。
クレイジーなこの絵師は何者??
(2024年1月追記:これとそっくりな「柳橋水車図屏風」が香雪美術館にあります。長谷川等伯筆の重要美術館。人気の画題だったらしく、長谷川派の工房作のものが他にも30程度あるそう。)
これが定型なのか、非定型なのか。定型と非定型を両方を兼ね持つのが、日本の伝統なのか?
題材や技法は伝統的なものであるのに、400年500年たっても、全く古びないと思えるのは、どうしてなのか?。絵師が唯一無二なところで描いているからなのか?。
精緻で雅びなやまと絵のあとに、なぜこんなざっくりとした屏風をここに揃えたのかと不思議に思ったのですが、この体験を狙った構成だったのかと勝手に解釈し、東博ってすごいと充幅に包まれて帰しました。
やまと絵という日本古来の伝統的な絵の特集の日だったのですが、その系譜のいくつもの作品に、古風を感じず、なんなら今より自由で、突き抜けた作ぞろいであることに、固定観念を壊されたのでした。
茨城県の常総市へ。
豪農屋敷「坂野家住宅」を見学してきました。
大河ドラマの「篤姫」「龍馬伝」や「JINー仁」など多くのロケ地としても使用されているとのこと。いわれてみれば、既視感が確かにありました。
坂野家は500年ほど前に、旧大生郷村のこのあたりに土着し、有力な名主だったそうです。
竹林に囲まれた3000坪の敷地に、主屋、二階建ての書院、蔵、数棟の納屋などが建っていました。
主屋は元禄時代(1688~1704年)に建てられ、その後1838年ごろに座敷の棟などが増築されたようです。月波楼と呼ばれる二階建ての書院は、平屋だったのを大正時代に二階を増築したようです。
平成10年に市が土地・建物を譲り受け、解体修理が行われました。
建物内には、当時の掛け軸や襖絵がそのまま使用されていました。それがさらっと、奥原晴湖だったり!、藤田東湖や山岡鉄舟だったり!。
幕末・明治期、11代当主・坂野耕雨(1802-62)、その嫡子の12代当主・坂野行斎は、二人とも文人当主と呼ばれたそうで、二人の交流が偲ばれました。
所蔵品目録を見ても、亀田鵬斎、田能村竹田、立原杏所、木村武山、菅井梅関、椿椿山など、茨城や栃木ゆかりの人物を中心とした書家や画家の作品がてんこ盛り。
二人の当主の趣向や、この家を行き来した文人たちの足跡が感じられて、興味ひかれました。
周辺は水田や林が広がる、民家もまばらなところ。
豪農の屋敷ですが、門構えは武家屋敷のよう。
薬医門(元禄時代:国指定重要文化財)
坂野家は幕府の役人が逗留することもあったため、城郭や武家屋敷などに認められた薬医門の形になっているとのこと。
室内も、武家屋敷と豪農屋敷、商家がミックスされたような感じを受けました。500年前の新田開発の頭取を命じられて以来、この地域のさまざまな役目をになってきたのかなと思いました。
二宮金次郎も、天保期(1830~1844年)に荒地再興の為、坂野家住宅に滞在したそうで、書簡などが残されています。
向かって右側の主屋が元禄時代の築。(国指定重要文化財)
左側の棟が、1838年の増築部分でしょうか。この棟の玄関は、式台を設けてあり、最も格式の高い座敷に続きます。この玄関は、身分の高い人のためのもので、当主でさえ使用することはなかったそう。
主屋は、土間、茶の間、仏間など生活感のあるスペースと、身分の高い人物を迎え入れる「座敷部」で構成されていました。
帳場
茶の間。奥に土間。
かまどとお鍋が大きかった!
冷蔵庫
蔀戸(しとみど)
横にスライドさせて、通風や採光を調節可。天井から下がる金具に引っ掛けて全面開放することもできる優れもの。
戸の上に槍が。撮り忘れましたが、別の戸には、天狗党が押し入った際の刀傷と言われる跡がついていました。
脇玄関襖絵(右襖) 「富貴図」根本愚洲 ((1806-73)、大槻磐溪賛
この日は一面しか見えませんでしたが、左襖は、岡本秋暉筆ですと!
岡本秋暉(1807~62)といえば、展覧会で何度か、千葉県柏市の名主・寺嶋家の摘水軒コレクションからの出品だと拝見したことがあるけれど、秋暉は1846年ごろに寺嶋家に逗留していたとか。時期が合うけれど、双方つながりはあったのでしょうか。寺嶋家は、私の好きな亀田鵬斎とも交流があったとのこと、坂野家の所蔵品のなかにも亀田鵬斎の書があり、気になるところです。
摘水軒コレクションは、秋暉はじめ、北斎や若冲でも色鮮やかな肉筆絵画がたくさんあるようなのですが、坂野家には、カラフルな画はなかった印象です。ほぼ墨だけで描かれた画ばかりで、むしろ書が多い。坂野家に泊まった客人が書いていった、主と書簡をやりとりした、文人つながりで入手した、そういう経緯の画や書をたいせつに保管したり、室内に設けたりしてきたのでしょうか。
座敷部分は、一の間、二の間、三の間と見渡せます。
一の間は、二の間、三の間に比べて天井も高く、最も格式の高い部屋。
一の間
床の間の掛け軸は、奥原晴湖。
脇床の違い棚に置かれた額は、藤田東湖。
脇床の天袋に貼りこまれた絵は、特に解説がなかったのですが、なにか由緒ありげな…。
と思ってあとで検索してみたら、「漁師図」は、高久隆古(高久靄厓の跡継ぎ)。
「驟雨図」は、福田半香。
菊は、小池池旭(大沼枕山(知らないけど漢詩人だそう)の妹)。
この絵も気になるのですが、誰かわからず。
高久隆古、福田半香、池旭・枕山兄妹は、11代当主・耕雨のとき、ともに坂野家に滞在し、その折に描かれたようです。筆を渡されれば即興で描ける、皆で興にのって描くって憧れます。
一の間の欄間も見もの。
左右で文様が違いますが、家人はずっと家紋の蔦の欄間(上の一枚目の写真)と思っていたところ、あるとき蔦の部分が落ち、下から菊の透かしが現れたそう。江戸時代には菊で作られていたが、明治に入り天皇家と同じでは恐れ多いということで、蔦を取り付けたのかも、と解説シートにありました。
ほかの欄間もひとつひとつがどれも佳い風合いでした。
屋敷全体に、華美にはしないように心掛けつつ、格式を高く設えたことが感じられました。
仏間
掛け軸は、当主・坂野耕雨によるもの。
渡り廊下から二階建ての書院・月波楼へ。
もとは主屋とともに平屋で建てられたものを、大正9年に2階に建て直したとのこと。
月波楼は、この地方の文化サロンの拠点であり、江戸からも文人墨客を招聘したそうです。
相当多くの人が一同に集うことが多かったのでは。あの大かまどといい、そして印象的なのが、坂野家はトイレが多いこと。主屋にもいくつかありましたし、月波楼の一階、二階にもそれぞれふたつずつ。
月波楼の一階座敷
書は、富岡鉄舟。
その右側、書院の地袋と組子障子。
地袋はだれかわからず。
二階へ
月波楼の二階は眺望良好。月も見えたのでは。
当時のままのガラスは、ゆらぎがいい風合い。
掛け軸は、1858年に、鷲津毅堂・西村以寧・秋場桂園・坂野耕雨による連句を、鷲津毅堂が記したもの。
押入の襖は、川村雨谷の四君子。扁額の「月波楼」の書は中村不折。
二つの間を仕切る襖の絵も、川村雨谷。
富貴平安・歳寒二友図を4面に。開けてあったので梅と牡丹のみ拝見できました。
その裏の襖絵は落款もなくだれということもないのかもしれないけれど、ほのぼのしていてお気に入り。
月波楼の組子も、どれもさりげなく美しくて目移り。六本木の小山富美男ギャラリーで見たソピアップ・ピッチを思い出しました。
二階の欄間 真ん中で別の模様に切り替わっています。
どこだったかな?(広くて順路に随って回っているうちに自分がどこにいるかわからなくなります)
こちらの障子もさりげなくそよ風な感じがいいです。月波楼だけに、さざ波か月光かも。
月波楼の一階の浴室。
タイルが大正モダン。
見上げてびっくり、天井が六角形。から傘天井というらしい。
このお風呂は、沸かすところはなく、女中さんが主屋で沸かしたお湯を運んできたそう。
「文庫蔵」
「三番蔵」
農産物の蔵?。屋敷内では文人的側面が印象的でしたが、やはり豪農の屋敷だと実感。
地面のこういうぬかるみ後の乾き方、久しぶりに見ました。
出てくると月がでていました。
興味尽きないお屋敷でした。坂野家の多くの所蔵品は、常総市のデジタルミュージアムで見られますが、いつか展覧会が開催されることを期待します。
先日ですが、東博の常設を見に行きました。
*
渡辺崋山(1793~1841)が描いた「佐藤一斎(五十歳)」1821年 に再会。
怖いのですよ、この儒学者。気難しそうで、猜疑心強そうで、いい加減にしてたりテキトーにすまそうとしたら怒られそうで。
佐久間象山や渡辺崋山も一斎のもとで学び、教えを受けた者は3000人。
崋山が28歳の若いころに描いた師の肖像。内面をえぐるほどに見透して描き出す崋山がこう描くのだから、実際もこんなような人物だったのだろうと思う。
隣には、この一斎(1772~1859)の70歳の肖像も展示されていた。
崋山の弟子であり友でもある、椿椿山が1841年に描いた二幅。
一斎は70歳になっても、鋭いまなざしと気迫は健在。
むしろ、ますます気骨が深みを増した感。
比べると、崋山の描いた50歳の一斎には、多少まだ青臭さもあったかに見える。
崋山の鋭すぎる感性のせいかもしれない。
椿山がこの肖像を描いたのは、1841年。
すでに崋山は蛮社の獄で蟄居の身。そして田原の自邸の納屋で自刃したのが、この1841年の11月23日。この肖像が描かれたときはおそらく、崋山は生きていたかもしれない。
椿山は、崋山を助けようと奔走し、蟄居後は経済的な支援をしたりしたけれど、一斎は崋山を擁護するために何もしなかった。椿山の縁者(椿山の長男の嫁の父)に崋山救済運動に力を貸すよう頼まれても、その者に、懇意であると示すことは賢明ではないと忠告さえした(このあたりは、ドナルド・キーン「渡辺崋山」に詳しい。)。一斎の本心はわからないけれども。
それにしても、お気の毒に見えて仕方ないのは、左幅に描かれた一斎の奥様。
この面持ち、さぞやストレスMAXの何十年だったのでは…。
こんな気難しそうなだんな様に仕えて、気の休まる日はあったのだろうか。「茶がぬるい」とか叱られそう…。
二幅を同時に見ても、今とは時代が違うとはいえ、叱ってる人と、叱られてる人、みたいにも見える。
2016年に、実践女子大学で、佐藤一斎の晩年の書を見たことがある。(日記:「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館)
気迫と激しさのあるかすれ。丸みも柔らかみもない、厳しく強い印象。
一斎の肖像と重なる。書はその人を良く表すのだろうか。
書というと、この日の東博には、大好きな中林梧竹(1827~1913)の書も展示されていた。
梧竹の字は、いつもリズムが流れている。
初めて梧竹の書を見たときは、書というより、絵画だ!ミロか?!、と感動したものだった。
この作品も、字と字の間の、何も書かないところにも、リズムが流れている。字と字のあいだの白い「間」のところにも、音楽があり、「間のはば」もたいせつな音楽を構成する一部であり、表現の役割を担っているのだ。
ほれぼれと梧竹の作品に取り込まれたあと、隣の大久保利通の書を見る。立派な料紙だ。
字と字の間に間隔がないことで、とたんに息苦しさを覚えるような気がしてしまった。大久保利通の書には、音楽はない。(勝手に偉そうにごめんなさい、大久保さん。)上から下までまっすぐに、間をおかずに突き進んでいる。
しかし、その隣の西郷隆盛の書を見ると、おおらかさが感じられ、ほっと呼吸も復活。筆を動かし、リズムにのっている西郷の腕の太さ、頼もしさが思われた。
脱線してしまいました。
東博はもう年末休み。新年は1月2日から。
常設の年間パスを買ったので、今年はこまめに行けると嬉しいのだけれど。
2022年10月29日~12月23日
千駄ヶ谷の国立能楽堂へ行ってきました。
能楽堂の中の資料展示室にて、柴田是真(1807~1891)と能のかかわりについて、展示されています。
(能の公演は見ず、展示室だけ見る場合は、ぐるっと左のほうに回ったところに資料室の入口があります。)
柴田是真というと、花や草木をモチーフにしているイメージでしたが、能の画題については、初めての視点でした。
能の写生、下絵、本画など幅広く展示されています。先日の日記に、東京藝大で拝見した是真の写生帖の素描について書きましたが、その写生帖95冊のうちほかの冊も展示され、パネル展示もあり、人物の素描もたっぷり見ることができました。
なかでも20代の写生帖からは、是真が初歩から能について学んでいく足跡をたどることができました。
一室だけの展示ですが、点数も多く大充実。無料です。
能以外にも、花草木の屏風や掛け軸、仏画、櫛や文箱、印籠なども。是真のオールマイティさには改めてうならされます。
以下、備忘録です。(画像は画集から)
*
今回の企画展でうれしいのは、写生帖、下絵、手控えと、素の是真を垣間見れたこと。
是真の筆跡やデザインはいつもスタイリッシュで魅力的なので、超越したひとと思っていたけれど、天才は一日にしてならず。B5より少し小さい画帖にびっしりと描かれた写生は、地道そのもの。
氷山の下に、この95冊にも及ぶ写生と多くの下絵の模索がある。
能についての写生は、是真が22歳のときから始まっている。道具類や面も写生し、それらの名称や使途、演目を書き添え、能について学ぼうとしている。
観世大夫邸での稽古能の写生 文政11年(1827年)
絵師としてはすでに、浅草・東本願寺の障壁画を受注するほどだったそうだけど、能とは縁のない階級に生きる一絵師。それがどういういきさつか、観世大夫邸への出入りが叶い、練習中の現場を描きとめている。
動画を撮るとかできない時代、見ながら、リアルタイムに筆を動かす。つくづく、是真を含め江戸時代の絵師は、手から筆がはえているのじゃないかと思う。
そんな駆け出し状態から、年を重ねるごとに、演者の個を追求していく下絵や本画が増えてくる。
粉本 三番曳図・麦雲雀図
演者の着物の柄の鶴が美しく、本当に飛んでいるように見える。袖から手、扇へと、その動きが見える。
大きな麦が不思議だと思ったら、全く関係のない絵を上下から描いているのだそう。是真は紙を大事にしたので、他にもこうした下絵が多く残されているとのこと。
下絵では、同じ場面を何枚も描いている。手や足の角度がわずか10度ずつくらい違う下絵がいくつもある。その中から、一番これぞという姿態を本画にしている。是真の研ぎ澄まされた模索の足跡が見える。
羽衣福の神図屏風 嘉永6年(1853年)左隻
同 右隻
私は能に詳しくないのだけど、是真の描く本画の演者は、その身体の芯が、しっかり一本通っている。体幹がぶれてない。歩みだす足先にも強さがある。
足元は、どんなに早い動きのときでも、うわつかず常に地に根差している。そして、翻る袖を形作る是真の筆は強くて緩まず、動きの速さまで描き表されてしる。
演者からは気迫と緊迫が満ち、これは是真の画力の業か、舞う演者の力量ゆえか、それとも両方が合わさって昇華したのか。
(ところで、脇の人物の顔は妙に写実的な面貌なのだけど、これは実在の人物に似せて描いたのかな?)
是真は、能楽に題材をとった作品も多く手掛けていく。
高砂図 (40歳代ごろ?)
木の洞からちょうど姥が出てくるところ。高砂図のなかでもこのシーンは、是真が好んで描いたらしい。小さく打ち寄せる波の様子や、シンプルに描いた松の達筆ぶりにも見入ってしまった。
猩々図扁額 明治12年(1879)
赤坂氷川神社へ、表伝馬町からの奉納されたものらしい。是真73歳の作。
写生帖のメモ書きによると、この演者は子方で、(面をつけない)直面(ひためん)の猩々だった。子供とはいえ、速く強い線で書き上げられた後ろ姿は存在感が強い。一方で華やかな着物の模様は細密に描かれており、美しかった。
展示の後半は、能以外の作品も多岐にわたって展示され、たいへん充実。
花や草木、動物にいたるまで、地位を得ても綿密に写生をしている。枝や花の立ち姿の描くライン、葉の向き、花弁の角度、細部の写実、是真のこだわりどころが詰まっている。
その写生から取って是真が組み合わせると、魔法みたいにすべての花木がステキな仕事をしている。構図の妙が冴えている。
木蓮、トケイソウ、鷺草などを取り合わせている。
花車蝶図蒔絵下絵
引き戸の下絵。縦は90㎝くらいだった。9代目市川團十郎の注文品らしい。
仕上がった漆や金蒔絵の箱や器類を直に見ると、是真は卓抜したセンスを持つ”デザイナー””なのだと感じ入ることしきり。
どれも、構図と配置が大胆で、印象的。100年たっても斬新。
烏漆絵盃 (50歳ごろ)
木葉蒔絵文箱 (40歳代)
このふたの裏には蜘蛛が一匹。
ほかの蓋物も、ふたの裏に、表の衣装と呼応するモチーフを控えめに施してある。こうきたかとしびれてしまう。ふたの表がひとつの自然の光景なら、裏を返すと、そこからもう一足、ふみ入ってみた世界が広がっている。配置とデザインがこれまたとってもかっこいい。
大胆な配置の前段に、写実があるからこそなのか、現実感があり、現代的でもある。
蝶漆絵硯箱 (40歳代?)
漆絵の濃淡と金泥で描いている。
そして40年を経て80歳の作品、より大胆にかっこよくなっている(!)
蝶絵蒔絵硯箱 明治20年(1887)
画像では見えにくいけれど、蝶の文様のなかに小さく螺鈿が埋め込まれていて、きらめく!。螺鈿好きには感動的。
蒔絵の合間にも、小さな螺鈿の粒々が埋め込まれていて、きらきら✨。
大橘蒔絵菓子器 明治時代
越後の豪農、押木原二朗の注文品らしい。
雛図
描表装にも眼をみはってしまった。ひな祭りの道具類を墨と金泥で書き尽くしている。
2018年に藝大コレクション展のときにたくさん見た(日記)、丸い天井画の下絵もひとつ再見。3期に分けて展示替え。
千種之間天井綴れ織下図 明治20年(1887)
直径1.2mくらいある大きさ。これが112枚もあるのだからすごい。そんなに植物の種類があるのもすごいけど、丸のなかの入れ込み方も様々パターンを変えていて、湧き出るアイデアがすごい。
明治宮殿の天井のための下絵という、大事業。是真の次男の柴田真哉に注文されたものだけれど、実は、造営宮司は是真が容易に引き受けないことを見越して、真哉に注文。真哉は是真に相談することを見越してのことだと、是真も見透かし、結局は是真が多くを描き、真哉が着色した。
是真はどんな父親だったのだろう?。真哉はどんな製作活動だったのだろう?
展示の解説では、藝大が保有する写生帖95冊は、是真は次男の真哉に譲ると遺言を残していたそう。真哉は、長男の令哉に申し入れたうえで写生帖を相続した。しかし、真哉は4年後に自殺。写生帖は是真の3男(真哉の異母弟)が譲り受け、その娘から藝大へ渡った。
是真がどんな人物だったのかわからないけれど、是真の描く動物は、とてもかわいい。
漆絵青海波兎図 明治時代
多色刷鯉図 明治時代
それで、たぶん是真は猫好きで、猫を飼ってたと思う。
雪中母子虎図 江戸時代
母トラは眼が大きめでかわいい。毛描きもふかふか。よく見ると、子トラが二匹、母にくっついている。子供を抱えて、母トラは警戒しているのか前方を見据える。
粉本 猫筆紙図 江戸~明治時代
この白地にハチワレ頭の猫は、見覚えがある。
2017年の板橋美術館の江戸絵画展で出会った、是真の「猫鼠を狙う図」(1884年)の猫では?(日記)。
ちょっと黒ブチの付き方が違う気もするけど、板橋のこの猫は是真の晩年77歳ごろの作なので、代々の飼っていたのかも。
(源氏物語に出てくるネコも、沈南蘋が描くネコも、こんな白黒ネコだけど、三毛ネコとかトラネコじゃダメなのかな?)
粉本 徳若御万歳図 明治時代
蓑亀を5匹、五重塔のように重ねて赤いひもで縛ってある。カニも二匹。蓑亀は、口を開けているの、閉じているのといて、黒目がちのかわいい顔をしている。
ふしぎなタイトルだと思って図録の解説を読むと、この組み合わせは是真がしばしば描いたとあり、これにまつわる是真の逸話が興味深い。
:ときの光格天皇(1771~1840)のおり、「徳若に御万歳」を音で表すようにとの勅題があった。京の絵師はだれもできないでいたが、ちょうど1830年、24歳で江戸から京に赴き、岡本豊彦のもとで修行していた是真がこのお題を解き、絵を描いた。つまり、”亀は万年”なので5匹で、御(=五)万歳。その結わえた紐を、徳若に(=解くはカニ)と。
是真の機知の才は、もうすでに若いころからだったか。
そしてこの「徳若御万歳」にはもうひとつ、のちの逸話があるそう。
:深川の菓子商・船橋屋(←くずもちの船橋屋とは違うのかな??)がこの図を菓子にして得意げに持ってきたが、是真は、「勅題を食べるとは不遜」として追い返したとか。
上述の明治宮殿の造営宮司も知っていた、是真のちょっとめんどくさい性格がうかがわれるかも。
興味の尽きない是真。今回は、藝大、国立能楽堂、江戸東京博物館の所蔵だけでなく、個人蔵のものも多く拝見できる、貴重な機会でした。
ちょうど能の公演中で、かすかに笛の音も聞こえてきました。
静嘉堂文庫美術館 2022/10/1(土)〜12/18(日)
「静嘉堂創設130周年・新美術館開館記念展Ⅰ 響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」
この度、世田谷から丸の内へ移転。
開館記念ということで、岩崎弥太郎、小彌太親子が集めた、茶道具・琳派・中国書画、陶磁器・刀剣など、国宝、重要文化財が目白押しの貴重な機会。
人数制限されているので大混雑というわけではありませんが、列に並んでゆっくり進みながら観る、たまに「立ち止まらないでお進みください」とスタッフの声掛けがある、といった状態でした。
特に、曜変天目茶碗は黒山の人だかり。前に見たことがありますので、今回は残念ながらあきらめました。ひとめ見ちゃったらたいへん。吸い込まれて進みたくなくなるのは分かっていますから。
今回は、酒井抱一の「波図屏風」をお目当てにやってきたのです。
念願かなって、やっと実物を見られました。
しかもなぜか、他の部屋に比べて、この琳派の部屋だけはすいていました。波図屏風とその隣の(伝)尾形光琳「鹿鶴図屏風」の前は、並ぶひともなく、前後左右からゆっくり見られました。
酒井抱一(1761~1829)「波図屏風」1815年 (撮影禁止なので、画像は日曜美術館から)
大きな画面に、銀の闇、冷涼さ。”月下波図”といってもいいのでは。
酒井抱一のこんなに荒ぶる筆を見た記憶がなく、圧倒されました。
割れ、かすれをものともしない太く強い筆跡は、藁筆を用いたらしい。
白波には胡粉を用いています。
そして、ところどころに少し白緑。夜の海の冷たさ、海水の実感を感じました。
地は、銀箔。銀が黒ずむことなく、まだ輝きを保っていて、状態が良いのに感激しました。
偶然ではなく、抱一は黒ずみを防ぐため、銀地のうえに薄墨をはいておいたのだそうです。薄墨の水が流れたような跡も少し見えました。
抱一は光琳の波に着想を得て、この波図を描いたと言われているそうです。
波の波形など共通する部分もあり、確かにそうかもしれない。光琳の「風神雷神図」を踏襲して抱一も描いたように、「波を描く」ことで光琳の足跡を追ったかもしれない。
でも、素人目には、抱一には、光琳にはない波の実感が強い気がするのです。
波の実感で思いだされるのは、むしろ、円山応挙(1733~1795)のいくつかの波涛図です。
抱一は応挙ほど写実感を追求していないけれども、光琳よりむしろ応挙的な現感覚が強いような。。
抱一の右隻には、上から襲うように沸き立つ波、遠くから白波をたてて押し寄せる波。左隻には、幾重にも繰り返し押し寄せてはうねる波。波頭を立てては砕ける波。
抱一は海を遠くまで見渡しつつ、足元間近に波と水を実感している。どこかでそんな荒い海を体験をしたのだろうか?。
玉蟲敏子「都市の中の絵ー酒井抱一の絵事とその遺響」には、江戸からあまり出ることのなかった抱一だけれど、「江の島詣でを欠かさなかった」と。
江の島とか七里ヶ浜だった可能性大かも?!。
そして、この本には、光琳から100年を経た抱一の生きる江戸後期という時代性に触れていました。「明清画のしんねりとした波型の残影が認められる」と。
それにしても、応挙の波涛図を思い起こし、両方を頭に浮かべるにつけ、抱一の波図には月光の意図があるように、いっそう強く感じられました。
そしてますます、描かれていない月の光が際立って、思い出されてくる。描いたモチーフの向こうに、描かれてはいない物語と感情を感じてしまう。やはり抱一だと感じた次第でした。
そして筆一本でこの世界を生み出してしまう、暗さと月の光まで見せてしまう、水墨画ってすごい、と改めて思いました。
この屏風については、注文主であろう本多太夫なる人物にあてた書簡も残っています。実家の姫路藩、酒井雅楽頭家の家老と推察される人物らしいですが、抱一も会心の作だったようで、「自慢心にて御めにかけ候」と書いています。心身ともに自己を波の間に持っていき、2度とは描けない絵なのでしょう。
だらだらして描いてしまったけれど、この展覧会のもう一つのお目当て。
沈南蘋「老圃秋容図」 清時代 1731年
虫を狙うぶちネコがかわいくて。
とびかかる0.5秒前みたいに、もう前足も上がっています。顔もかわいい。
夏の終わりか、朝顔、菊、トロロアオイも見えます。
虫はたいへんだけれど、のんびり平和な日常の絵。ネコが吉祥画題というのもうなずけます。
他には、抱一の「絵手鑑」の画帖も見ものでした。琳派風、水墨など、さまざまな描き方を使いこなしていました。
赤が美しい蔦紅葉を繊細に描いたかと思えば、黒い楽茶碗などは、あの無骨さ、黒い塗りの質感まで、ざっくりと墨だけで再現し得てていました。釉薬のたれたところも、墨のにじみでうまく表していて、思わず恐れ入りましたよ。
茄子も魅惑的。
弟子の鈴木其一は「雪月花三美人図」の三幅。花も着物の模様も細密に美しく、絵の具の発色の良さにも見惚れました。
静嘉堂文庫が入る明治生命館は、1934年(昭和9年)に竣工。岡田信一郎設計。戦後はアメリカ極東空軍司令部として接収され、マッカーサーも何度も会議に訪れたそうです。
今回はいけませんでしたが、ショップも大きくなり、地下にはカフェやレストランもあるので、便利になりました。
通路側の壁には、俵屋宗達の源氏物語澪標図屏風がモニターで次々と大きく展示されていて、細部まで見られます。
東京駅周辺がますます魅力的になりました。