hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●番留京子展 ギャラリーオカベ銀座

2018-02-22 | Art

番留京子展 2018.2.12~2.24 ギャラリーオカベ銀座

 

番留京子さんの版画を見に行ってきました。前回は6月に開催されていたので、今年はまだかなと楽しみにしていたのです。(2016年の日記

 

今年のテーマは「Made in Japan」

 

今回も、とってもよかった!

エネルギーが満ち満ちて、あふれている。とにかく、元気が出る。

楽しくなって、思わずにっこりして、おおおと打たれて、ほっこりする。

なにかいいものが、いっぱい体や気持ちの奥から表にでてくる展覧会でした。

番留さんが在廊されていて、いろいろお話しながら拝見し、とても楽しく過ごさせていただきました。

特に好きな作品を以下に。

壁一面使って、どどーんと牡丹が吹き出す。ものすごいパワー。

かつて見た絵の中で一番大きな牡丹。

噴火は怖いけれど、これはいいものがたくさん出てきているのだと。ハッピーカプセルって呼ばれてるそう。

ど・直球。清々しいほど。例えば、山で大きな声で叫んでみる、お行儀もかなぐり捨てて大笑いしてみる、お腹がよじれるほど笑ったそのあとに来るような、根源的な気持ちよさ。

 

赤って色もすごい。メンタル強いぞ、赤。

「Hapiness」 これも約1.7m角もある大きな作。

ひとつひとつ顔を彫ったのだそう。2016年の展示の「五百名山」もそうだったのだけれど、自分に似た顔を探してしまう。

番留さんが、「『バレンタイン?』って言われる」っておっしゃていた(笑笑)。この方はいつも脱力系の自作評をなさる

この作品がデパートのチョココーナーに置いてあったらとっても素敵だ

これだけ顔があっても、いやな感じがしないのはなぜだろう。

 

「笑福」 これも大好き。赤、いいなあ。お月様と太陽の顔がまたよくて。

 

富士山はいくつかの作に登場している。やっぱり日本には富士か。

そういえば、江戸時代に富士山が噴火したときは、和歌山まで津波がきたらしいとおっしゃっていた。(こういう絵の前でシャレになんないと思うのだが(笑))。番留さんは和歌山の熊野にお住まいでネイチャーガイドもされている。熊野古道をぜひご一緒させていただきたいものじゃ。

「Love Japan」 

北斎も光琳もみんないっしょくた。ああ楽しすぎる。全部ツボ。私は絵でも服でもビビりで、こんなにたくさんの色を使えないので、とってもうらやましい。こんなふうにはじけ飛んでみたいのだ。

 

「Hana Karuta」のシリーズの数作は、花札をモチーフにしているそう。

「Hana Karuta Botan&chocho」

 

「Wao Wao」 これもたいへんお気に入り。

でも番留さんは、これが好きとおっしゃる方が多いのだけど、私はじっとこの絵を見てるとちょっと怖くなる、とおっしゃる。

ええ、描いた方がなにをおっしゃいますやら。描いた者と見る者が違うふうに感じるのも、おもしろいもの。

私はとても好き。丸い目も上げた手もかわいい。鳥獣戯画や小川芋銭の不思議で小さな生き物みたいで、その赤ちゃんみたいで、抱き上げてこの丸い頭をなでなでしたくなる。そう思うとなんだか癒される~。他の絵もそうだけれど、この方の描く顔は邪気がなくて。

 

ずっと気になっていたのが、前回にとても惹かれた「五百名山」の大きな絵は今どこにあるのだろうと。伺ったらご自宅にあるということで、これまで10年間以上に及ぶ作品のファイルも見せて下さった。

彫刻、人体、染物、仏教的なモチーフ、などなど様々な変遷がある。とくに彫刻はプリミティブな感じで、やっぱりここの作品と同じく、温かみがありそうに見えた。

昨年来、縄文やラスコーやペルーも含め、この人たちはなぜ絵を描くのかなと思い続けているけれども、番留さんの絵を見ていると、見る側の元気や抑揚に直接作用する絵もあるんだなと思う。基本はとてもシンプルである。

 

ああ楽しかった。なんだかぐぐっと手にも足にも力が増えて、元気がでたぞー。

一枚、わたしのところにお迎えさせていただいた。写真を撮り忘れたけけれど、きほんのき、が率直に描いてある絵。まずは笑おう。いやべつにぜんぜん楽しくなくっても、ちょっとにこっと。ムリなら、に、にや・・っ・・と。そんなことでもけっこう違う。展覧会が終わったら受け取りに行くので、楽しみである。

 

ついでにシナモンクッキーとカモミールティ。目について入ってみた、RETHINK CAFE GINZA。お店の奥に入り口があるので、銀座で静かに気軽にお茶だけ飲みたいときには穴場だわ。お気に入り。今調べるとJTの加熱たばこの販促店だったようで、そのたばこのみ吸えるのだとか。私はスマホかスマホのケースのお店かなくらいに思ってた、、。たばこのにおいもしないし、そもそも吸ってる人もいたかいないかすら記憶にないくらい。このカモミールティは、マンダリンオリエンタルのカフェもこれなのだけど、カモミールの花が見えるのが嬉しい。

 

 


●金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」

2018-02-18 | Art
金沢文庫 「特別展 運慶―鎌倉幕府と霊験伝説―」
平成30年1月13日(土)~3月11日(日)
 
青空がまぶしいくらいの日に行ってきました。
 
先日の東博の運慶展とはまた違った視点の「運慶展」でした。(といっても運慶展には行けてなかったのでした...)
 
●まずは、運慶(?~1223)と慶派の仕事を、東国の地域からの視点で見ること。将軍・源頼朝、頼家、北条政子や時政、義時ら北条氏、東国のもののふたちと運慶・慶派とのつながりを追うと、時代をリアルに想像することができる。
●今は現存しない仏像でも、「模刻」や寺院の出土品、書物などを通して、運慶や慶派の仕事に迫っていること。
●そして「霊験伝説」。ふしぎな伝承を持つ、まさにその像たちが目の前にあるのは、なんともなんとも。
 
土日に二回行われている、ボランティアさんによる展示解説も拝聴してきましたので、以下、併せて備忘録です。(写真はフライヤー、カナフルTV(1月28日)、展覧会サイトから)
 
一階では、金沢文庫や鎌倉幕府の紹介。
 
武家の暮らしや当時の市場の様子などを、一遍上人絵伝、絵師草子、西行物語絵巻などを用いた資料展示で紹介しているコーナーが楽しい。絵師草子では、土地を与えられてニコニコしている絵師の姿。
 
金沢北条家は、北条義時(二代執権)の子の分家。北条得宗家に次ぐ権門。
金沢文庫は、金沢北条家の実時が邸宅内に設けたのが始まり。鎌倉時代にもなると、武士も勉強しなくてはならないらしい。
鎌倉幕府滅亡後、文物は隣接する菩提寺称名寺によって管理される。称名寺の国宝や重文は、今は金沢文庫が管理している。(時間がなくて参拝できなかったのが無念。)
 
展示室には、称名寺の金堂壁画が復元されていた。表に「弥勒来迎図」、裏には「弥勒浄土図」。鎌倉時代の実物はかなり劣化しているのを、日本画家の林功(1946~2000)が考証し、再現したもの。そよ風とともに笙や笛、太鼓などが鳴らされる浄土のシーンなど、ふっくらとした流麗な線と鮮やかな彩色で、とても美しかった。
 
吾妻鏡(真名本、江戸時代)の版本も展示。運慶の記述があるそう。
 
 
二階が、運慶展。(◎が運慶仏)
 
◆まずは、運慶の父、康慶の「地蔵御菩薩坐像」(重文)1177年  静岡・瑞林寺
意志的な面貌、がっしりとした体躯、深めで流麗な衣文に慶派の先駆性が見える
 
 
◆それから、運慶の作品を模して作ったと推察される、慶派の仏像。
運慶作ではないけれど、運慶のどの作品を模したのかは興味深く、また工房の商圏(?)が広範囲なのが面白い。
 
ずらりと並んだ、十二神将立像(鎌倉時代)(横須賀市の曹源寺)は見もの。
写実的な憤怒の形相、衣文、動きのある闊達な作風から運慶派と知れる。どれもひねりのある体勢なのに、芯がまっすぐ、体幹がすごい。
 
申神、辰神、馬神、、と十二の神様はそれぞれ干支の動物を頭上に載せているが、どう見ても名前と動物があっていない??。周囲の鑑賞者もざわついている。未神には愛らしい猿が乗っているし、卯神の頭上ではネズミが彼方を眺めている。これは長い年月のうちに動物が取れてしまったのを、江戸時代に修理した人がどれが何神かわからず適当に?くっつけちゃったらしい。近年の研究によって、本体を今の名前にしてあるけれども、こういうのって定義も正解もないのだそうな。
 
この十二神のうち、放つオーラが異質で強いのが、真ん中に立つ「巳神」。他よりひとまわり大きいが、それだけではない迫力。他の神よりも、彫が浅く、人間っぽい。
 
横須賀市の浄楽寺や、静岡の願成就院に伝わる運慶の毘沙門天立像に近しいらしい。今はなき永福寺の摸刻という説もある。
 
 
栃木の光得寺の「厨子入大日如座像」鎌倉時代 は、運慶の東寺の大日如来を参考にしたもの。高く結い上げた鬢、意志的でまるまるした顔、引き締まった体躯がその特徴とのこと。
 
 
 
「金剛力士像(東寺南大門様)」の二体は、30㎝ほどで、江戸時代の作なのだけど、今はない東寺の金剛力士像の姿を伝えるものとして、貴重。慶派の流れをくむ江戸時代の仏師が、大きな像を造るためのひな型として制作したものらしい
 
 
 
運慶仏
数は多くはないのだけど、誰がどういういきさつで運慶に発注したのか、興味深い。
 
◎「梵天座像」伝運慶・湛慶 1201年 愛知・滝山寺 は、頼朝の三回忌に、頼朝のいとこが発注したもの。
 
厚い胸板、はりのある肉付き。おおらかさ。後ろから見ると、さらに官能的ですらある。衣をかけられた後ろ姿の肩のラインの色っぽいこと。脇と腕のあいだのすきままでがセクシー。日本画の余白じゃないけど、運慶の余白までがこんなに魅力的とは。運慶展に行けなかったのがまたまた悔やまれる。
 
こちらは東寺講堂の立像を翻案したもの説あり。運慶は運慶は東寺の復興造営の際に、仏像群の修理を担当。その際に講堂の仏像から仏舎利が見つかり、運慶仏はご利益のある像として注目された。
 
 
◎「大威徳明王像」運慶 1216 神奈川・称名寺光明院 は、実朝の後宮の筆頭女房の大弐の局の発願によるもの。運慶の最晩年の作。
 
小さな明王だけれど、単眼鏡で右下のほうから見上げてみたら、レンズの円の中に、自分でおののいたほどの迫力。金の残る髪とともに上に立ち上るオーラが炎のようだった。
東寺の大徳明王を参考にしたとのこと。
 
 
◎抜頭面(瀬戸神社 1219年)は 頼朝が使用したのを、政子が奉納したもの。

 

蘭陵王の面(瀬戸神社)は 工房作。龍が頭にしがみついているのに圧倒される。この龍の形式は、運慶の興福寺の帯喰に酷似しているとのこと。

 

 
講座では、そもそも運慶が鎌倉に来たのは、北条時政、政子が頼朝に紹介したという説があるとのこと。日美たびでも、願成就院の御住職のお話として、1185年に頼朝の命で京都守護の任についた時政が、在京中に運慶とのつながりができ、離京の際に連れてきたのかも、とある。
 
運慶が東大寺の修復にかかる前には、作品年が明確にされない空白の7年程の期間があるらしいのだけれど、その間は鎌倉・永福寺の造営にかかっていたという。
永福寺は、戦没者の供養のために頼朝が建立したお寺。現存しないが、出土品が展示されていた。こんなにりっぱなお寺なら、運慶の大作がたっぷりあったに違いない。
 
その後、平家により焼け落ちた東大寺の再興を頼朝がバックアップした折、運慶ものみをふるう。本来は興福寺の担当だった慶派だけれど、頼朝と近いので、ではこちらもということになった、と講座でのお話。
 
 
 
◆霊験伝説 こういうお話は好きなほう。
 
神奈川・青雲寺の毘沙門天 は、兜がとりはずせる。生身仏。和田合戦のおりに、和田義盛の代わりに矢を受け、義盛を助けたと言い伝えられる。(が、別件で義盛は討死する。ご利益使い果たしたか。)
 
 
神奈川・光触寺(鎌倉~南北朝)阿弥陀三尊像 伝運慶 は、ある法師がお金を盗んだと疑われ、頬に焼き印を押されたが、やけどにならない。代わりにこちらの阿弥陀様がやけどをしていたという。黒っぽく、頬がぼこぼこしてはいたけれど。

頬焼阿弥陀縁起絵巻(鎌倉時代)も展示。運慶に制作依頼するシーンで、手付金?の反物が積み上げてある。運慶の姿が描かれる最古の絵巻。(ただし阿弥陀様は運慶ではなく、工房の作らしい)

 

宝生寺の十二神将立像は、北条義時の夢枕に立ち、行ってはいけないと告げる。鶴ヶ岡八幡へ向かう途中、犬が現れ立ち往生してるときにお告げを思い出し、引き返す。そうして鶴ケ岡八幡では将軍・実朝が暗殺され、義時は難を逃れる。

 

◆運慶の弟子や兄弟弟子による作品も、思いのほか見応えがあった。(素人ゆえなんでもよく見えるのだけれど、まったく見劣りしないというか)

運慶は、鎌倉幕府の注文を受け、何度も鎌倉へ赴く。あいだで本拠地の奈良や京都に帰国する際には、弟子たちが鎌倉やその周辺で制作を継続する。皆の力量が直に伝わる作品。

宗慶「阿弥陀如来坐像」埼玉・保寧寺1196 運慶の兄弟子

 

実慶「大日如来坐像」静岡・修禅寺 1210年 運慶の弟子か、兄弟子。将軍・頼家の妻の発願。

はっきりした顔立ち。黒目も大きい。毛彫りも見事。運慶のデビュー作・円成寺(奈良市)の大日如来坐像(国宝)に似ているそう。実慶では、「勢至菩薩立像」(かんなみ仏の里美術館)も展示。

 

最後に、”トランプ不動”とうわさになっているらしい「不動明王立像」 埼玉の鳩ケ谷・地蔵院 慶派(写真も地蔵院のサイトから)

 

お庭にはもう梅が咲いていました。 

 

日美たび「伊豆へ 慶派の仏像に出会う旅」を見ると、今回のお寺を回っていて、私も行ってみたくなっています。


●東博の常設:山田道安、狩野永敬、田中訥言、柴田是真と今尾景年の鷲など

2018-02-14 | Art

一月末に行った、今さらの備忘録の続きです。

おやお久しぶりの二人。

 ずっと男女だと思っていたけれど、最近の研究では二人とも男性説もあるそう。

 

 つり上がった目の土偶は、縄文時代(中期)前3000~前2000年 山梨県御坂町上黒駒出土

顔の文様は、当時に入れ墨をしていたことを表しているんだろうか。獣面に近いこの顔の表現は、中部高地や関東地方西部の中期の土器の人面把手に共通する。胸に当てられた左手の三本指の表現もこの時期の土器につけられる人体および動物装飾にみられる。 という解説が気にかかる。昨年読んだ、”古代では動物と人間の境界が今よりあいまいなものであった”ということを具象化した作例になりましょうか。

縄文土器のような後ろ姿。折れた手はどういう形だったんだろう。

 

弥生の武人は、おだやかな顔をしている。(挂甲の武人 栃木県真岡市 鶏塚古墳出土 6世紀)

 でも少し悲しそうにもみえる。以前のギリシャ展では、像の顔の造形が、豊穣や子孫繁栄を願うものから、次第に個の感情を表すようになっていく道筋を感じ取れたのだが、日本では埴輪の先はどうなっていくのだろう。仏像の造形までの、そのすきまの期間は、どうなっているのだろう?。

◆◆国宝ルーム◆◆

「釈迦金館出現図」11世紀 解説

 お釈迦様の入滅の報に、天上界から駆け付けるも間に合わなかった母・摩耶夫人の為に、棺桶から身をおこしたお釈迦様。

涅槃図の少し前のシーンなのだけど、涅槃図よりも人や動物は大きく密集して描かれ、表情まで判別できる。だから身体をおこした瞬間の緊迫感を感じてしまう。摩耶夫人もその瞬間にくいいるように釈迦を凝視している。

そのような皆を包み込むような、お釈迦様の表情がなんともよく。

 

 ◆◆本館 3室 :仏教の美術―平安~室町◆◆

鎌倉時代の仏画一字金輪像(いちじきんりんぞう)絹本着色 鎌倉時代13世紀 重文 特徴が、青・緑系統の冷たい色彩や細身の造形感覚に窺われる。

仏画を描くのに悪戦苦闘し、私なんかの手には負えないと投げ出したくなっているところだが、ただただこの仏画の前には、自分がちっぽけな蟻、いや一粒の砂くらいであるように感じてしまった。

 

 十六善神図像 玄証(1146~1222)筆 平安時代・治承3年(1179) むちむちした顔が印象的な、生身のように生き生きした神様たち。白描でこんなに濃密な空間になる。十六善神は、般若経の守護神として、釈迦の左右に8体ずつ配される。この図では、四天王も加えられている。

 

◆◆本館3室 宮廷の美術―平安~室町◆◆

鳥獣人物戯画巻断簡 平安時代12世紀 重文 鳥獣人物戯画巻の甲乙丙丁の4巻のうち、甲巻の一部とみられるもの。よく分かれて残ったものだ。

 

鳥獣戯画では、明治時代の山崎董詮による甲巻の模写も展示されていた(上の断簡のシーンはなかった。甲巻の第10紙から最後の23紙まで。)。普段見る機会の多い有名なシーンだけでなく、その間のところも繋げて見られたのがうれしかった。背景の草木も達筆なのだった!カエルやウサギだけでなく、ネコやフクロウなんかもかわいい。

15紙、カエルの舞を見に来たらしいネコ判官?かわいい~

16,17紙、萩やススキに秋の風情~

21紙、カエルの仏さまにお祈り~

その後ろの木がいい枝ぶり。ふくろうがかわいい~

 

楽しくてきりがない。

最近こんなのを見つけて買ってしまった。なぞり書きって癒される…。

本館3室:禅と水墨画

・梅樹禽鳥図屏風(作者不詳)室町時代・16世紀 2曲1隻 元信の息子、狩野松栄周辺の絵師らしい。薄めの墨や、ふわりとした大気が好きなところ。岩の描き方も、後の狩野派よりもまだ初期の感じで型にはまらず、和やかで緩やか。腕前と気迫を前面に押してくる絵もいいけれど、このようなどこかゆったりとした余裕がある画、いいなあ。小説では永徳に凡庸とこき下ろされていたお父さんだけれど、この絵師もその穏やかな雰囲気を受け継いでいるよう。

 

その松栄のお父さん・元信に目をやると、緊張感ある線の強い美しさがきわだって見える。

・楼閣山水図屏風 伝狩野元信 室町時代・16世紀 6曲1隻 重美 水殿には、山水を描く人物と童子。

「伝」元信なのだけど、素人の恐れを知らぬ見解では、真筆か高弟子かに見える。。

 

この日のお目当て1 山田道安「鍾馗図 」室町時代16世紀

以前に出光美術館で、キッとした叭々鳥(日記)に惹かれて以来の道安との再会。奈良の戦国城主・道安が描く、鐘馗のぎょろりとした目ヂカラ。鬼は描かれていないけれど、刀を下に持ちにじり寄る足。ふわりと描かれたひげを救い上げる手も、ぞくぞくするほど

 
一休宗純の「七言絶句「峯松」 」 晩年の作らしい
旋回する「峯」に、そしてぱっと散るような「松」。これだけで風が周り、字自体が自然の風景のよう。
 
◆◆本館4室:茶の美術◆◆
 
お目当て2は松花堂昭乗。 
「一行書」清巌宗渭筆、松花堂昭乗画 17世紀 書と画がいい連絡をするものだなあ。
 
松花堂昭乗の鶴の、首から身体、足へと織りなすラインとリズム。手慣れた洒脱感。
 
昭乗では、8室に「和歌屏風 」も展示。当時の文化人は書も画もなんでもできてしまうのね。。
 
 
 
 
あ、”コップのフチ子さん”とうわさの、景徳鎮の「古染付一閑人火入 」17世紀
 
 
◆◆本館9室:屏風と襖絵―安土桃山~江戸◆◆
 
亜欧堂田善「浅間山図屏風」江戸時代19世紀
油彩の屏風に妙に圧倒される。下絵では斧で気を割る人や炭焼き人窯の番人の姿があったそうだが、本画では描かれていない。でも人の気配だけは残っていて、マグリットのようなシュールさが増している。風俗的要素を排し、風景画を目指したらしい。 
 
 
大倉集古館「宮楽図 」安土桃山時代17世紀 6曲一双 は写真不可。印象的だった。右隻は、中国の宮廷の内。官吏か?おじさんたちがそこここで踊る。軽快なステップ。門の外でも、楽士がタイコを鳴らし、女性たちが目を細め微笑み、眺めている。 左隻では、反物や器のお店など町の様子。家の中では、奥様が堀に浮かぶ蓮の花を眺めている。と、侍女が蓮の花を手渡している。花は紙を切ってつくり、水に浮かべていたのだ。
 
 
狩野永敬(1662~1702)の「十二ヶ月花鳥図屏風 」17世紀 琳派か抱一かと思うほど装飾的で、とても詩情豊か!。各シーンだけでも物語になっていた。細部のどこをみても花も木も鳥も美しく、見どころ満載の金屏風だった。
 
とりたてて大きな余白があるわけでもないのに、余白の向こうにしみじみと奥に広がってゆく感じ。
右隻では、松の大木に絡む藤が、たっぷりと花を垂らす様子が美しくて。花越しに見える、深い山並みにじんわり。
 
まるで上村松篁みたいに、鳥にもちゃんと意志がある。
 
垣根に色とりどりのなでしこの佇まいが愛らしい。
 
三井記念美術館で見た、船先のアームはなんだろう?底引き網?と謎に思っていた謎がとけた。鵜飼いの灯をつるすものだったらしい(恥)。
 
左隻は、秋から冬へ。
おみなえし、つゆ草、萩と、見事なこと。渡り鳥を見やる橋の上の鳥には、物寂しさが漂う。
印象的な赤と白と黒。
 
最後の曲には、真っ白い月。抱一のような雪景色。

 
他にも、鶉やビワの花、写実的な菊など、たくさん好きなシーンがあった。
 
「別冊太陽 狩野派決定版 監修山下裕二」を見てみると、永敬は「京狩野の中継ぎ投手」と。二条家など有力公家の庇護を得て、西本願寺、仁和寺などの仕事も獲得している。
気になったのが、西本願寺における尾形光琳・乾山との直接的な接触があったと記載されていること。永敬と光琳の画には共通点があるそう。永敬にどことなく琳派の面影があるように思ったけれど、両者の影響関係は今後の重要な課題であるとのこと。研究が進むのが待たれます。
 
 
◆◆本館8室:書画の展開―安土桃山~江戸◆◆
 
今回も江戸絵画がたいへん見ものぞろい。強い個性を放つ江戸の絵師たち。
 
お目当て3 英一蝶「大井川富士図」17世紀 大倉集古館蔵 (写真不可) 雄大な富士山に雲海が下り、大生川の対岸は霞んでいる。馬に乗って川を渡る人、肩車の人、荷を頭の上に乗せてわたる人と様々。
 
宋紫石「日金山眺望富士山図」18世紀 横ひろ画面に、西洋画のような遠近。左に大瀬崎、駿河湾、宝栄山、愛鷹山、右に二子山。宋紫石の貴重な作だけれど、カヌレのような・・。特にVIRONのカヌレがおいしいのよね・・
 
 
若冲の「松梅孤鶴図 」18世紀は、もはや抽象・アバンギャルド・ロックと言いたい。タコ足の吸盤のような幹。デフォルメもさることながら、すべてが振動している。この松の葉はどうでしょう。鶴の体までが、単なる外ぐまではなく、微細に振動している。若冲は、人の目が瞬時の動きをどれだけ捉えることができるかに挑んでいるのだろうか。若冲の墨の絵は、彩色の絵とは全く違うことに挑戦しているようで、見るたびに驚かされ、新しい技を見せられる。
これは京都・大雲院の松上双鶴図(陳伯冲筆・明)という元絵があるそう。
 
 
 
 
金井烏洲「月ヶ瀬探梅図巻 巻上 」1833年 奈良の添上郡、月ヶ瀬梅渓の景観。群馬生まれの絵師が西国への旅を記した。浦上春琴や頼山陽の賛が寄せられており、文人画家たちとの交流を示す。
 
この長い絵巻に細密、根気に脱帽(!)。畑に田んぼ、山は険しくなり、そして里に行きついたり。夕暮れたり、また明けたり、長い旅の日々。昔の旅はなかなかハードだ。人は描かれていなかった。
 
 
お目当てその4 田中訥言(1767~1823)「十二ヶ月風俗図屏風」19世紀 ずっと見たいと思っていた。病で眼が見えなくなり、自ら命を絶ったといわれる訥言。展示の絵は、なにか言いようのないものを放っていた。
 
凧あげ、猿回し、面をつけた人たち、輪くぐり?、踊り、お酒の瓢箪を抱える男たち。楽しく享楽的な場面であるはずなのに、ほとんどの人の顔は笑っていない。他の絵師の風俗絵巻なら、どんなに小さく描かれた人物でも、目も口も笑って描かれているのに。
 
手を挙げ、仰ぎ見る子どもたちの姿に、ふっと久保田早紀「異邦人」がフラッシュバック。
<♪子どもたちは 空を見上げ 両手を広げ 鳥や雲や 夢までもつかもうとしている その姿は 昨日までの なにも知らないわたし ちょっと ふりむいて 見ただけの 異邦人♪ >我ながらよく覚えているもの
 
 
なんだかね、悲しい場面じゃないのに、かなしさが漂うのよね…。
 
 
 
背景を描かず、ひとの姿がしらじらとし浮かび上がる。人には薄い墨で影を入れていて、大げさに言えば憑かれたようにも見えてしまう。だから、どこか魔が通り過ぎているようでもあり、交錯しているようでもあり。
 
不思議な訥言。短く切った線は、全くたるみやゆるみがない。無心でもあり、峻烈な感じすらする。
 
ちょうど家庭画報の3月号で、染色家の吉岡幸男さんが、訥言による平安王朝の色を編纂した手鑑を繰るところが紹介されていた(こちら)。やまと絵の復興を目指したという訥言。いつか彩色の絵も見てみたいもの。
 
 
そのほか気になったのは、大倉集古館所蔵の二作、菅井梅関「寒光雪峰図 」1829年(大倉集古館)と酒井抱一「五節句図」1827年、 板谷桂舟(広隆) 「源氏物語図 初音・胡蝶 」、 佐藤一斎「甲辰元旦試筆」など。
 
 
**
本館10室 浮世絵
 
宝船や七福神のおめでたい画題が終結。北斎、渓斎英泉、魚屋北渓、歌川豊国、広重など。
 
肉筆では、鳥文斎栄之「隅田川図巻」、大黒天、恵比寿さん、福禄寿が、柳橋から舟とかごを乗りついで吉原へ急ぐ。
 
 
 
**
1階18室
 
柴田是真今尾景年の鷲が並んでいるのが見もの。それぞれ、リスとサルが生命に危機にある。生死を分ける、一瞬の反射。
 
 
柴田是真「雪中の鷲」19世紀 墨が澄んでいるのにまず感嘆。明るい光を浴びて、一瞬の緊迫感。羽が二枚、舞い落ちる。鷲は踵をかえすように向きを変え、飛び掛からんばかり。栗鼠や鷲の毛並みの再現もリアル。鷲の羽毛も、外側の固い羽も触感を感じるほど。とてもキレキレのシャープな画だった。
 
 
今尾景年「鷲」1893 是真が光なら、こちらは暗闇だろうか。細部まで描きこんで、墨でこれだけ濃密。暗い森の中でも、鋭く光る鷲の目。美しくも黒々とした獰猛さ。猿の必至の形相。息がつまりそうな、凄い画だった。
 
 
 
他に印象深かった画。
橋本雅邦「狙公 」、安田靫彦「五合庵の春」、高橋由一の「大久保甲東像」「上杉鷹山」、平櫛田中の大好きな「森の仙人」「木によりて」、原田直次郎「三条実美」など。
 
 
小林万吾「門付」1900
 
 
たっぷり時間がある日に行ったけれども、やはり全部見るのはムリでした。へとへとで退散。
 
 

●横須賀 軍港めぐりクルーズ

2018-02-13 | 日記

船とか軍事とか疎いのですが、横須賀の軍港巡りクルーズに行ってみました。HP
猿島に渡るのと同じ船会社なのですね。完売の日も多いようで、ネットから予約して行きました。



ほんとに物知らずゆえ、
横須賀の湾がこんなにぐるりと米軍の軍艦や自衛艦に囲まれていたとは、知りませんでした。

船に乗ると、前方に潜水艦がすーっと進んでいました。甲板には乗組員さんたちが見えました

ガイドさんのお話は盛りだくさん。
あれが駆逐艦、イージス艦、護衛艦、、と、艦名や役割を聞いたのですが、覚えきれず、、



空母ロナルドレーガン


その横(赤白のクレーンの左がわ)に、見えにくいですが、米軍の原子力潜水艦。

今朝か昨日だったかに、着岸したそうです。


日により、軍艦は着港したり、他へ移動したり。
ガイドさんのお話では、この船はいつもは呉にいますが、数日前にこちらへ来ました、とか、
今日は日本の潜水艦の4隻が横須賀に来ていますよ、とか。
日々移動があるのですね。この変化を毎日見ていたら、地元の方は有事の気配に気づくのかもしれません。

日産の工場と車も見えます。




「あさぎり」。今の艦長は女性の方なのだそうです。

砲台が見えます。ここから発射したら鎌倉くらいまで届く距離なのだとか。


吾妻島は、日米の共同管理ということで、一般の立ち入りはできません










先程移動していた潜水艦が着岸していました。


驚く事ばかりの軍港巡りでした。

それから、ドブ板通りへ。
スタジャンがたくさん。


アメリカン?なパブが並んでいますが、昼間だからかまだ閉まっているお店が多かったです。
横須賀バーガーのお店はいくつかあいていました。

エジプト人シェフのお店には、フムスのピタサンドもありました^^。



●東博「博物館に初詣 犬と迎える新年」

2018-02-10 | Art

東博「博物館に初もうで 犬と迎える新年」 2018.1.2~1.28

1970年以来の大寒波で、すっかりお正月気分も抜けてしまっているけれど、先日行ってきました。

その年の干支の特集のコーナーが例年の楽しみ。数年を思い起こしてみると、サルではサルの群れの楽園感、トリでは美しさと装飾、とその動物の持つ特性によってどうモチーフとしてきたかが、毎回展示から伝わってくる気がします。

では今年のイヌは・・、

”ペット感”が全体に満ち溢れていました。サルにもトリにもない、身近さ。ネコがいない以上、干支の中では一番身近な動物かもしれません。

縄文時代にはすでに人間は犬と暮らしていたのだそう。先日行ったブリューゲル展でも、犬がペットとしてそこここに登場していましたっけ。

以下、備忘録です。

一室目は「いぬとくらす」

古来より日常の暮らしのなかに、さりげなく溶け込んでいる犬たち。ひとのそばに犬を一匹描きこんでおくことで、ぐんと穏やかさや安心感が増す。地味に効果的なアイテムなのかもしれない。

●中国、朝鮮半島の画から始まっていた。

桃源郷を描いた各シーンにも犬が一役かっている。点みたいに小さく存在しているイヌも、意地で探し出しましたよ。

桃花源図(韓画帖のうち) 金喜誠筆 朝鮮18世紀 桃花源記を描いている。漁師が村人にあたたかく迎えられている。

 

右と左のページに一匹ずつ、クロ犬のかわいいのが人間たちの村社会に溶け込んでいる。中国の仇英の影響とのこと。

 

仇英では、狩野養信が模写した「西園雅集桃李園帰去来図(模本)」1814年(原本は仇英、明代16世紀)も展示。「模写魔」の養信、昨年来、見るたびほんとに模写ばかり出てくる笑。しかも労苦を厭わず、丁寧。

あれ?犬はどこにいたんだろう?

 

桃源問津図 4幅(8幅のうち) 馬元欽筆 清時代・順治11年(1654)(写真不可)も、桃花源記を描いたもの。桃源郷の住人に迎えられるシーンに、やっぱり犬がいる。個人的には三幅目、雪景色のなか、女性が渡る橋の下にイノシシがいたのが気になっている。ちゃんとふたまたに分かれたひずめも見えたし、確かにイノシシだと思うんだ。

 

山水画にもイヌは登場。

伝夏珪の山水図 南宋~元時代・13~14世紀  経年で見にくい中、元気よさそうなのを探し出しました。

夏珪はこの画に(多分)人の姿を描いていない。でもイヌがいるだけで人が住んでいる気配がする。このイヌは帰ってきたご主人に気づき、しっぽをびゅんびゅんさせているのかな。

 

っていうか、こんな小さな犬を探し出してきて展示する東博の学芸員さんたちがすごすぎる!。あの絵にイヌいたなあって全部覚えているんだろうか⁉

隣の伝姜希顔(朝鮮15世紀)の山水図にも、こんなに小さいのをよく…。ミニチュアダックスフンドっぽく足が短くてかわいい

これは明の戴進の影響がみられるとのこと。戴進と同世代の文人画家・姜希顔(1417~64)は、北京に派遣され明の宮廷画に感銘をうけたそう。

 

そして、日本の画へ。まずは浮世絵から。

●美人画にはかわいい愛玩系が定番らしい。美人とイヌとのたわいなくも愛すべき日常。

橋本周延「江戸婦女」明治時代・19世紀には、鮮やかな着物の美人とおしゃれなイヌが描かれている。

田村水鴎「婦女図 」18世紀では、寝ているイヌ。平和だ。

至信の「二女図」18世紀は、かごの下に寝ている犬を発見したのか?、捕まえようとしているのか?。

魚屋北溪の「五金之内・銅(狆洗い美人)」19世紀は、美しい着物の袖を大胆にまくり上げ、けっこうドスのきいた表情でチンを洗う美人の素の姿に、ある意味脱帽。カレイがつるされているのも好きなところ。

 

●母子のふれあいにも、イヌがまじる。

鈴木春信「犬を戯らす母子 」18世紀は、ネコじゃらし風

 

喜多川歌麿「美人子供に小犬」1806年には、宗達や応挙みたいな、二種のころんころんタイプ。

 

●広重の鮮やかな浮世絵の街角にいるのはノラ犬。ノラさんたちの存在を無視することなく、すくいあげている広重が意外でもある。

歌川広重「名所江戸百景・高輪うしまち」1857 食べたあとのすいかの皮が・・。これを西洋画で描いたなら(そもそも描かないか...)真逆な印象になるであろうリアリズム。広重のいたいけな犬たちに移入してしまう。

 

歌川広重「名所江戸百景・猿わか町よるの景 」1856 月影と、通行人たちの影が印象的。ノラ犬たちにも等しく影があり、人間と同じレベルで後ろ姿が語る。

 

●街の雑踏の中にも。

菱川師宣「北楼及び演劇図巻」17世紀 寛文末から元禄までの年紀を持つ吉原遊郭と歌舞伎の光景を集めたもの。吉原へ続く日本堤のあぜ道にイヌがいる。17世紀の吉原、門を一歩出れば当時はこんな田園だったのね

 

鍬形蕙斎の近世職人尽絵詞 下巻 18世紀は、いろいろな職業が面白すぎて、イヌを探すのを忘れてしまった。羽子板、イセエビなどお正月のためのいろいろなものを売り買いする街の雑踏。

 

●仲良しなばかりでなく、博物学的視点を向けられたイヌの姿。背景には江戸時代中期以降の博物学への関心がある。

唐犬・ムクイヌ(随観写真のうち)1757年は、幕府医学館で本草学を教えた後藤光生の編。後藤のヘタウマな画力ゆえか、妙に印象的なイヌ。浦上玉堂ら文人たちとの交流でよく名を目にする木村蒹葭堂の旧蔵というのが興味深い。蒹葭堂はオランダ語が得意で、博物学ほか幅広く興味を持つ「浪速の知の巨人」。

 

狆(ちん)(博物館獣譜のうち)博物局 江戸~明治時代・19世紀 中国やオランダによって長崎にもたらされた外国イヌ。そういえば南蛮屏風にもかなりの確率で外国イヌが描かれている。展示では、オランダ産と記載された4頭が展示されている。牡と牝、大きさまで記して写実だけど、なんとなくかわいいなあ。今の「ちん」っぽくないのだけれど、シーボルトは、戦国から江戸時代にかけて北京狆がポルトガル人によってマカオから導入され、現在のに改良されたと解説している。南蛮船によりもたらされた小型犬、または日本で品種改良が進んだ犬をあわせて、開国するまでは小型犬のことを狆と呼んだそう。

 

最後に、どんと「獅子」が鎮座していた。彼は、東博の草創期の1896年の蒐集品。東博のヌシなのね。

耳がツノの小鬼みたいで、怖かわいい。と思ったら、胸のあたりが赤い着色が残っており、なんか凄惨な現場を見ているようで、ちょっとぞくっ。

彼については、19世紀江戸時代、木製、長野の中野氏から寄贈されたとあるが、詳しい出自は記載されていない。それまでいったいどこにいたのだろう。

彼の後ろ姿も黙して語らず。

 

 

**

二室目は「いぬのかたち」

●彫刻や工芸

立体化しても、イヌはとってもかわいらしい造形になっていた。龍や鷹の工芸品とは正反対なアプローチ。

江戸時代の水滴  かわいい

佐世保の三河内焼(平戸焼)の染付香炉 の犬は、このおばかっぽいとこがかわいい

と思ったら、あなどれない美しさ。背中には菊の彫塑と絵付け。純白の肌は、天草石。

 

後漢の緑釉犬(2~3世紀)もとってもかわいい 螺鈿のような光沢だった。

わううん

でも彼の役割は、墓守りか、冥界への案内人らしい。

1089ブログには、首輪と胴のベルトは、多産の象徴とされるおめでたい子安貝で飾られた凝った意匠で、飼い主から彼に注がれた愛情の深さが感じられます。中国では古くから犬を表した工芸作品が作られましたが、これらは墓を守る番犬とも、死者を冥界へ導く犬とも言われています。
人間の最も身近な友人として、死後の世界においても犬と共にいたいと願った当時の人々の心情が偲ばれます。

 

鎌倉時代の板彫狛犬(12~13世紀)は、経年によって風化した木肌が心に残る。

奥行きのない社殿で神体の隣に立てかけられていたと想像されるとのこと。本館の開館翌年の1883年の購入ということなので、こちらも東博のもっとも古株なのね。ヒノキから彫り出した顔や体のふくらみ、名も残らないこの彫師の作品は、他に現存してないのだろうか。

 

●絵

江戸以降の屏風や掛け軸に、主役として描かれるイヌは、皆がほぼ一様に「かわいい」方向を目指しているのが印象的。宗達のイヌを踏襲したような、”ころんころん+たれ耳” の仔犬。

 

宗達より以前に、イヌが主役の「かわいい」イヌ絵はあったのだろうか?。元祖は宗達なのだろうか??日本独自のものなんだろうか?

と、素人の積年の疑問を抱えていたところ、南宋の李迪の犬が、ころんころんのたれ耳だった(!)。

李迪「狗子図(唐画手鑑 第二帖のうち)」南宋時代12世紀 を、17~8世紀に狩野常信(1636~1713)が模写。ころころ+たれ耳の仔犬のかわいさに注目しつつも、応挙以降のようにそこまでかわいいでしょアピールはしてこない。 

模写だけれども、しっかりとした筆目に、目線も強く、常信の画力と精神性を感じた絵。そとぐまの白い毛部分は、並みを一本一本丁寧に描きこんであった。

 

英一蝶(1652 ~1724)(好きなので嬉しい)「子犬図(雑画帖のうち) 」(大倉集古館蔵・写真不可)でも、まだまだそこまでかわいいアピールはないのだけれど、複数匹が固まって寝ている分、かわいく平和な感じになっていた。 

 

複数匹のイヌだんごの”寝姿”では、南宋絵画の模写したものがあった。一蝶より後の時代だけれど、狩野派出身の一蝶なら中国由来の寝ているイヌ絵を目にすることがあっただろうか?。

群狗図(模本) 義文(生没年不詳)模写 1794年、原本=毛益 南宋時代・12世紀  寝顔がかわいいい~。笑いながら爆睡している。

寝姿では、礒田湖龍斎(1735~)の掛け軸、「水仙に群狗」18世紀も、こんなふうな”にっこり眼”で、イヌだんごを形成。こういった感じが人気であったのでしょう。

 

”ころんころん”の元祖か、”中興の祖”か、わからないけれど、このかわいいイヌ人気を不動のものにしたのは、応挙なのでしょう。弟子たちもこういった戯れるイヌをたくさん描いた。

円山応挙「朝顔狗子図杉戸 」1784

 

歌川広重の「薔薇に狗子」(19世紀)は、花鳥にイヌ。広重は花鳥画では、四条派の影響を受けたけれど、イヌもだったのね。一室目の展示で、ノラ犬さんたちに優しい目を向けた広重だけれど、花鳥との取り合わせもとっても愛らしい仔犬だった。

 

この展示室のかわいい流れを一転させたのは、しゅっとした洋犬。ここにも李迪の模写が(!)。

「犬図」安倍養年(生没年不詳)模写、原本=李迪筆 江戸時代・天保11年(1840)、原本=南宋時代・12世紀 微妙に李迪の筆致から離れているのではという疑念も沸くけれども、雰囲気は伝わる。洋犬の大人犬はあばら骨が重要ポイントなのかな。母の献身か?。

 

明代の洋犬の模写にも、あばら骨が線描き。

「竹犬図」西山養之(生没年不詳)模写、原本=辺景昭筆 江戸時代・文政7年(1824)、原本=明時代・14~15世紀 

 

竜眼のような、あはれを感じるような。

 

日本では洋犬の絵は、これらの模写よりもっと早い時期、江戸初期から、雲谷派や長谷川派で描かれたそう。そういえば、摘水軒記念文化振興財団の所蔵品で見た長谷川等いの洋犬図はインパクトがあった。

酒井抱一「洋犬図絵馬」1814 (写真不可)の洋犬は、鶴ケ岡八幡の雲谷派を参考にしたとのこと。発注は、江戸の料理屋「八百善」。当主の干支ということ。大きな黒犬と、小さめの赤い犬。鎖も鈴も立派だった。

 

この流れにあって、明治の意外な大家二人がかわいい系を踏襲しているのに、目が点。ムリしてかわいくしなくてもって思わないでもないけど、やっぱりすごい。

竹内栖鳳「土筆に犬」明治時代 栖鳳のほのぼの系って珍しいような不思議なような。でも仔犬のぽっちゃりした身体すらも、画面から飛び出てきそうな躍動感なのが、さすが。

 

柴田是真「狗子」明治時代 是真まで、かわいい方向に寄せて描いている。是真の見事な筆使いで形どられた仔犬が、なんかアザラシ…。しかも少女漫画みたいな眼とはいったいなにごと?。ぱらぱら画集をめくると、柴犬や桃太郎の犬やいろいろ描いている。そしてイヌに限らず、是真は時々意表を突くような不思議ワールドを生み落としている。

 

普段はネコ派の私ですが、イヌ絵はとてもほのぼのした気分になれました。


●「墨と金 狩野派の絵画」根津美術館

2018-02-02 | Art

「墨と金 狩野派の絵画」根津美術館 2018年1月10日(水)~2月12日(月・祝)

所蔵品だけの構成ゆえ限られてはいるけれど、17世紀までの「狩野派」とその時代が追える展覧会でした。

すなわち、室町時代から始まる中国絵画の受容、権力の中枢に沿うための商品戦略、時代の変化に合わせたマイナーチェンジという大きな流れを追いつつ、それだけでなくその本流に収まりきらなかった個性派絵師も飛び出す。

今回は江戸中初期まで、その間約200年。

大目玉な作品がないからすいているのかなと思ったら、ところがところが。狙って練れた力作ぞろい。描いた絵師にとってもなんらかの思い入れのある作だったのじゃないかと思う、見応えのある画ぞろいでした。

昨年のサントリー美術館での狩野元信展を補足してくれる、小窓をひらくような小さな解説がちょこちょこあるのも嬉しいところでした。

以下、印象に残ったものの羅列です。

狩野派の源流をさかのぼること、戦国時代。

・「潑墨山水図  」拙宗  1幅 室町時代 15世紀    拙宗は、若いころ雪舟が名乗った号。小舟に岩山に木、玉澗様。ニュアンスに乏しいのは雪舟の若いころの特徴とか。言われてみればそんな気も。

 

その雪舟の慧可断臂図を思い出したのが、隣にあった芸阿弥。奇怪なほどに複層的な岩と、岩が作る洞窟のせいか。

 ・「観瀑図」  芸阿弥 月翁周鏡ほか二僧賛   室町時代 文明12年(1480)   

 

芸阿弥(1431~1485)の現存する唯一の作とか。そういえば、能阿弥→芸阿弥→相阿弥の三代のなかでも、見たことがなかった。きっちりした形態感覚、アーチ状の岩組みなど、夏珪風、南宋院体画を学んだことが読み取れるとのこと。

しっかりした達者な筆。複層的にダイナミックな景観が作り上げられている。滝を眺めながら橋を渡ると、滝の後ろの小屋にたどり着け、「裏見の滝」を楽しめるのだ。行ってみたい(!)。

 

滝山水は当時の流行であったそう。

隣の伝 狩野正信の「 観瀑図  」にも滝が流れる。元信パパが見られるのはうれしいと思ったけれど、おそらく正信の周辺の作らしい。工房作だろうか。

 

 

元信に至って定めた「画体」は、狩野派が工房として、集団で効率よく制作するために、画期的なことであったと解説にある。

実は、これまで「画体」と「筆様」との違いがよく分かっていなかった。画体がそもそも 玉澗様、牧谿様などを基にしているのかなと思っていた。でも明快な解説に納得。筆様ではどんな作を手本にするかで工房内でイメージにブレが生じる余地がある、と。真・行・草体と具体的に定めることで、スタンダードを統一できたのだ。筆様を超えて、狩野派モデル。

元信のプロデュース力 すごし。

そして元信の絵も、やはりすばらしかった。今回は伝元信、元信印あわせて6作。

 

養蚕機織図屏風  伝 狩野元信筆    6曲1双 室町時代 16世紀 元信の才を十分に味わえるすばらしさ。日曜美術館のアートシーンでもこの作をメインに紹介していた。

梁楷の「耕織図巻」の小さな絵巻から抽出した養蚕業にいそしむ村人たちを、こんなにも壮大な山水画に再構成したのだ。

離れてみると、右隻は柔らかく、左隻は切り立ち、中央には余白に霞む中州や木立が幽玄。山水画としてもすばらしい。岩の立体感も、筆を縦に横に斜めに自在に動かして、ごつごつとした岩、幾分丸みのある岩を描いている。筆と元信が一体化したような迷いのないスピードが心地よいこと。

近づいてみると、そこにはうってかわって、絵巻物のようなストーリーが流れている。人物が細かく生き生き。養蚕の各段階のお仕事が興味深い。

右隻では、村人は蚕を乗せた棚やざるを前に忙しく共同作業に立ち回っている。なかには昼寝をしているひと犬も。様々な種類の木の描き分けもなんなくこなして、惚れ惚れ。

ざるのなかにいるのは養蚕の青虫かな。

 

左隻は、季節は移り、雪景色。右から進むと、岸辺にやせたおじいさんと丸顔の童子。と、突然に圧倒的な険しい山に驚く。が、目を蚕小屋?にやると、ひとの仕事のあたたかみと安心感が増して感じられる。

糸巻、かまど、働く大人たちのまわりには小さい子どもたちが遊ぶ。

おお、布になったわ。

元信の絵では、遠景にかすむ小さな木立が好きなところ。濃いめの墨、薄い墨で現した木々と大気の流れはとても幽玄で、ここだけまるで等伯の松林図を見ているよう。このかすみ具合がなんともいえず、入り込んでしまう。個人的に、ここを元信の真筆かどうかのチェックポイントにしている。元信印のや弟子たちのはここが雑で、入り込めないのが多い。と勝手に思っている。

この際なのでよくよく見てみると、霞のかかったところは、木を薄墨でグラデーションをつけていき、何も描かずに残している。それでこんなにふんわりとした靄が表現できるなんて。

 

ではなぜ、養蚕なのか?。解説では、単なる風俗を描いたのではないのだそう。狩野派がこれを描くのは、権力に近いものとしての必然がある。もとになった中国の耕織図は、為政者が農民の苦労を知り労わることを促すためのもの。狩野派は為政者が求める画題を揃えておかねばならない。そしてそれは、しかるべき中国絵画に基づくものであることが、権威付けには重要であったのだ。

 

画題という点では、「猿曳」の画題は、元は元信周辺から描かれるようになったそう。「 猿曳図屏風 」 伝 狩野元信筆  6曲1隻 室町時代16世紀 はおそらく元信の真筆であろうということだった。樹下には、たくさんのひょうたんを持った、ちょっとお鼻が上向いたおじいさん、天秤棒をもったサルがかわいいぞ。大人も子供も、乳飲み子を抱く母も、みんないい笑顔だった。

 

そして「釣り」の画題は、脱俗とともに、太公望のイメージ。「寒江独釣図 」 珍牧 室町時代16世紀   は、筆致からおそらく狩野派の関係とみられるそう。ゆるーい浮遊感をかもしだす釣り糸の線が好きなところ。釣りの老人は高潔な顔だった。

 

この珍牧のあとも、初めて耳にする絵師が続く。長吉は元信に学び、「梅四十雀図 」16世紀の右都御史狩野玉楽と同一人物で、江戸で学んだそう。右都御史はふっくらした梅や鳥がとてもかわいらしくてお気に入り。

さて江戸時代。時代はちょっととんで、17世紀、狩野探幽へとキーパーソンを移してている。

探幽、尚信、安信の三兄弟、松木寛さんの「狩野家の血と力」など読むと、正信元信らが一門の隆盛をはかったのとはまた違う、重苦しい時代になったものだと思う。もはや大・狩野派一門。その大集団を、父孝信の亡き後16歳で率いなくてはならない探幽のプレッシャーを思ってしまう。

それでも探幽の画風が、軽やかな筆で、重苦しさがないのには意外でもある。「瀟洒端麗」と称されるのも納得。時代と顧客の変化もあるのだろうか。戦国武将のなんのという時代は終わったということなのかな。

 

探幽の「両帝図屏風」6曲1双   寛文元年(1661) 

 

以前に、だれの作だったか、出光美術館でもこの画題を見たのだが、パーツを前面に押し出したそのダイナミックな絵と比べて、探幽のこの画は雅に落ち着いた感じ。

右隻に、舟と車を作って難所を克服した黄帝。鳳凰と龍の顔がかわいいなあ。

左隻に、琴を弾いて天下を治めた舜帝。鑑とすべき帝王の画は、将軍家や大名家で求められる。城内や御殿にふさわしい、壮麗な金屏風。絵具も金も良いものを使っているとのこと。

二人の皇帝は時期は違うけれども、右隻と左隻は山と水の流れ、建物でつながっている。

中国の画題だけれど、やまと絵風の繊細な金づかい。金砂子の場面などとても美しかった。

解説に、(うろ覚えだけれど)明の皇帝に献上するための品を狩野派が製作したことに触れていた。狩野派は元来中国よりの画題を手掛けてきたが、当時日本的とみなされていた「金」を多用した作品を中国に献上することで、本場の中国絵画と対峙。本懐をみせた。これを契機に日本化を進める。

 

今回楽しみにしていたのは、探幽の弟、尚信。自由でおおらかな感じがして好きなのだ。次男次女の特性かな?。

瀟湘八景図巻    狩野常信筆 近衛家煕賛   1巻   紙本墨画      日本・江戸時代 17世紀   

もはや抽象。雪舟の破墨山水図のよう。狩野派という以前に、尚信は室町や宋・元の水墨に惹かれ、求めたのだろうか?。尚信は探幽の補佐にて知恩院などの大きな仕事も担当したらしいけれども、それ以外では探幽とは受け持つ顧客が違ったのかもしれない。もしくは、誰の為でもなく、思うままに好きに筆をふるったのかもしれない。

筆目も見えて、生きていた尚信を感じてしまう。鳥は呼応し動き出しそうなほどライブ感がある。気付くと、水が流れていた。勢いよくうねるように流れていく。

左隻では、ぽーんと高く広い空。岩など五本くらいの筆で一気に引き下ろしただけ。すっかり形から自由になっている。なにもかも、重力からも解き放たれて宇宙的な解放感。

絶壁ならその圧倒感を、滝ならしぶきと勢いよく落ちる水の意を、鳥なら自由さを、その意を描けばいいだけなのだ。

自由で奔放な画を残して、尚信は44歳で亡くなってしまう。釣りに行って失踪したとか中国へ渡ったとか、いろんな噂がある。

 

そうして残された息子、常信は苦労したかもしれない。15歳で父を亡くし、探幽、安信、彼らの息子たちとの序列格差で不遇の時代を長く過ごした。

でも画力が巧みで、たんなる粉本の踏襲におさまらない独自性が見えて、見るたび好きだなあと思う。

常信の「瀟湘八景図巻」17世紀は、近衛家煕の賛があるのが興味深い。尚信ゆずりか、これもゆうゆうと自由な感じ。肩の力は抜け、自分の自然なリズムに乗って描いているよう。形をこえて、彼の心の中のイメージ。これは探幽や安信の死後の作かな(笑)。山の稜線は流れるようにどこまでも続き、川の流れも長くどこまでも邪魔されずに進んでゆく。彼の筆は、ここではなんの制約も受けない。いい絵を見たなあ。

 

そしてこのあたりから、狩野の本流と趣を異にする、個性的な作が登場する。

板橋美術館での墨の花鳥画(日記)と妖怪絵巻(日記)で大ファンになった狩野宗信に思いがけず遭遇(嬉)。根津美術館にも所蔵されているとは。きっとあちこちで眠っているに違いない…。

桜下麝香猫図屏風   狩野宗信  江戸時代 17世紀 やっぱり宗信の動物は格別彼のジャコウネコが今根津美術館のHPのトップ頁の座を射止めている↓。

異国の霊獣、ジャコウネコは吉祥画題なのだそう。もともと存在感のあるジャコウネコだけれど、宗信のは、霊獣というよりは、妖怪絵巻にも通じるヒトクセある感じ。花鳥図でもそうだったけれどちゃんと動物の意志があるのよね。

右隻では、一重の桜の下で遊ぶ。白いつつじも見える。

左隻では、八重の桜に赤い百合が一本。水を飲むジャコウネコ。なにやら虎のごとき雄々しさ。もう一匹はカイカイしてて愛らしい。

ものすごく上手いってわけではないのかもしれないけれど、とても庶民的な感じで親しんでしまう。探幽の後でこれを見たら、一気に目線が下がり、親しみやすい感じ(探幽がいかに格調高かったのか今頃気づく)。松や岩の描きぶりは狩野派なのだけれど、それらは主張せず、このゆったりとした金屏風のなかで猫を飼ってる感じ。 

 

そして久隅守景と、好きな絵師が続く。わけあって狩野派を破門されたと噂されつつ、真偽は謎のまま。子どもの不祥事の引責にてと言われているけれども、「夕顔棚納涼図」や「四季耕作図」など人間目線の自由な絵を見ていると、私はこのひとの画風や求める画題が、狩野一門を去ることをためらわせなかったのではないかなと、勝手に思ったりする。どこか尚信に通じるような気さえする。

ところが、今回の守景の「舞楽図屏風 」17世紀は、農村の絵とは全く違う、意外な作。現代的な感じすらする。この画題は宮中や寺院の調度として用いられ、狩野派も手掛けていたそうなので、破門前の作だろうか。それにしても、狩野派ぽくないような。鈴木其一と言われればへえ~と納得したかもしれない。鳥取の藩主、池田家伝来。

右隻は武将の舞い、左隻は蘭陵王

構成が不思議で確認犯的。右は斜上にラインを描き、左ではぱっと散らす。赤い衣がリズムと跳躍を印象付ける。背中を見せた後ろ姿の楽隊すらも、妙な存在感を放っている。

ただでさえ特異なオーラを放つ彼らは、さらに顔を胡粉で盛り上げ、より強い印象でもって押してくる。舞う目線の強さや、笙に息を吹き込む緊迫感。

見るたびに、必ずこころ動かされる画家のひとり。

そして京狩野。

狩野山雪の三作。永徳風を受け継いだ、濃厚な京狩野という印象だったけれども、そうでもないことを知った。

山雪の「梟鶏図  」 17世紀 は、なんとも滋味あふれる味わい。

フクロウ、なんでこんな知らんぷりんな顔しているんだろう(笑)。そして鶏も目を合わせない。これは若冲のかえるとふぐのお相撲の絵の様に、抱えてるなにかのトラブルを風刺していたりするんだろうか?。

それでも、フクロウの達磨のような体のラインと左幅の屋根のライン、鶏のまるいお腹のラインと右幅の枝のラインはシンクロしていて、なんだか双方ま~るく収まっているのかもしれない。

 

伝山雪の「百椿図」は、花あしらいがハイセンス(!)。400年も前の京の人の豪華な遊び心に感服。いくつかは参考に展示がありましたが、使用された蒔絵の器や、盃、つづみ、はねぼうき、硯箱、景徳鎮などからして、逸品ぞろい。

百椿図のクリアファイルを買ったので気に入ったアレンジメントをいくつか。

他にもタケノコの皮やひしゃくも使われている。透かし編み(というのか?)の竹かごのなかに花をたっぷりとつめていたり、パリのお花屋さんで見かけるようなアレンジメントもある。

篠山藩主松平忠国が製作させ、息子と二代にわたって賛を書いてもらったそう。天下太平な世になったものだ。

 

1月30日以降は一部展示替えになり、4作が追加される。なかでも、尚信の「文殊荷鷺芦雁図」と狩野雪信を見たいけど、行けるかな。悩ましい…。

この日は雪が積もった日の数日後。寒いので暖を取ってたらまた余計なものまで注文してしまったわ。

 

お庭で「銘・ゆらぎ」みたいなつららをたくさん見つけました。

 

もの知らずで恥ずかしいですが、これは何だろう??。