hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●デトロイト美術館展2 パウラ・モーダーゾーン・ベッカー

2016-11-30 | Art

(デトロイト美術館展1の続き)

帰ってからも気にかかったままだったのが、パウラ・モーダーゾーン・ベッカー(1876-1907)「年老いた農婦」1905

少女のようなおばあちゃん。なにかシンプルで基本的なことを描いているような、この不思議な領域はなんだろう?と。

無垢な印象。でも肌や無骨な手は畑仕事かなにか労働の年月を感じ、おそらく正解ばかりでなく楽ではなかったいろいろなことを経てきた瞳。

そんな自分をつつみこんでいる。手の重さ、厚さ、それに包まれるからだ。

自分を受け入れていいんだと。この年齢にやっと。神の許しとは、自分で自分をうけいれることを許されることなんだろうか、信仰はないけれどもそんなふうに思ったりする。

この交差した手の形は、受胎告知のマリアのものである、と解説に。光に包まれて、確かに神の祝福を受けているのかもしれない。誰かが産み、長い年齢を経たその命に。胎内に芽生えたほのかな赤ん坊の命と、変わることはなく。

この絵の無垢な感じはそこから感じたものなのかも。

最初に"なにかシンプルなこと”、と感じたのは、この女性の土のイメージなのかも。パウラはゴーギャンに影響を受けた。それはプリミティブという側面なのかもしれないけど、彼女は、根源的なもの、土地や作物や風土に根差しているもの、母なるもの、そういうものを欲していたのかな。

パウラ・モーダーゾーンの他の人物画も、画像で見る限りだけど、はっとするほど誠実な感じ。だけど聖女のようにはいられないいろいろな思いを抱合し、現実世界に生きる女性。その表情に、こちらも心の壁を開いてしまう。パウラのひたむきな人柄ゆえでしょうか。

いくつかの絵は母性を感じる絵。なのに、彼女自身が33歳で亡くなっているのは驚いた。いったんは離れた夫との間に女の子を生んだ後、三週間後に亡くなってしまう。

心に残る画家に出会ったのでした。

 

昔、東京ステーションギャラリーで、フォーゲラー(1872~1942)のステキな絵に出会ったけど、パウラもその夫(名前はオットーなんとか…)もフォーゲラーも、ドイツの同じ芸術家コロニーで暮らし製作していたことに、勝手にご縁を感じている。ヴォルプスヴェーデというドイツ北部のブレーメンに近い寒村だった。当時は、交通も不便で湿地に阻まれた自然のままの村。「泥炭を掘り、つましい暮らしを送る北ドイツのこの村」(こちらから)、このおばあさんのイメージに重なる。

ブレーメンにパウラの美術館があるらしい。ヴォルプスヴェーデも、ブレーメンからバス出会う一時間ほど。いまも芸術家たちが集い、フォーゲラーの家もある。いつかのお楽しみにしよう。

 

マックス・ベックマン(1884~1950)

ベックマンは青騎士やブリュッケには批判的だったそう。でも叙情を排し、感情を強く表出させた絵は表現主義と共通する。キルヒナーらと同じく、ベックマンも1915年に従軍、ベルギーの前線に送られて精神を病む。そしてナチスにより退廃芸術と烙印をおされてしまう。オランダへの逃避。戦後1947年にワシントン大学で教鞭をとるまで不遇の時代を送った。

彼の自画像のこの表情。この表情の前には、こちらも一緒に息をつめてしまう。心臓が苦しくなるような。突き詰めて見たくないものを彼はまざまざと、しかも強く激しく突きつけてくる。

ダメだ...コースアウトします。確か、チューリヒ美術館展の時も私は彼の絵↓から逃げた。

逃げたけれど、彼の絵は見たものどれも忘れられない絵になる。見たくない表情、ぶつけられたくない感情、矛盾した現実、そういうものを、彼が逃げ出さずにじりじりと見つめたように覚悟ができたら、一次大戦前の初期の作から、アメリカ移住後の幾分穏やかな絵まで、年を追ってみようか。(という気持ちはある)

 

オットー・ディクスもふつふつと怒っていた。この自画像は21歳の時。

コーデュロイの質感はすごい。カーネーションは「忠誠」、デューラーへのオマージュ。彼も退廃芸術とされ、ドレスデン美術アカデミーの教授職を追放されてしまう。それより前の1912年のこの自画像でさえ私は怖いけれど、こののち戦争と統制へと矛盾が増大するにつれ、もっと目をそむけたくなる絵になっていく。(こちらに画像が。)

 

一休みしても疲れる表現主義コーナーだけれど、最後にちょっと救いだったのがココシュカ(1886~1980)。

「エルベ川」1921、1919年にドレスデン美術アカデミーの教授職に就き、1923年まで暮らしたドレスデン、

新市街からエルベ川越しに旧市街を描いている。小さくて歩くのも楽しい好きな街。でもココシュカはどこか不穏な色彩に描いた。

ドレスデンへ来る前から、ココシュカは不安定で混乱していた。

前に見た、マーラーの未亡人のアルマとの恋のドロドロ渦中の「プット―とウサギのいる静物画」1914

優しい顔だけど爪を向きだす猫(アルマ)、不安そうな兎(ココシュカ)、アルマが堕胎した自分の子供。兎は、ママにおこられて固まっている子供のよう。

ココシュカは壮絶にアルマを愛し、追い、アルマはけっこう手ひどく逃げた。ココシュカは何年も底なし沼をはいずりまわった。ドレスデンではアルマの等身大人形を作らせ、連れて出かけたという話も。


それから15年たった「エルサレムの眺め」1929~30が、エルベ川の絵の隣に展示されていた。

数年にわたる旅の途中に訪れたエルサレム。遠くて青い空、光の当たる遠い景色。雄大で、古代エルサレムからの永い永い時間も。遊牧民か商人か、牛がしっかり描かれているのも、地に足がついた感じ。

大きな時間と空間だけでなく、人間の生活感もを描いた絵。

ああココシュカ立ち直ったんだなあ、超えたんだなあ。他人事ながら、よかったねとホッとする。。

彼は94歳まで長生きする。

 

表現主義のコーナーは、見ごたえを超えて、のしかかってくるほど。そして北方ドイツ絵画の深淵に気が遠くなるばかり。

クッタリして、カフェに座り込む。おいしいハーブティに回復して外に出たら、美術館の外壁がリベラの壁画になっていた。デトロイト美術館の建物にはリベラの壁画や壁絵が使われているそう。自動車産業で財をなした資本主義の殿堂のような美術館に、マルクス主義者のリベラ。デトロイト美術館も器が大きい。

最新の機械であろう大きなラインにつく、労働者の活気ある姿が描かれていた。

なんて濃い展覧会だったことか。表現主義しか記録でしきませんでしたが、ピカソもたっぷり観られた。デトロイト美術館に感謝です。

 

 


●デトロイト美術館展1 表現主義ブリュッケ周辺

2016-11-29 | Art

デトロイト美術館展 上野の森美術館

 

印象派以降の絵画がひととおり網羅されていた。デトロイトの財政難とはいえ、代表作をこんなにもよく貸してくれたもの。ありがとうございます。

特にドガは5点。こうやって複数枚見られると、ドガが見つめていた、表情の奥にあるものをなんとなく感じたような。

モディリアニも3点。「男の肖像」「女の肖像」を並べてみると、切なくなってくる。

1点だけどヴァロットン、ルドンがあったのもうれしかった。

 

今回のお目当ては、20世紀ドイツ絵画のコーナー。好きといえるほど見ていないけれど、見るとつかまる表現主義。デトロイト美術館はアメリカでも有数の表現主義のコレクションがあるとのこと。

二階に上がると、まずミュンヘンの青騎士からカンディンスキー。それからドレスデンのグループ、ブリュッケに参加した画家たち。そしてココシュカなど、それ以外の表現主義の画家。

後で「ドイツ表現主義の世界」(神林恒道編)を斜め読みしてみたところでは、ブリュッケの創設メンバー4名のうち、キルヒナー、ロットルフ、ヘッケルの三人もの作が上野にそろっていた。そして(頼まれて一年だけブリュッケに参加した)ノルデ、後から加わったペヒシュタイン。

ブリュッケが、小さな人数で、期間もたった8年だったのは意外だった。ドレスデン工科大学の学生だった4人は、1905年にグループを結成。正規の絵画教育を受けたものではない者たちが始めたのが面白い。尖った?若いエリート学生が、労働者エリアのお肉屋さんの二階に借りたアトリエで旗上げた。「満ち足りた暮らしに安住する時代遅れの人々に対して(略)。自らを創造へとかりたてるものを直接偽らずに表現しようとするものなら、だれでも我々の仲間なのである」とキルヒナーは宣言している。展覧会や会報を出したり、その後会員・準会員と出るもの入るもの、意見の対立、さまざまありつつ、やがて消滅。そして世界は二度の戦争へ。

キルヒナー(18801938)「月下の冬景色」1919

絵画はミュンヘンで学んだそうなのだけど、ドレスデンに戻って創作。1914年に第一次世界大戦に志願出征するも神経衰弱にかかり、サナトリウムで療養生活。薬物とアルコール中毒この絵は前年に移ったスイスで描かれたもの。

 こうこうと照らされた白昼夢のようだけど、これは夜明け前の情景。あやうい心象。でも新鮮な感動に満ちている。

「今朝早く、素晴らしい月の入りを観ました。小さな桃色の雲の上にある黄色の月と澄んだ深い山やま、本当に素晴らしい情景でした。」と手紙に書き送っている。

抱一の月はひそやかに萩やすすきと遊ぶけれど、この月は雲を驚かせるくらいにハイなパワーに満ちている。針葉樹も月の光をあび、声を上げている。慟哭のような自然の遊びを、不眠症のキルヒナーは目撃したんでしょう。自然の声と彼の内声は、この絵の中で混じり合ってどちらがどちらかわからないくらいに一緒くたになり表出している。泣きながら、もがきながら、苦しみが全身を洪水のようにむしり取りながら流れ巡りながら、そんな中で見たもの。

下の方を見ると、不安な衝動が洪水のように流れ、一軒ある家も安住できる感じではなさそう。

そしてナチスの台頭。ナチスに「退廃芸術」との烙印を押される。1937年の「退廃芸術展」なる恐ろしい展覧会でつるし上げられ、その精神的ダメージから這い上がることはかなわず、翌年ピストル自殺。

キルヒナーは人物の(確かに退廃的って感じな・・)絵が多く、これをたくさん一度に観るのは、ちょっと避けたい。でも彼の自然の絵は、危ういんだけどいいなあと思う。

チューリヒ美術館展で見た「小川の流れる風景」192526 もピンクが鮮烈で、森が生き物みたいなところに共感を感じたのだった。

森羅万象に霊魂を感じる日本人と通じるものがあるのか、時々ドイツ人の絵を観て、日本の絵みたいだと思うことがある(フリードリヒの樹とか)。

「月下の冬景色」の解説には、「自然に神秘性や崇高を感じるドイツ的心性へ立ち戻ることによって、精神の均衡をもとめようとしたのだろう」と。

この絵も上の「月下の冬景色」も、鮮烈な色でありながら、キルヒナーを責め立てることはない。不安なキルヒナーの側に立っている。助けてほしいという声。

 

同じくブリュッケのカール・シュミット・ロットルフ「雨雲、ガルダ湖」1927も、同じように感じた一枚。ストレートに自然と親しんでいた。

木が踊っているよう。スノウマンの手みたいな雲が山を抱いている。大きな自然と自分の小さな心の中が同期しているようで、好きな絵だと思う。「自然に親和性を感じ、擬人化する創作態度は、「自然の声」を聴く北方的神話主義と相通じる」と解説に。

ロットルフはつるまない性格のようで、ブリュッケのメンバーとの共同生活や共同製作はせず、適度に距離をとっていたらしい。

 

エーリッヒ・ヘッケル「女性」1920

見るなりパワー消沈させる女性の眼。

情けない感じの男性はヘッケル本人なのかな。ヘッケルも従軍の過酷な体験に苦しみ、放浪していた時期に描かれた絵。

彼からは見えないはずの、女性の本当の表情。女性が毎日こんな顔でいることを彼は気づいてないのか、わかっているけれどどうしようもなく毎日が過ぎていくのか。諦めつつもやりきれない彼女から立ち上るものが、あの左側の赤や青のタッチや、黄色の破裂音のような形なんだろうか。

自分と妻のこの姿を、ヘッケルは、まざまざとよく見つめたものだと思う。

解説には、男はゴーギャンの「黄色いキリスト」を思い起こさせ、そうすると女性はマグダラのマリア。なら復活したキリストの存在に女性が気付く寸前なのかもしれない。そうすると希望の持てる絵ということになるのだろうけど。

ヘッケルが女性を愛していることは伝わるけれど、それはきっと女性にしたら重荷でもあり、やはり見れば見るほど一緒に消耗してしまった。

 

マックス・ぺヒシュタイン「木陰にて」1911

ブリュッケの中では、彼だけがドレスデン美術学校で正規の美術教育を受けていたということで、やはり画家の絵って感じがする。これまでの三人はプロ画家というより、自己の内面を暴露した感じ。計算なく。それが印象の強さでもあり、忘れられない絵になる理由でもあるのでしょう。ペヒシュタインも色彩には似た感じはあるけれど、画業を意識し、その意味では安定している絵。

 セザンヌ「水浴」から構図を拝借し、ゴーギャンのプリミティブな絵画への試行の途上と。

大気も雲も光りも一つの強い波動の共鳴のような。それを体に受ける女の堂々とした肢体。バルトのリゾート地、ニダ。南洋の光ではない深い空もいいなあと思う。

ペヒシュタインはこの翌年ブリュッケを脱退し(内規違反的なことで脱退させられ)、安松みゆきさんによると、1914年に妻と南洋を求めパラオに向かう。二年ほどの制作の予定だったのに、日本軍の捕虜となり2ヶ月で強制送還されてしまう。日本との因縁。南洋で描いた作品は、20年後にやはり退廃芸術展にさらされてしまう。

 

エミール・ノルデ(18671956)「ヒマワリ」1932 

この作品は、まだ退廃芸術として国中の非難を浴びる前、65才の作だけれど、当時ガンに侵されていたノルデの心情が重い。

わずかに入れられた赤色はノルデの血のようで、左側のひまわりはノルデの顔に見えてくる。消えゆく命の中で、必死に力を振り絞って息を吐くよう。ギリギリの中で、種を産み落とす。

もとは木版画の制作からスタートし、32才でパリにでてから絵も描き始めたという。ノルデはブリュッケに参加したのは一年ほど。すでに活躍していたノルデの絵をみて感銘を受けたキルヒナーは、ノルデにブリュッケへの参加を頼む。とはいえブリュッケの共同生活や共同作業にはついていけず、一年くらいで会は脱退したらしい。1909年(42才)には北ドイツ、1921年(54才)には故郷のデンマークへ移り、農場で生活をしながら制作していたよう。

彼はナチスが弱小政党だったときからのナチ党員。なのに、1937年(70才)にはナチスにより退廃芸術とされる。作品は美術館から押収され、画材の購入すら禁止されてしまう。それから戦争が終わるまでは、ばれないように小さな日本の和紙に水彩画を描いていたようで、それも見てみたいもの。

ひまわりの絵は時々登場する。ひまわりだけでなくノルデの描く花の絵は、ただの植物ではない。泣いている人、悲しい心をもつ人、不安な気持ちの人の姿に見えてきて、胸締め付けられる。さらに人の内的な感情だけでなく、大きな自然の中で寄る辺ない人の姿のようにも。風の中、抗えないものに翻弄される姿、力無い存在。逆に否応無しに動く大気、風、光。自然の大いなるぜったいせい。彼の自然観。

ベルリンのフランスドーム一角から見えるところにノルデ美術館があったのに、最近閉館したよう。国境近くの本館のほうはお庭も美しく、ノルデが過ごした田園風景を感じられそう。


ここまで我を忘れるくらい没頭して見ていた。
今まで少し見かけてはひかれたブリュッケの絵、鮮烈な色彩と感情の強さにぱっと見でひかれていたんでしょう。でもこれだけの枚数だけでも改めて見ると、時代の中で自己存在に悩む姿が共通して、重くて。ナチスが存在を増す時代と今とでは全く違うけれども、メンタルに沈んでゆくストレートな表出は、現代社会の人間もそのまま重なる。自分の中にだってはしばし感じることや落ち込みが絵に見出され、だからこんなに見て疲れるのでしょう。

ドイツ表現主義の展覧会があるといいなとこれまで思っていたけれど、会場中これで埋まったら最後までもたないかも(..)。やはり何かの機会に少しづつ見るくらいにしておいたほうがいいのかもしれない。

なのでここで少しひとやすみ。残りの表現主義は後回しにして、先に20世紀現代絵画のほうへ逃避。そしたらピカソのメンタリティの強さがひときわ感じられた。ピカソは、(周りの女性たちを沈めても自分は)あんまり沈まずどんどん動く。

残りの表現主義の絵は続きに。

 

 


●目黒美術館「色の博物誌 江戸の色材を観る・読む」

2016-11-19 | Art

 目黒美術館「色の博物誌 江戸の色材を観る・読む」2016.10.22~12.18

http://mmat.jp/exhibition/archives/ex161022

「色の博物誌」シリーズの企画展の6回目とのこと。目黒美術館は色の研究を続けており、今回は色材に焦点を当てた展覧会。

 

第一章は、「国絵図

絨毯みたいにしたに広げられたその大きさに、ほんとに固まってしまった。2畳か2.5畳のラグマットくらいあるのだから。

幕府の命により各藩が総力を挙げて作った国絵図。カラフルな仕上げ。

備前の国(岡山)の国絵図は、慶長、寛永の2点、元禄の4点が展示。それぞれ視覚的に印象が違う。正確な地図ではないけど、山があって、海があって、これくらいな感じの規模の村があって、というイメージは湧く。

なかでも慶長年間の国絵図は、瀬戸内海が透明感のある水色で、パステル系。お役所の仕事なのにかわいいなあ。山は緑青と群青で描かれ、ぽこぽこといい感じ。そこに赤い丸型で村マークが。

 

寛永の「備中国絵図」は、金、孔雀石の緑青など高価な素材の仕上げ。池田のお殿様の手元用とか。

 細かく凡例がついている。赤すじ:道、黒丸:一里山、金泥:郡境など。

淡路島46里、讃岐16里など、瀬戸内の国らしく海路の距離も記載されていた。土佐も67里と。今なら四国に渡ったらあとは陸路輸送なのだろうけど、昔は高知まで海路なのですね。京や大阪、江戸までの距離は記載がなかったと思う。


寛永の「備前の国九郡絵図」は、海の深い藍色がとてもいい色だった。

道の赤い線が印象的。そして船の航路も赤い線でひかれていた。「村上水軍の娘」では、海を車よりも自在に走っていたし、今と違って海路が身近だったんだなと思う。

 

元禄の国絵図も、藍色の海が広い。隣接の藩に何色を使おうかと思ったときに、パステルなオレンジ、水色、ピンクっていう当時の感覚に、目から鱗。

べた塗りの海ではなく、浅瀬が薄く描き分けられている。先に胡粉を塗り、上から海とともに藍をひいたと解説に。

山は薄い線描になっていた。小さなラインダンスみたいに並ぶ松の木がかわいい。

人口も村名とともに書かれ、欄外には石高もリスト書きされていた。取りはぐれない感がマイナンバーみたいな。

 

国絵図だけで時間をとられてしまいました。岡山大学池田文庫には他にも国絵図がたくさんあるらしい。他の藩も検索してみると、山の険しさが際立つ藩、樹が妙に精密な藩など、けっこう面白い。旅先などで地方空港に貼ってあると楽しみが増えそう。

 

第三章「色材」

顔料の材料が一堂に会して、とても興味深いコーナー。鉱物系、植物系、昆虫系とたくさんケースに展示してあったうち、いくつか記憶にあるものを。(鉱物系は元素記号まで記載してあった(!))

辰砂(しんしゃ)は朱の材料の鉱物。

辰砂の産地を「丹生」(にぶ)と言ったということ、そういえばそんな地名の町があるある。

 

ベンガラの赤は、土から。酸化鉄の成分。展示は西表島の上原産のものだったのが嬉しい。そういえばタイ東北部やカンボジアの未舗装の道路がこんな赤い色だった。インドのベンガルから来た言葉だそう。

 

植物性のものでは、ウコンや山形産の紅花など。

 

緑は植物から取ることは困難なので、黄色や青を重ねる。レオ・レオーニの「あおくんときいろちゃん」が混じり合ってみどりいろの子になったあの優しい色を思い出す。


プルシアンブルーは「ベロ藍」と言われ、1704年にベルリンで化学合成で偶然発見されて日本に持ちこまれた。意外とヨーロッパでも新しい色だった。北斎の富嶽三十六景はこのベロ藍。古来の藍や紺じゃなかったのか。71歳でベロ藍に出会った北斎は大喜びして富嶽三十六景に取り掛かったとか。

緑青も、大きい粒だと緑青、細かく磨ると白緑になる。エンジは「臙脂」と書く。身近なことでも知らないことが多く、新鮮だった。

 

第二章「浮世絵」

浮世絵の衰退とともに、絵の具の製法もわからなくなったという解説文。たしかに惜しまれることだと思う。

この復刻に取り組んだのが、立原位貫さん。昨年亡くなられた(1951~2016)。

原本と、立原さんが色を再現した浮世絵が、並べて展示されている。当時の色の成分の分析と再現はたいへんな労力だったでしょう。それに加えて、立原さんの多色刷りの技術にも感嘆。

鳥文斎栄之 「青楼美人六歌仙 角玉屋小紫」の再現作、当時はこんなにビビッドな赤だったのか。原本と比べて、顔映りもよく、肌まできれいに見える。江戸人が見ていたのはこんなに鮮やかな浮世絵だったんだなあ。

喜多川歌麿「金太郎と山姥 煙草の煙」は、ウコンの黄色と金太郎の桃色が鮮やかに再現されていました。金太郎の元気いっぱいムチムチ感も取り戻され、山姥の吐くけむりもふわりとしてきた。感じる部分が違ってくる。

これはパネルで再現工程を展示していました。吉田博でもなければ通常は浮世絵は分業ですが、立原さんは全て一人で行う。バレンの良し悪しで色の発色がきまるのだそう。バレン自体も大変に緻密な工程で作られているそうです。小学校のお向かいの文房具屋さんで売られていたものとはモノがちがうのでしょうね。

 

紙も大切な要素。渓斎英泉「今様美人十二景 おてんばそう 」の再現では、美濃の職人の井上源次さんに紙を特別にすいてもらったそう。繊維に多くの空間があり、厚みのある柔らかい紙。発色は紙でずいぶん違ってくる。確かに、薄い水色のかんざし、ノーズシャドウのような微妙な鼻の濃淡まで、薄い色が薄くきれいに出ている。

 

忠実な再現でなく、立原さんの解釈で変更を加えて再現したものも。

歌川国芳「讃岐院眷属をして為朝を救う図」はよく見る作だけど、からす天狗は原本よりも薄墨を用いたとか。確かに透明感があった。ワニざめの鱗もはっきりして見えて、国芳がこだわった部分なんだなと感じる。これもベロ藍。

 

「浮世絵の青」のコーナーでは、渓斎英泉が数点集められていた。

渓斎英泉「仮宅の遊女」はプルシアンブルー一色。

夜の暗い中に目が慣れたら見えてくるような感覚。それとも海の底の竜宮城とも思える。遊女の顔だけが白く。ベロ藍は濃淡が出せるのが利点とのこと。たしかにベロ藍が数段階に調整されています。

これと同じ版木で多色刷りにした「姿海老屋楼上之図」も。同じ版木とは思えないほど。バックを室内の様子に。同じ構図で二つの世界がシンクロして、トーマス・ルフ的な根底がゆらぐ感じ。

北斎に先駆けて、初めてベロ藍を使いだしたのは英泉だとか。自分で女郎屋も開業していたらしく、さすがというか異色というか、英泉の遊女は艶やかでプロな感じ。

 

五章「画法書」では、北斎の「画本彩色通」が面白かった。

イカ、花、瀑布、鷲などの図解と描き方のコツから、絵の具の混色のレシピ?まで、びっしり。これはほかのページも見てみたかった。

 

平賀源内「物類品」は、ものの紹介の一部に、顔料の原料の記載がある。

土佐光起「本朝画法大伝」は、漢字がびっしり。読む気力は起こらなかったけれど、朝廷の命による最初の画法書だとか。

 

画集を買えばよかったかなと後から後悔。楽しい時間でした。


●「SENSE OF MOTION あたらしい動きの展覧会」スパイラルガーデン

2016-11-16 | Art

根津美術館の帰り、表参道のスパイラルへふらりと。ほこっと楽しい展示。

NSK100周年記念展示イベント「SENSE OF MOTION あたらしい動きの展覧会」

2016.11.09~11.20

http://www.spiral.co.jp/e_schedule/detail_2065.html


NSKとは、日本精工(株)という会社で、ベアリングなどを中心に製造しているらしい。

ベアリングとは「軸受」。軸受ってとこからわからない文系人間なのですが(いや文系関係ないか)、もらったチラシによると、「ものの回転や直線運動をコントロールする部品」。さらに、「人間の歴史は「動きの歴史」だ。人は何かを動かしたいと思い、動かすことであたらしい世界を切り開いてきました。」とある。

主催者の”部品”に対する思いが、熱い。

”部品”というと、レオレオーニの絵本の「ぶぶんひん」を思い出す(レオレオーニ「ペツェッティーノ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし」) 。 メインじゃない、小さなパーツに人格といとおしさを感じるおはなしなのだ。 

  

展示に戻ると、いくつかの作品がスパイラルの空間に点在。

(申し訳ないことに作者と作品名を忘れてしまった。)

 

これは固そうですが、押してみるとちょうどいい弾力。そば生地とか粘土生地くらい。

 

このかるたは、「運ぶ」「動かす」「動く」とかそういったことで構成されている。初めて知ることが多くて面白い。

「リニアの元祖は、ロシアの巨石運搬装置」、「丸太の上に 重いものを乗せてゴロゴロ運んだアッシリア人」とか。

「頑丈な要塞を打ち砕く槌をスムーズに動かした古代ギリシャ人」、図解で見ると、古代ギリシャ人賢い!

人類の原初の「動かしたい」「運びたい」という思いに、思わずぐぐっと力が入る。

 

これはアートではありませんが、軸受の「あり」と「なし」を、回し較べで体感できる。

「あり」の軽いこと!。ひとしれず頑張ってたのか。妙に感動しました。

 

人の動きを感知して、横棒が動きます。(奥の人影は足がないけれど、もともとの映像です。)

 

回転木馬は、自分で回します。木調っぽいかわいいBGMが、タタタ タタ タタタン♪。

 

そのBGMを聞きながら、いつものらせんの階段のあるホールへ。今日はこんなふうに。

一すじ一すじちがいます。

このあたりは秋だろうか。

らせんスロープをのぼり

上から見るとこんなかんじ

わずかに動いています。

きれいで、嬉しくなってしまった。

 

他には、阿部公房の「箱男」をイメージしたという段ボール箱があった。かぶるとなにか映像が見えるらしく、大学生らしい男女が、すげ~っとかきゃ~とか大喜びしていた。やってみたかったのだけど、一人で箱かぶってきゃ~とかしてたら恥ずかしいので、勇気が出なかった。

スパイラルの階段踊り場に置かれた椅子。

ここに座って通りを眺めていると、時間忘れます。高層階じゃないのが逆にいいのかな?

槇文彦さんの設計の中でも、ここは素晴らしいと思う。1985年の開館からもう30年。ちっとも古さを感じず、来るたびに心地よい空間だと思う。中で時間を過ごす人の体内的なものを大切にしている建築だと思う。

新国立競技場のザハハディド案がまだ撤回の何のという騒ぎになる前から意見を申し述べた槇先生に対し、それをモーツアルトとサリエリに例えた関西のアナウンサーがいたっけ。開いた口がふさがらなかったけれど、それも過去のことになってしまった。

 

今日はイベントだったので、館内が騒がしかった。

ふだんは中二階にもいすが置かれているのだけど、今日は椅子が撤去されて、花が咲いていた。

ホールで上から下がっていた花のパーツだ。種がこぼれて、下から芽を出したよう。

かわいいなあ。


●牧谿と狩野山楽 畠山記念館「天下人の愛した茶道具」

2016-11-15 | Art

「天下人の愛した茶道具」 畠山記念館 2016.10.112.11

牧谿と狩野山楽を見たくて先日行ってきました。(牧谿は115日から20日まで展示。)

お茶の道具の他にも、天下人たちが所有していた掛け軸や屏風などすばらしいものが展示されていた。画は3点だけだけれど、訪れて大満足。

 

伝牧谿「煙寺晩鐘図」南宋時代(13世紀)

畳スペースに展示されており、座ったり立ったりゆっくり見られました。(写真はちらしから。部分。実際は上下左右周囲にもっと余白が広がっています)

靄につつまれた日没の山間のお寺。先日の東博で迫力の「龍虎図」も観ましたが、こちらは静謐な世界。

これまで画像ではよく見えなかった木の筆致、お寺の線描まで、じっくり見ることができました。

長谷川等伯など多くの画家が牧谿から影響を受け、日本の水墨山水の源流のひとつともいう牧谿だから、私はほとんど神のように思っていた。以前出光美術館で見た「平沙落雁図」なんかは、明確な線ときたら小さい雁数羽だけ。えがわ美術館の羅漢は、線は羅漢を描き出しているものの、だいぶ変色していたので判別しずらく、それがますます神がかり。「叭々鳥図」は明解な線だけれど、その数えられるほど最低限の線で叭々鳥と木を描き出せることに圧倒され。

だからこの煙寺晩鐘図は、まだ線が多い方。ですので今回は画家・牧谿に親しみがわいてくる。細くともピリピリした線ではない。もたつくことなくひかれていながら、どこかほんのりと。

そして墨の濃淡。わずかに濃い屋根や木。

靄のあいまに淡い光が見える。お寺や家々に灯るあかりも想像するけれど、月が照らしているのか、残照でしょうか。靄の中に自分がいて、もやの切れ目から見る残照のような感じ。

「何を描いたか」というより、「何を描かなかったか」。これ以上描くことなく、牧谿はここで筆をおく。どんなに眼をこらしても、これ以上筆で描きだされているものはない。でも、晩鐘が耳の奥にかすかに聞こえる。自分の中にあって、思い出す音。それと絵の情景が混じり合って、靄のように、心と耳の奥に満ちていく感じ。 これは私しか見ることができない世界。たぶん実際の煙寺の鐘の音とは全然違っているんでしょうけれど。

 これは足利義満が入手したもの。瀟湘八景図の絵巻を分割して掛け軸に仕立てたもの。絵巻だったので左のほうに虫食いが等間隔であるというので見てみましたが、よくわからなかった。右のほうにあったシミのことかな?。

激動の時代の持ち主の変遷がすごすぎる。足利義満→松永弾正→織田信長→徳川家康→紀州家→加賀家。

信長はどんな思いで見たんだろう。

 

その隣に、伝夏珪「竹林山水図」 たいへん心楽しい山水画。

山水画の個人的なお楽しみは、動物やひとがちょこっとかわいいこと。この絵には、ロバ♪。高士が重くてお気の毒だけど、文句も言わずエライ。

構成というのか、それも面白い。ロバの歩みの遅さのままに、ジグザグと左右斜め上へと上がるように、目線が誘導される。そしてたっぷりとられた空。天高く、懐広く。

畳に座って下から見ると、このジグザグ線が上がっていく過程で、ロバに乗った自分が竹林へ入っていくよう。

でも立って見ると、竹林から下を見下ろせて、高士とロバはちょこんとかわいく見えてしまう。

笹の葉は細かく一枚一枚リズミカルで、これも見飽きない。詳細部にズームするとこまやかに描き込んである。でも構成は明快。広やかな山水の世界に入り込みながら、細部に遊べる。楽しい時間だった。

これはなんと10年ぶりの公開。もっと公開してほしいと思ったけれど、この状態の良さを見ると、畠山記念館さんに感謝。

牧谿と夏珪、同じ南宋の画家ですが、画風はまったく違う。室町以降の日本の水墨画に大きな影響を与えた両者がここに並んで見られてよかった。

 

このお隣にあったのは、豊臣秀吉が母に送った手紙。

朝鮮出兵の前に、母の大政所さまが肥前名護屋城に帷子などを陣中見舞いに贈ったことに対する、お礼のお手紙。わかりやくひらがなで書かれている。ひときわ大きく「うれしく」(五行目)と。いろいろ非道なことも行う秀吉だけど、母の前ではかたなし。

 

もう一つの目当ては、狩野山楽。現在東博では禅展と常設に大作が展示されていて、畠山記念館はサイド企画展みたいになっています。東博の作は、凄みのある大作に圧倒された。京狩野を背負うものとして、堂々の頭角の顕しっぷりだった。

「梅に山鳥図屏風」伝狩野山楽 17世紀(江戸時代)(部分)

江戸時代にもまだ桃山時代の永徳のような豪華絢爛な世界。もとは襖絵。この襖を開くときは、どんなにドラマティックでしょう。

天の雲から現れた龍のような梅の幹。うねるような枝ぶりは圧巻。むしろその激しい動きに、筆が追いつくのが精いっぱい。描くものが一生懸命追いかけているような、枝の精力感。

梅は、花びらのそりかえりまで線できっちり書いています。雉は、生真面目に写生しているよう。眼もまぶたのすじまで見て書いたよう。

少し離れて見ると、下の岩場の荒々しさに改めてパワーがみなぎる。権力者のための絵。

東博では、激しい絵、細やかに描き込んだ絵が、両方展示されていた。あの絵で認められたと。この絵も、山楽の野心と情熱が細部にも全体にも感じられるような絵。京に残った狩野派。徳川の世とともに江戸に移った江戸狩野のその後よりもよほど、野心に満ちていた。

つわぶきが咲いていました。

門から建物入口までの小径は、いつも静かで、みずみずしい気持ちに。

 

この小さな美術館で見た作品は、いつもとくべつ心に残る絵になります。


●国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」

2016-11-05 | Art

国学院大学博物館「祭礼行列 渡る神と人」2016.10.15~12.4(展示替えあり)

前期に行ってきました。

 

”まつり”を、「祭祀」と「祭礼」とに区分したのは柳田國雄であると解説に。そして祭祀から祭礼へのと転換点が、「見物人の発生」であると。なるほど。

今回は、まつりのうち「祭礼」の変化と様相を、江戸から明治の絵巻や屏風を通して紹介していた。小さい展示スペースだけれどとてもおもしろかった。

祭礼の発祥はやはり京都だという。京都の行事や地名に疎くて洛中洛外図などを見てもいまひとつピンとこないのを悲しく思っていたので、今回は「いまさら人に聞けない」的なことが少しクリアできた。

 

章立ては大きく4つ、【渡る人々】【渡る山鉾屋台】【渡る神輿】【近代の祭礼】。

【渡る人々】 

祭礼の中には、神の移動を目的とせず、神輿を伴わない行列がある(そうだったの)。

行列は、神事を行うために、神社に向かう天皇の勅使、御幣、唐櫃の供え物などからなっている。「葵祭図屏風」西村楠亭は、5月にふさわしく、若木色に少し金がまかれた爽やかな色合いの屏風。(写真はいただいたパンフから)

見物人がちらほら見え始め、敷物をひいてなにか飲んだりしているファミリーもいる。

橋の手前にはテント張りの見物人席みたいなものが設けられて、売店なのか煮炊きもしている。

虎の毛皮を運んでいるのはなにかしら?と思ったら、ニュース画像の葵祭の行列にも虎皮が見える。西村楠亭は江戸後期の絵師、円山応挙の弟子。江戸後期にはすでに虎皮もお供え物アイテムとして定番だったのか。もしかして当時と同じ虎皮を、今も大事に使っているのかしら。

 

 「やすらい祭り・上賀茂競馬会図屏風」横山崋山(写真は部分)

まず大きな鳥居に圧倒される。馬に乗る人も周りの人もとても生き生きして、迫力に満ちた屏風だった。大木もなにかの力に満ちていて、鳥居の中という神の領域であるのだと感じた

横山崋山(1781~1734)という人を知らなかったけれど、ライブ感ある人物と大胆さに興味がわいた。曽我蕭白に私淑したとか。ウィキペディアで少し見ただけでも、大英博物館の蘭亭図は、印象的な川の流れにぱっと惹きつけられた。ボストン美術館の「常盤雪行図屏風」も、雪深さが胸に迫ってくるし、母とともに逃亡する幼い子供たちの様子が心に訴えてくる。こんなに子供らしい表現のこのシーンは他にあったかな。海外に多く作品が流出したのが惜しくてならないが、それも納得。

 

【渡る神輿】

神を乗せて移動するための神輿は、登場したのは平安時代中頃のこととか。神社におわす神を、神輿に乗せて「移動していただく」という便利な発想が、日本の祭り史上に大きな転換を生んだらしい。そうとなれば、神輿のまわりに、田楽や獅子などの芸能ごとも付随させなければならない。

 ・「付喪神記」は一番気に入った絵。古道具が変化した付喪神が、変化大明神を氏神として真夜中に祭礼を行う。なんてかわいい。パンフには出ていなかったけれど、おそらく御伽草子の一節(京都大学電子図書館で見られます。こちらの中の祭礼の部分が展示されていました)。

付喪神たちは殊勝にも、「造化の神によって生まれ変わったのに、その神を祀らなければ、心ない木石と変わらない。今から神事を行おう」と思い立ち、せっせとお神輿や飾り物を作って、行列を進める。この行列での出来事が、その後の付喪神たちの運命を大きく変えることになるのですが・・。

 ・「日本橋魚河岸旧天王祭り団扇投之図」春斎年昌(明治22年)は、東京、神田明神の祭り。宙に舞う団扇とおひねりの赤が美しかった。

 

【渡る山・鉾・屋台】

これらは、行列をにぎやかにし、囃すことを目的にしている。最初と思われる祇園祭の山鉾は、鎌倉後期に原型ができた。そして山鉾が全国に広がるのは、江戸時代以降のこととか。思っていたより新しい。これは城下町などの都市や町が成立し、山鉾屋台を維持する組織が形成されたため、という解説に納得。

「つしま祭り」は、宵祭りで、一年の日数だけの提灯をつけた、高い山鉾。山鉾の頂上に上っている人々の顔が、このたいへんな状態なのに、かわいくのどかで。画像がないのが残念だったので、例によって下手なメモしてきた。

 

【近代の祭礼】

明治になり、政治社会情勢の変化、太陰暦から太陰暦への変更等、祭礼に少なからず変化をもたらしたと。知識が足りずもう少し詳しい解説がほしいところだったので、ここはさらっと。

一つ、「稲荷神社両御霊神社私祭之図」国井応文(明治10年)は、11本の銅鉾が美しい絵だった。下の方の飾り受け部分には、鯱や小槌、龍などが。道を清める意味合いとか。

 

常設の方には、祭祀に使われるものを中心に時代を追って展示してありました。時間がなかったのが残念。

この人影にまじ心臓止まりそうだった。

 

長野県出土「挙手人面土器」(4世紀) は忘れられないお姿。

「身体に見たてられた類例のない土器」とか。顔から即、手足が出るのは、小さい子供が描く絵のよう。土器というよりなんらかの生命体みたい。

この土器の作者は、この時代にすでに個の表情を作品の中に表出させようとしたのだろうか。

角度によって全然違うので、立ち去り難かった。

闇...。


●「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館

2016-11-05 | Art

「1797年江戸の文化人大集合ー佐藤一斎収集書画の世界ー」実践女子大学香雪記念資料館

2016.10.10~11.10(前期) 11.14~12.10(後期)

先日前期展へ。

佐藤一斎(1772~1859)は、江戸後期の儒学者。幕府の儒臣として、門人は佐久間象山、渡辺崋山ら含め3000人とも。

実践女子大学の学祖、下田歌子と同郷の岩村藩(現在の岐阜県恵那市付近)の家老の次男。

儒学系に全くもって疎いのに、この展覧会を訪れたのは、渡辺崋山の「佐藤一斎像」1821(東京国立博物館蔵)が脳裏に刻まれていたから。(今回の展示ではありません)

鋭く疑り深そうな目線は、厳しく真を問うているよう。崋山の人物画は何とも言えない不気味さが漂う。不気味と言っては違うのかもしれない。私のように難しいことを問いただされるの受け付けない人間には、そう見えてしまうのでしょう。でも、自身も儒学者である崋山は、動じることなく、この射貫くような師の目に対峙する。

今回は崋山の弟子、椿椿山(18011854の作とされる一斎像が展示されている。

伝椿椿山「佐藤一斎像 佐藤一斎賛」1855(安政二年)

 一斎が84歳の時に賛を入れたのでしょう。この時すでに椿山は亡くなってる。この画はおそらく椿山の晩年の作でしょう。

一斎が50歳頃を描いた崋山の作と比べると、一斎も年齢を重ねて少し角が取れたかな。椿山の絵は、華山に比べると少し線が細くおだやかな絵が多い気がするので、そのせいかもしれない。でも、やはり鋭くものを見透かすような目は健在。80歳になっても、賛の筆力にも衰えすら見えなかった。

一斎「墨竹図」は、七言絶句二首に竹。画も賛も一斎の筆。

晩年のもの。右肩上がりの字にはかすれも見ることができ、字から気迫が立っているようだった。竹も、幹など、かすれた筆を強く紙に押し付けながら一気呵成にひいたときにできる独特の横擦れというか。迫力だった。

 

今回は、一斎と交流のあった人の絵も展示されている。

中心となるのは、「名流清寄」1797(寛政二年)という、寄せ書きのようなもの。父親の古希の祝いに、一斎が交流のある大名・文人・書家・画家たちに一筆頼み、巻物にしたてたもの。

阿部正精(蕉亭)の熟れたゴーヤの絵は印象的。

ゴーヤが黄色く熟れつくし、裂けて真っ赤な種が露呈している。つるの先端のくるるん感がないのが個人的には残念。

熟れたゴーヤはもう一点、一斎の収集物、宋紫石画譜1765の中にもあった。赤い実をつっつく鳥も。阿部正精がこの画譜から範を得たのかな?、ゴーヤは当時の流行なのかな?。

 

10代の市川米庵の書も。幕末の三筆と称されているそうな。

渡辺崋山が描いた米庵像の下絵。

米庵といい一斎といい、字と表情って似ているような。

 

金子金陵「蛙図」

蛙がすさまじいオーラをたぎらせている。戦闘モードか。草の手慣れた筆致にも見惚れた。金子金陵は、谷文晁の弟子であり、椿山、崋山の師。意外と狭くつながっている人間関係。

 

その谷文晁(17631840)は、弟、妹、妻の絵も展示。

谷文晁「山水図」もよかったけれど、特に妹と妻の絵にひかれた。

谷舜英(谷文晁の妹)「石榴図」1797

26歳頃。赤い実もつぼみも、楚々とかわいらしくて、好きだなあと思う。兄文晁から絵を学んだそうだけど、のびのびした感じ。

逆J型の枝の曲線がきれいだなあ。いったん画面から消えてまた戻ってきている。そして歌うように点在する葉。

 

谷幹々(文晁の妻)「墨梅図」

一見まっすぐ硬質な枝のように見えたけれど、見ていると、ふわりとした気持ちに。花びらに優しい感じがしたのだと思う。先端の枝分かれの様は、わずかに柔らかな曲線、それでいて潔い感じ。先端までどこも凛として見えた。

幹々(17701799)は、16歳で文晁と結婚、やはり文晁に絵を学ぶ。

夫と一緒に一幅に仕立てられた掛け軸の「雪景楊柳図」は、さらに心に残った作品。(下側の絵が幹々)

画像では見えにくいけれど、柳のしだれた枝の先端までかなり細かく線が引かれていて、その様が踊るようで。例えばタンゴのような。どこか妖艶。山の稜線も、線と形の遊びのような。文人画の寒々しい雪景色だけれど、文人画っぽくない。実はこっそり自由で奔放な感じ。他の絵も見てみたくなる。

文晁の妹の絵も妻の絵も、基本は文人画でありながら、個性が生きていて、文晁の教育方針のたまものなのでしょうか。

 小さな展示室ですが、貸し切り状態で楽しい時間でした。