hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

邨田丹陵‐時代を描いたやまと絵師

2024-03-19 | Art
邨田丹陵‐時代を描いたやまと絵師
たましん美術館 2024.1.13~3.31

20年ぶりくらいに立川へ行ってきました。
伊勢丹と高島屋SCがあって、カフェなんかが並ぶ遊歩道みたいなのがはるか遠くまで伸びていて、おしゃれに変貌していました。
そういえば、再開発が終わったのですね。
 
邨田丹陵展の評判がたいへん良いので、はるばる来たのです。

 
邨田丹陵( 1872年 - 1940年 )の名前を聞いてもピンとこなかったのですが、日本史の資料集で見た大政奉還を描いたのがこの方だそう。
 
大政奉還(1935年)
 

個人的には、香川の金刀比羅宮「富士二之間 「巻狩図」」を描いた方だというのに、現地まで行って見ておきながら、なんとうかつな。そもそもこの二作が同じ画家だったとは。
 
 
この襖絵を見たのは覚えているのですが、室内には入れず遠目だったのと、若冲奥書院の特別公開と
応挙のトラが目当てだったため、邨田丹陵の名前は全く記憶にありませんでした。
 
しかし今回、丹陵の絵を間近で拝見したことで、これは金刀比羅宮の馬と武者も近くでじっくり見たいと思いました。
丹陵の描く人物の目力、そして人だけでなく馬までも、表情と目力が際立っていたからです。
 
「両雄会湖畔図」明治27年
 
 
目といえば、細い線描きの眼だけで無言の圧を醸し出す安田靫彦もすごいと思うのですが、丹陵の武者はストレートに目に迫力があって、さらに口元にも力がこもっています。
これはさぞ金毘羅宮の武者も馬も、おそらく鹿も、顔はみものだったでしょう。
 
***
邨田丹陵 (1872年 - 1940年 )は、旧田安家に仕えた儒学者・村田直景の子として生まれ、父から史学や故実を学ぶ。
父の勧めで、川辺御楯に弟子入り、10代から歴史画で受賞を重ねる。
1901年、寺崎鉱業小堀鞆音日本青年絵画協会を結成し、日本美術院にも特別賛助員として参加。
関東大震災を機に、現在の立川市砂川町に転居。
1904年、日露戦争の戦地に赴き、戦地や兵士などを描写。
日本美術院が中心になり政治的な駆け引きの場になった展覧会から距離を置き、
1907年の文展を最後に、出品をしなくなる。
以降は質素な暮らしの中で、気の向くままに筆を揮った。
30代半ばでの引退の結果、その名が長く忘れられることとなり、丹陵の画業や生涯の研究は皆無となった。
***
 
早くに展覧会出品を取りやめたせいか、今回の展示作も、多くは個人蔵の掛け軸でした。
賞のつく展覧会への大型作品ではないからか、ギラギラした感じや挑戦的な感じではないのが、なんとなく感じ取れました。
 
どんな場面も、仰々しすぎない。しかしその範疇で最大限に緊迫感や迫力がこもっている。
線は走りすぎず乱れさせず、しかし伸びやかにハリをもって、色は赤や緑、青などの鮮やかな色を多すぎず効果的に。
端正なのです。
 
そして、自分の思う美、歴史上の人物や場面の解釈を、自分のペースで描いている、という感じがしました。
例えば、巴御前。騎馬姿で描かれることが多いのですが、このように弓を張り、戦さ支度をする場面は珍しいのだそうです。
弦を咥えるくちもと、弦を張る腕には力がこもり、たいへんな強さと気迫を感じます。
 
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そして、掛け軸の縦の画面の使い方も、無理なく、配置があっさり、しかも絶妙。
 
雲上鍾馗図(1901年) は上半分に鍾馗が浮かんでいて、下は何も描かれず、鍾馗の足はふわっと霞に消えている。でも口元はきっと下唇をかみしめていて、悪を寄せつけない強い眼と、ギャップがユニークな鍾馗でした。
 
犬追物図では、背景が描かれないのに、小さな画面にあの緊迫と動き。無駄な線は一本もなく、少ない色で最大の効果を生んでいるということなのでしょうか。
犬の顔と馬の毛並みの柔らかさも印象邸でした。歴史画なのに、細部が大変写実的なので見ごたえがあります。
 
鎮西八郎為朝の掛け軸も見ものでした。流された伊豆大島でも大島を占領してしまい、追討軍の船に弓矢を構える場面です。
砂浜に立つ為朝ははだしで、構える弓は無骨な木の枝そのままに弦を張ったものです。海風を受けて髭と蓬髪がなびき、為朝の荒々しさが伝わりました。
その為朝ひとりを浜辺に立たせるのでなくて、為朝の手前に、為朝の見る方向と逆向きの斜めに幹がたわむ松を一本描いている。しっかり力強く根付いた松のパワーもクロスして、たった一人戦う為朝はより力強く感じられました。
外隈で表された波も見事でした。
 
この二作の時はまだ20~30歳ごろなのですが、線は緩みなく、この若さですでに完成しているレベルなので感服します。
金刀比羅宮の襖絵を手掛けたときも、まだ30歳の若さだったのですね!
 
 
迫力だけでなく、情景が余情をのこすのも印象的でした。
雪月花(1906年)
梅の枝を手に、その梅の木を振り返る菅原道真。足跡もついていたりします。
月の薄闇の中の道真の心情を考えてしまうのです。もしかしたら、雪の落ちる音に何かを思い出したのかもしれないし、ふと梅の木の気配に後ろ髪をひかれたのかもしれない。
 
雪と梅の木の描き方も印象的でした。線ではなく、外隈でかたどり、胡粉を重ねて、たいへん丁寧に描かれていました。
丹陵は、描いたものはどれもたいへん丁寧に手掛けているのです。愛ですね。
 
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彩色だけでなく、丹陵の墨だけの作品も印象的でした。
 
月夜望嶽(1897年)は、夜に月の微かな光で富士山が浮かび上がっています。森の墨の濃淡、霞みのぼかしがたいへんきれいでした。
 
日月松竹図(1907年)は、松と竹の二幅対。薄墨濃墨の重なりがたいへんきれいで、速い筆致だけども、激しすぎず、乱さず。気負いがないのが見ていて心地よいのです。差し上げる方のために、さらさらと描いたような。
 
丹陵高橋松亭今村輿宗の青年協会の3人で、浦島太郎塩土老翁竹内宿祢を合作した墨だけの作品がありました。席画のようですが、落款がないとわからないくらい、三人の線が似てて、彼らレベルになると皆で線をあわせることもお手のものなのでしょうか。
 
 
金毘羅さんにも墨で富士を描いた襖絵がありますが、雑味のない墨色と延びる稜線、雲の静かさに、心洗われるよう。(展示作ではありません。画像は金毘羅さんのHPから。)
富士一之間 「富士山図」
丹陵と金毘羅さんの関係が気になるところですが、1901年、高松市の有力者から請われて、高松を訪れたそうです。
丹陵の絵でもよく画題とされている、源平の古戦場を廻り、中国地方の古戦場にも足を延ばしました。
翌年再び、香川を訪れ、金刀比羅さんの襖絵を描きました。
 
 
私が水墨で最も気に入ったのは、ひょうたんの小さな作品です。
酒瓢(1909年)
宿で即興で描いたのではとのこと。水分たっぷりの筆で、くるくると一筆書きのように弧を取っています。
描くのがとても楽しそう。
興が乗っても、やっぱりこの乱れのない、完璧な弧の美しさ。
そして最後、紐のリボン結びは、とてもかわいらしく書きあがっています。
 
 
そう、絵を通して思うのですが、丹陵という方の絵は、完璧だとクールで事務的になりがちなところが全然そうではなく、どことなくやさしさがあって、温かみがあるのです。
描くものに、気持ちがかよっているというか。
 
描く対象に対する愛情ゆえなのでしょうか。
春暁和色の梅の木の幹も枝も、輪郭をつけず、淡墨と淡彩を重ねつつ、細かくとんとんと大事に描き進めていく感じ。木の体温を感じるような。淡い感じが、この日の空気感を伝えてきました。
 
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愛情は写生から生まれるのか、愛があるから写生をするのか?。
 
丹陵は富士山が好きで、生涯で一万点描いたと言っていたそうですが、富士も土佐派的な細かな筆致ですが、山も漁村の様子も写し取っています。
丹陵が何を見ていたのか、実感を感じる気がしました。
 
富士山1936年
伊東に滞在し、写生に明け暮れたそうです。
 
丹陵の画に実感と体温が感じられるのは、その写実にあるのかもしれません。
の絵がありましたが、その水煙としぶきの様は、相当に見尽くして、その動きをとらえたのだと伝わります。それをまた、丁寧に再現している。
 
蓬莱山を描いた絵でも、波の様子が写実的で、伝説ではなく、どこか実際に見ているような気になりました。
丹陵が波や水の様にたいへん惹かれていたのかなと想像します。
 
 
父譲りか、丹陵が絵を、父が賛を書いた作品もありました。父の字ものびやかで張りがあり、乱れず落ち着きがある。儒学者っていっても、堅苦しさもなく、偉そうな感じもしない。
そこは丹陵にうけつがれているようです。
 
義兄の寺崎廣業が右隻にリンドウを、丹陵が左隻に牡丹を描いた屏風も、たいへん心に残っています。
胡粉の花びらの端のシルエットだけで描いた白い牡丹の花は、神秘的なほどで、におい立つように美しかったです。
これが、画家の「精神性」ってものが現れているということなのでしょうか。
 
菊づくりにも打ち込んだ、丹陵の晩年の言葉が、深く心にしみました。
 
 菊を作り
 (ココ忘れてしまった…)をながめ
 叢に虫を聞きつつ
 しずかに絵筆をとるとき
 わしは自分独りで
 幸福なんだと思ってゐる
    (昭和10年)


 


 

ベトナム版鳥獣戯画?

2024-03-15 | Art

黄金の大ナマズ(日記)の近くのベトナム料理屋さんで、ベトナム版「鳥獣戯画」みたいな絵に出会いました。

 
日曜だったせいかベトナムの人率90%。満席で、地元日本人にも人気のお店らしいです。
 



 吉川駅はそんなに大きな駅ではないようだけど、ベトナム料理屋さんが3〜4軒あるよう。
 
そして私の席の後ろの壁にこんな絵を発見。
 


上段は対ネコのためのネズミの処世術指南?。
下段はネズミの嫁入りかな。

これはカエル界のヒエラルキー?
 
かわいくて、身近な動物を擬人化しているところが鳥獣戯画に通じるものがあるような。
カエルもネズミもネコも鳥獣戯画の主要キャラですし。
 
この絵は、「ドンホー木版画」というベトナムの伝統的な版画だそうです。
ドンホー村というハノイから30キロほどの村で作られ、お正月などに求められてきたそう。
 
生活や行事、風刺をテーマにし、ネズミの嫁入りは最も人気の絵とのこと。
 
絵だけでなく、紙と絵具も興味深い。
紙は、ゾーという木の皮から作られたもの。それに、ホタテの貝殻を砕いて餅米などの糊と混ぜたもので表面をコーティングするらしいのですが、素材がやはりアジアだなって親しみがわきます。
 
陶磁器の絵付けのようで印象的だった色は、朱色は石(レンガという説もあり)を砕いて、黒色は竹の葉を燃やし、黄色はエンジュの花の蕾から、緑は藍や銅のサビから作るのだそうです。
 
今では職人さんもたいへん少なくなってしまい、ユネスコの緊急保護無形文化遺産の登録を目指しているそうです。
 
この版画にははっきりとした漢字が書かれているのでなんとなく内容がわかりましたが、ネットに出ている多くは、それっぽいけどなんか違うみたいな不思議な漢字?が書かれていました。「チュノム」という、ベトナム語を表記するために漢字を元に作られた文字だということです。さほど定着せずにアルファベット表記に移行したようですが。
 
他の壁にもたくさん掛けられていたので全部見てまわりたいところだけれど、満席だったのであまりに不審すぎようと断念。
 
ランチは生春巻とデザートのチェー付きでした^^
 


 
 

室瀬和美作の金箔大ナマズ

2024-03-14 | Art
武蔵野線吉川駅前に、どーんと金の大ナマズがいました。


人間国宝の室瀬和美作。平成7年に設置とのこと。
ちょっと得意げなソリがかわいい。





子ナマズ付きでほのぼの。
香箱などの小さな金箔や漆、螺鈿の逸品に室瀬さんがリスなどの動物をモチーフに用いるとふっくらとても愛らしいのですが、(以前の日記●室瀬和美「蒔絵ー伝統を創る」と、正倉院の螺鈿 - hanana)、これだけの巨大作品でもやはり同じくハートフルなのですね。

深みある金色と思ったら、そこはやはり室瀬さん。
金箔の下は漆塗りですと。
「金胎漆塗」という、銅などの金属を叩いた後に漆を重ね塗る古くからの技法で、甲冑などに用いられてきたそうです。

それにしても風雪に晒されて大丈夫なのかなと心配になりましたが、むしろ化学系の塗料よりも半永久的に持つのだとか。

室瀬和美さんも当時の吉川町からこの依頼を受けた時に、「屋外にあって丈夫なもの...。金閣寺だ」と金の大ナマズの着想を得たそうです。
詳しい経緯はこちらの方のブログに。
『吉川市と人間国宝』

『吉川市と人間国宝』

こんにちは!吉川美南不動産の石井です。本日、重要無形文化財(蒔絵)保持者 漆芸 室瀬和美さんとお会いすることができました。吉川市民ならまず見たことはあるでしょ…

吉川美南ではたらく社長のブログ ~まちづくりをする不動産会社~

 

照明も設置されていました。ライトアップされてこの金ナマズが闇に浮かび上がったら…。

吉川市は「ナマズの里」として町おこしを目指しているようです。
駅横に小さなお土産ショップもありました。


ナマズグッズが勢ぞろい。
栗入りパイを美味しく頂きました^^。








相国寺光源院 加藤晋奉納襖絵 

2024-03-11 | Art

京の冬の旅 非公開文化財特別公開 相国寺光源院 2024年1月8日~3月18日

 

先月ですが、京都の相国寺に行ってきました。

お目当ては、塔頭の光源院。

加藤晋さんの描いた襖絵が公開されています。
 
コロナ前から描き始め、2021年にお納めされたようですが、コロナを経てようやく落款を入れ、公開となったようです。
 
いつも日展で拝見するのを楽しみにしている、加藤晋さんの世界。広くて遠いあの山並みと里の風景。それをお寺で拝見できるのを楽しみにしていました。
 
 




(お庭は撮影できますが、室内は撮影できませんので、絵の画像は光源院さんのWebサイトからお借りしました。)
 
 
本堂に入ると、仏間と室中の間をはさむ、下の間に「春」、上の間に「夏秋冬」。
二つの世界がそこにありました。
 
「春」の間では、満開の桜に、目を奪われました。
 
行く前に画像で拝見した時には、桜の後ろの空が、襖を通り越え、その向こうへどこまでも広がっているようだと、見る前から感動していたのでした。
 
しかし、実際に絵の前に立つと、なにより桜の美しさに、思わず声がもれてしまいます。
 
 
とてもきれいでやさしい色なのです。
以前個展で板に描かれた桜の絵を拝見したときも思ったのですが、亡き人がこちらに微笑みかけてくれているようで、ちょっと泣きそうな気持になります。
 
半分、浄土をかいまみている?という感じもします。
あまりにきれいでやさしく、そうするとはかなくて悲しくなる、そういうきれいさがあるのかもしれないと思ったりしました。
 
そうはいっても、この絵のなかには、いろいろなものが息づいているのです。
里では狐の嫁入り行列が進み、桜の花蔭には小さな七福神たちがこっそり隠れています。
 
そう簡単には見つけられないのがまた、彼らのかわいいところなのです。
(光源院さんには、ネタバレのパネルも置かれていますが、これを見ては負けだと、意地でも自力で探し出す謎の意地…)。
 
拝観の方が次々にお入りになっていましたが、七福神を一人、二人と数えながら探し出していたり、懐かしい昔話の登場人物の話に花が咲いたり。
年配の方から若いカップルの方まで、こんなにみんなが楽しそうな美術館もお寺も、いままで見たことがないと思いました。
 
そして上の間の「秋冬夏」へ。
 
こちらにはさらに、昔話から出てきた多種多様な動物がいて、ますます探すのが楽しいのです。
三蔵法師の一行(自由すぎる猪八戒がかわいい)、クマ、龍、白へび、弧を描くキツネ。
かさ地蔵は私の大好きな昔話の一つです。
象がいましたが、これはお釈迦様の化身だということです。
桃太郎のキジもとてもかわいいし、子鬼たちに再会できたのも嬉しいです。
 
(門の看板に少し画像があります。)
 
それにしても、この4面の襖絵のなかに、夏秋冬と、気づけばいつのまにか季節が移り変わっているのです。
そして、四季の果てに、凍る冬の世界が広がっていたことが印象的でした。
しんと凍った池の周辺は、幽玄な世界。
白い山並みを背に飛ぶ鶴の光景はとても美しくて、鶴の恩返しのラストも思い起こしつつ、心に残っています。
 
ひとがいなくなってから、もう一度春から戻って、畳に座って、四季の変化をめぐれたことは、至福の時でした。(なんなら布団しいて寝ながらみていたいレベル。)
 
視線が低くなると、絵にはちゃんと、この世界に入れる小径が描かれていることに気づき、
気づいたときにはもう意識は中に入ってしまっていて、遠くの山並みを改めて眺めているのでした。
こんなに広くて深い世界だけれど、里の風景、山の風景、どこを切り取ってみても、そこにも深い森が深まっていくので、見飽きません。
(それにしても山々は、近い山は木々の緑色に見えますが、遠くなると薄青に見えるのはどうしてか誰か教えてほしい。)
 
そもそも日本画は、自宅やお寺などのふすま絵や掛け軸や板戸として、空間をつくり上げていたのだと、改めて思われました。絵によって空間には風も吹き、温度も変わり、威圧の空間にも癒しの空間にもなりえます。
 
見る人が入るのと逆に、絵からは「風来坊」という風神雷神見習い中みたいな二人が飛びだしていました。まだ風や太鼓を制御不能みたいなところがエネルギーいっぱいで、ほほえましいです。
 
 
光源院にはまだまだ動物がたくさん。
室中の間の襖絵は、水田慶泉(1914~1997)が12支を描いています。
 
さらには、お庭にも12支の生き物がいるのです。(なぜかチーズ岩も。)
 
 
 
牛と兎は、「あ、そうかも」と思えました...
 
 
 
 
 
光源院は、足利義輝の菩提寺であり、義輝の院号から「光源院」と名付けられたそうです。
相国寺と言えば、若冲の承天閣美術館ですが、こちらの住持、維明周奎は相国寺の115代住持も務め、若冲の弟子であったと言うこと。維明周奎の描いた梅の掛け軸も展示されていました。
 
こんなにハートフルな空間の塔頭があるとは。
もし京都でにっこりほっこりしたいと思ったら、こちらがおすすめです。