東京国立博物館 平成館 「茶の湯」展
2017.4.11~6.4
二か月弱の会期中で、全259点。これをなんと8期に分けてモザイクのように展示替え。
東博のHPでは展示目録が一覧になっていないのでこんがらがっていたけれど、東博前の横断歩道渡ったところに、立て看がおかれていた。
この表はHPなどでは発見できなかったけれど、どこかに載っていたのかな。1回しか行けなさそうなので、曜変天目は諦め、牧谿の絵を見られる日程を優先していったのは、6期。
構成
第1章:足利将軍家の茶の湯ー唐物荘厳と唐物数寄
第2章:わび茶の誕生ー心にかなうもの
第3章:わび茶の大成ー千利休とその時代
第4章:古典復活ー小堀遠州と松平不昧の茶
第5章:新たな創造ー近代数寄者の眼
茶道の心得がない私にも茶の湯の需要と変遷を俯瞰できる構成。茶の湯ってものを私なりに楽しんできました。
とりわけ社会の変化によって、茶の湯の様相が変わってゆくのは興味深い。おりしも、室町、戦国は、日本の歴史の中でも体制がドラマティックに大きく変容した時期。先日の江戸博の戦国時代展でも印象つけられたのは、民が力をつけた転換点になったということだった。それは茶の湯にも反映されていた。
印象深かったものを、タラタラと。
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第1章:喫茶は、12~3世紀ごろ、禅僧の往来により宋よりもたらされた。室町幕府の時代には足利将軍はじめ権力者は「唐物」を競って入手し、権力を誇示する。
楽しみにしていた牧谿。「牧谿様」のかすむような表現だけでなく、強弱、濃淡、細い太い、いろいろな線を自在に操る様を堪能。画題もバリエーション豊かな展示で、満足満足。
伝牧谿「蜆子和尚図」13世紀、これは楽しい。(画像はこちらの方のブログに)
エビとシジミばかり取る和尚さんがいたそうな。エビを捕まえて高く持ち上げ、ほんとに嬉しそうな顔。解説では「悟りの境地か」と言う。俗人の私はそこまで読み取れず、開いたエビのしっぽをエビフライみたいだわとか思っていた。でもその瞬間、お食事にエビフライくらいじゃさして喜ばなくなってしまった今の自分に気づいて、ハッとする。その意味でやはりこの絵は禅画なのかもしれない(多分そうじゃない...)。
牧谿はこのコミカルな和尚さんを、丁寧な線で描いていた。網は細く、服は太い線細い線を駆使し。もしかしてふんわり雨雲が下りた中にいるのだろうか。足もとは水に浸かっているのか、足元が悪そうななかで、しっかり足裏で支えていた。牧谿の観察眼の鋭さ、細やかさ。
この展覧会では、誰の旧蔵であったかが記されているのも興味深い。
牧谿「竹雀図」は、足利義満→義教へと伝わり、今は根津美術館所蔵。
「吹き墨」によるかすかな点点が雨のようで、濡れ雀として愛されてきたそう。濡れているのか少しパラパラになった羽根、くっつきあう二羽は、一羽はは縮こまり、一羽の目線は動きを。笹と枝だけなのに、雨中の空気の満ちた様子がこんなに豊かに描き出せるとは。
伝牧谿「叭々鳥図」は義満旧蔵。三幅だったもののうちの一幅。背景は描いていないのだけれど、叭々鳥の眼の位置からして、わりに高い位置にいるのでは。下からの枝が絶妙なバランス、叭々鳥の重みを支えている。ざっとした線なのに、研ぎ澄まされた感じ。寒さにくちばしを羽根の中に入れて縮こまる叭々鳥は、ほとんど目を閉じていた。枝には枯葉がわずかに残っているけれども、これもやがて散ってしまうのだろう。
牧谿「遠浦帰帆図」は織田信長の旧蔵。牧谿の瀟湘八景の一つのこの絵が、京博から12日間だけくるのを楽しみにしていた。もとは絵巻だったのを、座敷に掛けるために切断したのは義満とか。いくら誇示したいからって、恐ろしい暴挙。
帆船がなんとか2隻見える。靄の中を、村に帰ってきた。帆と木の様子で、風が右から吹いている。その木の葉は、横に弧を描くようにざっざっと短い筆跡だった。家の陰には二人、舟の帰りを待ってるんだろうか。もう二人岸辺にいるような。眼が慣れるまでに時間を要し、そのゆったりとした時間を過ごせたことに充福。
分断されてしまったこの8景のうち、煙寺晩鐘図(畠山記念館蔵) 、平沙落雁図(出光美術館蔵)は見たことがある。ふたつとも人は描かれていなかった。この遠浦帰帆図は人がいて、小さな暮らしのドラマのひとこまなのでしょう。「山市晴嵐」は所在不明だけれども、・漁村夕照図(根津美術館蔵)・洞庭秋月図(徳川美術館蔵)・江天暮雪図(個人蔵)・瀟湘夜雨図(個人蔵) を当時のように横に並べて見るのが私の夢だったりする。
「遠浦帰帆図」では玉潤も展示されていた。
「六祖図」伝梁楷 無学祖元賛 南宋あるいは鎌倉時代、は、思いつめたように一心に修業に取り組む目線。強くすばやい筆にも強い意志が。強弱、細い太い、自在な線。陰影と、顔のしわやひげまで細かく。(部分)
「布袋図」伝胡直夫筆、南宋は、トレードマークの袋に、童子が眠っていて布袋さんは困っている。困っているけれど、ほほ笑む。その布袋さんの口元がかわいい。童子の寝姿もかわいい。
「朝陽対月図」無住子筆自賛、1295年は二幅対。
朝の画では、岩に腰掛けて、足に糸をかけて糸をよっている。後ろに糸巻きが。人は薄墨だけれど、岩の影と草は、濃い墨で少し激しく溌墨風。
月の画のほうは、経を読む人物が描かれている。人物はもっと薄くなって、ギリギリまで経を目に近づけている。月明りだけでは見えにくい夜の暗さを描いているのだろうか。それで岩まで薄くなっているのかな。朝の幅はもっと明暗もはっきりしていた。
どちらも一心に一点を見つめる緊張感と、この僧のかわいい顔のギャップが楽しくて。
徽宗「鴨図」南宋、12~3世紀、には圧倒された。徽宗といえば、栖鳳に「斑猫」を着想させた猫の画もすごかったけど、鴨もすごい。
くちばしを入れてカキカキする羽毛の乱れ。水かきのすじ、斑点、ふかふかの羽毛、固い尾羽、細部まで恐ろしいほどの細密ぶり。羽根は塗り残して描き出している。それが集大成して、こんなに妖しいほどののオーラを放つ。最後は捕らわれ、妻子まで悲惨な末路をたどることにならしめた徽宗、この絵や猫の絵は、彼の生涯の中のいつ頃に描かれたのだろう?。
「梅花双雀図」伝馬麟、南宋13世紀、解説通り、元絵をトリミングしたのかもしれない
「清水寺縁起」1517年は、伝狩野光信。清水寺の縁起と、坂上田村麻呂の東国平定、千手観音のさまざまな奇瑞霊験譚。展示場面は、祈祷と、別室でのお茶の用意の場面。大きな茶釜と、稚児がたくさんの人数分の茶碗に注いでいるところ。
展示の場面ではなかったけれども、合戦の場面で「蝦夷」が描かれているのはほかに例がないらしい。鎧兜姿の田村麻呂軍に対し、見たことがない者たちを「敵」というイメージだけで描いた「蝦夷」の姿ったら。当時の西国の人の感覚が知れる。(全画像)。
「酒飯論」16世紀(文化庁)もたいへん楽しい絵巻。酒好き、飯好き、両方が持論を展開しあう。実は、天台の中道の優位を説くのだとか。絵巻きに時々登場するこの時代の「ご飯」って、お茶碗の丈の三倍くらいな山もりだけれど、実際もこのような盛り方だったのかな?
この時期の茶碗では、足利義政が愛したという南宋の青磁がチラシでも大きく掲載されていた。なのに、人だかりをさけてそのまま見逃してしまった(涙)
第2章:室町幕府は衰退し、町衆が力をつける。唐物だけでなく、日常の暮らしから心にかなうものを撮り合わせる「数寄」の文化。侘茶の誕生へ。
侘茶の祖とされる珠光(1423~1503)は、庶民も楽しめる茶の湯を提唱する。高価な唐物でなくとも「侘びた」陶器を使い始める。武野紹鴎(1502~1555)は侘茶を発展させ、境の商人、今井宗久や利休によって完成される。
「黄天目 珠光天目」元~明、確かに茶の湯の意識が変化したのかもしれない。誇示するものから、使うものへ。内面へと向かい、その時間を大切にするものへと。
「唐物茄子茶入 銘富士」南宋~元13~14世紀、は蓋が2.5センチくらいで、小さく愛らしかった。小さいものに癒しとかわいさを感じてしまうのは、昔も今も同じかな。名物狩りで召し上げて、秀吉から前田利家へと渡ったらしい。
高麗の茶碗も注目されたよう。日用品だけれども、素朴で荒いろくろ目が侘茶にかなうと人気が出たそう。
朝鮮時代16世紀の「大井戸茶碗」喜左衛門井戸 (京都・孤蓬庵)は国宝。「見事な景色」と解説に。
「井戸」とは、高麗茶碗の中でも代表的な一群なのそう。同じく16世紀朝鮮王朝の「大井戸茶碗」宗久井戸は、青みのかかった枇杷色だった。
第3章:安土桃山時代。すでに茶の湯は、天下人、大名、町民まで広く浸透している。利休が新たに見出したもの、作り上げたもの、新たな道具を取り上げていた。
長谷川等伯が描いたとされる利休(1522~1591)の肖像があった。
七尾美術館で見た、等伯筆の僧の肖像などに筆致が似ているような。等伯の描く肖像画は、線が繊細で、瞳の奥まで浸透してみるような印象なのだ。
これは1583年の作。利休が秀吉の茶頭に就任した記念の肖像。この利休は、少し前に乗り出すような姿勢で、野心を感じるような強い瞳。フロンティアであり、秀吉にも屈することなく我が道を突き進んだ利休の強さ。人の意見に耳を貸さない頑なさと紙一重のようでもある。着物のひだのうねり、重なりは動きに満ちて、とても生々しい肖像だった。
等伯はこの年には、大徳寺の塔頭総見院に襖絵を描いた。利休を通じて大きな仕事を得られるようになったころ。この肖像の賛は、大徳寺の古渓宗陳。
その利休が創造したものに、自然素材の花入れ・漆黒の道具、楽茶碗などがある。自分ならどう使うかと、問いかけ、対峙する、とあった。モノそのものでなく、価値観や美意識を見せる利休。
「瓢花入 銘顔回」16世紀は、瓢箪の首を切って、花入れにしていた。「耳付籠花入」は竹かごの花入だった。こういう使い方は、今ならよく目にするけれども、ここが、日本の文化の源流がひとつ生まれた具体例なんでしょう。耳付籠は、細川三斎(忠興)送られ、増田鈍翁へ伝わったとか。
長次郎が数点。これはやっぱり感銘。手の中に楽茶碗をそっと持ったら、その風景がどんなに広がるのだろうかと。
「赤楽茶碗 銘白鷺」は、ごつりとしているのに、震えるような。生き物だ。
「黒楽茶碗 銘ムキ栗」は、四角と丸が一つの世界に。同時に手の中にある。禅の境地のような。頑張って伸び上がって上から少しでも覗き込むと、底のない暗い奥へ吸い込まれるようだった。
「黒楽茶碗 万代屋黒」は、娘婿に伝わるそう。ふっくらとした、早期の作とか。
「黒楽茶碗 銘俊寛」は、漆黒の闇、月のない夜の海のよう。圧倒的な存在感。手びねりで、持ったらきっと手に吸い付くだろうか。
こんな茶碗の数々を目にすると、手で包んでみたい、口に触れてみたい、との衝動がわく。ガラスケースを目の前に葛藤のひととき。
この後は、利休亡き後、古田織部、織田有楽斎、細川三斎へ。信楽、ベトナム茶椀へと広く展開していた。この流れは、他のことでもわりにありそうな気もする。
利休の一番弟子、古田織部はしきたりにとらわれない茶の湯を追求。
織部が愛した「伊賀耳付水差 銘破袋」17世紀は、自由をすぎて、もはや前衛アーティスト。
織部の茶室「燕庵」が再現されていた。これだけ写真可。
ビデオで紹介されていた、利休のはりつめたような「待庵」↓とは全くちがう。どこかおおらかなゆったりとした空間。
第4章:古典復興ー小堀遠州と松平不昧の茶
そして江戸時代へと。太平の世には、小堀遠州らを中心に、武家の茶を復興しようという動き。遠州の確立した茶風「きれいさび」の茶碗はじめ、江戸の茶道具は、ぜんたいに優美な印象。景徳鎮はじめ、朝鮮や明、台北の窯元の地図がパネル展示されていた。国内では、瀬戸、唐津、伊賀、丹波、京焼。
安土桃山の侘びとずいぶん趣が変わってきた。
油滴天目
野々村仁清が3点。形も愛らしいけれど、絵付けも美しい。四季の光景が、画面の制約を超えて広がっていた。
「色絵鶴香合」は、座った鶴のくびのひねりがなんとも言えず。藍色の羽は金の線がひかれて美しかったし、赤いくちばしまで愛らしい。仁清の「色絵鱗波文茶碗」はやまと絵のごとき美しさ。
「色絵若松図茶壷」は、黒釉の微妙な暗さ、輝き。松は楽し気に手を上げて踊るよう。素敵な夜だった。
第五章:明治維新後の混乱で放出された茶道具を収集し、茶の湯を受け継いだのは、財界人たち。平田露香、藤田香雪、益田鈍翁、原三渓についてのパネルとゆかりの品を展示。
だけれど、もうへとへとについて。私の心のオアシス、大好きな畠山美術館を遺してくれた鈍翁の写真に心で合掌しつつ、途中リタイア。
ラウンジでまだ営業していた鶴屋吉信で、あんトースト。開いていればいつもこれ。パン温、マスカルポーネとあん冷がおいしい☻
なんだかおなか一杯になると、元気復活、違うものが見たくなる。バロックでも見ようと歩き出し、この後はなぜか東洋館に入ったのでした。(東洋館の日記)