hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●ガレの絵 サントリー美術館「エミール・ガレ」

2016-08-23 | Art

サントリー美術館「エミール・ガレ」2016.6.29~8.28

 

エミール・ガレ(1846~1904)の生誕170周年。

花器「草花」1890頃

 

ガラスの瓶や花器もさることながら、ガレの絵にひかれました。

 

 学術的にも植物学者として地位を築いていたガレ。葉やしべの付き方まで、繊細に見つめ、細密に描きとっていました。

そして神秘的。花の小さな声を聴いているかのような。これはガレの「愛」なんでしょうか。

ガレといえばガラスなのだけど、ガラスのためのモチーフを植物に求めたのではなく、すべてはこの植物への愛から始まり、植物と相通じ会い、ガレが受け取った神秘が、家業であるガラスに投影されて、形を持った。ガラスはガレの自然界から得た新鮮な感情を具象化する立体のカンバスとなったのかと、頭の中がぐるりと回転したのでした。

 

ガレの家はロレーヌ地方、ナンシーの花市場の真ん前にあり、母親はじめ家族は花を愛し、家の中にはいつも花があふれていたという。

子供のころに家庭教師とともに読み解いたという本が、ファンタスティックに満ちていました。

「生命を与えられた花々」1847(タクシル・ドロール著 J.J.グランヴィル挿絵)

ぶどうの葉のキャミソール!に、あざみのドレス!。

  

水仙の精と話しているのは、ヤモリ?なぜ埋まっているんだろう?

ストーリーがわからないのが残念だけれど、グランヴィルの挿絵がとても楽しくて魅力的。

小さい絵だけれど、花の精の顔までも美しい。肩のラインなど妖艶ですらあります。

画像で他の絵も観てみたら、グランヴィルワールドにうっとり。グランヴィルは風刺画家だけれど、ナンシー生まれ。しっかり花好きの根っこがあったのです。(グランヴィルの回顧展がないかと思いましたら、2011年に練馬美術館であったのですね。この絵と同じく鹿島茂さんのコレクション。)

 

ガレはこの本で文字を覚えたという。こんな本を幼少期に見てしまったら、森や田園の神秘の世界が、心の根幹に刷り込みされているのもわかる気が。

ガレっぽくないのかもしれませんが、好きな作品 水差し「葉」1890

 

ぶどうは、熟しきっています。豊潤なワインの香りがしそう。

 「神秘の葡萄」1892

  

葡萄の球の一つ一つが生命力を発してます。個人的には、この栓のところがとても好きです。さわってみたい。

 

一方で、生命の終わりにまつわる気配も。枯れた葉。

「習作 銀杏、日本の楓の葉」

習作「六枚の枯葉」

習作「二枚の葉」 一番心に残った絵。

落ちた葉を拾い上げ手に取った、ガレの心情も映し出しているような。リアリズムの中にあって、なんだか優しい。

 

ガレは21歳の時にパリ万博で日本の工芸に触れ、コレクションもしていたらしい。「日本の芸術家たちは、自然に対する情熱によって、無意識のうちに森や春の喜びや秋のあわれといった、真の象徴を表している(要約)」と。そのままガレ自身の姿のよう。

壺「枯葉」1900  ガラスですが(被せガラス、プラチナ箔挟み込み)、日本の陶磁器のような味わい。無常のひびきが舞っている。

 

 ガレはどの作品においても、制作工程に手を加えることはなかったようですが、細かく指示を出し、心情をガラスの中に実現。それを可能にしたのは、ガラスを始めとする工芸の盛んなロレーヌ地方の技術力の高さ。

そしてナンシーという町も興味ひかれるところ。

先ほどの風刺画家グランヴィルもナンシーの生まれ。

そして、父の代からガレ家と家族ぐるみの付き合いであり、16歳のころからガレとコラボしていたヴィクトル・プルーヴェ(1858ー1943)の絵も素敵でした。

ヴィクトル・プルーヴェ「習作 ふたつの運命の女神のアレゴリー」(部分)1884

 

ガラスの杯にしあがったら、いっそういい感じに

「運命の女神」1884

 

プルーヴェが描いたガレの肖像画も、小さくてよく見えないけれど、なんだかいい雰囲気。

 

これを書いてる途中で知ったのですが、先日行ったポンピドーセンター展の1924年の「リクライニングチェア」がプルーヴェの息子、ジャンの作。

  

1901年に生まれた彼にジャンと名付けたのが、ガレ。(ジャンは、ナンシー市長を務めたりしたそうだけれど、ポンピドー図録では家庭の経済事情で学業を続けられなかったとある。1904のガレ亡き後、プルーヴェ父の絵はあまり売れなかったのかな?)

ナンシーという町でガレの世界が育まれ、彼の地域への貢献がさらにナンシーの芸術性を広げ、深め。他のナンシーの多くの芸術家たちとともにアールヌーボーの一つの中心エリアとなり、ぐるぐると渦をひろげていく。

 

この展覧会は、キノコで締めくくられていました。

ランプ「ひとよ茸」1902

ヒトヨダケは傘をひらいたら、夜の間に一夜でとけ落ちる。画像を見たら(こちらの「きのこの時間」さんのページなど)、かさの端から、じゅわじゅわ黒く溶けていました。。

会場はこの付近は暗くはしてあったけれど、すべての照明を落としてこれだけにしたら、もっと夜の森の気配と、この生命の炎のような色を感じたかも。

ガレのヒトヨダケは、すでにはじから溶け始めている。溶け落ちて下に黒くたまり、そしてまた新たなヒトヨダケがのびだし。この三本で、輪廻転生のように繰り返すそのエンドレスなサークルを表現しているよう。

 

この作品の1902年には白血病は悪化し、1904年に亡くなる。いつから白血病の診断があったのかはわからないけれど、1900年の絵や作品の半分くらいには、病の影が落とされているように感じました。そしてどれも幻想的に美しい。

脚付杯「蜻蛉」1903-04 すでに死を予感し、友人や親族に贈ったものだそう

水から生まれ出で水に戻るようでもあり、死によりこの杯のなかに自ら入っていったようでもあり。

 

展覧会の感想にしては偏ってしまいましたが、ガラスに関しては、実際に手に持ってみたかったし(どうぞと言われても落としたらと思うと恐ろしくて持てないけど)、いろいろな光に透かしてみたかったほど。これなど特に。

花器「蟹・海藻」1900  バルタン星人風のフォルムに金の砂底、ゆらめく海藻。

 

この展覧会は五章(Ⅰ.ガレと祖国、Ⅱ.ガレと異国、Ⅲ.ガレと植物学、Ⅳ.ガレと生物学、Ⅴ.ガレと文学)の構成。各章が、ガレがなにから影響を受けてきたかが興味深い展示。それぞれの視点のドアを開けたその向こうに、また世界がひろがっていたのですが、ひとまずここで。

 


●根津美術館「はじめての古美術鑑賞―絵画の技法と表現ー」

2016-08-21 | Art

根津美術館 「はじめての古美術鑑賞―絵画の技法と表現ー」

2016.7.23~9.4

 

所蔵品に例をとりながら、日本の絵画の技法や用語をやさしく解説。

どんな効果を生み出しているか、知ることができました。

描けそうな気がするシンプルな墨の絵。実際に自分で描いてみると、微妙な筆加減が難しくて、まったく全然線一本まともにひけやしない私。ここに展示されている作品は、いかに自然で美しく描きこなしていることか。

 

◆「たらしこみ」の章では、伝立林何吊 木蓮棕櫚芭蕉図屏風 18世紀

(画像はこちらの方のブログに

たらしこみは、この絵では木肌、葉の部分に。日本画で描かれた芭蕉が好きなので、この絵にはひかれます。しゅろは子供のころ家にあったので、幹についたもしゃもしゃしたヤツ(シュロ皮というらしい)が下によくはがれ落ちていたのを思い出して、しみじみ懐かしく。この部分もしっかり描かれていた。

それにしても、しゅろと芭蕉という南方系な植物と、木蓮との取り合わせ。しゅろは高く伸びる木ですが、目線は上から。木蓮はその上をいって咲いています。ちょっと不思議な感じ。

解説にちらっとありましたが、渡辺始興に同様の作品があるとか。(平成26年の仙台での「樹木礼賛―日本絵画に描かれた木と花の美―」展覧会チラシに出ていたこの絵かな?)始興なら大胆な植物の組み合わせもしそう。画像が荒いですが、目線の位置も似ていますし、こちらもたらしこみの部分があるように見えます。実物を観てみたいものです。

たらしこみは、「偶然を狙った効果」と解説にありましたが、これもやはり経験値あってこそ。

 

◆「溌墨」の章では、「溌墨山水図」が三点。

なかでも雪舟の弟子で、雪舟亡き後の周防画壇で活躍したという、周徳の絵は見とれました。淡いブルーも感じる墨。別の絵ですが、周徳「山水図」

水を多く筆に含ませ、「大胆に山や岩崖をかたまりとして描く」と。一瞬ですから、描くに先立って、対象をとらえる目が問われそう。心眼とまでは言わないまでも、心にどう落とし込んでおくか。簡単すぎて難しい・・・

「その即興性は、人前で描けば必ず喝采を浴びたであろう」とありましたが、なるほど、臨済僧のパフォーマンスでもあったのです。

 

◆外暈(そとぐま)

雪や光など、明るいものや白いものの表現に。

「富嶽図」仲安真康 15世紀(部分)

技法とは関係ないけれど、この絵、なんだかかわいく思えてくる。富士山がまんなかにぴょこん、どうだって感じ。(禅僧さまに怒られそうだけど、全体の構図のはしきれメモ)

 

「白衣観音図」赤脚子 15世紀

   

光背の部分、外側に薄墨をひいて、光の形が浮き上がらせている。後ろの岩を少し離して描いていたり、観音様の後ろにさらに少し影を入れたり、それで一層光のふわっと淡い感じが。気づくと白衣の白がかなり白く際立っているけれど、それから光背に目をやると、これまたこの微妙で自然な加減がなんとも言えず、いい。

滝の流れも外暈で際立っています。

それにしても、この観音様のチャーミングさ。伸びやかでくつろいで。

「白衣観音図」では、根津美術館で見た山本梅逸のもの(こちらの方のブログに)がとても心に残っていますが(これも外暈だった)、較べると、梅逸の観音様は、神々しい感じ。梅逸らしい写実的な岩が、観音様の神々しさをさらに演出しているよう。

逆に赤脚子の岩や波は優しい感じ。観音様は好きな音楽でも聞いているように水音を楽しんでいるような顔。対照的な白衣観音様です。

赤脚子という人物については詳細が不明のようですが、素敵な絵に出会えました。

 

◆「つけたて」は、応挙が開発した技法なのだそう。

松村景文「花卉図襖」1813

ねむの葉が印象的。貝母、かたくり、春ラン、百合、とろろあおい、秋かいどう、桔梗、つゆ草、カヤツリグサ、菊、水仙と。

葉も木の幹ものびやかで、達者な筆さばきにうなります。色も浅めで、すっきりした襖。これは気分がのってるかどうか透けて見えてしまいそう。

 

◆「金雲」

日本の屏風らしいこの技。雲、霞みだけでなく、省略、区切り、装飾に用いられる。(いかにばれずに手を抜くか(×)ではなくて)自在に区切り、見せたいものを強調する(〇)ことができるということ。

「両帝図屏風」狩野探幽 1661 は、風雅な世界でした。(こちらに小さな画像が)

上の洛中洛外図屏風は、南蛮屏風などでもよく見る、もくもくとした金雲ですが、探幽のこちらは、砂を巻いたような「金砂子」という方法。描かれた二人の帝はどちらも伝説の皇帝。神話の世界を表現するために、かすみのような金色。壁や床、輿に至るまで、あしらわれた模様が繊細で、色も優雅でした。

右双の黄帝は、舟と車を作り、国をすみずみまで収めた始祖。黄帝が指さす外の方には、車と舟が。今日はどちらに乗るのでしょう。舟の前後につけた龍と鳳凰も雅です。

左の舜帝は、琴を弾いて天下を治めた。帝の表情もとても穏やか。庭には鳳凰が飛んできました。

 

◆「白描」

にじみやぼかしを使用せず線だけで描くのだから、雑念やら線の拙さがばれてしまうね。。密教の仏教画に用いられるとあったけれど、確かに精神のありようを問われそう。鳥獣戯画の模写もありました。

 

◆「截金」

この細密さ!どんなに時間がかかるのだろう。文様の規則性も美しい。仏の着衣や背景に用いられるということなので、この作業自体が信仰なのかな・・。

大威徳明王像」13-14世紀 は六面と六本の手足を持つ明王、水牛の上に立ち矢を射る姿。炎の迫力に圧倒されました。

こちらはウィキペディアの画像でフリーア美術館蔵の絵。截金ではないようですが、こちらも迫力。

 

◆「裏箔」

「藤原鎌足像」16世紀(部分)

裏から金を塗る奥ゆかしさ。絹目を通すことで、金銀の強い輝きを幾分抑える効果があるのだとか。

実は人知れず奥行きのある深みを出していたのですね。画像はバックの御簾に使われていますが、他の絵では台座に。金属の表現に使うと、時間の経過や薄暗がりもあらわされていて、いい味わいでした。

 

◆「繧繝彩色」

仏画ではよく見るグラデーションですが、「愛染明王」13世紀の花弁の部分は、7段階にも分かれているとは。

求聞持虚空蔵菩薩・明星天子 14世紀は、青緑の繧繝彩色でした。

 

いい勉強になりました。

 

そしていつものように、青銅器の部屋を堪能。

中央に鎮座した三個セットの饕餮文盃

一個しか絵ハガキがありませんでしたが、饕餮の間にそれぞれ違う顔がついています。ガラスでよく見えなかったけれど、それぞれ鳥?鹿?コアラ?っぽい。紀元前13~12世紀の青銅器は、不思議すぎて尽きない興味。

楽しい時間でした。


●セルバンテス文化センター「グァマン ポマ・デ・アヤラのグラフィックパネル展示会」へ。

2016-08-17 | Art
麹町のセルバンテス文化センターの、「グァマン ポマ・デ・アヤラのグラフィックパネル展示会」へ。
http://tokio.cervantes.es/FichasCultura/Ficha107786_67_25.htm
 
 16世紀のインカの民、グァマン・ポマ・デ・アヤラが、スペイン侵略下の混乱と激動の社会を記した書簡、「新しい記録と良き統治」から、絵と文を複製展示しています。(ウイキペディアではワマン・ポマと出ていますhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/ワマン・ポマ)

その時代に生きた、インカの民が描いたということににひかれて行ってみました。

 
グァマン・ポマについて簡単に。
ピサロがインカ帝国を征服した1532年ごろか少し後に生まれた。
彼の祖父、父は、植民地下でその土地を統治するスペイン人官吏の補佐をする立場にあった。
よってスペイン語もできたグァマン・ポマは、植民地政府の巡察使ともに、通訳及び記録係として全土を回った。
インカ皇族や教会関係者に仕えたことで、様々な知識や教養を吸収した。
しかし、彼の留守中に、父親から相続した土地をスペイン人に搾取されたこと(訴訟に持ち込むも、逆に偽証とされ、ムチ打ちの刑のうえ追放されてしまう)をきっかけに、インカの民の過酷な状況を知らせようと、スペイン国王フェリペ3世に書簡を書く。
 
その約1000ページにも及ぶ書簡「新しい記録と良き統治」のうち、約400ページは、彼自身が描いた挿絵。全土を回った彼が聞いたこと、見たこと。
 
この展覧会は、その膨大な挿絵の展示です。
 
解説もあまりありませんでしたが、内容は大きくふたつ、「インカの歴史と暮らしや文化」と、「スペイン侵略下での過酷な現実」。
一枚一枚すべてのシーンにストーリーがあるので、どこを載せていいのか選べませんが、とりあえず少しピックアップ。
 
父以降、カトリックの洗礼を受けたグァマン・ポマの挿絵は、アダムとイヴ、ノアの箱舟、ダビデ王、キリストの誕生など、天地創造の場面から始まっていました。
 
それから、古代アンデスからインカ帝国の歴史、インカの文化と暮らしへと続きます。
まだ衣服がなく、葉を身にまとっていた時代
 
 
歴代のインカ王。王妃も。左下の妃は、インカ帝国の初代王妃。美しく強く、妖術も使えたとか。
この写真はほんの一部ですが、王と同じくらいの枚数で、王妃も描いているのが印象的。
 
 
インカの12か月の祭祀
たとえば、(左から)8月はトウモロコシを植えるために畑を耕す ・9月は太陽神の妻である月の神を迎える祭り
 
 
刑罰。犯罪者は、ヘビ、虎、ハゲタカなどとともに監獄に入れられ・・。
 
諸国を回り、質問を受ける自画像
 
 
後半へ
このあたりから、インカ帝国の王と民の悲劇が、描かれていきます。
 
最後の王アタワルパの処刑
 
征服者スペイン人同士も、内輪揉め争いと殺戮を繰り返す
 
人の尊厳を踏みにじられ虐げられるインカの民。右下には非道なふるまいをするスペイン人マダム。
 
(左から)酒びたりのスペイン人地方官吏。卵が二個足りなかったという理由で罰せられる先住民
 
一方で、貧者を救う、憐み深く正義感ある聖職者
 
「哀れなインディオたちを脅かす獣」というタイトルの絵。ヘビ:役人、ジャガー:スペイン人地主、女ぎつね:宣教師、猫:公証人、大ネズミ:先住民の首長と注釈がついている。
 
 
続いて、彼が回った町や、スペイン人が築いた町をひとつひとつ、全体図に書き起こしています。
そして最後には、インカの信仰のある民のおだやかな暮らしを描いています。そうあるべきと言いたかったのかな。
 
本当に、よくこれだけ描いたもの。見た者でないと描けない、細かな事実の数々。インカの民がどのような辛苦にさいなまれていたのか、生活レベルから伝わってくる。
 
この書簡は、1616年にスペインに届けられたそうですが、フェリペ3世が目にしたかどうかはわからない。
すくなくとも、彼が願った、インカの民たちの苦難が改善につながったことはなさそうです。
ただ、アンデス史研究においては、大きな意味を持つことになりました。

とはいえ、歴史のことを書こうとすると途方に暮れてしまうので、ここでは絵のことだけを。
グァマン・ポマの絵には、非常に興味惹かれる点がいくつもあるのです。
 
まず、自画像や家族の絵も織り交ぜてあり、それがちょっと自画自賛なのがほほえましい。国王に訴えるのですから、自分は信頼のおける人物ですよアピールは必要でしょうけれども、わかりやすいのが好印象。
 
それにしても、数百年の時空を経た日本人の私にも妙に心になじんでしまうのはなぜなのだろう。
 
彼の絵はとても細かくて、しかも線描なので、何度も日本の絵巻物を思い出したからかもしれません。
先日見た伴大納言絵巻みたいに、小さな絵でも、人の顔の喜怒哀楽まで現わしている、さらに、暮らしや行事、衣服、建物と膨大な情報量は、江戸名所図や洛中洛外図屏風越えのスケールじゃないかしらと。
 
また、いくつか気になるポイントがありました。
 
鳥獣戯画や浮世絵が日本の漫画のルーツっていうけれど、彼の絵も、漫画の描き方みたいな点があります。
窓から鳥が飛び込んできた「しゅっ」みたいな効果線とか。
 
 
そして、線で描きこまれた雨の表現。
 
歌川広重の東海道五十三次「白雨」もそうですけれど、浮世絵は雨や風を線で可視化する。そうした表現はあまり西洋には見られないと聞きますが、グァマン・ポマの雨も、波線で途切れてはいるけど線がびっちり。彼の感性なのかな?それともアンデスの人の根底に根差す感覚なのかな?
 
さらには、雲。渦巻いた雲が、墨の龍虎図なんかの背景の黒雲に似ているような。
 
(横山大観)
 
そう思えてくると、アンデスの険しい山並みの描写も室町水墨画のように見えてきたリ。両端が高い山でまんなかは平たい構図の定番の屏風みたいな)。
 
 
山の切り立ち方も既視感ある。。(雪舟)
 
 
同じモンゴロイド、山がちの風土、地震の多い地域。通じる感覚があるのかもしれない。
 
 
もうひとつ、自分的最大の興味が「太陽と月」。
彼の絵には、よく太陽と月を一緒に背景に描きこんであるのだけど、日本の「日月山水図屏風」を即座に連想する。
(インカの11月の行事、ミイラを美しく飾り、死者を祭る)
 
太陽神と月の神はインカの信仰の対象であったそうですが、日月山水図は天照大神でもないだろうけれど、巡りの感覚、親しみとともに抱く畏敬の念は近いかもしれない。
 
それはさておき、このメラメラした太陽の形も興味深いところ。今でこそインカといえばこれ、みたいに絵やお土産物でよく見るモチーフだけど、この太陽の形はどこから来たのかな?
彼が描く以前の太陽と月のモチーフのオリジナルが見てみたいけれど、ネット画像では、遺跡やアンデス出土品や古物などでは見つけることができず。http://www.discover-peru.org/category/history/history-inca-culture-civilization/
立場上、キリスト教の宗教画を観る機会もあったと思うのでいくつかの絵にも宗教画の影響は受けているようだけれど、この時期以前に月と太陽がこんなふうに描かれた宗教画があるのか、まったく詳しくない。
 
彼の絵がすべての始まりってこともないと思うのだけれど、
インカの感覚、当時のスペイン人の持ち込んだ絵画の感覚、彼のオリジナルな感覚。彼の中のどのへんがそうなのか、興味のあるところ。
 
知らないことだらけの羅列のような日記になってしまいました。
 
 
「セルバンテス文化センター」は、スペイン国営で、二階にギャラリーがあり、年に数回、スペインと南米関連のアートの展示も行っています。
 
いつ行っても貸し切り状態。
 
 
 
南米やスペインに興味があって、都心でひとりの空間を楽しみたいときは、貴重な場所です。
 

●ホテルオークラ秘蔵の名品アートコレクション展 「旅への憧れ、愛しの風景 マルケ、魁夷、広重の見た世界」

2016-08-12 | Art

ホテルオークラ 

秘蔵の名品 アートコレクション展「旅への憧れ、愛しの風景 マルケ、魁夷、広重の見た世界」

2016.7.27~8.18

 

毎年楽しみにしている夏の一日。

展示の最初には、川端康成の直筆の色紙が。シュピタール古城の門に刻まれた言葉だという。「歩み入るものにやすらぎを。去りゆく人に幸せを。」

今回は「旅」がテーマ。外国の要人も利用するオークラ東京を訪れるだけでも、ちょっとした旅気分。ここの書店も、洋書比率が高い品揃えなので、外国人旅行者目線も体験したり。裏からの小さな入口への小径が、ちょっと安らぎでもある。

 

◆今回は、マルケ(1875~1947)が18点集まっている。マルケを観るのは初めて。(もともと無知なので今さらだけど)知識も先入観もなく白紙で出会えるのが、うれしい。最初の一回は一回しかないのでね。

順番に観ていくと、「水面」ってものに魅せられた。そして雲を見比べるのが楽しくなっていく。曇りの日もいいものだなと知らされる。

観た順に、「ノートルダム 曇天」1924 (以下画像は絵ハガキと図録から)

後ろの雲を背負ったようなノートルダム寺院。寺院より雲と河岸に目がいく。コンクリの河岸壁の灰色が、数年前にパリに行った時の印象と似ている。気が付くと、雨上がりの道路が濡れていて、影がうつりこんでいる。マルケの水面、面白い。

 

「サン・ジャン・ド・リュズの港」1927 バスク国境。雲がかかってきたけれど、水面は静かに反射している。マルケはどんなに長いあいだ水面をみていたんだろう。

 

「コンフラン・サント・オノリースの川船」1911 一番気に入った一枚。鏡みたいに静かな水面。空高く秋の空のような。水と空と、広やかで静かで気持ちいいー。水面も千差万別、同じものはないようだ。昼下がりくらいかな。

 

「エルブレイ・ セーヌ河畔」1919 この絵に至っては、画面のほとんどが水面。雲が映って水面が白く。黄色い花、少しこちらに向かって川が流れてくる。時間は、4時頃か、パリなら5時か6時でもこれくらいの明るさかな。マルケの絵は、時間と季節を推測すると、なんだかゆったり、和む。

 

フランスだけでなく、アルジェの絵が数点。マルケは妻と出会ったアルジェを何度も訪れている。

「アルジェの港」1942

 

「アルジェの港、ル・シャンポリオン」1944

アルジェでは特に港を多く描いている。埋立地、工場、人影はほぼなく、タンカーが停泊したり出港したり。どちらかといえば無機質に近い人工的な港。わずかに鈍みのある色。特段美しい風景ではないと思う。でもマルケは魅了されたそうだ。

とにかくも、たっぷりと水面。水平線と空を見渡せる。雲や空や水面の移り変わりは、フランスとどんなふうに違っていたんだろう。朝に昼に夜に、上階のホテルの窓から見降ろしていたような時間の流れ。一日の変化。出る船、入る船の繰り返しを見飽きなかったのかもしれない。私も、港に面したホテルの窓から、知床やコタキナバル、高松港の船の出入りを眺めるのは見飽きなかった。

 

ポンヌフの三枚が並んでいたのは、うれしい。年代には開きがあるけれど、同じアパートの窓からの眺め。定点観測のよう。

「ポンヌフ夜景」1938

きらきらときれい。映画を見てミーハーにも行ってみたのがちょうど夜だったので、親しみを感じる。絵の依頼主のサンマテリーヌ百貨店のシルエットも丸く夜景でかたどられている。

 

 「ポンヌフとサマリテーヌ」1935頃

 わりに明瞭に見渡せるけれど、気づくと少し橋の欄干に雪が積もっている。空を覆うのは雪雲だった。


「冬のパリ」1947頃

あ、と声が出そうになる。マルケが生涯描き続けてきた雲が、ついに降りてきて街を包んでいる。雪が積もった日の情景。雲のせいだけでなく、橋も建物も車も、形は失われつつあいまいになっている。

これは没年の絵。他にこんなにも雲につつまれた絵はあったかなと戻ってみると、初期1918年の「霧のリーヴ・ヌ―ヴ、マルセイユ」はこんなふうに霞んでいた。これも形はあいまい。亡くなる時は、昔に戻るのかな?。それともこういうあいまいな筆致の作品は他の時期を通してあるのかな?

もっと見てみたいものです。

 

◆大好きな三岸節子が見られたのが、思いがけずうれしかった。何年振りかだし、二点とはいえ複数展示されているのを観るのは、2005年の回顧展と、いつだったか愛知の一宮市三岸節子記念館に行った以来かも。

先日来フリーダカーロの画集などを見ていたので、改めて節子の人生も少し似ていると思い返す。先天性股関節脱ということで、節子はこのことがその後の自分の生涯の指向を決定付けたと。そして19歳で結婚した天才肌の画家の夫は、とっかえひっかえの浮気者。節子は3人の子供と姑の面倒を見ながら、極貧生活。

フリーダと違うのは、すくなくとも節子は若いうちに、夫の苦しみからは解放されたこと。三岸好太郎は結婚10年で突然他の女性との旅中に亡くなり、再婚(別居婚)した画家の菅野圭介も、彼の浮気がスクープされ5年で離婚。好太郎の訃報を受けたとき節子は、「助かった、これで自殺しなくてすむ」と思ったという。息子の回想では、「ああ、これで自分も絵が描けると真っ先に思った」と言っていたと。節子は、それから亡くなる94歳まで描き続けた。

節子は反骨反逆のひとであり、闘うひとだと改めて思う。そして「俺は桜の花のようにパッと咲いてパッと散る」と言った光太郎に対し、節子は「画家は長く生きて成熟した絵を描くことこそ本領である」と。

その言葉通り、二枚の絵を見ると、節子の長い人生が重なっているよう。薄くない絵。長い時間の中で対峙し続けたかのような色彩。

「細い運河」1974(69歳)

マルケじゃないけどこの水面もすごい。「ベネチアの次にパリが好き」(80歳談)と。

 

「アルカディアの赤い屋根 ガヂスにて」1988(83歳)

ヴェロンに住んでいる間、82歳の時にはアンダルシアにも滞在した。

花だけなく屋根も、この人の赤い色はなんて深いんだろう。見ただけじゃない色。周りの色も空気も湿度も取り込んでいるような色。漆喰の白壁もそう、手触りまで。目に染みるような青い空も。スペインだー!って、この広がりにリュック放り投げてしまいたくなる(妄想)。

 

旅の風景、ということでこの場に展示されたのだと思うので、画集と「三岸節子画文集―未完の花」から、旅のことに絞って少し抜き書き。

菅野圭介と別れた後、節子は49歳で初めてフランスに渡り、1年3か月滞在。63歳で南仏カーニュに移住。69歳でブルゴーニュの(陸の孤島)ヴェロンの農家に引っ越し。84歳まで途中帰国をはさみながらも滞在。その途中で、イタリアやスペインにも滞在。

新しい環境がどんな影響を与えるか、女性特有の、あふれるような豊かな、感覚だけは持って生まれてきたのだから、新しい世界に水のように浸して、心が謳いだすままに、仕事をしてみたいと思っているまでである。」(49歳記)と。

改めて画集を開いて通して見かえしてみると、ヨーロッパの色彩に出会ってからの節子の色彩は、より克明になっている。出口をつき破った水が、色の中にあふれだしたような。

そしてフランス、アンダルシア、ヴェニス、軽井沢、大磯と、住んだところによって色彩がはっきり異なって特徴的。場所の色彩が彼女の中に染み込んでいるよう。感受性が強い人なんだろうと思う。手の先で描くなんてことはできなくて、全身全霊で風景に入って描いている。

夫からは解放されたけれど、今回彼女の日記や手記を読み返してみると、絵を描くことは彼女にとって苦行ともいえることだったよう。70歳でも「絵の世界は業であり修羅であり歓喜でもあるが・・。」と。

 30代の時は、後々の絵は重すぎて初期のボナール風の室内の明るい絵のほうが好きだったけれど、今は、なんというか、すべてが好き。そして年々見入ってしまう。本当に好きになっったのは自分が40代になったかもしれない。年を重ねるにつれて、また違う思いで見られるだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・

上記以外で、心に残った絵を。

前田青邨(1885~1977)「春富士」1971

以前から気になる青邨、ここで出会えるとは。布か紙を押し付け摺ったような。日本通運の所蔵品。日通さんの美術品専門の輸送部門は、テレビなどで見るたびに深く尊敬するけれど、今回は5点出品、いいなあと思う作品ばかりだった。

 

赤松麟作(1878~1953)「夜汽車」1901

明治5年に初めて新橋横浜に鉄道が開通し、この作品は30年後。日本の昔の市井を描いた油絵は、なぜか個人的に好き。高橋由一のお豆腐絵の絵とか。

レトロな(当時の最先端かな)木の車内、床に落とされたみかんの皮。母親の膝で丸くなって眠る子供と赤い鼻緒の草履。珍しげに外をのぞくおじいさん。今じゃありえない車内タバコ。ひしめき合った車内のひといきれ。でも本当に旅気分なのは、これを眺めた赤松のまなざし。こんな濃いい車内は、昔中国の三等列車でイヤってほど味わったぞ。

 

小杉放菴(1881~1964)「金太郎遊行図」1942泉屋博古館分館から

大好きなこの絵と再会できるとは♪。出光美術館の回顧展でも似た構図の絵に出会ったけれど、こちらのほうが顔がかわいいのです。お孫さんをモデルにしただけあって、元気いっぱい、むっちりとした手や足に孫への慈しみがあふれてる。実物というよりはイメージで描いたくまや鳥。公差した構図。

放菴も不同舎で学び、ヨーロッパを巡った。が、海外で東洋の美に目覚め、日本画へ。その契機となったのが、1915年に大観や観山と旅した東海道だと解説に。この道中の風景を皆で交換日記のように繋げた絵巻物は、東博で少しずつ展示されている。行くたび続きを楽しみにしているけれど、放菴も参加していたとは。

 

曾宮一念(1893~1994)「平野夕映え」1965

赤い雲が胸に迫ってくる。夕日に焼けて湖に映っている。地平線も見えそうなくらい遠くはるかな彼方も描いているせいか、郷愁と旅愁が一度に漂う。101歳まで生きたイチネンさんの72歳の作。6年後には失明し、その後は随筆を書いていたそうだけど、この雲の赤色を見ていると、この時すでに目の不調を予感していたのかと思うほど。

 

牛島憲之(1900~1997)「岬の道」1989

アイヌ語で「向こうの島」を意味する利尻島イクシュシシリを訪れて、19年後に描いた。こんなに急な坂は、本当にこうなのか、ひとり上る人影は影のよう。断崖の海の上に浮かぶ雲は、抜け出た魂が浮遊しているみたい。心の中のイクシュシシリの残像に、19年分の歩いた道が織りなされた心象のように。

 

堀文子(1918~ )「紫の雨」1965

藤の花を描いたと解説にあった。クリムトを思いだした。金地にピンクって組み合わせに感嘆。あでやかにしんしんと。タイトルが「紫の雨」って素敵な。花と雨が重なって脳裏に入ってくる感じ。2007年の横浜高島屋での回顧展の画集を開いてみると、ここまで抽象化された絵は、あまりないようだけれど。

77歳でアマゾン、マヤの遺跡、80歳でマチュピチュ、81歳でヒマラヤと。確かヒマラヤには青いけしの花を探しに行ったとか。 三岸節子もそうだけど、年齢をものともしない女性の話を聞くと、元気出るわ。

 

山本丘人(1900~1986)「曇れる火山」1958

一瞬「暴れる」に見えてしまった。でも一触即発、膨張して今にも噴火しそうに見える。今の日本じゃ、この絵は怖い感じ。このころどこかで噴火があったのかと調べると、1953年阿蘇山、1955年桜島、1957年伊豆大島三原山、1958年阿蘇山。いずれも死傷者がでる大災害。丘人も怖いと感じていたのだろうか。

 

東山魁夷は11点。北欧の絵が3点。魁夷は、「戦争が終わった時が大きなはっきりとした分岐であるとすれば、北欧のたびは戦後の私の芸術の歩みの中で重要な意味をもつ。」と。

「フレデリク城を望む」1963、描かれていない空は、湖面に広く映っている。

今回はスケッチが心に残った。

「布留の森」1973ー85は、小さな面のパーツが集合して色を構成している過程を見るような。

 

「酒造りの家」1973-85

軒先のこれ杉玉っていうんだっけ。全体に茶色い絵という第一印象だったけれど、先日拝読した方のレビューにあった赤いポストが目に入り、「あ、そういえばこれか。実家のもこれだったわ」と思った瞬間、ポストが生き生きしてきた。そうすると一気に重さが消え、壁の板張りの色は質感に代わり、そこに自分も立ってるような感じに。ポストが鍵を開けたような、面白い体験でした。

 

「山峡朝霧」1983は6曲の屏風。

魁夷が描くと黒も、丸みが。色彩あふれる絵もいいけれど、たまに「色いらない」って思える絵に出会う。たちこめた霧、もっとたち込めて何も見えなくなってしまうのではと、思わず待ってしまう。

*** 

「海外との出会い」の章には、海外留学した洋画家の作品が並ぶ。

その街のあたりまえの景色が特別なものにみえる、旅人の眼。自分が旅行した感覚と重なる。

野義男(1870ー1956)「テームス河畔」は23歳で渡米し、27歳でロンドンに。The Color of Londonと、現地で人気画家にだったそう。最初はロンドンの霧を怖れてマスクをしていたというのが笑ってしまうけれど。

 

佐伯祐三(1898~1928)が4点、すべて、あの有名な一言を放ったヴラマンクから離れていったん帰国し、1924年から二年間再びパリに滞在した時のもの。ユトリロに影響を受けた時期とのこと。裏通りや小さな小路。「エッフェル塔の見える街角」1925は、角にある店のひさしにひかれる。

「広告と蝋燭立」1925が好きな一枚。ひとりで夜のホテルにぽつっといる感覚が思い起こされる。

 

デュフィ(1877~1953)「ベルサイユ城風景」1930ー35

置かれた彫刻や湖に映る姿もフォーブな。ピンクがゴールドに見えてくる。

 *****

第三章は日本画。

上村松園「菊の香」1945頃は、松園の中でも好きな「菊寿」1939年にそっくり。それは、落ち込んだ時に見ると元気出る画。菊の位置が違うけど、これも同じく好きな絵になった。

 改めて、松園の着物は本当にハイセンス。しみったれた組み合わせなんてしない。たとえあの怨念渦巻く「焔」だって、ものすごくおしゃれ。

細部までこんなに近づいて見られて、アスコットホールにも感謝。改めて、菊一輪の美しさときたら。菊の花は、はなびら一枚一枚まで楚々と瑞々しく、葉っぱまでかわいらしいことに気付いた。

どうしてこの絵を見ると元気が出るのか?なぜだか自分でもその全容はわかりませんが。

 

伊東深水(1898~1072)「鏡獅子」1962(部分)

今にも声が漏れてしまいそうな口もとを、きっと閉じている。激しい女の刹那の思いのようにも見えるし、凛とした生きざまのようにも見えるし。深水は64歳、かなりの数の女性を見てきたさすがのとらえ方だなあ、と若輩ながらそれだけは感じたり。 

 

最後は歌川広重の「保永堂版東海道五十三次」。ここで時間があまりなくなってしまったけれど、21:名物とろろ汁まで、結構芸が細かい。

22:宇津の山は酒井抱一などでも描かれたあの場面。広重の印象も知ることができてよかった。つまり木はおどろおどろしく、やはり険しく難所のイメージどおりだった。38:待っている犬。46の百雨などなど。

 

最後は急ぎ足。時々自分が旅行した時の気持ちを思い出したり、いい絵もたくさん見られて、冒頭の色紙の「去りゆくものにしあわせを」の通り、小さな幸せ気分で帰りました。

 

 


●泉屋博古館分館「バロン住友の美的生活ー美の夢は終わらないー」

2016-08-04 | Art

泉屋博古館分館「バロン住友の美的生活ー美の夢は終わらないー」の第二部

「数寄者住友春翠ー和の美を楽しむ」2016.7.5~8.5 後期展

泉屋博古館は、京都も東京の分館も初めて。住友家が収集したコレクションですが、その多くを収集したのが住友春翠(1865-1926)。

御曹司の道楽が高じたものかなと思っていたら、高じ方が正統をいってます。春翠自体がスーパークールでちょっと面白い。

春翠は住友財閥の基礎を築いた第15代当主とのこと。でも、公家(東山天皇の血筋)からの婿養子であり、西園寺公望の弟だったとは知らなかった。まさに華麗なる一族。欧米に視察した春翠は、欧米の実業家がそうであるように社会貢献や文化事業に力を注ぐ。

この辺りについては、日建設計(最近では、東京ガーデンテラス紀尾井町(旧赤プリ)、東京スカイツリー、京都迎賓館など)のサイトの「日建設計115年の生命誌」が面白い。

日建設計の始まりは、春翠が住友家に入った三年後、住友銀行の本店を建てるために1895年に発足した「住友本店臨時建築部」(本店が完成すれば解散予定だった)。

このために、春翠は辰野金吾に学んだ野口孫一をハンティングし、欧米に送って学ばせる。孫一が帰国して、「住友本店臨時建築部」が正式に発足。春翠が銀行本店の建設に先立って命じたのが、「須磨別邸」と「大阪図書館」の建設。大阪図書館は府に寄贈。太っ腹。

この展覧会では、入ってすぐに「須磨別邸」1897の図面(画像はこちらから)や写真、特注のディナーデットが展示されていた。

英王子が滞在した時のビデオ(地引網漁を見て喜んでいた)も上映していましたが、関西の迎賓館としての役割を担ったとか。

外観も内装も迎賓館のようだけれど、中に飾られていたという絵画がすごい。広間にローランス「ルターとその弟子」等。大食堂には、モネ「モンソ―公園」、「サンシメオンの農場の道」。寝室に、ヴイッツマン「芍薬」、コラン「裸体美人」。化粧室に黒田清輝「朝?(読めなかった)」。客室にはメアリ・カサットの母子の絵、ローランス「年代記」、浅井忠「秋林」など。

洋画の多くは鹿子木孟郎が買い付け。須磨別邸に合わせて買い付けたのでしょう。特に寝室や客間の絵は雰囲気に合っているような。

鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう:1874-1941)は、以前千葉市美術館で見た「吉田博展」の吉田博とともに、不同舎で学んでいたっけ。乏しい資金でフランスに留学。他の日本人も学んでいたというローランス(1838-1921)に師事。お金が尽き、つてがあって住友に支援を頼んだところ、援助する替わりに、西洋絵画の買い付けを依頼されたとか。それで須磨別邸には、ローランスの作品や、鹿子木孟郎のコローの模写や風景などが多いのか。吉田博とアメリカで一緒に展覧会も開いていますが、吉田博なみにたくましい・・。

太平洋戦争で、建物もほとんどの絵も焼失してしまったのが惜しい。モネ「モンソ―公園」、「サンシメオンの農場の道」、藤島武二「幸ある朝」などは残っているそう。

その後建築された大阪の「茶臼山本邸」1915の写真や立面図も展示されていた。こちらは野口孫一が逝去後の完成ですが、庭園のある純和風建築。春翠は、野口亡きあとを継いだ日高胖を信頼し、大工棟梁・二代目八木甚兵衛、庭師・七代目小川治兵衛とのコラボ。今の大阪市立美術館がある場所です。

 

建築のことばかりになってしまったけど、、展示されている作品もよかった。(以下絵ハガキから。)

解説では春翠の好みとして、「古くて新しい」「典雅で清楚」「抑制の効いた程よい装飾性」と。なるほどでした。

斉藤豊作「秋の色」

「色彩の興行師」と言われているとか。コランに学びます。突き詰めた感じはなく、素直で明るい感じで、心楽しい。

 

都鳥英喜は「春の図」「秋の図」。それぞれ法隆寺と比叡山方面の風景を油絵で。

 

木島櫻谷(1877~1938)の「菊花図屏風」と「雪中梅花図屏風」は、大阪の茶臼山本邸のための発注品。表書院の次の間に置かれたそう。春翠は、当時新進気鋭の櫻谷を抜擢した。

「菊花図屏風」1917 (部分)

お客様を迎えるにふさわしく、きっと春翠が気に入ってくれるだろうと描いたのがわかる気が。華美に過ぎない色使い。白とみどりの中に、この赤の効かせ方。バックの金も、単に背景でなく、白、緑、赤とともに、色の構成のひとつのようだ。花びらの一枚一枚も、少しながら動きがあって、楽しかった。

 

「雪中梅花図屏風」1918(部分)

ほとんどは、蕾。雪の中でもうすぐ咲こうとする梅の魅力。右双では太い幹が余白たっぷりに描かれているけど、左双に移動するにつれ、細い枝が乱舞するよう。全体の画像がないけれど、こちらもバックの余白が、ただの余白でなく、全体としてとても意味深いというか。これがバランスってことなのでしょうか。

咲いた花は、西洋画の油彩のような描き方。春翠と櫻谷ともに「古くて新しい」という道程を歩いているをでしょう。抑制が効きつつ、キレッキレな屏風絵。櫻谷自身の画業は平穏にはいかないようですが、通して観てみたいもの。

この二幅の屏風と茶臼山本邸の写真を見ていると、和の建築は、建物だけで完成させるものでなく、そこに置かれる屏風、掛け軸、生け花、座る人などとともに完成するものだと、しみじみ。

 

伊藤若冲「海棠目白図」

若冲を見られるとやはりうれしい。動植綵絵より少し前の時代のものだということで、色彩も控えめ。

 

白い輪郭だけで描いている木蓮の花が美しかった。はしっこでひとり、背中向けて違う方を向いている一羽が。

 

板谷波山「葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん)」大正6年(1917)

写真は桃の籠盛りですが、他の角度ではぶどうの籠盛り、枇杷の籠盛りが。その間には、鳳凰、魚、羊が。それぞれの絵がふくふくと楽しくてリズム感があって。薄い霞ごしに見ているような風合い。

 

「茶人 春翠」「春翠好みの茶道具と茶風」の展示室も見ごたえありました。

等伯の息子、長谷川久蔵と伝えられる「祇園祭礼図」に出会えたのは幸運。もとは絵巻だったのを12分割して掛物に仕立てたそう。ガラスケースが遠かったけれど、ちょっと人のよさそうな人物の顔はたしかに以前に見た久蔵の絵のように思えますが、祭りの形式が江戸時代の形式とのことなので、どうなのでしょう。

 

黙庵霊淵「布袋図」14世紀

黙庵は1330年ごろ元にわたり、帰国することなく亡くなります。中国で評価が高く、「牧谿の再来」と言われたそう。牧谿のふんわりとした筆致が、布袋さんの樽おなかに活かされて(笑)。顔もハートフル。

 

「饕餮文筒形ゆう」商時代 前11世紀は、筒形の上に饕餮(とうてつ)、横に?文(きもん)の中国の神獣の文様。?文は竜とヘビの間のようなものだそうで、小さくかわいい模様。

 

泉屋博古館の青銅器コレクションは、評価が高く、春翠が亡くなったとき、ロンドンタイムスが「中国青銅器の収集家として著名なバロンスミトモが死去」と伝えたそう。

 

野々村仁清「白鶴香合」17世紀

仁清の香合は、この首のひねりが魅力的。

 

「佐竹本三十六歌仙絵切 源信明」

に藤原信実の絵と言われるそう。

よく見ると、この足先がかわいい。

ちょっといじけた感じで、のの字のの字みたいな。

はだしなのは意味はあるのかな?と思い、他の36歌仙なども見てたら、だいたいこんな感じで裸足。男性の歌仙たちは足先をちらっと見せ。定番らしい。

この足先がかわいく見えてしまうのは、この信明のほっぺたがぽっと赤くて、下を向いちゃった目線と相まって、かわいく完成してしまったのかな。

 

点数が少ないながらも予想以上に見入ってしまった展覧会。目と鼻の先のホテルオークラにも行くつもりが、ここでタイムアップ。楽しい時間でした。

隣のスペイン大使館は戸嶋靖昌展以来、ダリ展のチラシが貼ってありました。

こちらの東京展も楽しみ。