hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●石井林響 「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」展2

2017-10-28 | Art

高崎タワー美術館「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」展の続きです。

今回展示が多めだったのが、石井林響広瀬長江(1884~1917)。

1の日記の画家たちに比べ、そんなにネームバリューのない二人だけど、この二人は靫彦よりも早い時期から新井旅館の沐芳と知り合いだった。

そもそも広瀬長江が、沐芳と紅児会仲間の靫彦を合わせた。青邨を紅児会に紹介したのも長江。名前すら知らなかったのが申し訳ないけど、Good Job。

長江の絵は、「妓女」「若衆と娘」など、浮世絵のような流麗なラインの肢体が美しい、風俗画のような世界。大正3年に喀血した際には、靫彦はお見舞金集めに奔走したそう。沐芳も長江を後援会で支援し、療養にも力を貸したそう。

33歳で亡くなってなかったら、どんな世界に展開していったのだろう。他の紅児会メンバーがこのあとあんなにも画風を変遷させるのだから、もしかしたら、ぶっとんだ新・風俗画を世に送り出したかもしれない。

 *

さて、今回高崎まで行ったお目当ては、石井林響

石井林響(1884-1930)との出会いは、山種美術館「日本画の教科書 東京編」(日記)。

「総南の旅からー隧道口」1921

 

そのあと、竹橋の近代美術館で「野趣二題 枝間の歌・池中の舞」昭和2年 が展示されるのを見に行った。

画像だとなにがなんだかわからなくなっちゃったけど、2m以上ある大きな絵。ナマズや亀やカエルや小鳥のパラダイスである。

モチーフは違えど、池大雅や浦上玉堂のような生気。小川芋銭のような小さなものへ向けるまなざし。魅惑的な世界だった。

 

展覧会の後で本を借りたので、経歴を以下に抜粋(「房総ゆかりの画家石井林響展」2006城西国際大学水田美術館、「林響をめぐる画家たち」平成2年千葉県立美術館より)。

 1884年(明治17年) 千葉県生まれ。今の千葉市緑区付近。

《明治30年代》 最初は洋画を学ぶものの、16歳で上京した時に、大観・観山・春草らの作品を見て日本画に開眼。橋本雅邦の門下に入り、日本美術院系の画壇での船出となる。主に歴史画を手掛け、よく売れたそう。雅邦にも評価され、なかなかのすべり出し。

《明治40年代》 新井旅館の沐芳と出会う。沐芳は林響の才能を見抜き、修善寺に招待。明治40年から42年まで滞在し、ここで出会った女性と結婚。仲人は沐芳夫妻が務めたそう。修善寺つながりで、紫紅、靫彦、古径、青邨、広瀬長江らと出会い、切磋琢磨。気鋭の若手作家として活躍。

《大正前期》 美術院系仲間が新境地を開き活躍する中、林響だけは取り残された感・・。「十年の失意時代」と言われ、野田九浦には「少しゆるみが来て」と評される。でも自身は、「世間的活動を止めて自己の修養に心を砕いている」と述べている。「円熟した宋画よりも(略)意気旺盛なる明清の文人画のほうがおもしろい」と、林響もまた、ターニングポイントにある。

《大正後期》 文展は帝展に改組、林響は出品をつづけながらも画壇とは距離を置く。色彩も豊かになり、特異な造形感覚で独自の画境を開く。「総南の旅から」もこのころ。

《大網宮谷・白閑亭時代》 かねてより「僕の心は独行疎林にある。煩雑な都会では僕の絵は描けない。詩趣無限の田園生活がしたい」と、大正15年、品川から千葉の大網に転居。画風も南画的傾向を強める。「野趣二題」はこのころ。

昭和4年に、脳出血で一時危篤となるも、回復。

昭和5年、植木屋と椿の木の移植中、座敷に上がったところで脳溢血で倒れる。3日後に死去。45歳。

今回の展示はすべて、新井旅館に滞在中の明治40年代のもの。文人画風のものではなくて、ちょっと残念だったのだけれど、上記の経歴を知ると納得。靫彦もそうだけれども、みな後にはあんなに個性的な絵を描くのに、20代のころは慎重に描きこんだ絵。そして皆似ていると思っていたのも、美術院系の歴史画ということで、腑に落ちた。

 

「弘法大師」明治41年は、若さゆえか、線がそろりそろりとしている。でもどっしりした弘法大師。

18歳の大師が悪魔を閉じ込めたという話から、定型の岩と木を排し、円光のみにした。この直球勝負な性格が、後の作風に開花したんだろうか。他の作品でも、細かいよりも、どストレートに行きたい感じじゃないかなと感じた。それでいて、空気や微細な光をつかもうとしている。

 

「春風駘蕩」明治40年代は、酔った賀知章を抱える姿を馬上に設定している。森には少し光が差し、春のぬるんだ空気が感じられた。

 

「東方朔」明治40年代も、地面に木漏れ日が。

 

「松下睡布袋」は、最近お気に入りのおひるね画題。ただ、ぐっすり寝ているんだけれども、もっとふっきれてほしいかな、と勝手なことを思ったり。

 

「鴛鴦棲穏」は、岩がきっともうすぐいい感じになるんだろう。私は林響の岩に惚れたのだ。

 

どの絵も、‘‘もっとガンガンいけーっ‘‘って勝手にもどかしくなってる。皆、ここを超えて、ぶっ飛んでいくのね。

一番後の作品、明治末~大正期の「寒山子」は、妙な絵だけれども、これが一番好き。

かすれた墨の棕櫚の葉。計算があるのかないのかわからない幹。謎な顔。寒山はいつも変な、子供のように自由な顔で描かれるけれど、これはもしかして自画像なのかな??

独自の境地を開く、ちょうど境目のところで描いた作でしょう。

 

できることなら、この流れで続けて、後の林響の作をみてみたい。

上述の画集を見る限りでは、この後、より線は自由になり、とってもいい感じ。自然の気を満喫していた。房総という自然豊かな土地への愛情も感じる作品も。

樹下高士(大正8,9年)(部分)個人蔵

閑郷之図(昭和3年)(部分)船橋市教育委員会蔵

 

自然の空気、四季の変化に幸せを感じることのできる人なのじゃないかなあ。

実物を見たらどんなに心地よいことでしょう。

 

 


●法隆寺宝物館と蘇とフレンチトースト

2017-10-28 | おやつ・食事

食べ物の日記ばかりだけど、スマホからささっと。
そもそもお茶とスイーツを楽しみに生きている。

東博の常設から東京都美術館へ。
待ち時間がなければ常設のあとで運慶展へとも目論んでいたけれど、平日にもかかわらず長蛇の列。運慶はまた後日に。

常設をたっぷり見てヘトヘトになったところで、法隆寺宝物館のガーデンテラスへ。

谷口吉生設計


柳にフジイフランソワを、濃密な南天に若冲を想う。






壁に映る木の葉の影とそれを映す水面と


雑念を鎮め静かな気持ちに整えてくれるための渡り廊下のような通路。

あちらの世界と建物内のこちらの世界は、明らかに違う

ガーデンテラスで遅いランチ
運慶×奈良県産メニューにとりあえず飛びつく


「蘇」は、日本史の教科書にも載っていた奈良時代の発酵食

思っていたより発酵臭がない。マイルドでおいしい
チーズにクラッカーを混ぜたようなシャリシャリ感もあるのは、古代のひとが気長に壺で発酵させてたことを彷彿としたりする。

これを再現した奈良の西井牧場さんのHPにでている、その経緯のお話がいい。
牧場に、やかんを持って牛乳をもらいにやってくる学者さん(猪熊兼勝先生)。ついには牛乳カンごとあげちゃう笑。

猪熊先生のお話を転記。
おそらく、中央アジアの草原のパオの中で生まれた美味な固形物であった蘇は、
はるかシルクロードの道を通り、飛鳥の都へ伝わって来たのです。
当時飛鳥には多くの異国人が住んでおり、彼等が、その製法を伝えたのでありましょう。



さらにフレンチトーストをオーダー。


(ガーデンテラスの運営をしている)オークラホテルの24時間卵液に漬け込むというので知られたフレンチトースト。ホテルよりリーズナブルにいただけます。

前にホテルでいただいたより少し厚めになったような気がする。
外カリっ中ふわとろ。甘さ控えめなので、アイスクリームやメイプルシロップと共に。いつも3分くらい浸して強引に焼き始めている私のとはやはり違う。

外に出ると、僧衣の尼さんたちが休んでいる。

中国語を話していた。
飛鳥時代には大陸や朝鮮半島から多くの僧が渡ってきたのだったな。尼さんも渡ってきたのだろうか。

東博の庭に、かりんがたわわに下がっていた。




甘酸っぱい香りが辺りに漂っていて、たくさん吸い込んできました。



●原宿クリスティで紅茶

2017-10-27 | おやつ・食事

近代美術館から太田記念美術館へ。
太田記念美術館は久しぶり。
ふと、クリスティという紅茶屋さんが記憶に蘇る。

私が学生の頃にあったお店(←何年前だ)
検索するとまだある。

太田記念美術館から最短コースで3分ほど。竹下通りを通らずに行けるのが重要。このトシではちょっとね...

原宿は、一本入るととても静か。

この先に道があるとは思えないけど


ちゃんとあるのよ^^

(階段でない方がいい場合は別ルートで平坦な道で出られます)

原宿の喧騒がうそのような静かな小径に出る。


おお〜看板に見覚えがあるような。




なんと1980年からここでお店を。変化の激しい都会でご立派です。
HP

マーマレードチーズトーストとニルギリのセット

ゴーダチーズに懐かしい感じのマーマレード。おいしい^^
青カビ系チーズ盛りもあったらステキかも。

太田記念美術館に来たらまた来よう。
…最近展覧会の日記が書けていない……


●新井旅館と靫彦、古径、青邨「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」展1

2017-10-22 | Art

高崎市タワー美術館「伊豆市近代日本画コレクション展ー巨匠たちが愛した修善寺」

前期:2017.9.16~ 10.15  後期:10.19 ~ 11.15

群馬だけれど、お目当ては伊豆市のコレクション。

展示作品は20代のものが多いので、まだ画家たちの特徴的な絵ではありませんでした。でも、靫彦、石井林響、青邨、古径と、大好きな画家たちの若いころの試行錯誤の足跡が垣間見えて、新幹線で行った甲斐は大いにありでした。

もう後期になってしまったけど、前期展の記録です。

修善寺にある新井旅館さんの三代目主人、相原寬太郎沐芳)(1875~1945)の所蔵品。

沐芳は画家を志したこともある新井旅館の入り婿さん。皇族や文人墨客が逗留し、繁盛していた新井旅館の3代目主人となってからも、まだ評価も定まらない20代の画家たちの支援者になった。

コレクションは画家たちとの交流によって、新井旅館に残された作品が伊豆市に寄贈されたもの。宿代の代わりに置いて行ったり、依頼に応じて描いたり、贈ったり。

画家たちは、永青文庫の「細川護立(1883~1970)と近代の画家たち」展と重なる面々だった。沐芳は護立の8歳年上で、ほぼ同時代。でも沐芳と画家たちとの交流は、護立が彼らのパトロンになるよりももっと前からだった。

沐芳と画家たちの交流を広げたおおモトは、安田靫彦らしい。

靫彦は奈良で胸を病んで、明治42年から3年間を新井旅館や沼津で療養した。ちょうど靫彦が紅児会で活動した時期。会の仲間の紫紅、古径、青邨らは、靫彦を訪ねて沐芳と出会い、同様にもてなしと支援を受けた。

靫彦と沐芳の交流は生涯続く。

展示の冒頭は、67歳の靫彦が描いた「沐芳の肖像画」だった。梅の咲く下に、着物にマフラー、袖からのぞくラクダの肌着の沐芳。沐芳の7回忌に夫人から依頼されて描いた。靫彦は生前の沐芳のスケッチをしていなかったことをたいへん悔やんだそう。

沐芳の息子の絵もあった(「相原浩二君寿像」)。靫彦の赤ちゃん画というのは初めて見たかな。靫彦が26歳の時。

展示は20代のころなので、歴史画が多い。私の好きな、靫彦のあの「絶妙な間あい」と「黒目が点だけなのに目で語る」、「馥郁たる香り」はまだ途上だったのだけれども、一昨年の安田靫彦展で展示が少なかった時期の作品が見られてうれしい。

「醍醐観花」明治40年 

秀吉は靫彦の好みの画題だそう。靫彦は狩野派を参考にしたのだとか。そういえば、禅展で見た秀吉像に似ているような。72歳の「伏見の茶亭」は豊臣家崩壊を予感させる絵だったけれども、この秀吉はなんの暗示もなく春にくつろぎ、足袋の見える足にも秀吉の人柄がのぞく。

 

「大原行幸」明治44年は、手前にモチーフ、上はゆったり開けるのは、紅児会スタイルなのだそう。花摘みから戻った建礼門院徳子。屋根や山並みの詫びた情感にしみじみ。

 

「竹内宿祢」明治44年、あかちゃん(のちの応神天皇)をあやす、元祖"イクじい"(笑)。

この目いい~。少しずつ靫彦風なクセが出現してきたかな。

 

「隻履達磨」大正1~4年 達磨が熊耳山に葬られた後、ある僧が履物の片方を手に西へ去る達磨の姿を見たという伝説。

墨の山並みは、修善寺をほうふつとさせるよう。にじみに見とれてしまう。靫彦には珍しいように思ったけど、彩色の作品に墨の背景を組み合わせることもあったそう。少し微笑む(ちょっとニマっとしてかわいい)顔がとてもよくて、少しずつ靫彦的な目ヂカラが増してきたなあと思う。

 

本画もいいけれど、下絵や写生がたいへん興味深かった。以前の靫彦展ではほとんどなかったものね

「項羽」の下絵があるのには感動。補助線も見える

数枚の「相撲写生」は相撲部屋での素の姿がスケッチされている。エラそうなのとか下っぱみたいなのとか。

 

鳥獣戯画の研究から生まれた、26歳の靫彦の「カチカチ山」絵巻には思わず笑み。ウサギがタヌキの背中に薬を塗ってあげるところから展示されていた。泥船でおぼれるタヌキに大喜びするネコ、サル、カエルたち。とっても楽しい。

これは沐芳のために描いたことが、巻末の詞書に感謝とともに記されている。「孤独の境を出で、父母の懐に入るの想有らしむ」と。沐芳の人柄が偲ばれる。そして不安を抱えていた靫彦の気持ちも胸に迫る。深い感謝を抱く大切な人とその妻子に喜んでもらうため、せっせと描いた絵なんだろう。

 

また、初代中村吉右衛門と沐芳と靫彦の三人は義兄弟の契りを結ぶほど仲良しだったそう。三人で映した写真もあった。

靫彦って大御所で人格者のイメージだったけど、若い靫彦の素顔にちょっとだけタッチできた気分。

合作もこれまたとっても良い!。

「修善寺風物扇面散」(明治末・昭和13年)六曲一双は、扇面を後から張り付けたのでなく、直接屏風に描きこんだもの。

右隻は、明治末。靫彦ほか青邨、浅野未央、石井林響、西村青帰、広瀬長江の紅児会メンバーが、新井旅館に滞在中に代わるがわる修善寺の風物を描きこんでいったらしい。楽しそう。原木しいたけを描く青邨が好き。旭滝、城山、柿・・修善寺温泉行きたくなる

 

左隻は昭和に入ってから。大磯に住む靫彦宅に相原家から屏風がもちこまれ、靫彦は弟子11名を順次呼んで描かせた。なるほど左隻のほうがどれもていねいに描かれているのも納得。中でも藤井白映の「水仙」「つゆ草」、瀬戸水明の「白椿」などお気に入り。他のもどれもほんのり匂いたつようだった。さすが靫彦の弟子。

 

もも太郎の合作も青邨、靫彦、長江、未央合作「鬼が島」明治末 描いているときの4人の楽しげな様子がうかぶ。

お相撲のスケッチの研究の成果か?靫彦の赤鬼青鬼のおしりの肉づきがいい感じ。

靫彦以外の紅児会の画家仲間の作は、歴史画という画題も画風もなにやら似ている。会の目指す方向がよく見える。逆に似ているだけに、その人その人の個性も顕われるのが面白い。

 

前田青邨は、広瀬長江の紹介で紅児会に入り、沐芳とは、靫彦、石井林響、広瀬長江に次ぐ親しさだったそう。古典文学や歴史画に取り組む、若い青邨の貴重な足跡。

青邨「市場」1910は、一遍上人絵伝の「備前福岡の市」のシーンを、下半分に集める紅児会スタイルにリメイク。一遍上人絵伝は人物の動きや顔まで生き生き描かれていたけれど、25歳の青邨の人物も、顔がとてもいい。(画像は部分)

 おまんじゅう屋に群がる子供たち。男のぶら下げる魚を狙う野良犬。牛のとこにいるおじいさんにウインクされてしまった私?。青邨が遊んでいる😊

 

「鶏合」明治43年は、伴大納言絵詞の影響がみられる作らしい。25歳の青邨の線は少し太く薄くて、なんだか穏やかで好きだと思った。これも人がとても良くて、皆が鶏の一点に集中する目線ビームが面白い。

 

「後三年」大正初は、後三年合戦絵巻をもとにし、6つのシーンを色紙に描いている。

義家の部下の公任が得意げに首を並べる。池に隠れた武衡をとらえる。

緊迫のシーンを、対角線、上方、下方と、さまざまに配置を工夫している。青邨らしい顔が出始めているように思えた。

他の作も、平時物語絵巻の影響が見られるもの、古事記の記述をおこしたものなど。青邨は、国学院の聴講生となって学んだこともあるそう。青邨の画風や「腑分け」などに見られるあの独特の顔は、古画の学習を通して生まれたものだったと、よくわかった展示だった。

青邨と古径、二人の描いた平重盛が並んでいるのが見応えあり。

平清盛の長男。世の浮沈を嘆き、48間の精舎を建て、毎月の念仏会に、48の燈篭に各6人の女房を配して念仏を唱えさせたことから、燈篭大臣と呼ばれた。

青邨「燈篭大臣」明治末

青邨は中尊寺金色堂の柱を参考に、鮮やかな散華を床にちりばめ、精緻に描いた。柱の隙間に見える女房によって、さらに周りに広がる奥行きを感じる。斜め後ろから見る重盛の存在感。アンタッチャブルな祈りの空間になっていた。

 

対して、古径の重盛は斜め前から。

古径「重森」明治44年 淡い世界。

浮かぶような淡い色彩、宙を舞う散華。重盛は一人、内なる祈りに入っている。

青邨が奥行きなら、古径のこちらは上へと広がる。そのはるか上に仏様がおられるのだろうと思ったりする。

青邨も古径も、どちらも20代と若いのに素晴らしいなあ。

 

古径は、梶田半古の画塾で塾頭を務め、青邨は後輩。古径は沼津の靫彦や紫紅を訪ねた際に、沐芳を紹介されたらしい。自らも沼津に引っ越そうとしたらしい。

古径「筝三線」1909、婦女遊楽図に着想を得たとのこと。

靫彦つ20代の古径の美人画?がこんなに色っぽいとは。それでいて清らか。

重盛もなのだけれど、古径の絵はどこかロマンティック。

金泥だけで描いた「梅」1917、御舟の緑を思わせるような松林「萬翠」1918も、甘いというほどでもないけれど、上手く言えないけれど、抒情的という言葉にするしかない語彙力のなさ(涙)。

 

古径バージョンの「伊勢物語」1915もそう。12図を画帳にしてある。沐芳の依頼により作成した。

お決まりのシーンだからこそにじむ、古径のほんのりした抒情。

1段「春日の里」 神域の大きな木々の足元に小さく鹿が。宗達の影響もあるでしょうか。

第9段「東下り」 色はわずかに都鳥のくちばしのみ。

第23段 河内越(高安の女)は、おお、其一も描いていた”ご飯大盛り女”。めちゃ嬉しそうにご飯よそってる(笑)。

第58段「長岡の里」 勝手なことを言い立てる女たちは、信貴山縁起に似た場面があるとのこと。確かに先日国宝展で見た、村の女たちに似ている。

第106段「竜田川」が最後の一枚。かわいい紅葉もカラスも朱も、嬉しくなるほど心がいっぱい。

で、これでもかと、巻末の見返し部分の桜が。もう言葉もない。

32歳の古径ワールド。素晴らしかった。

もう一つのお目当て、石井林響については次回に。


●東博常設2 踊、又兵衛、書など

2017-10-14 | Art

すっかり時間がたったけれど、9月下旬の東博常設1(日記)の続きです。

二階へ。

宇宙と交信中?の「ハート形土偶」と、今日もきめている埴輪「盛装の男子」にご挨拶しながら、新顔を発見。

岡山出土の平瓶、古墳時代6~7世紀

あひるのような微妙なバランスの注ぎ口に足が停まったのだけれど、線描で模様が刻まれている珍しい須恵器だという。司祭、建物、柱に掲げた吹き流しが描かれ、特別な出来事を表しているとのこと。

 

刀のコーナーでは、一か所だけ行列ができていたけれど、近づけなかったので何だったのかわからない。

この日の東博は、なぜかあちこちで踊っていた。Dance Dance Dance♪

国宝ルームの「一遍聖絵 巻第七」法眼円伊筆 1299 は踊念仏を。

絹本で少し大きめな、珍しい絵巻。一遍の没後10年に、画中にも登場する僧の一人が詞書を描き終え、円伊という絵師が絵を描いた旨が巻末に記されているとのこと。

一遍らは遊行の途中、尾張美濃を経て、京に入る。

この絵師の絵が素晴らしかった。どんなに小さい人でも、感情が生き生き。人も動物も動きに満ちている。近景も遠景も、薄やかな霞みで合わさり、美しい。

近景は、細部まで余念がない!。だから上から見下ろしながら、当時の街並みに下りて入ってしまえそう。

当たり前だけどアスファルト舗装されていない道路っていうのは、土埃がすごそう。鶏も鵜も牛も馬も、街には混然一体。人とともに普通にいたのね。

踊念仏っていうのは、こんなふうにひしめき合ってやるものだったとは。集団トランス状態。

いい笑顔。足も軽快なステップ。

 

牛車で乗り付ける人や群衆でごったがえ。そういえばコウモリ傘をさしている人もいた。

なんだかね、現代とは人と人の距離感覚が違う。動物もね。皆近しい。

 

遊行上人縁起絵巻 乙巻 14世紀は、信濃で踊る。

一遍の後を引きついた、時宗二祖の他阿(1237~1319)がおこなった、善光寺での踊念仏。

 

伝菱川師宣の風俗図巻では、鮮やかにのりのり。

刀を差したお侍さんも三味線を。一席囲った見物人には裕福そうな武士や商人がくつろぐ。

列になったり、輪になったり

御隠居さんも小姓ものりのり

屋根の上では、なぜ耳かき??

 

もうひとつ、「能狂言絵巻」18世紀でも踊る。

葵の家紋から、徳川家ゆかりの女性が婚礼道具として調製したものとか。ずいぶん楽しいのがお好みな姫だ。

とにかく東博のあちこちで、踊っていたのでした。

 *

お目当ての3室、禅と水墨

高橋範子著「水墨画にあそぶー禅僧たちの風雅ー」を読んで、禅僧ワールドに触れていたところ、まさにタイムリーな展示。

玉畹梵芳(1348~1424~)筆「蘭蕙同芳図」(重文)14世紀

下できゅっと締めて、上へ伸びあがる。バランスと葉の曲線にほれぼれ。

高橋さんによると、「蘭蕙同芳」の蘭は春咲きの蘭。蕙とは秋咲きの蘭の一種。季節の異なる二種を同時に描くことは、当時の禅僧のお気に入りのテーマ。E 国宝では、ともによい香りを発するので、すぐれた人徳の喩えに用いられる、とある。

梵芳は、建仁寺、南禅寺の住職を歴任した名僧。幼い時より南禅寺に過ごし、若き日には義堂周信について文芸修行をしていた。正木美術館にも同様の蘭蕙同芳の絵がある。

本では、禅僧たちの詩画が、中国文人の芸術や教養に通じた禅僧たちのコミュニケーションツールとして豊かに広がっていたことが紹介されていた。彼らは共通に、美意識や文人への理想感を持ち合わせている。逆に言えば、そのような知識や共通感覚を持ち合わせていない者は、この京都五山を中心とした禅僧ワールドには入れない…。

 

このあとは、15世紀、16世紀の室町の禅画や水墨が。如寄の花鳥図、戯墨の山水図、仲安真康の山水人物図、小嶋亮仙の鍾離権呂洞賓図(味のある顔だった)、僊可の山水図、式部輝忠の帝舜五臣図。

7室の屏風と襖絵

森徹山「牛図屏風」19世紀

背景の銀が黒ずんで、いっそうすごみが増している。ものすごい重量感。ひきおろした力強い筆目まで見えて、迫力。

赤い牛のももなんか、スペインバルにぶら下がっているハモンセラーノのいいのが…と思ってしまったが、あれはブタだったわ。

そんなおバカを、見透かすような牛の目。描き手自身さえ見すえているような。

 

曽我二直庵「花鳥図屏風」17世紀、ど、どうしたのっていうくらいの迫力

右隻:一羽の鷹は今しも鋭い爪で白鷺を仕留め、もう一羽の鷹は鷺の群れに襲い掛かろうとしている。

この世界では岩も葉も激しく猛り狂う。幹は骸骨のよう。鷹の目はいっちゃっている。鷺の最期の悲鳴が聞こえる。

もう一羽の鷹の白鷺を狙う眼も、逃げる鷺も、生々しい。葉の筋まで線は力強く太い。

荒々しさと細やかな観察眼が同居している二直庵。こんな花鳥図があっていいのか。

四季の移り変わりを愛でる余裕もなく左隻へ移ると、こちらはまあ幾分落ち着いている。

左隻:

つぼみも葉も、よく形を見ているなあ。葉の筋まで緑と白で分けて引き、陰影までつけている。

少しは落ち着いたかと思ったのもつかの間、やはり激しく暴れる岩。

威圧と風格の鷹。野生の目。先日板橋美術館で見たお行儀のいい上品なペット鷹とは違う。

最後の最後までこの激しさ。怪物みたい。

太く激しい線ばかりでなく、ゆるい線も自在に操っている。それがいっそう不気味さを醸し出している。

 解説には、境を中心に京都奈良で活躍した、近世曽我派の二代目の晩年の作。

強烈な屏風を見てしまった。発注主はどんな人なんだろう。

 8室、書画の展開(―安土桃山~江戸)も、たいへん見応えあり。

書がすばらしい顔ぞろい。絵ではなんと岩佐又兵衛が6点も(ほかの部屋のも併せて)!

 

大好きな池大雅の書が!

大雅の字は、自由で、端正で、のびやか。奔放さは絵と同じ。書も即刻大ファンになった。

池大雅「詩書屏風 「千條弱柳」」  月(左端)の字が本当に月。

 

池大雅「一行書「明月満前川」」

  

 

池大雅「唐詩五言絶句」 ここにも踊ってるのがいた。

カンディンスキーかミロか、それともポロックか。

鵬斎もそうだけれど、酔ってまわってそれで筆を動かすと、どんなに気持ちよいのかしら

 

他の書も、その人を率直に表していてとても面白い。

俵屋宗達、絵のまんま

 

椿山

 

浦上玉堂、千葉市美術館でさんざん見たあの字。

 

目を見張ったのは、渡辺崋山。絵もキレてるけれど、字もキレッキレ。

 

崋山では「芙蓉泛鴨図 」も、さすがの速書き。緻密な絵もあるけれど、こんなにザッと書いても動きのある鴨。

水面の藻?の点々、紅のさす芙蓉は崋山らしいなあと思う。

 

その崋山が肖像を描いた、佐藤一斎「竹自画賛」。あの鋭い目の儒学者の字って感じ。

 

こちらのほうがお気に入り。慈雲「達磨図」自画賛 

 このかすれた激しい線の達磨の背中と、微かなほつんとした書。バランスというか。その二面性でもって、こちらの心は素直に内省へと向かう。。

 

 仙厓義梵「滝図自画賛「散る玉を云々」」

 これはまた潔い。薄墨のかすれる水流とともに賛も流れる。でも意味はわからない。

出光美術館で見た、〇△□を私はいまだに考え続けているというのに、またわからないものが増えてしまった。

そして岩佐又兵衛。

又兵衛の墨だけの作品も、やはりなんともいえず美しい!そして楽しい!

雲龍図

ひげの白と曲線が美しい。目の白みが光っている。そんなに細密な絵でないのに、じっと見ると、とても細やかに濃淡が施されている。このにゅううっと出現した感じは、その陰影と立体感があってこそなのかも。

子出関図

なぜか老子の足に目が釘付けになってしまう。うまいのよね。この二つの足先に凝集された重み、軽み、人間味、体温、少しの緊張感と軽快さ。

よく描かれる題だけれど、牛はいつも私の見どころの一つ。わき役の矜持を見る。描く人は皆、意外と牛の人格を尊重している。

又兵衛の牛もとってもすてき。毛並みまで細密にいれている。

一人と一頭がいい感じ。「牛:急がなくていいんすか~。」「老:良き良き。ゆっくり行くのじゃ。」「牛:(お、蠅が)」

 

「伊勢物語 鳥の子図 」 さらっと金谷屏風の6曲のうちの一曲があるのにびっくり。

水面に数を書く女房。伊勢物語、女が男に恨みの歌を返す場面と考えられるらしい。

手で袖をおさえ、柳も恨みがましそうに見えてくる。でも又兵衛の描いた女房の顔は、恨みがましくも、少し寂しげにも見える。

 

本性坊怪力図

岩を持ち上げる大男。すでに岩はどんどんと谷に投げ込まれている。下では岩にひっくり返る武士たち。それを上から笑う武士たち。

又兵衛の躍動感は、動画を見ているみたい。

 

風俗図 

これは工房作の可能性もあるとのこと。浮世絵ルームのガラスケースの奥のほうにあったため、この日単眼鏡を忘れていったので、良く見えなかった。

このほかに、もう一点あったと思うのだけれど、今、東博のHPが落ちてて、なんだったか調べられない。一昨日くらいにもあったような。最近調子悪いのかな?。私のPCと一緒だ(涙)。

他に別室には、三筆のひとり、近衛信尹(1565~1614)の特集があった。美しい字。そして軸や屏風の仕立てもたいへん美しかった。

なかでも源氏物語抄 17世紀は、ため息がでるほど。

こんなに麗しい世界に住むその人は、近衛家の当主。

さもありなんという感じだけれど、意外に定形にとらわれない行動派だった。解説では、豪放にデフォルメされている字がみられるそのこと。

近衛 信尹は「等伯」にも登場する近衛前久の子。27歳で左大臣を辞して、秀吉の朝鮮出兵の際に、後陽成天皇がとめるのも聞かずに朝鮮へ渡ろうとして薩摩へ流された。でも転んでもただでは起きない、3年間の薩摩生活を、島津義久の庇護のもとで楽しみ、もう一、二年居たいと書き残している。

こんな公家もいるのね。

 


●国宝展の取り急ぎ日記

2017-10-04 | Art

京都国立博物館 国宝展 の取り急ぎの記録。スマホから。

今朝までは京都駅上の美術館「えき」で、黒田辰秋展をみるつもりだった。
それがのぞみの静岡過ぎたあたりで、国宝展で長谷川等伯の「楓図」が展示中と気づく。迷ったあげくに、京都国立博物館へ。

新幹線を降りてから、4時間後には京都駅に戻って来なければならない。
欲張らずにお目当のものだけみようと自らを戒めてGo。


京博のロッカーは混むので京都駅で預けてとホームページにあったので、駅ロッカーに。
とはいえ、平日の午後は待ち時間もなくするっと入場できた。

部屋ごとにテーマが分かれているので、先に見たいものへと進みやすい。
さほどの混雑でなく、一列でつらつら進み、たまに溜まったり、ぽかっと空いたりの混み具合。

お目当の長谷川等伯の楓図は、コの字に、宗達の風神雷神狩野秀頼の屏風に囲まれている。
楓図、剥落のせいで色が地味なせいか、すいている。幹のうねる力強さにドキドキ感動。でもこれは智積院の同じ部屋を飾っていた息子の久蔵の桜図とともに見るべき絵なのかもしれない。会期が違うのが残念。

隣の狩野元信の次男の秀頼は、絵が微妙にキミは子供か?的な楽しいヤツ。飲んで踊る能天気な屏風。これとってもお気に入り。


中国絵画の部屋では、特に、李氏としか名のわからない絵師の「瀟湘臥遊図巻」が良かった。淡い墨だけの、夢うつつの山水絵巻。でも5ミリの人影までいる。

中世絵画の部屋は、雪舟づくしの6点。素晴らしい。というかこの人、どこまでも飛んでっている。こうやってまとめて見ることで、秋冬山水図の、あの時空の切れ目みたいな縦線の謎が解けた気がする。


絵巻物の部屋では、信貴山縁起絵巻がめちゃ面白い。こどもの頃に小学館日本の絵巻で読んだ、米俵が空飛ぶ話。人物がとにかく生き生き楽しい。びっくりしてる村のおばちゃんが最高。
法然上人絵伝は、絵が素晴らしい。

刀と鎧の部屋はかなり混んでいたので、チラ見で通り過ぎ。

一階の幻想的な仏像のフロアでは、この日は小ぶりのものが心にのこる。平等院の雲中供養塔菩薩像は、目を閉じた三躯の菩薩が、空を舞い、踊り、奏でる。解説に浄土のようなとあった通り。

意思ではなく、なにかの流れ、浄土のなにかに、その身を任せて、自らはよりしろのように音や踊りとなっているよう。


最後は、琉球王の衣服が素晴らしかった。豪華絢爛な刺繍で施された、沖縄の青い海と波!

六道絵、埴輪たち、仏画は時間切れで見られなかった涙涙。


長谷川久蔵の桜図は10月24日から11月12日まで。等伯の松林図とともに並ぶのでしょう。しかも因縁の狩野永徳もこの期間の展示。この三人でコの字になるのだとしたら、その磁場に踏み込むのは恐ろしいかも。


●東博の常設1 二躯の座像、鵜図屏風、熱国之巻など

2017-10-01 | Art

9月下旬の東博の常設の記録です。

二階の11室は、彫刻。運慶展の前だったけれど人が多かった。

この日は二躯の座像に足が停まる。すわっている姿の仏像の周りは、立っている像の周りとは違う時間の流れ。ゆったりと整えてくれる。

如意輪観音菩薩坐像・鎌倉時代

のびやかだという第一印象だった。足や手の自由でいて複雑に絡まるところに魅せられてしまったのか?。

目の動きは、意志と思索に満ちていた。人間くさいところに魅かれたのかもしれない。

 

(重文)阿弥陀如来坐像 ・京都府船井郡京丹波町・長楽寺伝来、1147

ゆったりとしたお姿に安心感。座っているひとのそばにいるということは、癒されるものなのだなあと思う。

多忙な?仏さまも、さきさき行かずに腰を下ろして、ここにいてくれる。そのstay感に、こちらもいろいろなものをしょったりなにかに追われたりしていても、ここでは荷を下ろして空白になる。

 

重文の千手観音像(京都妙法院)の三躯(撮影不可)は、それぞれ院承、隆円、湛慶の作。影もふくめて別の世界にいるようだった。

彫刻では、14室にも、運慶展の関連展示があった(運慶の後継者たちー康円と善派を中心に 12月3日まで)けれども、時間が足りなくなりそうなので、運慶展の時に見ましょう。

 

 

15室の「歴史の記録 徳川将軍家の栄華」

山田幾右衛門「大名行列人形」に、へへ~っとひれふす。幾右衛門は御用槍師とのこと。なんて器用な槍師がいたものだ。行列では槍先が布に覆われていて見えないのが残念。これは17組のうちの1組にすぎない。大名行列の長さ!

 

幕府の日常が見える展示が面白い。

狩野養信「江戸城障壁画 西の丸表 上段の間 下絵伺」 1839年と1844年の江戸城造営の際に命じられたもの。養信といえば、先日の板橋美術館で異彩を放っていた「模写魔」さんでは。

養信の1841年の日記も展示されていたけれども、読み取れなかったのが残念。奥絵師の役割や、将軍家慶から大奥小座敷の襖絵についての指示などが記されているページだった。

 

江戸城については、1871年の横山松三郎撮影の鶏卵紙の写真もあった。シチュエーションがよくわからないけれど、維新の開城あとの閑散とした印象。

「日光東照宮御大祭略図」歌川国輝 とぐろをまくような千人行列

「将軍家駒場鷹狩りの図」模写 富士山とススキ野原が印象的。横一列になって追い込んでいく。

「松戸御船橋之図 」は松戸での鹿狩りのため舟で入った時の浮橋。

「御召御関船天地丸御船絵図面」も。

 

 

アイヌ民族の文化のコーナーでは、この日は「食」に関する特集。食べることは、やっぱり親しみがわく。

村上貞介秦あわきまろのルポ絵はいつも楽しみ。

鮭もアザラシも新鮮なのが。

詞書になにやら、雌魚、雄魚、魚卵、川底に、、などと読み取れる。次年の漁のことを考えてなにかアイヌの知恵と工夫があるのだろうか?

ほお、このようなトラップが。

実物も展示。

三世代で、いろりとお鍋を囲む。鮭やアザラシはスープ煮になったのかな。昔話のようなほのぼの感。

 

 

18室へ。

菊池容斎「蒙古襲来 」1847 縦2mを超える大画面 

薙刀を振り下ろしたかのような筆に、気迫と愛国心がみなぎっているかのよう。

 弟子の渡辺省亭に、三年間は習字ばかりさせ、見てきたものをすぐに筆で再現できないと厳しく叱責したという容斎。この絵を見るとそれも納得。浅草の大絵馬「堀川夜討」も緊迫感があった(日記)。

 

幸野楳嶺「秋日田家 」1892~93 そびえる山からジグザグと里に下りてくる。山並みも里の民家も美しい。

これもシカゴ・コロンブス博の出品作。高島屋では輸出用の品々を手掛けた楳嶺。外国人に見てほしい、外国人が見たい、そういう日本の原風景なのかも。

柿、ススキ、井戸、サトイモの葉、そして母親とおんぶされた赤ちゃん。ここだけでも絵になっている。

二宮金次郎がいた。薪をしょって本を手に。

 

 菱田春草「田家の烟」1906 なんともいえない静かな村のたたずまい。

煙突からたなびく胡粉の煙も温かい生活感。どこにもとげがない。春草って本当に愛されるべき人だと思う。

 

その春草の死を悲しみ、翌年に下村観山が描いた、「鵜図屏風」1912

ずっと見たいと思っていたれど、実物がこんなに悲しみが伝わる絵だとは。

たらしこみが絶望感を現す時もあるのか。

とびたってしまった小鳥に、もうなすすべもない鵜。ここだけ細密に描かれているので、悲しみに臨場感が増すのだろうか。

冷たい空気が吹き抜けるような真ん中の空間を隔てて、いくぶん下向きな小鳥。この角度がいけない。悲しくせつなくなる。

観山は冷静な画風の印象なのに、ときに気持ちの震えを感じる絵がある。

 

重文の今村紫紅「熱国之巻」1914が公開されていた。 「朝之巻」「暮之巻」があるうちの「暮之巻」

紫紅は、原山渓からの援助金を渡航費用にあて、ラングーン経由でカルカッタに15日間滞在した。

ここはカヤというガンジス川の支流の街らしい。

オレンジがまさに熱帯。でも日本画的な筆と紫紅独特の薄い色彩と金砂子のおかげか、エスニックさが際立つわけでもないのが不思議。

支流はからカヤの街に流れ込む。この青い波の線、いいなあ。

上陸しましょう。黒い鶏が水辺に。

村の入り口には鳥が舞い、西日はオレンジ色が増して、強さが金砂子によってきらめいている。

紫紅の新鮮な感動。アジアの雑踏は魅力的。

三人の女性が滑るように歩く。しっくいの壁。白やぎ、黒やぎ、壺。軒下で昼寝する男性。どれもこれもアジアンなゆるさ。

好きなシーンがいくつもある絵巻だった。楽しいひと時でした。

 

18室の最後は、「百瀬惣右衛門「銅蟹蛙貼付蝋燭立」1873 ウイーン万博出品作。

ガレを思い出したアールヌーボーなフォルムだけれど、無常感。枯れた蓮の種に、首を垂れた葉。蟹はハサミでカエルの足を引っ張る。

自然の情景のような、人の気配もするような。縄で束ねられていた。逆側では、蟹はその縄を挟んでいる。不思議な蝋燭たて。

 

洋画では、伊藤快彦「八瀬の女」1918、満谷国太郎「二階の女」1910など。

 

二階へ上がる前に、トーハク君とゆりのきちゃんに遭遇。(どなたかの腕が映りこんでしまいました。すみません。)

本名は、あずまひろしさんでしたね。名刺ありがとう。またね。

(二階に続く。)