はなな

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●松岡美術館「美しい人びと」

2017-01-29 | Art

松岡美術館「松岡コレクション 美しい人びと」 前期:2017.1.24 ~ 3.20

 

女性ばかりでなく、男性も美しい、そして猫も美しい展示だった。

今回楽しみにしていたのは伊藤小坡(1877(明治10年)~1968(昭和43年))(Wikipedia

先日山種美術館で見た「虫売り」の女性の秘匿の美しさにひかれていたところに、ちょうどこちらでも展示。

伊藤小坡「歯久ろめ」1938

松園のような清らかな美しさだけれど、もっと色気があるような。お歯黒なので既婚女性。抑えてもかすかに放つ美しさ。

体を少しねじって鏡を見ているのは、顔映りよく光が当たるようにそちらを向いたのかな。

今まで、歯がまっ黒って(怖っ)と思っていたけれど、ちらりと見える色気も初めてわかったような。そうか、美しい人はお歯黒で大口開けて笑うわけじゃないのですよね。美しい口元としぐさがあってこそ。


白い指にとられた紅。やっぱり薬指で。

 

鏡の自分を見つめる眼差しがこんなに美しい時って、愛満たされているときなのでしょう。

61歳の作、三人の娘の内の誰かをモデルにしたと見ればそう見えなくもない。小坡も女性を見る視線が優しい。

伊勢の猿田彦神宮の娘として生まれ、28歳で同門の画家と結婚した後も画家として活躍し、三女に恵まれ。忙しいながらおそらくは幸せな人生。でも幸せにあぐらをかかない女性だったのかなと想像する。

この絵も山種美術館の「虫売り」も、普通の女性のなかに、実はどきりとするものを秘そませてせている。

松園はシングルマザーとして波乱の道を行き、女性画家としての苦難や恋の苦悩に踏み迷った先にあの清らかなやさしい眼差しを得ている。

対して、良家に育ち、妻として母としての立場を全うした小破が、美しさの中に密かな危うさを見る。

わかる気もする。他の絵も観てみないとわからないけれども。

 

それにしても、絵の上手さ、線の美しさ、細やかさ。前期はこの一点でしたが、後期は4点。これは楽しみ。

猿田彦神社の中に、伊藤小坡美術館があり、初期の歴史画の大作から後期のものまで広くあるらしい。伊勢神宮にいったときに通ったのに、参道で食べ歩いていないで行けばよかった涙。

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そして、久隅守景清原雪信が父娘でならんでいた!!

清原雪信「伊勢」江戸時代 

やまと絵風な。それにプラスして、かわいらしい。顧客はおそらく貴族や豪商の奥方様たち。人気なのもわかる。

雪信の絵は見るたびに、ファッションがおしゃれ。華美じゃないのに上品でかわいい。

そしてこの黒髪。少しくるんとした毛先が女子の心をくすぐる。10代20代のころって、こういうところに命かけていませんでしたか(今や全然気にしないけど。)

線もたおやかでていねいで、雪信の細腕を想像する。この滝の楚々となんてたよりないこと。

と思っていたら、賛の和歌にそのわけがあった。仮名をよめないけれど、歌人の伊勢+わずかに判別できた「布」「姫」の字から検索すると、「たちぬはぬ衣きし人もなきものをなに山姫の布さらすらむ(仙女もいないのに、なぜ山の女神は布をさらすのだろうか)

滝(吉野の竜門の滝)の流れ落ちるさまを白布に例えているので、このような細くなめらかな滝になっているのでしょう。

雪信の絵はいつもエレガントで乙女。駆け落ちしたというと激しい女性のイメージになりがちだけれど、絵を観ていると、葉室麟さんの「雪信花匂」の描き方のとおり、優しく普通の人だったのではないかなという気がする。

 

久隅守景「業平・定家」江戸時代

清原雪信のあとで見ると、急に男性絵師の太い腕を感じる。筆致も力強く速く、みなぎるものがある。

右幅が業平かな?馬の顔が又兵衛っぽい。山道を雨まじりの雪なのか、風も強そう。

こちらが定家かな?。

雪が積もった庭を従者が傘をさし、定家は上衣のすそを持ち上げてそろりそろりと歩く。(傘が、おじいさんの傘まわし芸みたいでちょっとおもしろかったり)

左幅も右服も、人物も馬も体の動きが伸びやかで、気象というおおきなものを込めていて、どこか自由。

狩野派を離れたのは、息子や娘の引責なのかもしれないけれど、なんだかんだ言ってお父さんの絵が狩野派の中では自由すぎて人間味ありすぎたからじゃないのかな。

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他に気になった絵。

蹄斎 北馬「三都美人図」

北斎の筆頭弟子。

三都(左から、住吉大社、清水寺、向島百花園)の女性のファッション比べが面白い。

住吉大社の女性の唇が緑なのは、当時関西で流行していた笹色紅(下唇に紅をたっぷり縫って青光りさせる)だとか。

中福の女性の謎な所業は、清水寺の舞台から、傘を落下傘に飛び降りているところ。当時は心願成就のために飛び降りる人があとを絶たなかったそう。

たいへんなところに申し訳ないけれど、霞む桜がとてもきれいに描けているなあと感心。

 

そして美しい男性シリーズへ。

下村観山「武人愛梅」1902

29才、初期の作。戦地のひと時、足元に散る梅の花びらがはかない感じ。義経だとしたら、行く末も暗示している?。

背景の余白と、墨の淡い梅に見とれた。

 

松岡 映丘「鞍馬山」1922(41才)

鞍馬時代の義経でしょうか。ジャニーズ系な、10代の男の子の魅力。月光を映したような、刀の青い光が冷たく美しい。

月と木々も好きなところ。

 

それから(おそらく)安倍晴明のお父さんとお母さんが!。歌舞伎としたら、どちらも美しい男性。

小川破笠「葛の葉」1737(75才)

 

ぴょんとした感じと、すすきもびっくりした感じが楽しい。

でもなぜこの女性は飛び上がっているのか?鼠はわなにかかったのか?気に入った絵だけれど、よくわからない。

「葛の葉」が狐とするなら、安倍晴明のお母さんということになる。狐が正体を現してしまいそうな場面かな?。歌舞伎に詳しい人ならどのようなシーンかわかるでしょうか。

俳諧師であり、二代目市川團十郎や芭蕉の弟子の其角と交流があったり、絵は英一蝶から学んだらしい。鮮やかでおかしみを込めた肉筆画にひかれた、75歳。

 

その葛の葉の夫となるのがこの男性そして二人の間に安倍晴明が生まれる。

保名」鏑木清方 1934(56才)

恋人の榊の死に心を病んだ保名が、形見の小袖を抱いて悲しみに暮れている。(葛の葉は、榊の妹。榊亡き後に、姉とそっくりな葛葉と恋仲になり、「葛の葉」のストーリーへと続く)

抱く小袖の可憐さが、亡き榊の面影のようで。そして小袖を観れば見るほど、今は亡いということが入り込んでくる。悲しみがしんしんと。そして美しい光景。

 

伊藤深水「仕舞熊野」1962(64才)

目線にはっとずる。深水の女性は、男性が描く美しい女性なんだけれども、シャープで芯が強い。男性が甘く手出しできない感じ。以前にホテルオークラで見たときもひかれたけれど、舞の一瞬の動きに、刹那的な緊張感。

着物の色や柄、模様を立体にした背景もきれいだった。

 

他にも、円山応挙「趙飛燕」、上村松園「藤娘」、月岡雪鼎「傀儡の図」など、豪華な展示。

初めて知る画家にも印象深い絵がいくつも。中でも菊池契月の弟子という梶原緋佐子(1896~1988)。

梶原緋佐子「白川女」1979(83才)

穂を肩にかけてなんだかかっこいい。黒い着物に、白い手ぬぐいや足袋。黒、白、女に二言はないくらいな潔さ。

地に足の着いたぶれのなさ。思わずこちらも、どんと足をつけ目をぱっちり、ちょっと力がこもる。

まっすぐ前を見る黒い瞳は、自然で強くもあり美しくもあり。

底辺に生きる女性も美人画も描くらしい。どちらも通してみてみたい。

 

別室では、「松岡清次郎が愛した画家たち」。

部屋の半分が猫の絵ルームに♪。一階でいつもお出迎えしてくれる「猫の給仕頭」といい、松岡氏は猫がお好きなのかな?。自ら団体展に通い、気に入ったものを購入したそう。有名でない画家でも心に響いた作品を連れ帰ったのでしょう。

林美枝子さんは3点だったか、どれにも黒猫が登場。中でも「気」1980(31才)。

からみつくような蔦も猫の視線の先も、なにかざわつく。「風立ちぬ」1981 も同じく、林美枝子さんの絵は、陽がさすのにかすかに影がしのんでいて、目に見えない気配が通り過ぎていく感じ。猫は察知しているんだけれど。

 

小笠原光「早春」1982 に再会できたのはとてもうれしかった。

今回は「作家の言葉」があった。勤務先の教頭先生の飼い猫だそう。なかなか懐かず、前の秋から通ってやっとそばに寄れるようになった。「縁側に彼女を出してもらって描いた。格別な操作を加えずただ見えるままに描いた。」「寒さのせいか猫は縁側の日向にじっとしていてくれた。」。読んで、ますますこの絵が好きになった。

そして、この絵に続編があったなんて。

小笠原光「爽秋」1984年

二年経って、三毛猫さんがちょっとぽちゃっとしたかな。

ほおずきが枯れた秋ごろなのか、やっぱり日差しが暖かい。屋根の波打つ感じ、規則的な格子の窓。斜めにラインの入る黒塀と、古い普通の民家って、縦に横に斜めにおもしろい構成なんだなあと気づく。

経年した木の質感に和んでしまって、観飽きない。

あまりに心地よくて、そこにいるような気になってしまい、木戸の奥の暗い室内がどうなっているのかもっと見たくて前に回り込んでのぞきこんで、あ絵だった(恥)となった。その後また、猫の前にしゃがもうとしてしまったり。大丈夫か私。


後期(3月22日~5月14日)は渡辺省亭も。回顧展に合わせた連携展示で、所蔵品から5点も。伊藤小坡と合わせ、待ち遠しいです。


帰りに白金台駅への途中で、タイカレー。

ちょっとDEEPな地下だけど、一度入ってみたかった、SOI7。

こちらのイエローカレーはとってもおいしい!。無言ですっと出してくれたタイ人ぽいおじさんのかすかな笑顔がいい感じ。

後期展に来た時も、また地下に吸い込まれそう。


●畠山記念館「新年の宴ートリ年を祝ってー」

2017-01-28 | Art

畠山記念館「新年の宴ートリ年を祝ってー」 前期:2017.1.14~3.20

 

東博の廊下に貼ってあったポスターのひよこに誘われて行ってきました。

 

今回も小上がりの畳に座してゆっくり。

 「竹鶏図」松花堂昭乗(天正10年1582年~寛永16年1639)(2月9日までの展示

ふっくらしたひよこが最高ー。じっとしてない感じの眼がかわいい。(写真はポスターから)

 

なにかの気配に目をやる親鳥のハッとした顔も、やっぱりかわいい。まったく気にしてないのんきなひなたち。

筆致の美しさにどんどんはまる。親鳥の長い尾が巧みというのか、とにかくうっとり。

笹の葉の濃淡と勢いにも、いつまでも観ていたい。アーチ状の岩の立体感も、これだけの簡略化された筆で描き出せる。水墨画ってすごい。

どこを見ても筆の巧みさに見とれるけれど、見ていてこんなにも心地よいのは、松乗の肩の力の抜けた感ゆえかも。


松花堂昭乗を知りませんでしたが、寛永きっての文化人という。・石清水八幡の社職 ・「寛永の三筆」といわれた書の名手 ・豊臣滅亡で徳川方に追われた狩野山楽を守った ・徳川秀次の子という噂があった ・松花堂弁当の起源を作った、といろいろな逸話が出てくる。

八幡市の松花堂公園・美術館の現在の展示には、より精悍な感じのにわとり。足跡がポイント♪。

 

他にも、洒脱で、見ていて安らぐ作品ばかり。

狩野探幽「唐子遊図」

正座して見たので、ちょうど私の目線がこの唐子たちの目線に重なる。そしてうえを見上げると、凧がふわんと山より高く上がっていて、空を見上げる心地よさ。

左幅の子は、青い鮮やかな鳥をとまらせていた。

元は一福であったのを、切断して二福にしたものだとか。

 

伝牧谿「蓮鷺図」

真筆かどうかわからないけれど、印象的な絵。枯れて折れた蓮の葉が水面につかり、そこへS字ラインで逆さまに一羽の白鷺が舞い降りてくる。薄いけれど、外隈でしっかりと白鷺を描き出し、かすかな柳のラインと共鳴していた。

 

絵ではほかに、森寛斎「梅鶴図」、狩野常信「金地白梅図屏風」が。常信は伯父の探幽から絵を学んだ。戻って先の「唐子遊図」と見比べると、探幽は小さい作品の細い線でもしっかりしているのに改めて気づく。常信のこの大きな金のまぶしい屏風は、もっとおおらか。気迫や実感というのではなく、まん丸い梅の花びらとぷっくりした大きめのつぼみは元気いっぱい楽しい。いっそ狩野派の流儀を外れて、好きに朴訥に描いた尚信の絵を観てみたいと思ったりする。


お道具類では、印籠(江戸時代17~19世紀)の二つがかわいいかった。一つは、群鶴図のようなデザインの印籠に、根付は小さな亀。小さな岩に4匹もの亀がとまる超絶ぶり。と思ったら、子亀がこっそりもう一匹。射貫かれました☆。印籠は「江戸男子の個性あふれる装身具。細かいデザインにご注目」と解説に。


お茶のお道具では、「織田有楽作 共筒茶杓 銘鶴古意」。真田丸では印象悪すぎの有楽斎どの。信長の弟。先日の禅展でも所蔵品が展示されていた文化人。


「伊勢物語かるた」17~18世紀江戸時代 は、田安家のもの。金地のかるたに、墨の仮名がとてもきれい。箱まで金と黒で美しく、ためいきもの。

「青貝梅月盆」明15世紀も、正方形の漆地のお盆。側面に施された螺鈿の花が、角度によりピンクや緑色にきらめいていた。夜の闇のような黒地の面は、逆さ三日月の淡い光で、梅がほのかに照らされている情景。漆と貝の、ミステリアスな域の美しさだった。

きれいな品々にうっとりして、心の洗濯になりました。



●「日本画の教科書ー京都編ー」2 山種美術館

2017-01-28 | Art

山種美術館「日本画の教科書ー京都編ー」2016.12.10~ 2017.2.5

 

(伊藤小坡、上村松篁、山口華陽は に。)

展覧会全体を通して、明治以降の京都の美術業界(?)のひとつの流れが俯瞰できました。

1880年に京都府画学校が設立(→京都市立絵画専門学校→京都市立芸大)。日本初の公立画学校となる。

東京美術学校(現東京芸大)が設立される1887年よりも前のことだったとは。

市民から声が上がって設立されたというのが興味深い。東京遷都により、発注主の宮家や大店も東京へ引っ越してしまう。危機的状況に対して、旧来の徒弟制度から脱し、早くも近代教育へ移行させようとする民間のフレキシブルさ。東(やまと絵、円山四条派)、西(洋画)、南(文人画南画)、北(狩野派)と、伝統の系統の中に東京美術学校よりも早く洋画が設けられているあたり、京都の伝統と革新の気質なのでしょうか。


そして竹内栖鳳(1864~1942)の影響の大きさ。

展示にも、松園、小野竹喬、土田麦僊、池田遥邨、西村五雲、橋本関雪、西山 翠嶂と、「栖鳳とその弟子たち」と名付けられそうなくらい弟子が勢ぞろい。

栖鳳は指導者としてもすぐれていたそう。栖鳳の主宰する竹杖会では、門人の自由を認め、その力が発揮できるようにしむけるという方針だったとか。確かに、上記の弟子の画風も様々。

弟子には自由だけれど、本人は絵に対して、娘婿でもある西山推奨いわく「峻険たる態度」。

展示室を入ってすぐの一枚は、あの有名な猫からでした。

竹内栖鳳(1864~1942)「斑猫」1924(大正13年)

沼津の八百屋さんの店先の猫に、徽宗皇帝の猫を見出すところが栖鳳もすごい。女将に交渉して連れ帰る。写真も展示してあり、そのミステリアスなこと。

徽宗の描いた猫も尋常じゃないけれど、この猫もアンタッチャブルな宝石のよう。こちらを見ているのだ。眼があう。吸い込まれそうな碧さ。

栖鳳にしたら細密な描きよう。ちょっと不自然な体勢なのに、背中のもふもふから、触った骨の感触まで手に感じられそうな気がしてくる。背中の模様も奥へ吸い込まれそうな深淵さ。

 

竹内栖鳳「城外風薫」1930

栖鳳の旅した中国風景。川端玉章「海の幸図」1892 は、南画に遠近が入ったような妙な感じ(ワーグマンと高橋由一に習った。)と思ったけれど、この絵は遠近ありつつも、変にならない。奥の淡い感じもいいなあ。

 

竹内栖鳳「晩鴉」1933 69才

今回の栖鳳で一番好きな絵。(山種美術館のtwitterに画像

にじんで広がる墨の美しさ。濃い墨の樹の背景には、細い線描の木々。カラスを何とか探し出すと、すみのほうにとても小さく。木漏れ日も水面に反射する光も、脳裏に印象が移りこんでくるようなとらえかた。つくづく栖鳳って力量があるんだなあと感嘆する。


栖鳳は西洋画の取り入れるべきところ、惑ってはならないところを冷静に見極めているよう。東京の多くの西洋画家、日本画家たちの試行錯誤と混乱とは一線を画す、ぶれなさ。

「日本は省筆を尚ぶが、十分に写生をしておかずに描くと、どうしても筆致が多くなる。写生を十分にしてあれば、いるものといらないものとの見分けがつくので、安心して不要な無駄を捨てることができる。」

「写生が天然自然から画家自身で絵になるものを探す手段なら、古画は、先達がどんなに自然を見たかの心のあとを偲ぶ材料(略)」

 

 竹内栖鳳「憩える車」1938 74才

古びた水車の木肌。ふわりとした萱の屋根。丸くなるゴイサギの体温。どれも触った感じがやさしい。

栖鳳が見たこの情景から、いらないものを捨て、いるものとして栖鳳が残したものは。そう思って観ると、小さな黄色い花と蔓にも大事な役割がある。ないと全然違う印象になってしまうし、ゴイサギの醸す雰囲気が違ってしまう。

 

弟子の西村五雲の「松鶴」1933 を栖鳳に続いて見ると、筆致が栖鳳に似ているのに、なんだか外観のなかに、骨や肉が入ってる感じがしない。栖鳳は、あんなに荒く限られた筆致で描いているのに、既蝕感?というか中の骨格や体温まで感じるのだと改めて実感。不思議というか、恐るべしというか。

と素人のたわごとを言いましたが、五雲の「白熊」1907を見ると、五雲の目指した世界があるのだと思う。毛皮の中の中身とかの問題とは別のところに。

アシカもがぶっと噛みついて必死の抵抗をみせていた。

 

西山 翠嶂(1879~1958)「狗子」1957 は中身が入ってる感じ。どこが違うんだろう?。技術的なことがわからないのだけれど、子犬のこりこりした骨とお肉の触感がたのしい。雑種な感じが良くて、特にくろ犬がかわいい。

 

松園も確か栖鳳の画塾でのことに触れていた。

上村松園(1875~1949)「牡丹雪」1944(これだけ写真可。)

大きくとられた雪空が、しんしんと深く。それで雪にちょっと困っている女性がよけいに美しい感じ。

と思うと、目線の強さに驚く。

   

冷静で意思のある眼差し。いつもの清らかなまなざしとはまた違う。真理をついたような、きっぱりとした。これはどうしたことでしょう。

せっかくなので、細部を撮ってみました。どこを見ても丁寧できれいな線、松園の仕事ぶり。

ぼたん雪は、濃くねった胡粉で、こんなふうに。

 

砧」1938 蝋燭の流れる炎に流れる思い、かすかにあいた唇からあふれる寸前の思いが。息をつめてみてしまった。

 

もう一点は、ほたるの絵。

こちらは清らかなまなざし。日常の風景。

一瞬一瞬が、こんなに美しい景気になる可能性を秘めているんだなと思うと、いつもの日常でもなんだか元気がでる。

 松園は、「その絵を観ていると、邪念の起こらないまでも、よこしまな心を持っている人でもその絵に感化されて邪念が鎮められる、といった絵こそ私の願うところ」と。

 

土田麦僊も栖鳳に弟子入りしたあと絵画専門学校へ

「香魚」この絵楽しいなあ。

 

池田遥邨(1895~1988)の風景も心に残った。洋画から日本画へ進んだという。「草原」1976は、地平線が見えそうな草原は洋画のような構成かも。でも日本画の絵の具がとてもあっているように、素人ながら思ったり。風のなかを牛が駆ける。降りてきた黒雲の動きが好きなところ。

 

徳岡神泉(1896~1972)も竹杖会で学んだひとり。

「緋鯉」1966

直近で見たのが近代美術館の「狂女」だったので、うわっと怖いのをおもいだしたけれども。それから50年と思うと感慨深く。鯉にも水にも、その奥にしんと、いろいろな気持ちになる。

 

弟子ではないけれど、京都絵画専門学校の教授の宇田荻邨(1896~1980)「五月雨」1967も。黒牛の眼がかわいい。稲田でしろかきのおじいさん。雨が降って、新緑が美しい。乾燥気味な毎日のせいか、こういう瑞々しい風景が新鮮に思える。

 

同じく教授の今尾景年(1845~1924)松月桜花」も美しい夜の時間(山種美術館のtwitterに画像が。)筆のかすれと濃淡で描き出された、松の幹のごつごつした触感。跳ねるような松の葉。桜の花びらは限定された色で繊細だった。こんなに美しい月夜だけれど、抒情に流され過ぎない少しストイックな感じに魅かれた。

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今尾景年も含め、この展覧会、昨年の日本橋高島屋での「高島屋と美術」展と重なる顔ぶれ。あの折にひかれた画家に再会できたのもうれしい。

栖鳳とともに海外向けの大きなビロード友禅のタペストリーの下絵を描いた二人にも。

都路華香(1870~1931)の「萬相亭」1921

木々にも岩の合間にも新緑が美しくて、朝鮮半島の服の白色が印象的。村人たちがくつろぎ、談笑し、ものを運んだり。南画風な風景で、ほのあたたかい空気がながれる。いい季節だな~としばし和んだ。たくさんは見たことがないけれど、このひとの絵はどこか温かみがあるのかな。

「円山四条派に、禅の要素と南画の筆致を加えた異色の画家」と。

 

山元春挙1871~1933「火口の水」

やはりの山男ぶり。登山をし、撮った写真や写生をもとに描いた山岳風景。「四条円山派の技術、洋画の遠近、写真のリアリズム」と。遠近すごいけれど、ベースは山水画のようで、違和感なく心地よい。

岩肌の上手さやそこここに咲く白い花がなど、細部にも見とれた。小さく動物や人を入れるのが春挙の常道らしいけれど、鹿がしっかり描かれていてかわいくて、山紫水明な湖で水を飲んでいる。鹿の位置に腰を落として見上げると、山の雄大さがかぶさるよう。白い月を照らしだす雲間の光のなか、胸がすくような世界に遊べた。

 

華香の弟子、富田渓仙「嵐山の春」1919 は今回も自由で豪快な屏風。(高島屋展に見たのは猫の顔パンツはいてる風神雷神でしたからね。)

右隻は、豪快に始まっていた。いかだで急流を下る。新緑の芽生え始めるころに、わっと覆いかぶさるような深い山並み。左隻になると、下流に降りてきた流れは穏やかになり、山桜がけぶるように彩る。ざっくり描かれたカラスがかわいい。桜の花びらが舞っていて、心もほっこり。

渓仙は、嵐山の対岸に家と画室を設けて、毎日この景色を見ていた。どれだけあなたがここの景色が好きか、伝わりましたよ。会ってみたかった。


福田平八郎も6点。大正期の「桃と女」「牡丹」から、40代後半以降の昭和モダンな画風のへ変化も興味深いところだったけれど、このへんで。

時代が変わり顧客が変わり、西洋画の技法を取り込みつつも、日本的な美意識というか感性というか、逆に研ぎ澄まされていように思えた京都画壇でした。

 


●「日本画の教科書ー京都編ー」1 山種美術館

2017-01-27 | Art

山種美術館「日本画の教科書ー京都編ー」 2016.12.10~ 2017.2.5


明治以降の京都画壇で活躍した約30人。なかでも心に残ったのが、伊藤小坡「虫売り」、上村松篁「千鳥」、山口華陽「木精」。

伊藤小坡(1877~1968)「虫売り」1932

虫かごの並んだ小さな移動式店舗の前にいる虫売りの女性。手ぬぐいで顔が隠れているけれど、赤い唇だけがのぞく。その美しさと気品と色気に、どきり。

おわら風の盆を思い出したり。(写真はこちらから)

 

絵に戻ると、柳の少し丸まった葉の息遣いが、かわいらしくもなまめかしく。市松の青い屋根、黒い着物に桔梗の花、各色が効いていて小物にも気を抜かない。

一見子供が遊ぶほほえましい絵に、実は美しさや色気を隠す伊藤小坡。数日後に畠山美術館でも一枚出会ったので、あとはそちらの日記に書きました。

 

上村松篁(1902~2001)「千鳥」1976 この絵以来上村松篁に開眼。

小さいもの、強くはないものに向ける松篁の眼差しがやさしいです。

月見草がやさしい。二羽の千鳥がかわいい。

二羽は楽しい気持ちでいるんでしょう。大きさも二羽は違う。微妙に違う方向を見つつも、一緒に歩くのが楽しい。

母、松園は見る者の邪心すら消えさせる清らかな美人を描いたけれど、松篁の鳥は、邪心にも傷心にも普通の時も、心の固まったところをほろほろと溶かしてしまう感じ。

「小さな生き物が好き。ハトなど鳥を見ていると何時間でも飽きることがなかった。尾や顔も見分けられた。好きなものを描いて、今に至った。その間伝統とゆれたことも(要約)」と。

 

上村松篁「白孔雀」1973

白い孔雀が幻想的で。真っ白で、少しだけ黄、緑、ほんの少し赤も。鳥の目線は気高い感じ。そして黄色いハイビスカスの様子が好きなところ。

ハイビスカスも先ほどの絵の月見草も、鳥を見ている。月見草は千鳥と一緒に遊びたそうだし、ハイビスカスは白孔雀をみて「なんてきれいなんだろうね」と話し合っている。鳥も花も、松篁のお友達なんだと思う。鳥を見る花の目線が、松篁自身なのかも。

 

松篁は石崎光瑤「燦雨」(◎大正8年 ◎六曲一双屏風)に感銘を受けて、熱帯へ旅立ち、この絵を描いた。70才を超えてのインドとハワイ。そんなおばあちゃんになろうと思う。

その崎光瑤(1884~1947)「燦雨」(画像はこちら。左隻)

 

石崎光瑤も竹内栖鳳に学んだ。大正5~6年にインドを旅し、この屏風絵で認められた。故郷、南砺市の福光美術館で常設展示があるようなので、そのうちプチトリップに出なくては。

 

山口 華楊(1899~1984)「木精」1974 息づく精気。なんていいんだろう。

北野天満のケヤキだそう。このミミズクはかつて飼っていた。木の写生をしていたら何かの拍子に亡きミミズクが立ち現れて木の根にとまった、と。

からむ木の根は、確かに木の精を感じる。先端まで意志を持ち、呼吸している。その精が体をつつんでくるような感覚。それがなんだか安心感。

ミミズクが振り返ってくれるからか、とってもかわいい。現実のミミズクではないように淡い光の中にいる。久しぶりに会えたね、と華楊は喜んでいる。ここにいたのかい。と。

 

山口 華楊「生」1973

生まれたばかりの但馬牛。戦前の写生から36年もたって、その感動が消えることなくこの絵を描いた。覚えている華陽がすごい。

栖鳳の動物は骨や肉付きとともに体温まで感じるけれど、華楊は奥の奥にほんのりともる精というか生というか。動物だけでなく、高島屋で見たケシの花も心に残る絵だった。また回顧展がないかな。

 

京都画壇は、東京美術学校を中心として日本美術はどうあるべきかと政治も絡んで試行錯誤していた東京とは、何か違う。続きは2に。


●「火焔型土器のデザインと機能 」 國學院大學博物館

2017-01-25 | Art

國學院大學博物館「火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016」

平成28年12月10日(土)~平成29年2月5日(日)

平成28年度 特別展「火焔型土器のデザインと機能 Jomonesque Japan 2016」

 

 

5000年前の縄文遺跡から出土した火焔式土器。信濃川流域とその周辺、新潟、山形、富山、長野、群馬、福島あたりまでに分布する。

先着順でいただけるという図録はもう品切れだったけれど、写真可なのがありがたい。

火焔式土器が造られていたのは、300年ほどの期間だという。長いのだろうか、歴史の流れの中ではほんの短い間なんだろうか。

それでも何人も何世代も、様式を踏襲して、せっせとこの器を作り続けていたひとたち。

火焔式土器が並ぶ会場は落とした照明のせいもあって、幻想的なほど。

国宝の火焔式土器(新潟県十日町町 笹山遺跡 縄文時代中期5000年前) 器ひとつの放つ力が強い。

 

国宝以外の火焔式土器も陳列されている。国宝に劣らない迫真の造形。

新潟県長岡市 馬高遺跡出土 縄文時代中期5000年前


彼らが火焔を意図して造ったのかわからないけれど、形が沸き立っている。うずまくエネルギー。すごい。

用途はまだ判明していないようなので、素人考えで妄想してしまう。

自然や気象のなかから抽出した形なんだろうか。またはそこから感じ取ったパワーを形に落としたか。

これが火なら、烈火。水なら、激流が渦まき、水しぶきが跳ね立ち。鶏なら、雄たけびを上げ。風なら猛風がたけり、上昇気流がとぐろを巻き上げ。

それとも、形態変化への畏怖の念かも。水を火にかけたら、沸き立ち踊る。火も踊る。そこに神をみた、とか。


実際に焦げ跡がついていて、食べものを煮炊きしていたらしい。 普段使いかもしれないし、祭礼用のとくべつなお供えものを煮ていたのかもしれない。捕った動物に神が宿ると考えてお祀りしてからいただく文化もあるし、丁重に扱ったのかも。
これで煮たものは、ものすごいパワーを炊き込めたお料理になったでしょう。信濃川を遡上してきた鮭なら、ものすごい鮭汁になりそう。

 

火焔式土器と対をなす「王冠型土器」も、各遺跡で出土している。それぞれ用途があるらしい。

火焔型も王冠型も4つせりあがった部分がある。いろいろやってみて、4つが一番おさまりがよかったのかな。

王冠型が上をならしているのはなぜかはわからないけれど、その分、側面に貼られた線の力の美しく、強いこと。

 

優美な感じのもあるのが印象的。新潟県津南町 堂尻手遺跡出土

ドレスのドレープのように美しい。少し山梨長野の水煙文土器のような丸みだけれど、関連はあるのかな?波と舟のようにも。

 

同じく堂尻手遺跡出土の火焔型土器

いやもう繊細に美しい。

王冠型も火焔型も、堂尻手の作り手さんは、洗練された感性と細やかな仕事ぶり。

 

一定のパターンを守りつつも、作り手の個性か時代の流れか、すこしずつ違いがあるのがおもしろい。土器の初期のものはさほど突起が強調されていなかったけれど、年代が進むにつれて際立ってゆく。洗練していくのだろうか。

 

形のもつパワー。作るものにも神秘なものを取り込もうとしたり、人力を増すような力を生む形をつくったり。それがものをつくる意義だったのかな。文字も科学の解釈もない時代、世界は不思議で人力のおよばない大きなことにとりまかれていたでしょう。

 

4つの独特な突起でなく、三角板がついているものも。 

三角型土版付土器 十日市町笹山遺跡

突起がなくとも、のこぎり歯形と、うねうねくるっとしたラインは欠かせないらしい。大事な文様であり、好きな文様であり。

三角板は、お守りではと考えられているとのこと。三角はなにか神秘の力をもつのかな。

 

ハート形の顔がいくつかある。土器にもハート形を張り付けた部分があるので、ハートのかたちっていうのも、なにか意味があるのでしょうか。

母や子やだれかの顔に似せたのかも?

 

びっくりぽん

 

小顔で首が長く都会的なかんじ。縄文人のイメージと違って、あごが細い。逆三角形が美人の条件だったのか、尊い存在だったのかな?

顔の線はなにか意味のあるボディペインティングなのかな。かつて北方民族が大事な意味のあるものとして入れ墨を施していたのを思い出した。

土偶の幾何学的な線も、人体にも施した入れ墨なのかな?。そういえば明治の沖縄の女性の入れ墨を施した手の写真をどこかで見たな。

 

人間の造形への原点というか欲求を、見た気がした。なにかから感じとったパワーやイメージや心象を、自分の手で形を持つものに作り出す行為。表現することに愉悦感や充福感に満たされていたのかもしれない人々。

なにを大事にして、どんな精神世界で生きていたのか、聞いてみたいもの。先日のワンロード展でアボリジニの世界観に打たれたように、驚くべき世界観が日本海周辺の土地に展開していたのかもしれない。

 

そして常設、また会えたね。

挙手人面土器 長野市片山遺跡出土 4世紀

今回はちょっと邪悪そうなヤツに写ってしまった。前に来たときは癒し系の顔に写ったのだけど。


オペラ歌手ふうに写る時もある~


 

 

 


●戦国時代展 江戸東京博物館

2017-01-13 | Art

戦国時代展 江戸東京博物館 2016.11.23~2017.1.29

岩佐又兵衛展に行こうと家を出たのだけど、いやまて先に又兵衛の生まれた戦国の世を少し感じてみようかと、行き先変更。

数年ぶりの江戸東京博物館。

こんなの前からいたかな。亀にのりのりの徳川家康。

 

混まないうちに、お目当て1の狩野元信(1476~1459)「四季花鳥図屏風」1546(天文18年)(白鶴美術館)に直行。

金もたっぷり、極彩色の赤や緑や青。たくさんの種類の花。鳥は57羽もいるらしい。これは発注主も文句なしでしょう。

二羽でぐるり楕円を描くような孔雀。雌の地面にがしっと立った足つきが印象的だった。戦国の女性もこんなふうに芯が強かったのかも。視線の先の雄孔雀は、極彩色。尾の上向きラインがリズミカル。他にもオナガドリや飛びまわる小鳥たちといい、そこここにリズムと動きが発生していて、元気な屏風。

牡丹の鮮烈な赤に驚いているうちに、季節は夏へ。渓流の青が美しかった。青竹の根元に、タケノコがかわいい感じで育っていた。そこに顔を突き合わせた鶉が二羽。この一角はほのぼのしていて、お気に入り。

水流に入れた線と言い、鳥の羽の筋や羽毛の細い線まで緻密に描き込む、元信の仕事ぶり。


左隻は、色づき始めた紅葉にに始まり、これまた鮮烈な色をまとった雉。

そして冬へ。白梅はまだ蕾のほうが多く、ちょうど今の季節くらい。滝の水は白く凍るよう。ぬれるように真っ赤な冬の椿と、葉の肉厚感に見惚れてしまった。

細部は緻密に、全体は豪胆で、動きに満ちた屏風だった。

以前、出光で見た75歳の「西湖図」も、広大な構図と、細部がとても細やかな水墨に見惚れたけれど、今回は彩色の鮮やかさにも感嘆。

父正信から教え込まれた水墨に、土佐光信の娘と結婚してやまと絵風も融合させる。大胆で豪壮なやまと絵となり、孫の永徳の豪華絢爛な桃山絵画へ結実する。出光の水墨と、この極彩色の屏風と、元信の中の二つの合流過程を見られたのかも。

 

最初に戻って順に見ました。

序章:時代の転換

享徳の乱(1454)、応仁の乱(1467~1477)あたりから、信長が将軍足利義昭を追放し安土桃山時代が幕開けるまで、100年続く戦国の世。

太田道灌が戦場から送った手紙(ここのみ写真可)には「どのようにしてもこの状況を鎮めます」。先ほどの花鳥図で雅びな気持ちになっていたたけど、時代は戦国。武将たちの生死をかけたリアル。

 

「信行寺大悲尊像縁起絵巻」1838は、応仁の乱で炎上する寺から僧が本尊を救い出し、階段を駆け下りるシーン。布につつまれて僧に抱えられた仏像が、矢を噴射して、兵士から己と僧を守っていた。猛火の赤さ、追いかけるように飛んでくる火のかたまり。す、すごい縁起。

戦国の洗礼を受けたところで、一章へ。

 

第一章:合戦ー静寂と喧騒ー

戦さの実感を伝える品々が展示されていました。

国宝「上杉家文書 関東幕注文」は、謙信が出兵した時に、参集した領主の名簿。

国宝の上杉家文書が集まっているのは、見ものだった。鎌倉から江戸時代のものまで、表装しなおしたりせず当時の状態のまま。平成元年に米沢市に寄託するまで、上杉家は散逸させず守ってきたのは、素晴らしいことだと思う。

 

長野の真田宝物館から、真田家ゆかりの品々が来ていたのは、真田丸ロスのところにうれしかった。

「無綾地の旗」は、真田の象徴の六文銭が染め抜かれている。たてよこ2mくらいの大きなもの。昌幸パパの父、幸綱のものとか。

「地黄八幡旗指物」の旗は、真田が北条からgetした戦利品。シミや痛みもほぼなく、大事に保管しておいたのでしょう。

「法螺貝」は、戦地で使われたであろう目の前の実物に、動揺に近い感動。あの音が耳に響く感じ。昌幸が信玄から拝領し、信之に伝来したもの。江戸の太平の時代にはもう使われることなく、大泉洋は子々孫々に伝えたのね。六角形を形作る緒鎖がきれいだった。

 

「岩櫃古城図」1843(天保14年)は、飛び出す絵本のような仕掛け。険しい山が切り立っていた。昌幸パパの拠点。複雑な奇岩で、信仰の山なのだそう。8代目が古文書をもとに考証して作成したもの。子孫の方にとって、ご先祖様の中でも、昌幸・幸村は偉大なのだろうな。

 

「川中島合戦図屏風」は、後期展示は福井勝山城博物館のもの。前期の米沢本の川中島合戦絵巻物が見れなかったのは残念だけれど、謙信の顔や画風はよく似ていた。

血で血を洗う合戦の場面だけれど、この名戦?を俯瞰すると、川の青と、山並みの緑と、金で美しくさえある。

細部を観ると、川に入って水しぶきをあげながら切りあっていたり、あるものは深みに足をとられそうに両手を挙げて川を進んでいたり。

右隻には、白ハチマキの謙信が川に入り、馬上から刀を振り下ろしていた。(坊主頭に白ハチマキを巻いた姿の謙信は、上杉系の発注によるもの。頭巾をかぶった謙信像で描かれているものは、武田系のものなのだとか。)

陣中では、鉄砲や刀を構えて配置についており、緊迫感が。謙信は陣中にどかっと座っていた。

上がった旗印、どの武将のものか詳しい方はわかるのでしょう。歴女?というらしい女の子グループがけっこういて、あ、〇〇がいる~とか詳しくて尊敬してしまう。

 

第二章:郡雄ー駆け抜けた人々ー

武将たちの絵姿の掛け軸が展示されていましたが、3点あった下絵のほうが印象に残った。絵師が実際に会ったときの実感とともに、人物の特徴をつかんでいる。

「足利義晴像紙形」は、土佐光茂画。小さな紙片ですが、わりに写実的。信長に似たおでこと細面。隣に展示されてある息子義輝とは、あまり似ていない。光茂は土佐光信の子なので、狩野元信と義兄弟ということなるのね。

「足利義輝像紙形」永禄10年1567年は、土佐光吉画。光茂の子か弟子らしい。将軍義輝(1536~65)が殺されたのが、29歳という若さだったとは。がっしりした顔立ちに、多くのあばた。額や眉間のしわが刻まれて、20代には見えない。将軍権力の復活を目指した力量と苦悩が同居しているような肖像。

「武田信玄象」は、信玄の実弟が描いたものの写し。眼光も強い信玄像図も展示されていたけれど、弟が描いたこちらのほうが面白い。戦地の臨場感があった。投げ出し気味に開いた足。肩はまだ上がったまま。足元に法螺貝がそのまま置かれていた。たれ眉で、丸顔のおじさん。これが実物に近い顔なのでしょう。

 

「緋羅紗陣羽織」は上杉神社から。深紅のラシャ地に、紺色の縁どり。見えないけれど内側は黄色の緞子だそう。財力とセンスの良さを誇示し、広告効果もばっちり。

戦地で美しくあることは大事なことなのでしょうね。

「黒塗紺糸織具足」1536も、鳥の羽が目立つ。(知らないけど)佐竹義重のもの。

兜の前立てのモチーフが毛虫とは(ひいい)。前にしか進めない=後退しない、葉を食べる=刀を食べる、で縁がいいのだとか。

 

刀のコーナーは、行列だったのでスルー。

こちらの章にも上杉家文書が数点。

謙信の祖父がもめ事を調停する書状、「内々に処理しようと思っていたけれど、あちらが・・」と、老練さがうかがえる。

信長から、謙信の家臣への書状、「謙信へ(呼び捨てかい)年頭のあいさつを申し上げようと佐々長明を派遣したからよろしく」と短く用件のみ。ざっと手早く詰まった文字だった。信長の肉筆。戦国とはいえ、どれ程の武人や僧、岩佐又兵衛の母や兄弟を含む女子供を死にいたらしめた手かと思うと、ちょっと怖い。

 

第三章:権威ー至宝への憧れー

足利将軍家のコレクションは、あこがれの存在であったとか。「戦国の世でも、京で生み出された秩序や文化は列島を一つに結んでいた」と。美術品も、戦国時代に大きな役割を果たした。そういえば畠山美術館の国宝の牧谿も、足利義満、松永弾正、信長、家康と渡っていた。

元信の四季花鳥図はこの章に展示されていた。狩野派が権力者の下で絵師集団としての地位を築いたのも、展示と政治的な贈答にふさわしい大きさと豪華さが権力者に愛されたのでしょうか。

豪華なだけでなく、シブいのや内省的なのも人気な戦国。

李迪 国宝「雪中帰牧図」南宋 12世紀 はお目当て2。李迪は先日の東博の国宝「紅白芙蓉図」に重ね、貴重な出会い。足利義尚が後藤祐乗に下賜した。

東山供物の中でも当時から至宝だったのでしょう。表装も、高価な渡来裂を取り合わせた「東山表装」だとか。

そんなことはわれ関せず、牛がなんてかわいい♪。墨の濃淡の牛のしまった肉づきがなんともいい感じ。

左側は、農夫も牛ものんびり感。右側は、牛なりに急いでいる。木は、幹にも枝ぶりにも立体感が少しあって、応挙の雪松図を思い出す。


土佐光信の北野天神縁起絵巻が前期展示だったのは悔しいけれど、「松崎天神縁起絵巻 室町本」があった。

大内義興が作らせた鎌倉本を、16世紀に写した室町本。道真の「天神縁起絵巻」に、松崎天神(防府天満宮)の創建由来が加えられたものとか。斜め上からのシャープな建物に、細やかな梅や人物のきれいな絵だった。

屋根がはがれ、壁も竹芯がむき出しになった侘し気な屋敷。梅の咲く頃に、公家と話す稚児。(防府天満宮のこちらに絵巻とストーリー。)貧しい学者の菅原是善のところに、どこからか稚児が現れ、両親がいないのでお父さんになって下され、と。大切にお育てしたその子が、道真。道真の出生秘話を初めて知った。

 

第4章:列島ー往来する人とものー

これは当時の交易や経済に焦点を当てた、個人的に興味深い章。

戦国時代が、今につながる村や町が成立した初めの時代なのだそう。村人、町民、商人が活躍し、熊野や伊勢詣で、西国巡礼と、人の往来も活発になった、と。東南アジア、明、朝鮮、北方のアイヌ民族との交易について紹介されており、面白い。学芸員さんの思い入れが伝わる気がした。

戦国武将が戦いに明け暮れ、幕府の権力が弱まったそのわきで、商人や職人は着々と力をつけていたのでしょう。商人や町人の財力が蓄えられてきたのを感じる展示物の数々。

「寺町大雲院跡出土 一括出土銭」は、染色屋の住む地域で出土した、備前の大きな壺にみっちり詰まったお金。現在の数百万円だとか。戦乱のなかで床下に埋めておいたのかな。

「清水寺勧進帳」「清水寺再興奉加帳」は、応仁の乱で焼失した清水寺再建のための寄付を呼び掛ける文章と、寄付をした人リスト。


力を入れて展示してあるのかなと思ったのは、アイヌに関する展示物。

「新羅記録」は、初代松前藩主の6男景広がまとめたもの。

コシャマインとの戦い(1457年)を記録した部分が展示されていた。中世以降、和人が北海道に移住しはじめ、いくつか和人の拠点となる館が築かれ、アイヌ民族との衝突が増えていく時局。読み取れた範囲では、「花澤の館主の蠣崎(蠣崎波響の先祖かな)・・堅固に城を守り・・」「酋長 胡奢魔犬(コシャマイン。敵だとこういう漢字を当てるのか‥)父子二人を斬り・・」。

 

「上ノ国勝山館跡出土遺跡」は、15~16世紀の北海道の遺構から出土した品々。上ノ国勝山館は、コシャマインとの戦い(1457年)に勝った武田信広の本拠地。和人とアイヌのボーダー。白磁や備前の食器類と交じって、アイヌの骨角器のへらなどありました。

 

「庭訓往来」1583(天正11年)には、14世紀の各地の名産品がつらつらと書かれていた。読み取れた範囲では、「宇賀(函館のあたり)昆布、鮭」「松前鰯」「出雲鍬」「甲斐駒」など、なるほど聞いたことあるようなものばかり。

北方ばかりでなく、この時代の南方からの交易品もある。

琉球、奄美経由でもたらされた華南三彩陶器は鴨型の水差しがかわいい。

李氏朝鮮が作成した「海東諸国記」は、地名まで詳細に記載された日本地図。沖縄なら国頭城、琉球国都。津軽や陸奥の地図も。

 

戦国武将が争いつつも、人の移動を生み、商人が力をつけ、物が廻り、美術品も新たに生まれ。そういえば、アユタヤやルソンの日本人町もこの時代に活況を呈していた。雪村や雪舟のアートもこの時代。安心安全もないけれど、ある意味自由な時代ではある。生命の保証もないのに草刈正雄パパは、「大ばくちの始まりじゃあ」と叫んでいた。

 

第五章は「新たなる秩序」。

徳川家光が夢で見た家康を狩野探幽に描かせた、「東照大権現像」がどんとにらみを利かせていた。

統制と引き換えに、平和の世にうつっていくんだなというところで、戦国時代展の出口だった。

戦国時代展の、第二弾があるとしたら、戦国時代と庶民、芸能などが気になるところです。

 

1階カフェでお茶。どら焼きがほかほかでした^^。

 

 


●市原湖畔美術館

2017-01-09 | Art

冬の午後に、ワンロード展(前の日記)に訪れた市原湖畔美術館。

湖は、つりやボート遊びの家族連れなどで楽し気な雰囲気。ビニールハウスのつりハウス?って暖かそう。

 

こちらのカフェのピザは絶品でした。

店内はいっぱいだったので、のんびりテラス席で。

千葉なのでここは「落花生といのししソーセージのピザ」にしました。イノシシも生地も激うまっ。

さらに地元産のチーズが、たいへんにフレッシュで、激うまっ!Mサイズくらいで1900円と、なかなかなお値段ですが、大満足。

コーヒーにおやつも忘れない。

ほっこり朴とつに、おいしい♪

市原の地産イタリアン、素晴らしいです!


●ワンロード展 市川湖畔美術館

2017-01-09 | Art

市原湖畔美術館 ワンロード展 2016 .10.1~1.9

(HP序文)1,850キロの砂漠の一本道(ワンロード)を、アボリジニ・アーティストたちは旅した。
失われた歴史と誇りを取り戻すために―

オーストラリア西部の砂漠地帯を縦断する一本道(ワンロード)、キャニング牛追い(ストック)ルート。今から100年以上前、ヨーロッパから来た入植者が北部の牧草地から南部の食肉市場へと牛を移動させるために切り拓いたこの道で、先住民アボリジニは初めて「白人」と遭遇し、その生活を激変させることになります。

「ワンロード」展は、かつてそこに住んでいたアボリジニとその子孫であるアーティスト60名が、2007年に1850キロの道を5週間にわたって旅をし、「白人」の側からしか語られて来なかったキャニング牛追いルートの歴史をアボリジニ自らがたどり直す過程で描いていった絵画を中心に、映像、写真、オブジェ、言葉によって構成される、アートと人類学を架橋する稀有でダイナミックなプロジェクトの記録です。

多文化・多民族国家オーストラリアが国家プロジェクトとして実現し、本国で22万人を動員し大きな成功をおさめた本展が、大阪・国立民族学博物館を皮切りに日本全国を巡回します。

 **

アボリジニ(呼び方はどう呼ぶのがいいかわからないのですが、ひとまずHPにあわせます)のアートに出会ったのは2008年の「エミリー・ウングワレー展」(ウィキペディアに)。

私の人生を変えた展覧会3つのうちのひとつ。と言ってもいいくらい、飲み込まれた。

  

エミリ・ウングワレーの絵は、人に見せる、評価されるという意識から完全に超越していた。彼女の描くものは自分であり、自分を取り巻く世界であり、完璧に一体化している。絵に一体化しているのではなく、彼女の世界(大地とか神話とか?)と一体化しているというのか。彼女そのもの。その世界は、なんの制御もなく計算もなく、そのまま彼女の腕をとおして絵筆に伝わり、カンバスに表出し。

それでも、どうしてこんなに自分が心打たれているのか、その感動の正体がつかめず、もう8年。

わかることがあるかもと、海ほたるを渡って市原へ行ってきました。

わかったことは、

アボリジニの世界がすごい。彼らがすごい。ものすごくすごい。彼らが描いているものもすごい。

彼らがいったいどのような世界を生きているのか。すべてをわかりようもないけれど、大きくて驚くべき世界だってことはわかる。

うまく言えないけれど、感じ取れたのは、太古と現在が切り離されるものでなく、一体である。神話の世界も、自分の体と別のものでなく、きり離されるものでなく、一体である。自分がその一部である。大地も動物も環境も、自分と別のものでなく、一体であり、アイデンティティである。根源的なものの、自分は一部なのである。

エミリ・ウングワレー展でよくわからなかった「ドリーミング」の世界観も、少し把握できた。「ドリーミング」「ソングライン」という概念は、彼らの世界の根源的なこと。

「ドリーミング」は、現地の言葉ではジュクルパという。神話の創造の時代のこと。この時代に、祖先である精霊たちは歌い、旅をし(日本の神々のように人間臭く、争ったりもする)、その旅の道中で、大地を形つくり、動物や植物をつくり、儀礼やしきたりを定めた。この時代のこと、その旅の物語全体、そこで語られる場所(現存する)、登場するものすべてを含めて、「ドリーミング」であるようだ。地域集団ごとに、精霊たちはたくさんいる。人によっては、あるドリーミングをもって生まれるらしい。そういえば、エミリ・ウングワレーはヤムイモとエミューのドリーミングの継承者だった。

その精霊たちが旅した道筋は、歌にして子孫へと伝えられる。それが「ソングライン」。実際にある具体的な場所を示し、だから彼らは、水の場所や、危険な場所がどこかも知ることができる。

エミリ・ウングワレーの絵にわけもわからずとも圧倒されたのも、こういう世界がそこにあったからだった。この大きくて根源的な世界が、なんのかい離もなく、そのままエミリ・ウングワレーであり、エミリの絵であり。

 


前置きが長くなったけど、今回の展覧会。

エミリはほとんど言葉で語っていなかったけれど、今回この展覧会の画家たちは、自分たちの世界を、絵だけでなく言葉でも伝えていた。

見る側でなく、製作者の彼らにとってこそ、このワークショップと展覧会は意味を持つもの。一つの歴史は、別の側からしたら、全く別の歴史なのだ。

 

Part1:キャニング牛追いルートプロジェクトの背景(「」は図録から引用)。

1788年にオーストラリアにイギリス人が入植して以降も、砂漠である西部には来ることがなく、20世紀に入ってもここのアボリジニの人々は狩猟をしながら、ソングラインに定められた道を移動して暮らしていた。この展覧会の画家たちも、子供の頃や若いころにそうやって暮らしていた人々。

西部に白人が入植したのは1906年。キャニングという白人探検家が測量を行い、砂漠に2000キロに及ぶ牛の移動のための道が通された。解説にアボリジニの「生活を激変させることになります」という抑えた表現にとどめられているその歴史は、文化や生活の急激な破壊に他ならない(こちらなどに)。本格的に牛追いの往来が増えた1930年代から、先住の人々は、砂漠を離れ始めた。白人の経営する牧場で働くようになったり、同化政策、stolen generaitions、キリスト教のミッションに移ったり。(牛追いルートは、輸送手段の変化により1959年に廃止される)

2006年にFORMという非営利団体の呼びかけたワークショップに参加し、自分の「カントリー」に戻ってきた。キャンプをし、作品を作り、共同制作し、年長者から話を聞き、歌や踊りを習い。(画像は図録から)

 

この展覧会の解説は少ない。ワークショップのもう少しの詳細(オーストラリア国立博物館のHpにほかの絵やキャンプの説明等あります)や、歴史の概略もない。

それらのかわりに、彼ら自身の出会った出来事や、見ているものを伝えており、それでこんなに心に残っているのかもしれない。 

 

参加者から聞き取ったソングラインを記した地図があった。

色のついた線がソングライン、精霊たちの道であり、何千年も前から続くアボリジニの移動する道であり。(画像は全て図録)。測量図部分は、牛追いルート。ソングラインを分断して開通していた。

 

ブーカーリー・ミリー・ケリー「ブンタワリイ」(1935~)2007は、生まれた家を描いていた。特に好きな絵のひとつ。

「プンタワリイ、私のカントリー。私は裸で歩き回る小さな子供だった」
1935年ごろ、彼女は牛追いルートのあたりで、生まれた。黄色いところが、木の枝と草でできた伝統的な家。家族はカントリーを移動する生活をしていたけれど、母とともに配給所に移動して、夫に出会い、牧場で働いたのだそう。

 

Part2:プロジェクトから生まれた作品たち

いくつかのセクションに分かれて展示されていた。ワークショップでテーマごとにグループ分けして描いたものによるのかな?。砂漠の土の上に広げて、語りながら描いたり、共同で描いたりしたようだ。

Section1:聖なる水と砂漠

砂漠で暮らす人にとって、水場は大切な場所。生活のことだけでなく、ドリーミングの祖先たちが、創造の旅の途中に立ち寄り、亡くなったりした場所。その場所は「彼らのアイデンティティの本質を成している」と。

ジャン・ビリイカン(1930年ごろ~2015)「キリウィリイ」2008は、水源のそばの故郷を描いていた。

「ここは、私の父親の氏族集団が生まれた場所である。私たちの氏族集団もまた、キリウィリイと呼ばれる」

彼女は生まれた場所であるキリウィリイという場所に、自己を同一化している。「亡くなると彼らは自分たちのカントリーと再び結びつくために、その場所に戻ってくる」。


ダーダー・サムソン(1939~)「プルパ」2007、母と兄弟が水場で目撃したことを語っていた。

「母は私の三人の兄弟たちと一緒にジガロン(配給所がある?)に向かっていた。その途中、サンディ井戸に立ち止まった。白人たちは、ここで人を撃ち殺し、その場を立ち去った。私の家族は、ちょうどここを旅していた。彼らは銃を撃つ白人たちの姿を見て逃げた。」

彼女の家族は配給所に移動し、彼女はそこで生まれたそう。

真ん中の円がプルパ。その左の円は水。上方の四角は窪地、下の部分は、ブッシュの小屋。

彼らの絵は、水場もカントリーも「まる」でとらえている。大事な場所であり、世界のすべてであり。

仙厓の禅画の「まる」で頭を抱えたことを思い出す。彼らの世界に触れていたら、禅の「まる」に視界が開けた気がした(!)


Section2:ミニイプル(七人姉妹)

プレアデス星団(日本名だと「すばる」)は、7人姉妹(ミニイプルとその姉妹たち)の物語になっていて、女性の重要なソングラインなのだそう。ドリーミングの時代に、女性たちは西海岸から旅をはじめ、大陸を横断しながら、土地を形作った。(ちなみにオリオン座は、彼女たちをつけまわした好色な老人ということになっている。)

ミニイプルのソングラインを3人で共同して描いていた。幅何mもある大きな絵。

ムーニー・シンプソン(1941~2008)、ロージー・ウイリアムス(1943~)、ドゥルスイ・ギプス(1947~) 「ミニイプル」2007

描いた三人は姉妹。湖のそばのカントリーで暮らしていたけれど、1957年に父が亡くなってから、配給所に移ったそう。

左上から二番目の青い丸は、上述の老人がミニイプルたちと出会った場所。その他の青い丸もすべて具体的な場所や井戸。線は、ソングラインの道なのでしょう。カントリーを分断する真ん中の赤い部分は、牛追いルート。

 

ノーラ・ナンガパの「ミニイプル」は、圧倒的な力強さに打たれた。なんと1916年ごろ生まれ。七人姉妹を追いかけていた老人は、ニイピリ(井戸34番)で踊る彼女たちをみていた。すると彼女たちはクナワラチ(井戸33番)へ飛んで戻った。

ジャーカイブ・ビルジャブ「ウィキリイ」2007も、牛追いルートに分断された世界と、その真ん中に33番の井戸。まわりに、砂丘とともに植物の種や、草や林を描いていた。種は確か、つぶして練って食べると何かで見たような。

 

Section3:人食いのカントリー(失望の湖)

この章は、「クムプピリンティリイ」と呼ばれる塩湖のことを語っていた。ここを見つけた白人探検家は、淡水でなかったので「Lake Disappointment 失望の湖」と名付けた。でもそこはドリーミングでは大事な意味を持つ場所。人食いが真下におり、危険な場所。だから今でも塩胡の上を歩いたりしないのだそう。(google

これは絵とともに、数分のアニメが上映されていた。ビリー・アトキンス(1940~)「人食いのものがたり」

アニメでは、地底で人食いに追いかけられて食べられてしまっていた。グロい恐怖感。彼の祖父は、人食いに捕まって食べられかけたけれど、逃げ出せたそう。実際になにかの出来事があったのだと、疑いなく思う。

彼は、子供のころ、同化政策により保護施設に連れ去られそうになったところを逃げおおせたけれど、姉妹は連れ去られたそう。その姉妹たちの実話は、ストールンチルドレンを取り上げた映画「裸足の1500マイル」になっているそう。劣悪な施設から逃げ出し、年端も行かない子供たちが母の所へ帰ろうとする。

 

Section4:ヘビを殺す

砂漠の井戸の多くには、祖先の精霊である虹ヘビ「クリャイ」が住んでいるのだそう。そのうち井戸42番は、牛追い人の井戸の掘削のために爆破され、虹ヘビは死んでしまった。

参加者の言葉だと思うけれど、(図録から)「クリャイが殺されてしまったとき、わたしたちは空っぽになったと感じた。人々は立ち去り、動物たちも立ち去った。人間も動物もつながっている。大きな価値のあるものが失われてしまい、他では変えることができないのだ」。

 

Section5:砂漠を離れる

砂漠で伝統的な生活を送った最後の人々のひとりである、1970年ごろ生まれの女性、ジョージナ・ブラウン

「私が生まれたところ」(1970頃~)2007

「だから私は、私の記憶、私と姉妹や兄弟、そして家族について描くのです」

この絵は、両親や兄弟と遊んだ砂漠の楽しかった暮らしと土地そのものに見える。

1976年に砂漠でディンゴを抱いて、弟を抱いた母とともに立っている写真も展示されていた。この年、彼女の親戚は砂漠に残っていた彼らを心配して捜索し、町で暮らすことになった。両親は砂漠に帰りたがっていたという。

 

1957年にヘリコプターと遭遇した家族のお話があった。

ヘリコプター・チューングライ「ワルウィア」(1947~)、クロガシラヘビのドリーミングを持って生まれたという彼が10さいのときの出来事。

1957年に、彼のカントリーに、初めてヘリコプターが着陸した。白人すら初めて見た人も。彼は重い病気だったので、彼の母親は白人に病院に連れて行ってほしいと頼み、彼と母親は初めてヘリに乗った。

白人と友好的な関係を保つこともあったのだ。人種差別撤廃の動きもあったでしょう。牛追い人の食料や珍しいものと引き換えに、時々牛追い人たちの手伝いをしたり。

そのヘリコプターの場に居合わせた、1935年生まれのパトリック・チューングライの絵もあった。一族たちはヘリを追って砂漠を離れたけれど、彼はもう一年砂漠をひとりで移動し、それから家族と合流したそう。

 

Section6「現代アートとコミュニティ」

階下の部屋の吹き抜け部分に、3m×5mもの大きな絵が床に置かれていた。6人の共同作品。

「マトゥミリイ・ノーラ」

階段の上から見たり、横から見たり、オーストラリアの砂漠に見えてくる。地図であり、世界であり、ドリーミングであり。彼らは頭の中に、土地と祖先からの世界をこんなふうに把握できているのだと、圧倒された。

「この地図を白人の地図のように読まないでほしい。これはマルトゥの地図である。私たちがどのようにカントリーを見ているか、我々のカントリーについてのものがたりを語るために、私たちがどのように絵画を利用しているかを示している」と。

ここの人々は、カントリーを焼く「火付け技法」と狩猟とによって、この土地を管理し、土地のバランスを保ってきたのだそう。火付けによる生態学的な再生の段階を彼らは認識していて、この絵のグラデーションは植生の再生の段階を反映しているのだそう。

 

驚きの展覧会だった。

文字を持たなかった彼らの世界を、こんなに具体的に可視化してもらえるなんて。その絵の強さ。

アボリジニの絵が本来は、具体的で実用的なものだったとは。そのアート性ゆえ、アボリジニの自立と産業振興のためにアートセンターが設立され、商品としても注目されているけれど、本来は、具体的生活上の必要不可欠なものであり、ドリーミングそのものであり。

以前旅番組で(たぶんBSの「堤真一×地球創世の大地」という番組だったような・・)、ウルルで育った男性(政府は99年間彼らからこの地を借りる契約になっている)が言っていた。自分たちは岩などに絵を描いて、土地の大事なことを子供たちに教えてきた。その岩は小学校のようなものだったと。

自分は幸運にもここで育ったので、アボリジニの生き方を学べた。だからこの土地のことを訪れる人に伝えたい。そうじゃなければアボリジニたちがここに戻ってきても何もわからなくなってしまう。というようなことを言っていた。


エミリ・ウングワレーの絵も抽象画のように見えるけれど、具体的なものを描いていると、やっと実感する。

そして、ずっと気になっていた、エミリは大事なことを見えないように絵にしている、というのも腑に落ちた。

エミリは、いくつかの絵の描き初めは誰にも見られないように書いていた、と。人喰いのカントリーの章で、精霊の守護者の物語を描いたヤンジミ・ローランズの絵の解説には、この物語が秘密の知識を含んでおり、これ以上は明らかにできないものである、と。エミリも彼も、5万年前からの祖先から受け継いだドリーミングの管理者としての役割を果たそうとしていた。

このワークショップには砂漠の暮らしをしたことがない子や孫も参加して、年長者からいろいろなことを学んだということ。作品を観ながら、知里幸恵「アイヌ神謡集」を何度も思い出した。感想を書きながらも、実はどう言葉にしていいか途方に暮れてばかり。

**市原湖畔美術館は素敵な美術館だった。長くなってしまったので写真は次ページに。


●東博に初詣3 江戸絵画 応挙・大雅他

2017-01-08 | 日記

東博で初詣3

江戸絵画へ。

屏風絵のコーナーには、池大雅と応挙。大雅は、”新春特別公開”、”本日のおすすめ”の札付き。

いつからだったか、私も大雅の魅力にとりつかれたのは。

池大雅「西湖春景銭塘觀潮図」
右隻は西湖春景図。
下から目で追うと、ものすごい上昇感。遠景へと持っていかれる。
 
川の波はうねり、ドラマティック。なすすべもなく高揚感に満たされてしまう。木立はなんて美しい。
 
二曲めあたりになるとすでに、わけわからなくなる。岩が遊ぶ。岩の意に大雅が遊ぶ。西湖は多くの絵師が描くけどこんなのは他にない。大雅の超世界。
 
着色されたカラフルな家はどこかかわいらしい。でも西湖の目玉の橋ときたら、多くの画家はきっちり描くのに、大雅はもう適当で、どんどんいく。岩も山も大雅に共鳴して生き物になってしまった。
とにかくにぎやか。あちこちからパワーが迫ってくる右隻だった。
 
左隻は、銭塘観潮図。西湖と同じ浙江省の銭塘江で、旧暦8月18日に河を遡ってくる満潮を見物する。
うってかわっておおきな余白。春霞。
うすやかで青い波。右隻でかき回された心が、静かに整っていく。
 
春に煙る樹々。線や点描や様々。
 
岩はざっざっと直線でひかれていて、右のうねるような岩とは違う。
 静かな左隻。
 
右隻と左隻の対照的な世界。岩の意、樹の意。静と動。
快感におぼれてしまいそうな大雅の屏風だった。
 
池大雅でもう一点、「竹図」も筆の魔術のよう。
 
**
 応挙の数点は、雪を裏テーマにしていたのかもしれない。根津美術館で公開された国宝「雪松図」に合わせたのかな。

雪は塗り残して表現している。

山の稜線のあいまいさにドキドキ。

上からの光が、斜面や木を照らす。光りに照らされた雪を塗り残すだけで、木の立体感がすごい。計算しつくされ、応挙の頭の中に変換メーターがあるみたい。

墨色を自在に使い分けて、岩間の影の部分に奥行き感も。色から自由になったら、こんなに豊かな世界が展開できるとは。

左隻になると、金で描かれたふわりとさす光にいっそううっとり。


これと連作になるのが、隣の部屋に展示していた「雪景山水図」(旧帰雲院障壁画)

こちらのほうは、女仙。雪の空ににふわりと飛び立とうとしていた。


もう一点、応挙「雪中老松図」

こちらは太い幹は激しい筆致。根元に積もった雪が印象的。

 

**

そして、江戸のすてきな絵師たち。

英一蝶があったのもうれしい。(題を忘れてしまった)

肩ひじはらない、抜け感。小さく描かれた朱の紅葉がかわいい。


佚山黙隠1702〜78「花鳥図屏風」の鮮やかさにびっくり。 解説には、曹洞宗の禅僧で書家でもあり、沈南蘋の花鳥図を長崎で習得したと。

”若冲との関連が注目される”とあったけれど、特に孔雀など若冲をほうふつとさせる。

若冲のように濃密でつまった感じではなく、葉の先、弦の先、鳥たちなど、軽やかな動きがあるのが印象的。


若冲つながりでは、弟子の秦意沖「雪中棕櫚図」

棕櫚に雪って不思議な感じ。若冲のねっとりとした雪を思い出す。


江戸絵画の画題で、棕櫚と同じく個人的に好きなのが芭蕉。とても素敵な絵があった。

黒川亀玉1732~56「芭蕉孤鶴図」

”江戸で初めて沈南蘋派の絵を描いた異彩の先駆者”。25歳で夭逝したそう。


妖しいまでの独特な感性。

これはほかの絵もみてみたいもの。

 


●東博に初詣2 渡辺省亭・干支ルーム 

2017-01-07 | Art

新年の東博。今年の干支ルームは「祝いの鳥」。鳥とりトリ。

 

去年東博で展示されていた「赤坂離宮花鳥図屏風」の続編(去年の日記はこちらとこちら)があった。

1909年建設の迎賓館の大食堂の七宝焼きの下絵。

今回も渡辺省亭の透明感ある色と、よどみない自由自在な美しい線に見惚れることしきり。

そして構成の妙。鳥だけ、または鳥と草、ひとつか二つの少ない要素に、最大限に効果的な仕事をさせている、というか。

七宝は湊川惣介が製作。

渡辺省亭「千鳥」

楕円のむこうに広がる広い空。斜め上へのベクトル。省亭の構成は、明晰でおしゃれ。

 

渡辺省亭「麦に雀」

こちらは動きが四方八方へ。世界が画面の外にも広がっていた。

 

今回も、この赤坂離宮のコンペには選ばれなかった荒木寛畝も展示されていた。

省亭は外へ広がる感じだけれど、寛畝の絵は、中にぎゅっと納まっている感じ。鳥の風格ゆえかな。寛畝の鳥への入れ込み方は半端ない。

そして省亭は鳥も草も主従なくみんな大事でみんなで作り上げているのだけど、寛畝は鳥が主役。存在感が凄い。

荒木寛畝「鶏」

二羽の視線は画面の中央で交差していた。主役じゃないけど、後ろの草もきれいに描かれていた。

 

荒木寛畝「鴫」 かわいい形だけれど、まなざし強く、自立した人格?を放っている鳥たち。

 

荒木寛畝「鴨」

妖しいほどの細密ぶり。青緑の首元は、宇宙的なほど。

寛畝の鳥の凄さには、省亭とはまた別の感嘆。

 

省亭も寛畝も、迎賓館だからきれいな絵なら間違いないだろみたいなところがない。外国人をお迎えする空間。日本の美意識にプライド持ってる感じ。

 

干支ルームの他の鳥たち。おおむね祝いのモチーフとして描かれていた。

岡本 秋暉「孔雀図」

シャープに高雅。高く跳ね上がる尾は弧を描いて登っていく。これを掛けたら、戦意高揚しそう。

気付くと、二羽いる。羽根も牡丹も妖しい域。

 

「打掛 紅綸子松竹梅鶴亀模様」 紅江戸~明治

豪華さに圧倒。縫い絞め絞り、鹿の子絞りで白く染め抜いてから、紅に染めていると。武家の婚礼衣装の様式だけれど、江戸末期には豪商も許されたとか。

金糸の刺繍の細やかさ。蓑ガメの顔がツボ。

 

海北友雪「花鳥図屏風」

昨年は禅画展で、父海北友松のダイナミックな屏風に驚いたけれど、子は雅び。春日局の推薦で家光に取り立てられた。花鳥図は珍しいのだそう。

 

最強の聖鳥、ガルーダと鳳凰も羽ばたいていた。

鳳凰は長い尾のところにうっとり。

狩衣の鳳凰は、紫地に金。雄雌(たぶん)の鳳凰がかわいいなあ。

 

「桐鳳凰漆絵硯箱」奥村文次郎 明治時代 漆が美しい。

桐の木の上空に鳳凰。鳳凰は桐の木に住み、竹の実を食べるのだとか。

 

ガルーダも登場していたのは面白い。スマトラ東南部のジャンビのバティック。

マハーバーラタに出てくる、ヴィシュヌ神が乗っている鳥。蛇神ナーガを退治するところから、毒蛇を食らう聖鳥であるという。


去年のお正月はこのお部屋は猿尽くしだったので、祈りの対象とか吉兆とかいう感じではなかったけれど、鳥には人間は古来から様々な思いをこめた。猿は、猿コミュニティーとか親子とか、「関わり」的な作品が多かったと記憶している。対して、鳥は個体の美しさ、神聖さに思いをのせる。

表現方法も傾向が違う。猿はもふもふだったり牧谿ざるだったり、水墨に向くのかな。鳥は水墨にも、極彩色にも、画にも衣にも、多彩。

 

来年はイヌ。アレが出るかな、なにが出るかな、と楽しみ。

 

 


●東博に初詣1 埴輪猿・松林図・李迪・仁清

2017-01-07 | Art

この日の東博の常設。 

三が日のイベントは終わってしまったけれど、まだお正月モード。

 

ひゅうと不思議な「埴輪猿」に捕まる。古墳時代6世紀 茨城県行方市置洲大日塚古墳

なんて邪気のない顔。両手と背中に?離痕があり、もとは子供を背負っていたらしい。背中を見遣るようなひねりはそのせい。子供、どこに行っちゃったんだろうね。どこかで出土してないんだろうか。

 

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長谷川等伯「松林図」は、昨年も観たのに同じ絵かと思うほど。揺さぶられる。

右隻の、激しい筆致は叫びのよう。去年もこんなに激しかっただろうか。等伯も亡き妻や息子を思っていたかもしれない。けっきょく絵は、どんな有名作でも、もうこの世のひとではない誰かが描いた痕跡。と無常感にさいなまれ始め、心を立て直したり。

横から強い風にはげしく押される。

そして大きな空白。風がぬけていく、大きな心の空白のよう。

それから上へ巻き上げられる。

意識が上へ飛んでいく。


左隻に移ると、遠くに山が見え、静かに木々が遠くから近くに。満ちていく大気の中で、意識が着陸していく。風が幾分収まったのかもしれない。大気の流れが右隻と少し違っている。

空間にも、木々の重なりが薄く。

足元にも余白の大気のところにも、うすく墨をひいていた。根元の方にも横に薄くひいていた。ここに等伯はどれだけいたんだろう。

左隻の松も筆致は荒いけれど、次第になびくように静かに。また満ちてくる大気、感情。

諦観、諦め、流され。失ったり去ったりしたあとに見える景色のように思えて、少し悲しくなった今年の松林図。

樹の根元に目が行ったのは、今年が初めてかもしれない。根を張るところもしっかり描いていた。等伯もここに足をつけて立っていた。

来年は、また違ったふうに感じるんだろう。と思ったら、来年のお正月は国宝ルームには展示されないらしい。

 

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二週間ほどの限定公開の、李迪の国宝へ直行。

15室 歴史の記録の部屋

 李迪「紅白芙蓉図」南宋時代 慶元3年(1197)

 
南宋「院体画」は、御舟も一時はまっていた。折に触れ日本の画家に影響したその本家本元。
 
朝のうちは白く、午後から色づき始める酔芙蓉。
左幅の白い芙蓉は少し青みがかって。朝のしんとした空気まで伝えてくる。
 
右幅は一輪は薄く色づき、もう一輪はより色を増して、昼すぎから夕方へのあいまいな時間の経過まで一枚に。
 
写実的で細密でありながら、ゆらめく気配を漂わせて、神秘的。
 
横にいた年配のグループの方々が、これ昔は東洋館にあったわよね、昔はもっと黒っぽくてよくわからなかったけど修復したのね、とおしゃべりしてたのを小耳にする。修復された方々の技術に感動。
 
 
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小川一馬Wikipedia)の静謐な写真。

「興福寺東金堂破損仏」1888

「金剛峯寺金堂内部」1888

明治15年に渡米し、ボストンの写真館で住み込みで学んだ技術。明治21年からは、九鬼伯爵らによる古美術文化財調査に加わり、文化財の調査撮影を行った。その写真自体が、いまや文化財になっている。

大政奉還後の廃仏毀釈で荒れた寺社。ひび割れ、摩耗した柱。無造作に立てかけられた仏像。静かに伝えてくる。

夏目漱石の肖像写真も小川一馬だったとは。

 

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仁清が数点。中学校の教科書で授業中にきれいだなあと見ていた仁清。実物に出会える幸せ。

野々村仁清「色絵月梅図茶壷」17世紀

後ろに回ってみると、月が。

ぐるっと一周歩く。

黒い梅の花。この情景が夜の闇の中であることに気付く。月は夜空と黒く反転し、雲が月光に照らされている。

一方の写真ではみえなかったところに、こんな月夜の世界が広がっていたとは。いまさらの発見、壺って360度の世界なのですね。

 

「錆絵山水図水差」仁清

逆さ三日月。仁清は水墨画風のさび絵(鉄絵)も腕が立つそう。ひび割れは関東大震災で破損したもの。なんと修復したのは六角紫水

 

「色絵梅花文茶碗」仁清 17世紀

なんてかわいい。金と赤と墨色の三色で。制限された中で、こんなに馥郁とした情感。お茶碗のほっくりとしたかたち、梅の花もつぼみもまるくてふっくら。心楽しくなるお茶椀。

 

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他にこの日の、鎌倉や室町の水墨や書で好きなものを置いておきましょう。

この時代のものは、気迫や内なる精神性のようなものが、筆にそのまま表出。

 

鎌倉末期では黙庵「白衣観音」 黙庵さんの顔はゆるくていいなあ。ほどける~。

 

 

一休さん、すごい。一筆で書き切る気迫

 

「山水図屏風」「秀峰」印 16世紀 は、名前もしらないけれど、しばらくこの屏風の中に漂う。

(クラーナハ画集を持った方が写りこんでしまった(すみません)。こうして見ると、山水とユディトの素敵な邂逅。)

 ふわりとした、モノクロの世界。墨がやわらかい。

 右隻

 もくもくとした雲と、どことなくかわいい村人にほっこり。

 ふわりとした中に、いくつかの濃い焦点。線だけで表現する山や岩の険しさ。微細な線も、ダイナミックで荒々しい線も見惚れてしまう、謎の「秀峰」さん。

右隻の最後は、湿った大気が充ち、スコールのような雨。

左隻は趣が一変。右隻は横の水平ラインなら、左隻は縦の垂直ライン。

薄日が差してきたところから始まる。

そして激しく切り立った山。筆を上から掃き下ろしたような、現実の形を超えた潔さが心地よい。ひとすじ塗り残した滝は、素直に重力に従う。

まるでナイアガラの滝のように、地球の核に収束。

 そしてそびえる雪山との合間に満ちてくる大気。

 この雄大な情景を見渡す高士に、私が見たものが凝集されるように移入して、収束。すばらしい体験だった。

この画家の中では、山も大気も岩も、形というより、「意」。

縦/横。ふんわりした筆/激しい筆。満ちるやわらかな大気/硬く澄んだ岩山。対比が面白い世界でもありました。

「秀峰」の名は不詳とのこと。"うねりと動きのある構図、猫背の人物は、雪村に近いが、雪村の号として「秀峰」は確認できない”と、思わせぶりな解説。今年は雪村展もあるので、心にとどめておいて確かめてみよう。


江戸絵画は次回に。