四谷三丁目すし処のがみ・毎日のおしながき

新子・新イカ大きくなってきました。生すじこ粒がまだ小さいですが入ってきました。イクラは生しか扱いません。秋と冬だけです。

チクショウ

2007-04-24 01:43:00 | 04 どんこ・しいたけ

ご婦人が扉を開けて飛び込んで来た。

やっていますかと訊ねられたのでやっていますと

答えた。

「ああーよかった間に合ったわぁ。・・ええとこちらの

 有名なおすし、ください」

まだ暑さが残る日だった。

主人が言った。

「あの、どんなおすしでしょうか」

「え、ここのおすしよ。ほら、何て言ったかしら…

 ああ、おばあちゃんに頼まれてきたのに!大好き

 だってここのおすしが。少し待ってくださる今電話で

 聞きますから」

ご婦人はハンドバッグからハンカチを取り出し、額の

中央、こめかみ、首の右、左と押さえながら携帯電話が

繋がるのを待った。

「あっおばあちゃん?私、いま四谷。間に合った、

 間に合った。あのね、おすしの名前何て言うの?

 忘れちゃって・・・え、茶巾?茶巾ずしね?はい

 わかったわ。・・・はい、はーい」

主人と私はどう言っていいのかわからず黙っていた。

「わかりました、名前。茶巾ずしをください…ええと、

 折箱の何個入りって頼んだほうがいいのかしら?」

主人が言った。

「…あの、それでしたらお隣の関西鮓さんじゃないでしょうか」

「えっ?」

「あちらの茶巾ずしだと思います。まだ今でしたら開いています。

 急がれたほうが」

「えっ、だってこちらは…?」

「江戸前寿司です」

「江戸前・・・あの、前からあったかしら?」

「三ヶ月前にオープンしました」

「そうだったんですか。ごめんなさい、・・・あの、一人前

 お持ち帰りできるかしら。握っておいてもらって後で

 取りに伺いますから。そうしたらお隣りで頼んでからだと

 ちょうどいいし」

主人は言葉を遮るように言った。

「無理にご注文なさらないでください、うちは大丈夫ですから」

「ううん、無理じゃないの!無理にじゃないの!私は生のおすしの

 ほうが好きなの、おばあちゃんに頼まれたのは関西鮓だけど

 私は握ったのが食べたいの、暑いし食欲ないしちょうどいいし。

 だからやっておいてちょうだい、ね?」

この一折が今日一日の売り上げすべてかもしれなかった。

何日も、何週間もガランとした店内。

お隣りに間違えられたって当たり前のキャリアの差だ。

むしろこんな分かりにくい場所に上がってきて頂いただけで

感謝しなければならない。

それなのに

せっかくお声を掛けていただいたのに

素直に喜べなかった。


チクショウ、と心の中で言った。


もし心が豊かなら

ベストを尽くしている結果がこうなら

チクショウとは思わない。

まだじゅうぶんにやるべきことができていないことや

やらなければいけないことがなんなのかわからないことや

やっているけどそれがはたしてあっているのか

確信が持てないことや日々のイライラ、不安を全部

ぜんぶこの出来事に転嫁しようとしていた。

チクショウと念じた言葉はぐるっと店内そこらじゅうの空気を

悪くして己の心に戻って突き刺さった。

出来上がったおすしを包装して割箸を刺して手提げ袋に

入れて笑顔でお見送りした後も、甘えた素直になれない

自分のキャパの狭さに落ち込んだ。