四谷三丁目すし処のがみ・毎日のおしながき

冬から春が旬である貝がそろそろ終盤、初鰹・鰈・鱸・鯵など夏の魚が出てきました。

おかみノート7 マイおちょこ~マンホール・ベイビー

2004-11-17 00:00:00 | おかみノート7

おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。

マイおちょこ
「これ置かせて」と頼まれることがある。“マイおちょこ”だ。
気に入った器でお酒を飲みたいとおっしゃるお客様のお気持ちはよく分かる。
できれば私もお客様おひとりおひとりのおちょこを管理してその都度お出しできれば素敵だなと思う。
でも、お預かりする場合はかなり念を押す。壊れてもいいですか、と。
私はおっちょこちょいだ。
「お気持ちはよく分かっているつもりです。でも壊してしまう可能性があるのでなるべくお受けしないようにしていまして・・」
「だーいじょうぶ、そうそう壊れないから」
「でも、でも、慎重に扱うようにはしますけど本当に壊してしまうかもしれませんよ?」
「いいから。壊してもいいから置いて」
そこまで確認してからお預かりするようにしている。
ペアでお預かりしたガラスのおちょこがあった。
毎日お見えになるお客様でかなり慎重に扱っていたのだが、使い始めて十日目に壊してしまった。
洗う時は大きいお皿などとぶつからないように気をつけて扱っていた。その日はなぜか気が弛んでおり、冷蔵庫に仕舞う際に手がすべって床に落ちた。青に黒い縞が入っている方にひびが入った。
翌日、持ち主のお客様が三名様でお見えになった。
おちょこをお盆に載せていき「すいません」と謝ると
「コイツに謝って。俺たち“お世話になった御礼に”ってこのペアグラスコイツからもらったんだよ、なぁ?」
問いかけられた女性は膝のハンカチを広げなおしたりして何も言わなかった。・・コイツ?言われて目線を辿ると一緒にいらしていたもうおひとりの男性がひび入りのおちょこを見たまま仰った。
「金箔が入っているのを探すのに苦労したんです・・けど」
「申し訳ありませんでした!」
と謝ると、ふっと私を見てそしてまたおちょこを見て黙っていらした。

営業時間が終わりエプロンを外していたら
「気にしなさんな」
と主人が言った。
「まさかあのおちょこを贈ったご本人がいらっしゃっていたなんて」
「なー」
「“壊してもいいって了解取り付けてます”なんて絶対言えないし、だから割ってもいいってもんでもないし まさかそんな思いのこもったものだとは知らなかったし・・」
「まぁ、慎重に扱ってた結果こうなったんだからしょうがないじゃん」
私はカウンターに手を着き椅子を小学生のように後ろに反らせながら言った。
「・・実家でさ、家族何人もが水飲んだり麦茶飲んだりするのにワンカップ大関のガラスで出来た空きカップを使ってた時期があったんだけどさ」
「うん」
「あれってちょっとやそっとじゃ割れないよね」
「あー割れないね」
「割れちゃこまるオシャレなグラスはさ」
「うん」
「割れるよね」
「ああ、割れるね」
「だよね」
「帰るか」
一晩眠れば少しは落ち込みが軽くなっているはずだ。
そう思いたかった。

神宮の花火
六月が始まったばかりなのに八月上旬の予約が入った。
「窓側三つな、まだ席大丈夫だろ?よろしくな」
この店の窓からは神宮球場の花火が見えるはずだと言う。問い合わせ主は主人の友人のお父さんだった。
いつも来てくださるお客様にさっそく言いたくなったが、まだ店をはじめたばかりなので実際にどう見えるのかわからない。
うかつに広めて皆さんのご迷惑になってはいけないと特別なアピールはしないまま当日を迎えた。

これがじつによく見えた。
味を占めた私たちは次の年、花火がいかによく見えるかを宣伝しまくった。すると早い段階でたくさんのご予約をいただくことができ、花火大会の数日前には札留めとなった。
「ちょっと、いいんじゃない、いいんじゃない?たのしみだなぁ~!」
そう言いながらふと窓の外を見ると道路の向こう側に小さいクレーンが見えた。
「なんかさぁ、あのプレハブの横にクレーンみたいなのがあるんだけど、工事か何かかな?」
主人も厨房から出てきて窓の外を覗く。
「さぁ。・・ひょっとしてあの二階建て、壊すんじゃねぇのか?その方がもっと花火見やすくなるぞ、ラッキーじゃん」
翌日のお昼頃「おはようございまーす」と店に入っていくと仕込みをしていた主人がすぐに言った。
「ショックでーす、窓の外、見てくださーい」
「・・・?」
小上がりに荷物を置き、窓の前まで行くと“創業○○年スーパー○○品質第一”という大きな看板がドドーンとプレハブの上に備え付けられているのが見えた。
「あ・・」
「昨日の夜中にやったんだな、あのクレーン」
「方向が・・・もろかぶってるんじゃない」
「あと二日だよ?せめて花火終わってからにしてくれよって、なぁ、そう思わねぇ!?」

「え、看板?」
「はい・・」
窓の外を見るお客様の後ろ姿を見ていた。
「あーあ・・・はいはい、あれね。あの大きさならまず大丈夫でしょう、見えるよ、うん」
「そうですか・・」
「だーいじょうぶ、だいじょうぶ全然問題ないって!」
花火の開始時刻をめがけて続々といらっしゃる皆さんおひとりおひとりにご説明して謝った。

ガラスにずしんと響く数発が揚がった。
「おっ、きたね、きたきた!」
ビールグラスを置き、カウンターから身を乗り出して窓を覗き込む男性のお客様。
おとなりの方もそのおとなりの方も窓に目をやった。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
なおも音が派手に続いている。
どうなのか。洗い物の手を止め乗り出して窓を覗いた。
見えやしなかった。
「あれ、やっぱり看板もろかぶっちゃってんのかな~?いやぁ、まいったなぁ。どうもすいませんっ!!」
主人がおどけたように言いお客様は少し笑ってくださった。
主人も私も申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらでも塞ぎこんでいるような態度でも失礼なので努めて明るく何事もなかったかのように振る舞っていた。
「音だよね、やっぱり花火は。音、音!見えなくても大丈夫!!」
「そう!かえって寿司に集中できていいよ、この穴子、あーうまい!」
「もう花火はいいよ!おしまいっ。賑やかに行きましょーう」
皆さんのお言葉が有難かった。
しばらくしてラストの一斉に打ち揚がる最大の山場が始まった。
「あっ、ほらカメちゃん、大きいのが揚がった時は端っこがちょっとだけ見えるよ!早く早く、ほらっ」
「えっ?あ、はいっ!!」
エプロンで手を拭きながら走っていき窓に張り付いた。
ほんとだ。すこしだけオレンジや緑の部分が見える。
直に花火の音が聞きたい。見るのが無理ならせめて直接音をお聞かせしたいと思った。
「冷房してますけど開けますねー!・・うわっ、音がやっぱり直接だとお腹に響きますねー!」
ベランダに身を乗り出した。風に火薬の匂いが混じっていた。
「わぁっ、火薬の匂い!けっこう遠いのにこんなところまで火薬の匂いがしますよぉー」
はしゃいで言うと
「火薬ぅ?こっちは穴子のいい匂いしかしないよー」
カウンターのお客様が仰った。
店内に目を凝らすと、まな板の上には握られて湯気を出している穴子が二カン、おろし金で擦った柚子を竹の刷毛で振られているところだった。
奥の焼き網には金箸で剥がしきれなかった穴子が自らの脂で揚がったようになり、余熱でちりちりと煙をあげていた。
「ナマ、リャンねー!!」
主人の声が飛ぶ。
「あ、はーい」
私は答える。
もう一度ベランダに乗り出し火薬の匂いを吸った。
窓を閉め
駆け足で穴子の匂いの場所に戻った。

面なおし
お昼過ぎ、店の戸を開けるなり主人が言った。
「買ってきた買ってきた!“面なおし”ほら見て」
「・・めんなおし?」
寝起きでぼーっとして何も頭に入ってこない。
「砥石・・?」
主人が持っているのは黒っぽい砥石のようだ。
「ちがう、面なおし」
「・・・・・」
「砥石って大抵さ、使っているうちに真ん中の辺りがへっこんでくるでしょ?」
「あぁ・・」
「そのへっこんでるのをこれで削って直すんだ」
「石で石を削るの?」
「まぁそうね」
水を張ったバケツから今度は青っぽい軽石のオバケみたいな砥石を引き抜いて主人は言った。
「これが粗砥。あ・ら・と。刃こぼれした時なんかはまずこれでザッと研ぐんだ。その次にこれ」
目の前に置いてあるものを指差した。
包丁を研いでいる途中だったようでタオルの上に赤茶色の砥石がどっしりと乗っている。
「あー・・それはうちにもあった、見たことがある。砥石ってそれだけかと思ってた」
「これだけで済ます人ももちろんいるよ」
「へぇー。やっぱり何、それも“ナニ砥”とか名前があるの?」
「中砥」
「なかと?」
「そう。で、最後がこれ」
小さめの白い砥石を引き上げた。
水に濡れた表面は杏仁豆腐のようにキメが細かい。
「ナニ砥?」
「仕上げ砥」
「へぇー・・三段階にわけて研ぐんだ」
「そう。面なおしはそれぞれにかけるよ。でもやっぱり中砥に一番かけるかなー。昔は親父に“砥石をヒモにくくりつけて町内ぐるっと一周走ってこーい”なんて言われたりしてさ」
「えー、何それ」
「アスファルトで擦れて削れりゃ真っ直ぐに直るだろっていう冗談」
「あははは、なるほど」
「まぁ結局は外で水流しながらブロック塀みたいなものの上でずーっとゴーリゴーリ削るんだけどね」
「へぇー・・」
「でもこれは凄いよ。今までの労力の十分の一で直る、しかもキレイ!このあいだ本屋で包丁の本見てて“面なおし”っていうのがあるんだってわかったじゃない?今日築地の正本で“面なおしください”って言ったらお店の人が“おぉ・・!”ってどよめいてさ」
「なんだろ、買う人が珍しいのかな」
「あんまりいないんじゃない?そこまで手入れに言及しないんじゃないかな」
「包丁関係はなんでも正本なんだ」
「いやべつに有次でも木屋でもいいんだよ。でも最初に買った包丁が正本だったんだよね。だから全部正本で揃えるようになったって感じかな」
まるでヤスリの粉を2kgくらいがっちりと固めたようなそれを持ち上げ、手でなぞりながら主人は言った。
「くーっ、やっぱ道具だよ。道具がいいと仕上がりが全然ちがう」

ホームページ
青色申告会で帳簿を見てもらいながら年度末までの売上予想などを話していたら
店の存続がこのままだと厳しいのではという結論に達した。
店を立ち上げてから四年半。
店が本当に潰れるかもしれないという現状を目の当たりにしたら
もうとにかくなんでもやってみようという境地になった。
「ホームページやってみます」
いままで否定していたものをそっくりそのまま肯定してみたら
逆に店が続けられるんじゃないかと思った。
まだやれることはいっぱい残っている。

翌日図書館に行った。
『ホームページビルダーvol.6』、『HTML形式のデザイン辞典』
よく解らないweb関連の本が並んでいる。
止めようか。
いや。
ホームページを既に開いている私と同じ立場の女性に言われたひとことを思い出した。
「あらぁ、ホームページなんて簡単よぉ。出来ないのぉー?」
「出来ないんじゃなくて、あえてやってないんです。手作りのチラシで温もり感を出したくて」
言い返したものの、これは負け惜しみだった。
実際にやったことがないわけだから出来ないと言われても仕方がない。
とにかく何か少しでもわかりそうなものはないかと本棚を眺めていると
パソコン関係にしては
異質な一冊が目に留まった。

   『 豆炭とパソコン 』  糸井重里 

 ・・・まめたんとぱそこん?
借りてエレベーターの中でページを開いた。
80代からのインターネット入門という副題がある。
夢中になって読みはじめた。
全部読んでしまいたくなって、店に行く時間になっても新宿御苑の入り口手前の芝生に寝っころんで
草の匂いを嗅ぎながらページをめくっていった。
80代の方がはじめてのことに挑戦している。
自分はまだこんなに若いのに
踏み出せないなんて恥ずかしいと思った。
うちの店がインターネットの俎上に載ってほしくないというご意見はわかっていた。
ひっそりと店をやってくれ、と。
私たちも同じ意見だった。
どこを検索しても載っていない、そんな店が一番かっこいいんだと思ってきた。
その結果、ひっそり過ぎて多くの方に気付かれないまま
消えてしまいそうな寿司屋がここにあった。
貫けなかったことをその方々に、心の中で詫びた。
でもやるからには
どこにも負けないものを作ろうと思った。
御苑から帰るなり主人に言った。
「私、ホームページやるよ。できないかもしれないけどやってみる」
その足でヨドバシカメラへ向かった。
「ホームページビルダーの一番新しいやつください!」
自転車のカゴに『ホームページビルダーvol.8』を入れ
新宿通りをぶっ飛ばして帰ってきた。
わけもわからず箱をあけ、とりあえずCD状のソフトを入れインストールした。
なんとかプロフィールと地図と表紙が完成したが
インターネットに繋ぐまでには一ヶ月もかかってしまった。

あれから一年半。
毎日もがき続けている。
なりゆきで始めたけれど
それもまたいいのかなと思う。

スズキのアッリオーリオ
「にんにくと玉ねぎ、買ってこれる?」
スズキをおろしながら主人が言った。
「にんにくぅ~?何すんの、どうすんの、店で使うの?」
賄いでは、にんにく使用を禁じられている。
これは食べた自分の身体に纏うにんにく臭がお客様に失礼だから、という主人の考えからくるものだ。
カツオを仕入れた時には、にんにくが合うのは承知していながらも使わない。
おろしたりスライスしたりすると手に臭いがついて
しまうというのが理由だ。
あと、食べた人の息が食べてない人から
すると物凄いものがあるからだと言う。
それなのになぜ、と思った。
「スズキ半身仕入れたんだけど、どうしようかなーと思ってさ。生と昆布締め、あと塩焼きでもいいんだけど今日は暑いし試しににんにくと玉ねぎとオリーブオイルでホイル蒸しにしてスタミナつけてもらおうかなー、と」
「にんにく触るのどうするの」
「やってよ」
「私が?」
「そう」
「手に臭いつくじゃん!」
「だからつかないように気をつけてさ」
「えー・・」
「今日たぶん○○さんがお見えになるから、こういうものお好きじゃないかなって」
○○さんは毎日のように来てくださっている方だった。
開店して二年が経っていた。
お客様から直接言われたわけではないけれどどんなに手を替え品を替えしてもメニューに飽きがきているように感じていた。主人が何か新しいものをと模索する気持ちもよく分かっていた。
「たしかにおいしそうだよねー。・・でもさ、ホイルからにんにくの香りがかなりするんじゃない?いいの?」
「んー、生のにんにくじゃないから大丈夫でしょう」
主人の返答を受け、それではと立ち上がる私の後ろから“試しにさ、やってみようよ”という声が聞こえたので小さく頷き八百屋に向かった。
指示の通りにスライスした玉ねぎとにんにくはスズキの切り身とともにホイルに納まった。
メニューの名前は思い切ってイタリア風に“スズキのアッリオーリオ”にして、筆文字で少しおどけたふうに書いた。
私はかなり満足気で、なんだかこれひとつでガラリと店がいい感じに変化したように思った。

メニューを見た○○さんはさっそく“スズキのアッリオーリオ”を頼んでくれた。
やがて玉ねぎがとろける匂いとにんにくのいい香りが店じゅうに拡がり始めた。
蒸し上がりと同時に細長い皿の上に載せ、串切りにしたレモンを添えてお出しした。
ひとくち、ふたくちと食べ始めた○○さんは言った。
「・・あのさぁ。これおいしいよ、すごく。俺としては嬉しいけどこの店としてはどうなわけ?」
「は?」
私はお盆を持ったまま訊き直した。
「だからさ、この匂いだよ店の中の。今は俺ひとりだからいいけどにんにく充満しちゃってるでしょ?」
「はぁ・・」
「たとえば違うお客さんが入ってきたらどう思うよ?中にはさ、それおいしそうだからって頼む人もいるかもしれない。でもさ、寿司屋でしょ。この匂いはマズイでしょやっぱり。それにこの店はイタリア風だとか、こんなことをやって生き延びていく店ではない」
その通りだった。
迷っているところをズバリ言われた。
今日メニューとして出す前に私がこの決断をしなければならなかったのだ。言葉もなく佇んでいると、ドアが開きお客様がお見えになった。
その方もやはりいつもの店ではない匂いと、いつものメニューにはないそれを話題にしたのち頼んだ。
店じゅうがまた食欲をそそる匂いになり、やがてホイルに包まれたスズキが出てきた。食べ終わったお客様が言った。
「・・これ、すごくおいしかったんですけど、いいんですか、こんなの出しちゃって。僕はいいんですけど、これじゃ…こちらのお店じゃないと思いますよ」
すると○○さんが
「あ、俺も今ね、そう言ったの!ですよね?これ出しちゃダメだよね。・・食ってて言うのもナンだけど。あっはっは」
と愉しそうに言った。
「何か変わったものを…と思ったんですけど、ちょっとやり過ぎました。お客様に喜んでもらおうと、つい一線を越えてしまいました。やっぱり余計なことをせずにシンプルにやっていきます。ありがとうございます。また何かあったら言ってください」
主人がそう言うのを聞いてホッとしたし、私もそう思ったし、そう言ってくださるお客様がうれしかった。
お客様のほうが私たち以上に店のことを考え、そして見守ってくださっている。
本当にありがたいと思った。

マンホール・ベイビー
“吉永サヨリください”って言う人がいるよね、というお話をお客様がしていらっしゃる時だった。
「サヨリに引っ掛けてのダジャレもそうですけど、シャコのことは築地でも“ガレージ”って言ったりしますよ。あ、もちろん言わない人もいますけど」
主人はご注文をいただいたシャコのにぎりに取り掛かりながら言った。
一カンは煮つめをつけて、もう一カンは煮つめを付けないでというご注文だったので一尾はすぐ焼き網に載せて強めの中火で焼き始めた。
もう一尾は雪平鍋にお玉一杯ぶんの出汁を張り点火、そこに淡口醤油を適量入れ、沸騰しかけたところにポンと投じた。
軽く煮えたところをそっと金箸で掴みまな板に乗せると湯気が上がる。左手でそのシャコの上部を軽く持ち、右手はシャリを握りながら人差し指でワサビをシャコに付け素早く握る。
まずは煮つめを付けない方をゆっくりとお客様の前に置いた。
お客様は間髪入れずに頬張った。
「ん――?ん?・・ん?なんでこんなにしっとりしてんの、このシャコ。ふつうバッサバサなものが多いじゃん」
主人は焼き網のシャコをひっくり返しながら
「シャコの茹でたてっておいしいんですよね。できるだけその状態に近づけようと思ってやってます」
と言った。
「へぇーそうかぁ、だからか。あーでもうまいねぇ」
「ありがとうございます」
焼き具合をちらと目で確認してシャコを金箸で取り、さきほどと同じ手順で手際よく握り今度は小さい皿の上に載せた。
薄っすら焦げ目の付いたシャコの真ん中あたりに、こってりとした煮つめを刷毛でなんとか落とすとそこから湯気が立った。
「おっほぅ、ほぅ、あふ、・・香ばしい。しっとりしたさっきのもいいけど焼いたこの感じも煮つめと合ってていいね―」
「さっきの出汁醤油で温めたものに煮つめより僕はこのほうがいいかなと思うんですよね。でもお好みは皆さんおありだと思うのでご希望をおっしゃっていただければ、その通りにやります」

店内には出汁醤油の匂いが漂っていた。
「ガレージで思い出したんですけど」
「うん」
「実家ではストリップ巻っていうのがありまして」
「ストリップ?」
「ええ。よく外国で見かけるような、海苔が内側でシャリが外側にくる巻き物のことです。俗に言う裏巻きってやつです」
「あ、裏巻きとは言うよね」
「アベック巻っていうのもあるんですよ」
「アベック?」
「芯に鉄火とかっぱが一緒に入ったもので」
「へー」
「“てっきゅう”とか“鉄火かっぱ”とかも言いますけどね。実家の店の壁に木の札で“アベック巻”とか“ストリップ巻”とか書いて下がっているので、もの珍しいからお客様が親父にひとつひとつ訊くわけですよ」
「うん」
「“おい親父ぃ!シャコは寿司屋の業界用語じゃあ何て言うんだ?”ってて訊かれれば“シャコ?シャコはガレージだぁ!”とかね」
「うんうん」
「“じゃあ赤貝は?” “タマだ”、“海老は?” “マキだよ”とか。“穴子は何てぇ言うんだ?”って質問に親父が詰まっちゃって」
「穴子は何て言うの?」
「うーん、穴子は特にないんですよ」
「穴子なんだ」
「ええ。で、ちょっとお客様にからかわれたんでしょうね。“なんだ親父でもわからねぇことがあるのか!”って。でも親父もものすごく負けず嫌いなんで、どうにか無理矢理にでも答えようとしたんでしょうね。じーっと黙っちゃって」
「お父さん、何て言ったの」
「僕も横で聞いていて“親父何て言うんだろう”って固唾を呑んで待ってたんですけど」
「うん」
「“穴子はなぁ・・穴子は・・・マンホールベイビーでぇっ!!”って」
「マンホール・・で、ベイビーか」
「日本中どこ捜したって隠語でマンホールベイビーなんていうとこありませんよ。親父だけですよそんなこと言うの。なんだか時代を感じますよね」
「あっはっは、そうだね・・・。じゃあ、せっかくだからアベック巻とマンホールベイビーをもらおうか」
「はい」と笑いながら主人は海苔の入っている缶から一枚海苔を取りおひつの蓋を開けてシャリを掴みアベック巻の準備を始めた。

 

 


おかみノート7 いいんだよ<前編>~大根のツマ

2003-11-17 00:10:00 | おかみノート7

おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。

いいんだよ<前編>
お名刺を両手で持ちながら会社名とお名前を見た。
「ママ、この人はね、照明デザイナーなんだよ。うちのビルとかミュージアムもやってくれたんだけど、ものすごくセンスがよくてね。羽田さっき着いたんだよな?何食いたい?って訊いたら寿司だって言うからさ。リゾートホテルだっけ今やってるの」
問いかけに答えないその人の茶色い靴ヒモは固くなかなか解けなかった。
おしぼりで手を拭きながら社長さんが言った。
「とりあえず、お刺身か何か盛り合わせで。ここの本当においしいから」
「はい」と主人は言うと、きつく絞ったサラシで青磁の皿を拭き刺し盛りの準備を始めた。
バックヤードにお名刺を置きに行くとフロアに戻り、お二人が脱いだ靴を小上がりの下の収納スペースに納めた。
社長さんは開店の時からお世話になっている取引業者の方で、東京から離れたところに拠点がある。
うちが何ヶ月経ってもガラガラなのを気にして出張のたびに東京にいる知り合いの方を連れてきてくださっていた。
照明デザイナーの方が足をよじりながら言った。
「飛行機だったからさー。靴脱げるほうがラクだと思ったんだけど…掘りごたつじゃないとキツイね、あーキツイ」
「でもカウンターよりくつろげるじゃない。俺は好きだよ御座敷のほうが」
「あがったよ。はい、よろしく」
「はーい」と返事をし、誰もいないカウンターから刺身の盛り合わせを受け取り体だけを反転させてテーブルに置いた。
盛り合わせは寒ぶりもヒラメも赤貝もヤリイカも大根のツマもわさびもぜんぶピカピカに光っていた。
厨房に戻りお燗をつけながら以前聞いた主人の話を思い出していた。
「どんなにヒマな時でも、鮮度、質、両方いいものを揃えておかなくちゃならないんだ。例えばね、ガラガラの店で駄目なもの出してごらん、一発でアウトだよ。これが不思議なものでね、混んで賑わってる店に置いてあるものはたとえ普通のものでもコンディションよく見えるんだよ。うちはお客様を絶対に裏切りたくないからとにかく何は無くともネタ揃えには妥協しないよ。“ヒマなときこそとびっきりいいネタ”を!オーッ!!」
「いろいろ頂いてみたけど、おいしいよね」
「ありがとうございます」
「ここはどれくらいやっているの?」
「半年です」
「ふーん。仕入れは築地から?」
「はい」
「毎日仕入れに行って?」
「はい。開市の時は必ず行ってます」
お燗を運び戻ろうとした時だった。
「あなたは奥さん?」
「あ、はい」
「いつもこんな感じ?」
「・・・?」
「店だよ、店」
「“店”とおっしゃいますと?」
「いつも空いてるの?こんな感じで」
「まぁいろいろです・・ね」
「ままま、いいじゃない。さ、ほら熱いの飲みましょう」
社長さんの言葉をキッカケに会釈をしてその場を去った。

主人は社長さんの指示で握り始めた。
下げてきた瓶ビール用のグラスやお通しの小皿を洗っていると会話が聞こえてきた。
「クリスマス・・忘年会どうしよう」
「東京にいる連中の?」
「うん。あんまり暮れに差し迫ると全員のスケジュール合わないから十二月・・なるべく一週目くらいのほうがいいんじゃない?俺、年末また沖縄入ってるし」
「十人、十二人・・・」
「場所、場所、どうしようね。洋より和がいいなー」
「あっじゃあ寿司ってことで、ここはどう?」
「となると貸切だな。おい!ねぇ!日曜日ここ、貸し切りで」
「定休日の月曜でしたらお受けできるかもしれませんが普段の営業日は貸切はしておりません」
主人が言った。
「なんで?貸し切るほうがラクでしょうが」
「せっかく来て頂いたお客様に貸切だと言ってお帰り頂くことは僕はイヤなので」
「あーじゃあ定休日って月曜だよねマスター?どうです、十二月の一週目の月曜にしませんか」
「・・○○さんがいいならいいですよ」
「マスター、どうかな?」
「いいですよ」
照明デザイナーの方は店内を見回し始めた。
「・・・ま、スペース的には問題ないだろうけど。それにしてもなんなんだこの照明は。こんなんじゃ人呼べんだろうよ!?え?あらためて見ると酷いなこりゃ。誰がやったの?」
今度は私が答えた。
「誰っていうわけではないですけど、前の居酒屋さんのままの照明です」
「ネタケースの上にやるような照明があるでしょう。上から当てて刺身がおいしそうに見えるヤツ。ああいうの何でやらないの?」
「何でと言われましても、まぁ、いろいろとありまして」
「座敷のこのだらけきった感じ!この空間はないなー、ないない。あー窓だ窓、窓!!外が見えるのなんて光りがジャマだよ!全部塞いじゃって・・そうだな。今のもろもろ全部やめて、和紙と小枝で作った照明カバーにして、こっちの畳の方は真っ暗の中にポワッ、ポワッと二つだけ低い位置にライトを置いて締めてメリハリのある空間を作る、と。ふふふ。それにね、喜んだほうがいいよ~キミたち。俺には秘密兵器があるんだ。週刊○○ってあるでしょ。あのイラストの表紙の部分だけ実は十年間分ファイルしてあるんだよ。それを今回特別に貸してあげるから。ちょうどいいや!!この何もないダ――ッと空いている白い壁の部分、全部貼っちゃって。で、週刊○○にすぐ電話する。“おたくの表紙を飾ってあるから取材に来てくださーい”・・ってね。そしたらイヤでも取材に来てくれる。それでマスコミに載りなさいよ。それで軌道に乗りなさい。・・・○○万かな。○○万よこしなさい。そうしたら私が照明関係パーフェクトにやってあげるから」
「けっこうです」
「い、いや、ママ?この人ね業界ですごく有名なデザイナーなんだよ?いい話だし滅多にやってくれないよ。お願いしたら?」
「じゃあこういう条件を呑んでくれたらお願いするかもしれませんけど。私たち窓から見える新宿通りの雰囲気が気に入ってるので塞がずに活かした見せ方をしてもらえれば。あと、枝とか和紙とかイヤなんで、一緒に選ぶことが出来るなら」
「あのね。・・ったくわっかんないかなー。だからこっちに全部任せれば、あるもんでいろいろやってあげるって言ってるんでしょう?」
「あの、そもそも私たちこのままで不満なんてないですから」
「これじゃ我々が格好つかないの。笑われちゃうの」
「だったら貸切自体をお止めになったらいかがですか?このままだと恥かいちゃうんですよね?私たちは直す気はまったくありませんから」
「・・・・・・」
「とにかく今のお話は結構ですんで。社長も内装の話、絶対進めないでくださいよ?うち困りますから」
社長さんは黙っていた。
「あーあーあー!この店もこの店だけど、○○さんも○○さんだ。○○さん、あなたほどの人がなんでこんな店を気に入ってんだかわからん!!それにここに来てる客だ、全員ダメだ!なんだこんな店!!何を考えてんだまったく」
   “ ップーン ” という音が身体の中で鳴った。
「いま、何て言いました?」
「・・・え?」
「だから、いま、何て言いました?」
「・・・・・・」
厨房の冷蔵機器のモーターが回る音と新宿通りの車が走る音だけが聞こえていた。

いいんだよ<後編>
「“ここに来てるお客さん全員ダメだ”ってどういうことですか・・?」
「いやママ、深い意味はないんだから」
「“こんな店”って言われるのは認める認めないはべつとして御意見として頂戴しますけどうちが好きでお見えになっているお客様は私たちにとって本当に大切な方なんです“お客さんがダメ”って何ですか訂正してください」
「ママ、お願いだから怒んないで・・」
「あなたがおっしゃってるやり方はわかりますよ。空間に雰囲気を作ってオシャレな感じにするんですよね?マズかろうがなんだろうが魚に素敵な照明を当てておいしそうなネタに見せると、まぁ一言で言えばその週刊○○を見た10人中4人から6人くらいの方が興味を持って一度は来てくれるような、そういう店ですよ。私たちが目指しているのはそういうことじゃないんです。だらけきった照明だろうがなんだろうが“おいしい”とわかってくれる、おそらく1000人中2~3人いらっしゃるかいらっしゃらないかの確率だと思いますけどそういう方に「こういう空間もあるんだな」って思ってもらえる店を目指してやってるんですよ!!壁だって何でもかんでもベタベタ貼るために空けてあるんじゃない、どなたがいらしてもご自分のおうちで寛いでいる感覚に近づいてもらえるようになるべく主張をしないようにとか考えがあって空けてあるんです。○○万でやってやる?そりゃいつかうちも内装替える時には照明だって直しますよ。でもやるんだったら違うデザイナーの方にお願いします。数年経ったらまた確認しに来てくださいよ。それでもご不満がないような店の雰囲気だと判断されたら初めて貸切をやられたらいかがですか?何もイヤなのに無理矢理なさることはないと思いますけど。とにかくお客さんがダメってことは訂正してください。そこをはっきりさせるまでは帰っていただくわけにはいきません!!」
「わかったよ、あーわかったわかった」
「・・・もう終わりにしようよ、ね」
口を閉じようとしても震えてしまう。
バカにすんな。ふざけんな。
「ママ、ほら、泣かないで」
恥ずかしい。溜まった涙がこぼれないよう見開いて「早く乾燥しろ!!」と念じた。
社長さんには申し訳ないけれど、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「俺困っちゃったな・・ここもいい店だし、ママこの人すごい人なんだよ~ほんとに」
「・・・・」
そんなこと知るか、と思った。

「ありがとうございます」
お会計を終え、店をあとにするお二人を見送った。
またお見えになるだろうか。
デザイナーの方は、もしお見えになるのだったら今日とは違う関係になれると思う。
社長さんはどうだろう。ご立腹だろうか?
でも正直にいくしかない、私たちは。
ごく一部のお客様だけが特別扱いになるみたいな閉鎖的な店にはしたくないんだ。
若いからってなんでも言いなりになると思ったら大まちがいだ。
私は噛みつきガメだ。
イヤなものはイヤだし、いいものはいい、なんだよ。

元禄寿司
小学校三年生だった私は母と二人きりで千葉の繁華街に出掛けることになった。
弟が産まれて数日後だったと思う。
祖母が弟の面倒を見ている数時間のあいだ母を独占できる。
こんなチャンスはめったにないし弟が産まれた以上もうしばらくはないだろうと感覚でわかっていた。
「有紀ちゃん何食べる?好きなもの言っていいのよ」
瞬時に千葉そごうの『そごうランチ』を思い浮かべた。
これはもうダントツ好きな食べ物で、母と小六の兄と私とで千葉の街に出掛けた時には必ずと言っていいほどこれを選んでいた
デミグラスソースにまみれたハンバーグの上にチーズ、その横にナポリタンとくたくたのインゲンと甘いにんじん。じゃがいもの揚げたの。ピクルス。小さい耐熱容器に入ったビーフシチュー。
そしてなんといってもエビフライにタルタルソースがかかっていてそれを食べながらお皿に盛られた白いご飯をひとくち、そしてカップに入ったコンソメスープをひとくち口の中に入れると西洋の世界にトリップというか、家ではありえない味覚がいっぱいで私にとっては“祭り”だった。
しかし帰ってから兄に「そごうランチを食べた」と自慢しても「だからどうした、オレだって食ったことある」くらい言われてへこむのも目に見えている。生意気な妹としてはどうせならまだ兄が食べたことのないものを食べて羨ましがらせてやりたかった。

「あ!あそこ!回転寿司がある。あれがいい!」
テレビで話題になっていた“廻るすし元禄寿司”がショッピングセンター内にいつのまにか出来ていた。
「あら、ここに出来たのねぇ、じゃ入ってみようか」
初めて入る回転寿司は酢飯の匂いがした。
「らっしゃいませぇッ!」
二人分並んだ空席をなんとか見つけるとそこに座った。小学生にとっては高すぎるスツールだった。
湯呑みにティーバッグを入れて熱湯を注ぐシステムも初めての体験だった。
「好きなもの取っていいのよ。手が届かない?マグロ?はい、あと何?イカ、はい」
並んだお皿を見て嬉しくなり、さぁ醤油を取ろうと手を伸ばしたらスツールがぐらりとゆらぎ慌てて体勢を立て直そうとしたら手の甲で醤油差しを払ってしまった。
「あっ」
プラスチックの醤油差しは隣の女性のひざの上にトンと乗って横倒しになった。
そしてフタが取れた。
「ひっ」
驚いて立ち上がった女性のスカートから醤油は流れ落ち、フタと本体は乾いた音を立てて床に転がった。
その女性は白いスーツを着ていた。
スカートをよく見ると粗く織ったキラキラした繊維が毛羽立っており、だから弾くかというとそんなことはなく醤油が滲みこんでいくのをどうすることもできずに見ているだけだった。
「申し訳ありませんッ!!」
母はスカートに飛び付くように駆け寄りお店の人にコップに入れた水をもらい、ハンカチに浸して叩いたり揉んだり、詫びの言葉を言いながらかなりのあいだ奮闘していた。
私も何かしようとスツールから降りようとすると
「あなたは邪魔だからじっとしてらっしゃい!」
と怒鳴られ、こぼした床の掃除をしたりテーブルを拭いてくれたりするお店の人にも遠慮しながら固まっていた。
「申し訳ありません。・・ほんとうにどうしましょう、どうお詫びしてよいのやら・・言葉もありません・・」
と母が言うと女性は
「けっこうです、けっこうですからどうぞお気遣いなく」
とお会計に向かおうとした。
「誠に失礼致しました・・あの、どうしたら・・」
「いえどうぞもうご心配なく」
「でも・・でも・・それでは・・・あの、あぁどうしましょう」
いよいよ帰ってしまうという時、母はこっそりお財布やハンカチが入っている手編みの小さい手提げバッグからお財布を取り出し五百円札をものすごい速さで細かく四つ折りにしてチリ紙に包み、その女性に渡そうとした。
「大変失礼なのはわかっています!どうか納めてくださいお願いします!きっとシミになってクリーニングもこんなものじゃ済まないと思います。どうお詫びしてよいのかわかりませんので、誠に失礼なのですが・・本当に申し訳ありません!」
それをまた断る女性と母は何か言いながらレジの方に行ってしまった。出入り口のところで母は腰から直角以上にお辞儀をして見送っていた。
サマーヤーンで編んだその手製バッグを提げた母は席に戻ってきた。
「さ、食べようか!」
「・・・ごめんなさい」
「しょうがないわよ、フタもゆるかったしねぇ。それに真っ白いスカートにお醤油!ドラマみたいよ。・・・クリーニング出してもたぶん完全には落ちないと思うけど、心からお詫びするとして・・・。さ、食べましょう」
マグロとイカ、あと何をとって食べただろう。ぜんぜん覚えていない。おそらく女性が去ってしまう前にスツールから下りて母と一緒に謝っているはずなのだがそれも記憶にない。
覚えているのは白いスカート、太ももの部分に拡がる醤油のいろ、そして青い青い五百円札。
私のせいで執り行われた母と知らないひととの生々しいお金のやりとり。
ああ、あとこれもあった。
帰ってから兄に自慢できなくなったどころか失態をからかわれること決定で参ったなという気持ち。
初めての元禄寿司はちょっと、いやかなり痛かった。

大根のツマ
「大根のツマはね、包丁を高く振り下ろして切らないとおいしくないって知ってる?」
「え!何それ、どういうこと」
私のいつもの過剰反応に主人は苦笑しながらカツラ向きにした大根を七~八枚重ねて切って見せてくれた。
「高くって言うよりも動きを大きくしてスパッスパッて切る感じかな。チョボチョボ切ってると同じ大根でもあんまりうまくないんだよ」
「えー、マジっすかー。食べ比べてみたいなー」
大きく振り下ろして切ったもの、大根から擦れ擦れのところで小さく振り下ろして切ったもの、二種類を別 々に々に水に晒してから水気を切ってお皿に盛り差し出した。
「はいどうぞ。断面が立ってるからね、大きく動かしたほうは」
顔を近付けて見ると、どちらもマッチ棒の四分の一くらいの太さなのに角々があり、でもどっちがどうというのは肉眼ではわからなかった。
「どれどれ、じゃ試食といきますか・・」
醤油もつけないでそのまま数本ずつ食べてみた。
「・・あー、全然違う。これ、ひょっとしたら目隠ししてもわかるかも」
私が見ていないところで小皿に盛り分け、シャッフルしてもらってから食べてみた。
「若干自信ないけど・・・大きい動きのほうがこっち!」
「ファイナルアンサー?」
「・・・ファイナルアンサー」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「正解ッ!!」
「どぅおぉぉ~、ハズレたかと思った~」
「はははは」
「・・これさ、味もそうだけどちょっと時間が経つと見た目でわかっちゃうかもね。ツヤの保ち方が全然違うもん。包丁を小さく動かして切ったほうが白っぽくなるの早い」
主人が言った。
「刺身もそうなんだけど、野菜も断面がスパッて切れてるかどうかで味が違っちゃうんだよね」
「へー、そうなんだ」
「ツマがおいしいって言ってもらえると嬉しいよね。まぁふつうの寿司屋なのに機械で剥いているところはまずないと思うけど、やっぱり手でやってるとうまいんだよ」
こちらを向いたまま包丁がリズムを刻んでいる。
「あのさ、手元を見ないでもずーっと切れるの?」
「目ぇつぶってても切れるよ、ほら」
スッタスッタと包丁は動いていく。
「もう身体に染み付いてるからね」
スッタスッタスッタスッタ。
「若いコに任せちゃえば多少腕は鈍るのかもしれないけど」
スッタスッタスッタ。
「オレひとりだし。全部納得いくようにやりたいし」
スッタスッタ。
「まぁ人を教えないと成長しないよって言われそうだけどね」
端まで切り終えるとたらいに張った水にツマは放たれた。
ザルにあけ、ほどよく水気が切られたツマは光っていた。