四谷三丁目すし処のがみ・毎日のおしながき

新子・新イカ大きくなってきました。生すじこ粒がまだ小さいですが入ってきました。イクラは生しか扱いません。秋と冬だけです。

お弁当屋さん

2007-04-05 20:53:00 | 04 どんこ・しいたけ

ランチタイムを辞めて昼の売り上げがポコンと抜けたので

目の前にある生きて行くために必要な数々の支払いが

より早く迫ってくる感じがして焦っていた。


「お寿司のお弁当を売るっていうのはどうかな」

ランチを辞めて一ヶ月半が経った頃

主人に訊ねてみた。

「どこで売るの?」

主人は大根のツマをむく手を止め、カウンターに座る私に言った。

「んー、店の前とか」

「ビルの一階のとこで?」

「そう」

「・・キビシイんじゃない」

「何が?」

「何個も出ないでしょきっと」

「おいなりさんとかさ、十セットくらい売れないかな」

「どうかな」

「仕込みが終わったら少し横になって身体を休めることが

 できるだろうし、そのあいだ私が声張り上げて売れば

 いいんだからさ」

「新宿通りで売るわけでしょ。・・・ちょっと店のイメージがね、

 どうなのかなーと思ってさ」

主人はまた大根に目を向けカツラむきを始めた。

「店を離れて売るのはいいの?」

「そうねぇ。目の前で売るよりは」

「ちょっと遠くなら?」

「うーん・・・」

「どのくらい?四谷?市ヶ谷?」

返事はない。するすると薄紙のように繋がってむかれた大根が

まな板にただ折り重なっていった。

「ちょっと行ってくる」

「どこ?」

「市場調査」

「何の」

「お弁当事情の」

「何で」

「だって実際どんなふうなのか見てみないとわかんないじゃん」

「歩きで?」

「チャリだよ」

「・・・気を付けてよ」

「わかってるよ」

もう五年は着ている“ガチャピンコート”と呼んでいる鮮やかな

緑色のチェック柄のコートを羽織り、着ぐるみのジッパーを

上げるように前を締めた。 お財布をポケットに突っ込み

十一時半を過ぎた時計の針を見た。

「ほんとに気を付けてよ」

「わかってるって。ぐるって回ってくるだけだから」

階段を駆け降り、自転車に飛び乗った。


数寄屋橋交差点で交通事故を起こした時「ランチを辞めたい」と

主人が言った。この事故は疲れが溜まったのが原因だ、と。

今回は軽傷だったけれどいつまた睡眠不足が祟って集中力が切れ

大事故になるかわからない――。

それならば夜一本にして今以上に仕込みをきっちりとやり、

少しだけでもいいから身体を休めて――とにかく店をできるだけ

長く続けたいのだと言った。


数ヶ月前の出来事を思い出しながら走っていると、JR駅とJR駅の

ちょうど間くらいのオフィスビルが乱立している場所にたどり着いた。

飲食店もコンビニもそのあたりにはなく、坂の途中の信号機の横に

小柄な女性が立っているのが見えた。 足元には折りたたみ式の

コンテナが三つ積んであった。

片足を着き、ブレーキを握ったままその女性の後ろ姿を見ていた。

信号が青になってもその女性は渡らない。

するとオフィスビルから出てきたふたりの男性が小走りで信号を渡り

コンテナの蓋の中を覗き込みながら女性と何やら会話をすると

弁当とおぼしきものをそれぞれビニールの手提げ袋に入れてもらい

また戻っていった。


私はブレーキの手を弛め惰性で坂を下り、自転車を止めて

話しかけた。

「お弁当、見せてもらってもいいですか?」

女性は「あ、はい」と言って三つのコンテナにほぼ満杯に入っている

お弁当の説明を始めた。白身魚のあんかけ、鶏の唐揚げ、肉じゃが。

メインの場所に入っているものの違いはこれだけで、全部六百円。

あとのスペースのお新香とマカロニサラダとカツオの角煮は

皆いっしょだから好きなのを選んで、と言った。

「じゃあ、唐揚げと肉じゃがのをください」

注文のお弁当を取るため、被せてある発泡スチロールの蓋を取ったり

しながら女性が話しかけてきた。

「お近くなんですか?」

「・・・あ、はい。まぁ」

「こんなに寒いのにありがとうございます」

「いえ」

白いビニールの手提げに割り箸を入れながら

「じゃあ、千二百円になります」

と言って手渡してくれた。

千五百円を出すと、ウエストポーチのファスナーを開け

おつりをくれた。

「・・ここでもう、長いんですか」

勇気を出して訊いてみた。

「え、あぁそうですね。ずっとここでやってますので。あ、でも

 月金で土日はやってません、またぜひよろしく」

そう言うとまたコンテナの蓋がぴっちりと閉まっているかを

確認して真っ直ぐに立ちなおし、さきほど後ろから見ていた

姿勢になってしまった。

ああ、ただ単に新規の普通のお客さんだと思われている。

でもここで引き下がっては何も進まない。頑張るんだ、もし断られても

ひょっとしたらこの人の横でお弁当を売らせてもらえるかもしれない。

そうだとしたらこんなにうれしいことはない。

「あの、ここでもしお弁当屋さんをやるとしたら大変でしょうか?」

「はい?」

「実は寿司屋をやってまして、昼を外で売ろうかと思ってるんですが

 ここら辺の事情はどんなものかな・・と思いまして。すいません、

 先に言えばよかったんですけど・・・」

あちこちから吹き上げるビル風からコンテナと蓋を守るように

抑えながら女性は言った。

「四十五歳でこの仕事を始めましてね」

「・・はい」

「五年間、月金で一日も休まずこの位置に立ってます」

「・・・・・・」

「雨でも雪でも」

「・・・・はい」

「そういうことです。それでやっと少しだけ知られるようになった

 っていうくらいです」

「・・・・そうなんですか」

「ほかにも場所はあると思います」

「・・・・・・」

「ご自分で探して、一からそこに立って、築いていかれたら

 いかがですか?」

「・・・はい」

「きっとあると思いますよ」


女性はチラっと腕時計を見ると

「十二時半からこの先の予備校の前に移動します。仲間が

 車で迎えに来ます。もしよかったら見に来ますか?」

と言ってくれた。

「あ、いえけっこうです。あの、ありがとうございました。

 勉強になりました」

と私が言うと、「いえいえ」と言いながら毛糸の茶色い帽子を

取り、髪を振ってまた被りなおした。

「あ、来た来た」

数十メートル先のライトバンを素早く見つけると、コンテナを

道路ギリギリの積みやすそうな位置まで運び、指先が出ている

皮の手袋を外してウエストポーチの脇に挟んだ。

積み込みを終えると

「じゃ、がんばってくださいね」

と私に声を掛けてくれた。

口の中で小さく「はい」と言って頷き、車の方向にお辞儀をして

見送った。


生半可な気持ちじゃ出来ないな、と思った。