店がオープンする四日ほど前だったと思う。
梱包材に包まれた調理器具が散在している夕方、
試作のシャリが炊き上がろうとしていた。
主人は蒸らしが終わるタイミングをタイマーで確認しながら
酢合わせをする準備をしていた。
新品の三升用の飯切りと柄の長い杓文字はきれいに洗って
水気が切られていた。
絞ったサラシで再度木にわずかな水分を与えつつ、炊けるのを
待っていた。
「よし、オッケ!」
主人はタイマーがピピッと鳴るとすぐにストップボタンを押し、
釜の蓋を開け、ライスネットの四隅を持って炊けたばかりの
シャリを持ち上げすぐさま飯切りに広げると、そこらじゅうが
湯気と炊き立てのごはんの匂いにまみれた。
「ネット持って熱くないの?」
カウンター越しに声を掛けると主人は
「熱くない」
と言って調理台に置いておいた合わせ酢を手早く杓文字に
つたわせ回しかけた。
入れてあった小さいボウルはシンクに放り込んだ。
今度は酢の温まる匂いが加わった。
「そろそろだよね?そろそろだよね?ジャ、ジャ、ジャ、ジャーン!」
この日のために溜め込んでおいた五枚のうちわを
荷物が入っている紙袋から取り出して主人に見せた。
お義母さんがシャリを炊く姿を何度か見てきた。
カッコイイし、私も店を始めるからには他のことは出来ないけれど
せめてうちわで扇ぐくらいはお手伝いしたいなと思っていた。
テレビを見ていても酢飯を混ぜる主人の横で誰かが扇いでいたり
もっとすごいところは何台も扇風機を回していたりする。
ならばバッタバッタと荒れ狂ったようにうちわで扇いでみせましょう、
両手と、なんなら口にも挟んでやりますよ
くらいの気持ちになっていた。
「うちわ要らないから」
杓文字を平行に動かしながら主人が言った。
「へ・・・ぇ?要らないの?」
「うん」
「ウソォ・・バタバタ扇がないの?」
「扇がない」
「何で?」
「何で・・って。必要ないから」
「マジで?」
「うん」
「・・・だって、だって実家はさー、うちわ使うじゃん!」
「あー、・・まぁ、シャリ炊く量も多いからね。熱こもっちゃうと
アレだから冷ますために扇ぐけど、あんまりやるとシャリが
乾いちゃうからね、かえってどうなのかなと」
「そうなんだ」
「あと飯切りが水分吸うでしょ。だからそんなにはね扇がなくても」
「あー、なるほど・・」
プラスチックのやら、浴衣の後ろに挿すような洒落たのやら
缶ビールを買った時についてきたのやら、用無しのうちわが
ばらんばらんと調理台に置かれていた。
うな垂れていると、主人は一番取りやすい位置にあった
昭和六十年くらいに作られたと思われる千葉のガス会社の
代理店名が入ったビーバーだかラッコだかわからない
キャラクターが描かれたうちわを手に取った。
「まぁ、もしやるとしてもこんな感じかな。さっ、さっ、と」
飯切りの上で二回ほど扇ぎ、シャリの上にきつく絞った
サラシを被せた。
「もう少し酢が馴染んだらね、試食してもらうから」
主人の言葉に頷きながら
うちわを使わない店があるのだという驚きと
準備してきた気持ちが打ち砕かれたという恥ずかしさと
これから初めて主人の力が100パーセントの
シャリを食べることができるのだという期待感とで
頬が少しだけ紅潮した。