甘い出汁と卵が焼ける匂いが店内をめぐる。
主人のメガネは熱気とこまかい油で曇り、玉子焼きは
仕上げの段階に突入した。
表面に焼き目をつけるため、ゲタと呼ばれる小さい
木の蓋のようなものを使って玉子焼きを寄せたり
ひっくり返したり、焦げ色がつくまで押し付けたりしていた。
卵を割りほぐしたボウルの中身はくり返しおたまで注がれ
四角いフライパンの上でくるくる廻され玉子焼きになった。
でもほんのわずかにボウルの内側に卵液が残っている。
これを捨ててはいけない。
これを洗い流してはいけない。
修復材に使うかもしれないからだ。
開店して間もない頃、初めて主人がお客様の前で焼いた時
役目を終えたボウルに手を伸ばして洗おうとしたら
「まだダメッ!」と怒鳴られた。
「仕上げの段階で玉子焼きの表面に目立つ窪みがあったら
残りの卵液で埋めて平らにしたり、巻いた端のほうが少し
剥がれていたら接着させるために使ったりするから完全に
焼き上がるまでボウルは洗ってはいけない」
と教わった。
あの時以来、艶よく光る玉子焼きに主人が包丁を入れ始める
のを確認してからボウルに手を伸ばすことにした。