四谷三丁目すし処のがみ・毎日のおしながき

新子の季節です。6/下旬~9/上旬まで小さいコハダを追い求め、繊細な酢〆を施します。新イカ入りました。

手に付いた墨

2007-04-30 19:36:00 | 04 どんこ・しいたけ

スミイカの墨はねっとりとしていて量も多く、仕込んでいる

途中で手に付くとなかなか落ちない。

「肝をね、石鹸のように擦り付けてから水で流すと落ちるっ

 て言われているんだよね」

主人はさばいた時に出たピンポン玉大のスミイカの肝を

シンクの中から拾い上げると手のひらに載せ、空いている

ほうの親指でグチャグチャと潰してまんべんなく手にまぶした。

「こぉーしてー、こーすーるーとー・・・」

蛇口からの水で墨の黒や肝の黄土色が流れ落ち

完璧とまではいかないが、薄っすら黒が残るくらいまでになった。


翌日、築地から帰って来た主人が言った。

「いつも仕入れる仲買いさんのところでさ、たまたまスミイカを

 さばいてるところを見てたら墨玉が少し傷付いて墨が出ちゃっててさ、

 “墨が手に付いたら肝で擦るとよく落ちるんですよねー”って

 オレだってそのくらいのことは知ってます的にさり気なく言ったの。

 そしたら“・・いつの時代の話してんの?今はね、うーんといいモンが

 出てんの、ほら。これ使うとイッパツで落ちるよ。皆これ使ってっから”

 って市販の洗剤出されちゃった、ハハハ」

そう言いながら照れていた。


ウニの店

2007-04-29 19:58:00 | 04 どんこ・しいたけ

店を始めるというのはどこか転校生と似ていると思う。

地元の業者さん同士は古くからの知り合いで、地元の

お客様同士も知り合いで、そして業者さんとお客様も

知り合いで。そんなコミュニティがすっかり出来上がって

いるところに新規参入するというのはけっこう大変なこと

なんだなと思った。

いざ店をオープンさせてからしばらくはどうやって自分たちの

ことを知ってもらうか説明ができず困っていた。

周囲の方はもっと困っていたようだった。

せっかく新しく出来た若い板前さんの店を盛りたててやろうと

心を砕いてくれるのだけれど、寿司屋を始めたというだけで

私たちが何か語る糸口になるようなことをひとつも出さないので

何がどうなんだか情報が掴めない。

主人はもともと多くを語らない上に仕込みや調理など

やらなければいけないことがいっぱいでそんなことを

アピールできるわけがない。

残る私はといえば始めたばかりのこの店のどこを具体的に

伝えればいいのか、他の店との違いは何か、想いは強くても

言うべき言葉が出てこなくてずっとオウオウと唸っていた。

しばらく経って皆さんが会話の中から導き出してくれたのが

「ウニにはうるさい店」 だった。

六月中旬、北海道利尻島の蝦夷ばふんウニの漁が解禁に

なってからおよそ二ヶ月、ウニ漁が終わるまで仕入れて

あと九月から五月は質と仕入値の折り合いがつかない限り

ウニは置かないと決めて主人はそれをお客様に説明し続けた。


「ウニの店」 というキャッチフレーズは

その後の 「かんぴょう巻と煮タコがうまい店」

にシフトするまで続いた。


玉子焼き 2

2007-04-28 15:57:00 | 04 どんこ・しいたけ

甘い出汁と卵が焼ける匂いが店内をめぐる。

主人のメガネは熱気とこまかい油で曇り、玉子焼きは

仕上げの段階に突入した。

表面に焼き目をつけるため、ゲタと呼ばれる小さい

木の蓋のようなものを使って玉子焼きを寄せたり

ひっくり返したり、焦げ色がつくまで押し付けたりしていた。

卵を割りほぐしたボウルの中身はくり返しおたまで注がれ

四角いフライパンの上でくるくる廻され玉子焼きになった。

でもほんのわずかにボウルの内側に卵液が残っている。

これを捨ててはいけない。

これを洗い流してはいけない。

修復材に使うかもしれないからだ。

開店して間もない頃、初めて主人がお客様の前で焼いた時

役目を終えたボウルに手を伸ばして洗おうとしたら

「まだダメッ!」と怒鳴られた。

「仕上げの段階で玉子焼きの表面に目立つ窪みがあったら

残りの卵液で埋めて平らにしたり、巻いた端のほうが少し

剥がれていたら接着させるために使ったりするから完全に

焼き上がるまでボウルは洗ってはいけない」

と教わった。


あの時以来、艶よく光る玉子焼きに主人が包丁を入れ始める

のを確認してからボウルに手を伸ばすことにした。


かっぱ橋まで

2007-04-27 00:37:00 | 04 どんこ・しいたけ

飲食店を始めるのにはたくさんのグラスが必要だ。

酒屋さんから無償で提供してもらうものと

以前ここで営業していた居酒屋さんのもの、

そして最終的に足りないものは実家からいただいて

そのほとんどをまかなおうと思った。

酒屋さんからもらった酎ハイ用のグラスには

真っ赤なローマ字で商品名が入っていた。

居酒屋さんが置いていったビールグラスには

青い文字でメーカー名が、のんちゃん寿司から

もらったロックグラスには黒い文字でお酒の名前が

印刷されていた。

主人は「グラスがきちんと洗ってあるかが重要で

どんな高級グラスを使っているかというのは問題

ではない」と言った。

実際開店してみるとお客様は開店直後の気合いを

感じてくださったのか、あえてそういうものを

面白がってくれた。

酎ハイグラスにプリントされている星のマークを

指差しながら「ここ、この底から二つ目の星のところの

濃さで作ってね!」と言ったりしてくれていたので私も

それでいいと思っていた。


オープンして二年半になろうかという頃のことだった。

いつも来てくださる方が初めての方を紹介するからと

お客様をおひとり連れて来てくださった。

暑い日だった。まずは冷たいお茶をということで

酎ハイグラスにたっぷりと入れた冷茶をお出ししたら

“商品名のプリントされたグラスを出すようなお店に

あなたは来ているのですか?私はちょっと遠慮したい”

というようなことを遠回しに言われてしまった。

連れて来てくださったお客様は黙っていた。

私はギクッとした。

自分の中ではっきりとした意志が固まっていなかった

からだ。

「実は買い替えたいと思っているんですよ。やっぱり

無地のグラスですよね」と言い切るほど替える必要性を

感じていなかったし「名入りのグラスでもぜんぜん問題

ないじゃないですか。うちはずーっとこのままですよ」と

笑い飛ばすほど吹っ切れてもいなかった。


それから数日後、ランチの営業が終わってすぐ

出掛ける準備をした。

「かっぱ橋行ってくる」

「今から!?」

主人が驚くのも無理はない。グラスの買い替え問題は

保留のままだったからだ。

「グラス買いに行くの?」

「そう」

「全部?」

「いや、さすがに予算的にキツイ・・っていうか本当は

 何も買えないくらいキツイ。でも酎ハイグラスとビール

 グラスだけはど――しても替えたい。ど――しても。

 何だかわからないけど、急に替えなくちゃダメって気に

 なって」

「何も今行かなくてもいいじゃない。今度の休みに行けば」

「い―や、今日の営業に差し支える。買って帰ってこれる

 時間がギリギリでもあるのに行動に移さないで、全力を

 尽くさないまま夜の営業に妥協した気持ちで臨みたくない。

 そんな腐った気持ちでやったら絶対伝わる。それは絶対に

 よくない」

「・・・じゃあ気を付けてよ。無理に急いで帰ってこなくても

 いいから」

「だいじょうぶ間に合うから」


ロックグラスが並んだ棚を眺めながらお会計を

待っているとお店の人から声を掛けられた。

「ええと今ならまだ配送間に合うから・・明日の

 午後には着きますけど」

年配のその人は下がり気味の眼鏡の上からちらりと私を見た。

「今日使いたいんで持って帰ります」

仁王立ちのまま言った。

「・・・ああ、そう。え―っと、十六と十六、三十二ありますよ。

 お連れの方が?」

「ひとりです」

「えっ・・」

ボールペンを持ったまま絶句している男性のもとに、先ほど接客してくれた息子さんらしき人がビニール紐を持って戻ってきた。

「いやオレも言ったのよ。そしたら都内で大丈夫だって言うからさ、

 二個ずつ振り分ければいいかな」

「はい、すいません」

「都内ってどこ」

「四谷三丁目です」

「はー」

「オヤジほら早く手伝って」

「ああ」

お店の人はグラス六個入りの箱を二個ずつ紐で縛り

手の部分にプラスチックの持ち手を付けてくれた。

「あと八個、八個・・・どうしようかな。肩に掛けるくらいっきゃ

 もう身体空いてないよねぇ・・」

「あれは?商店会で作った」

「ああ、あれか。ん―、あと二枚か三枚なんだ・・・いいや!

 お嬢ちゃんだからやっちゃおう!」

お父さんはレジ横の引き出しから不織布で出来た紺色の

大きなバッグを取り出した。

「かっぱちゃん!かっぱちゃんのプリント!ほら、かわいい

 でしょー。去年お祭りで作ったんだよ。これなら拡げりゃ

 箱ひとつかふたーつ入るだろ、な、な?」

息子さんは喋っているお父さんからその手提げバッグを

取り上げると手際よく六個入りの箱ひとつと緩衝材に

包まれた二個のグラスを入れて肩に掛け、両手に箱を

持って二度三度しなり具合をチェックしながら

「オッケー、これで大丈夫でしょう」と言って私に

持たせてくれた。


しばらく歩き振り返ると心配そうに見送っている

お二人の姿が見えた。

「気を付けて―!」

お父さんは手を振ってくれている。その言葉に頷きながら

向き直った。肩のかっぱちゃんをもう一度背負いなおし

両手にぐっと力を込めて持ち上げた。

重い。

思ったより重い。そして背中にまだ視線を感じる。

格好をつけて商店街の端っこまでノンストップで

ガンガンに歩きたかったが二十メートルおきに

休憩しながらが精一杯だった。

かっぱ橋通り商店街の入り口、洋食器のニイミに

到着した。ニイミの巨大コック像はビルの屋上にある。

信号を渡って少し距離を置いたほうがよく見えた。

「ニイミのおっさんよぉ・・。私のしていることは合って

 ますかね?」

まっすぐ前を見つめて動かない像に問いかけてみた。

銀座線田原町まであともう少し。


ありがたいことに四時過ぎの地下鉄の車両は五時台ほどは

混んでいなかった。赤坂見附で丸の内線に乗り換え

四谷三丁目の二番出口を出た頃には首と腕と指の筋肉は

ほぼ麻痺していた。掛け声だ。掛け声を掛けないともう

持ち上げられない。目に飛び込んだ看板の文字を心の中で

思いっきり叫んだ。

「だ、い、ま、す、の、すまいだ――――っ!!!!」

その勢いで少し進んだがまた力が尽きた。

妻家房の前で荷物を置いたらわるいのでもう少し粘って

数メートル先まで進んだ。

痛む手をさすりながら私は何をしに行ったのだろうと

思った。我を通しに行っただけだ。しかもグラスを買った

お店の人に手厚い協力までしてもらって。

二年半というなんともあいまいな時期に、方針が定まって

いなくって、二種類だけ替えるのが正解かも分からないまま

何を中途半端なことを、さも一生懸命やってますみたいな

顔をしてやってんだと思った。


店に辿り着くと主人が荷物の多さを見て少し驚き

「ごくろうさん。すぐ使いたいんでしょ、洗うからシール

 剥がしてこっちによこして」

と言った。

開店までギリギリの時間だった。

主人にも迷惑をかけてしまった。


しかもそこまでして替えたグラスだったが評価はあまり

よくなかった。いままでのでよかったんじゃないの、と。


でも結果がどうであれもがいてよかったと思う。

もがかないよりもがいたほうがいいと思うから。


昭和のサンプル

2007-04-26 01:04:00 | 04 どんこ・しいたけ

それはどんな商店街を歩いている時でもだ。

ナポリタンにホコリが被っていても、天津丼の

グリンピースが二つ三つ取れてしまっていても

海老天がのった鍋焼きうどんのおつゆが濁って

ひび割れていても、ショーケースのサンプルが

色褪せているのを見ると主人はぽつぽつと話を

始める。


「学校から帰ってくるとサンプルをメンテナンスする

 おじさんがいたりしてさ、よく見てたなー」

「ああ、お店のサンプル?」

のんちゃん寿司が上落合の駅のすぐそばにあった

ことを思い出して私は訊いた。

「サンプルって買い替えるだけじゃないの?」

「あれ高いんだよー。大事に長く使うんだよ。・・・たしか

 月いちでニスみたいなテカるのを塗りに来て、三ヶ月に

 一度海老とか玉子とかの色を直しに来て、あれ蝋で

 出来てたのかな…なんか夏場はしょっちゅう直しに来て

 冬はそうでもなかったような・・・。その頃店はずーっと

 営業していて今みたいにランチタイムとか分けてなかった

 から午後二時とか三時にそういう業者さんが出入りして

 いてね。いろんな色の塗料とか太さが違う何本もの筆を

 使って塗ったりするのを見るのが楽しくてショーケースの

 周りをウロチョロしてさ。そうすると親にジャマだからほら

 どっか行ってろって何軒かとなりの駄菓子屋さんに追い

 やられたり」

「お兄さん達は見てなかったの?」

「そうねぇ、オレが小一くらいだったから一番見ていて

 面白がる時期だったのかもしれないね。兄貴は見て

 なかったね。“ボク、こういうの好きなの?”っておじさんに

 訊かれたり」

「どんな感じの人なの?」

「・・・ベレー帽を被っていない藤子不二雄」

「うわっ、わかりやすっ」

「ズボンはスーツの下だけの感じ、柄のあるシャツにベスト、

 で、もの静かな・・」

「藤子不二雄でもうじゅうぶん伝わっています」

「出前桶、店で出すゲタ、お土産用の折箱は本物なのね。

 それぞれに寿司のサンプルが並んでいて修復するのに

 除けると陽が当たってない容器の部分は新品のまんまの

 色でね。またもとの位置に並べてガラスケースの扉を

 おじさんが閉める時に今度はいつ来るの?って訊ねたり」

「なんかかわいい小学生だったんだねー」

「まぁね。生意気だったけどね」


のんちゃん寿司は路面店だった。

見たことはないけれど

おだやかな陽の当たるショーケースは

思い浮かべることができるのだ。