おかみノート
主人の実家はお寿司屋さん。私はなんにも知らないドシロウト。
今まで見たり聞いたり体験した 寿司屋のいろんなことを書いておきたいと思います。
真っ白
店を始める前は相当な“アタマでっかち”になっていたと思う。
私もどこかの飲食店で経験を積んでからじゃないと店に参加してはいけないのではないかと考えていた。
「ね、お願い。できれば半年待って。ムリなら三ヶ月。寿司店か和食の店でお給仕の仕事してから店に出たいから」
店の物件が決まりかけた時、主人に懇願した。
「だいじょうぶだって。ホテルの仲居さんにうちのカミサンがどこかで勉強してからじゃないとダメじゃないかって悩んでるんですけどって訊いてみたけど“下手にどこかの店のクセがつくより、気持ちがちゃんとしてれば、技術は後からついてくるから心配ないわよ”って言ってたんだから」
それでもぐずぐず決めかねていると
「あのね、何ヶ月かやったからって同じだよ。多少慣れたかなっていうくらいだよ。準備準備・・って準備ばっかりしてたら年を取っちゃうよ。たとえばね、八十歳、九十歳くらいになって資金が貯まったし店をやるノウハウも取得できた、さぁやりましょうったってその時は体力が無いよ多分。どのくらい修行したら店を出していいですよ、なんていう決まりはないんだよ。何もかも完璧にしてからスタートなんかできないし、そりゃ始めてからもいろんなことがあると思うよ。でもそんなのしょうがないじゃん。やるしかないの」
そう言われそうかなとも思い、同時に店の賃貸契約がどんどん進みお客様をお迎えすることになった。
開店初日。
緊張もあってどの方が生ビールを頼まれたのかがわからない。
「・・ビ、ビールのおきゃくさまぁ・・」
満席の中、小さい声なので誰にも聞こえない。泡はどんどん減っていく。見かねたカウンターの女性のお客様が満席の店内に向かって
「生ビールどなたですかー?はーい、そちらですねー」
と救いの手を差し伸べてくれた。運んでからお礼を言うと
「わからない時は大きな声で“生ビールのお客様はどちらですかぁー?”って言っちゃっていいんじゃない?のんちゃんも手が放せない状況だし。アッケラカーンと言っちゃえばいいのよ。さ、ほら、がんばって!」
その後も焼酎の水割りを作ったりお茶を入れたり、お会計をしたり食器を洗ったり、前日の予行練習が功を奏してかどうにか乗り切ることができた。
閉店間際、最後のお客様から「お椀四つね」とオーダーが入った。しばらくすると「あがったよ―!」と言われたのでカウンター越しにお盆を差し出し、お味噌汁を四つ主人にのせてもらい、小上がりのテーブルにひとつずつ置いていった。すると
「ゆびッ、ゆび――ッ!」
と突然怒鳴るように言われた。
言われて自分の手を見ると、中指と親指でお椀を持ち人差し指がピーンと立っていた。
「お椀を片手で持つのもそうだけど、人差し指を立てたまま持っちゃダメでしょうが――!常識でしょ?そんなこともわかんないの?こう、両手で持って、静かに置くッ。こういうのはクセになっちゃうから最初が肝心なんだ。覚えといたほうがいいよ!」
その人はOLの時よく通っていた飲食店の方で、ホールの責任者という仕事柄気になって注意してくれたのだろう。一緒に来た店長は黙ったまま少しニコニコしてその人に
「まぁ、まぁ」
と言っていた。
「はぇっ、すいません・・あ、ありがとうございます」
“はいっ”ではなく“はぇっ”となってしまったのは動揺していたからだ。
まさか人前でそんな勢いで叱られるとは思っていなかった。
いや、もちろんありがたかった。
陰でコソコソ「間違ってるのにねー」とか言われるほうがよっぽどイヤだ。
でもやっぱり恥ずかしかった。
笑顔でお客様を見送ったあと、暖簾を入れながら少し泣いた。
「そんなことでいちいち落ち込んでたらキリがねぇぞ」
祐兄ちゃんに言われた。
そうだ。
私は素人のまま飲食の世界に足を踏み入れたのだ。
これから間違ったことをしでかす可能性がゴマンとある。こんなことで日々落ち込んでいたら本当にキリがない。社会人として十数年やってきたというプライドが「ゆび――ッ!!」という一言で見事に砕け散った。
真っ白。
そう、すべてリセットして真っ白だ。
かっこつけないでひとつずつ吸収していこう。
入魂のゲソ焼き
夕方、カウンターを拭きながら主人に話しかけた。
「きのうお客さまに“ここのゲソ焼きはうまいね”って褒められてたよね」
「それはね・・」
アルコール除菌スプレーを厨房の作業台やその周りに噴霧しながら、少し考えるようにして主人は続けた。
「言われたことがあるんだよね」
今度はきつく絞ったサラシでまな板を拭き始めた。
「鮨雅に勤めてた時にね、お客さんに怒られたんだ。“手を抜かないでちゃんと焼け!”って」
「へぇーそんなことがあったんだ」
「その時さ、下っ端だったから同時に四つくらいのことをやらなきゃならなかったんだよ。巻き物やりながら裏の厨房のお吸い物のようすを見に行ったり、出前が入ったら握って届ける準備をしたり」
「うわ、すごいね」
「いや普通だけどね。その時、イカのゲソ焼きの注文が入って」
「うん」
「網にのせて中火・・うーん、弱火だったかな。そのまま別のこといろいろしてて、けっこう焦げ焦げになっちゃったのね」
「あらー」
「で、ブツブツ切ってそのまま出したらものすごい怒られた」
「ありゃりゃ~」
「“イカゲソってな、ものすごくうまいもんなんだぞ。俺はな、この店のゲソ焼きが好きなんだ。こんな焼き過ぎてな、ガビガビになったもん出すんじゃねぇっ!”って言われて」
柳刃包丁を納めてあるところから出し、まな板の正面、いつもの位置に置いた。
「その時うわ~って思って。もうそれ以来毎回必ず気合い入れて焼いてっから」
私はゲソ焼きの風景を思い出していた。
たしか強火だ。網の上でイカを躍らせるくらいガンガンに熱して、金箸で何度も素早くひっくり返し、短いタイミングでまな板にあげ、食べ易い大きさに切っていたなと思った。
熱い網に生のイカが触れた瞬間に“キューン”あるいは“チュイーン”と鳴っている音だけは、洗いものをしながらでも耳に入っていた。
あの時そんなことを考えながら焼いていたのか。
「おいしそうな焦げもあるんだけれども、イカのプリプリ感は残しつつ火は通っているけどガリガリに焼き過ぎない、と。そう肝に銘じてやってるから」
開店五分前。
帽子の位置が中心になっているか両手で確認しながら店の中全体に聞こえるように主人は言った。
「さ、今日もがんばりますかぁ!よろしくお願いします!!」
振り袖
明日のお稽古は振り袖だ。
十三年前、成人式には出席しなかったし振り袖を着た写真も撮っておかなかった。
ならば三十歳を過ぎたとしても七五三以来せっかく晴れ着を着るのだから、親に見せておこうというのが娘ゴコロというものだ。
着物教室用のカバンの中にカメラを入れた。
教室に着くと、すでに貸衣装の振り袖を広げて雑談しているひとが何人か目に入った。
「おはようございまーす」
小さい声で挨拶をして靴箱に自分の靴をしまっていると
「おはよう・・あれ?野上さん、お化粧してる」
「・・ん?髪もちゃんとアップにしてるじゃん!あ、きょう振り袖だからだ~」
同級生に目ざとくチェックされてしまった。
ふだんの練習の時はシャワーを浴びたまんまの顔で頭は茶色のゴムでぐるぐると高い位置にしばり、ポニーテールだと襟足に髪がかかってしまうので最後のひとくぐらせを中途半端にして髪を挟み、つまり家にいる時と全く変わらない状態で授業を受けていた。
いくら無頓着な私でも晴れ着にはちゃんとしたヘアメイクをしたほうがいいくらいわかる。
振り袖を着るというだけでこんなにも気分が昂るものか。
いつもより少し早く起き、いつもより華やかな気持ちで仕度をして電車に乗ってここまでやってきた。
「野上さん、たしかオレンジだったよね」
同級生が箱の中から畳んだ振り袖を渡してくれた。
家から持ってきた袋帯もオレンジ色だった。
先週、好きな色を生徒が順番に選んでいった。私のところにきた時には青かオレンジが残っていた。
オレンジ色の帯を持っているならば青の振り袖が映えると思う。しかし七五三の時の母の一言がよみがえってきた。
「肌の色が白いひとは赤、青、ピンクが似合うのよ。有紀ちゃんは色が黒いから黄色がよく似合うわ」
山吹色の着物に千歳飴を持った自分の姿を思い出した。
「オレンジでお願いします」
思わず口走っていた。
「はい、ふたり一組になってー。それぞれ相手に着せてあげてくださーい」
自分のを着付けてもらう時は鏡は見えない。
でも、いまどうなっているかはわかる。
高い位置で帯を締め、帯揚げをいりく結びにされていくだけで振り袖だぁ、華やかだなぁ・・と思う。
少女の気持ちになってうっとりしていると
「さ、できたよ」
と鏡を向けられた。
「うわっ」
そこには全身オレンジの、やや疲れ気味なミカン星人が立っていた。
ファンデーションはくずれ、目じりにはシワ。
顔全体に脂が浮いていた。それで“大振り袖”という違和感。
あまりの似合わなさに声が出た。
体を斜めにして帯を見るとかわいらしいふくら雀を背負っている。
「・・やっぱりちょっとムリがあるのかなぁ」
がっくり肩を落としていると、あとの四人は「かわいいー♪」を連呼してお互いを褒めあっていた。
よく見ると、けっこうみんな似合っていた。
二十代の人はもちろん、私より年上の人もいたが若く見えるし馴染んでいる。
私に足りないものは何だ。
何で私だけウキウキできないんだろう。
「野上さんもカメラ持ってきたんでしょ?撮ってあげるから貸して」
己を鼓舞できないまま撮影タイムになり、それでも必死にポーズを作って“いかにも成人式”という感じの写真を何枚かは撮った。
「はーい、じゃそろそろ着替えてくださーい」
先生の指示で一斉に帯を解き始めた。
隣で着替えている同級生に話しかけてみた。
「ねぇ私、腐りかけのミカンみたいじゃない?」
「そんなことないってー。いいじゃん似合ってるよ」
「“オレは、オレは、腐ったミカンじゃねぇっ!”」
「・・・?何それ」
「加藤優のマネ」
「かとうまさる?」
「金八先生の」
「え・・」
「松浦悟と同級生の、ほら松浦悟は沖田浩之」
「・・・・」
「加藤優は直江喜一」
「・・ごめん、わかんない」
そのあとは黙って着替えた。
「写真が届いたよ」と母から電話があったのは定休日の昼間だった。
「お父さんがね、“有紀子らしいや”ってウケてたよー」
「私、なんだかミカンのお化けみたいじゃなかった?」
「あははは」
「もしくは売れない演歌歌手」
「まぁそんなこともないけどね・・」
「クラスでみんな盛り上がってたんだけど、私だけ テンションあがんなくてさ・・」
と言うと母は言った。
「三十過ぎて振り袖着りゃあんなもんでしょうよ。土台ムリがあるんだから。あなたね、気負い過ぎ」
そうか。
私に足りないものは肩の力を抜くことだった。
二人で寿司屋に
「○○通りにあるビルの地下一階のお寿司屋さん、あそこはおたくの店に似ているからぜひ行ってごらん」
とお客様に言われて主人が行く気になった。
普段はどれだけお客様に勧められてもまず行かない。
主人は寿司は好きだが、寿司屋に行くのがあまり好きではない。
でもなぜだか今回は乗り気な様子だ。
さっそく定休日に予約を入れた。
ビルの前で確認した。
「“寿司屋やってます”って言う?」
「うーん、紹介だし、言ったほうがいいでしょう。それにオレ水仕事してるから酒飲むとすぐ手が赤くなっちゃうし、板場を見る目つきなんかでどうせわかっちゃうからね」
「よし、じゃ行こう」
早い時間にもかかわらず、八席ほどあるカウンターには既に二組のカップルが座っていた。私たちの席がど真ん中ふたつ空いている。
「いらっしゃいませ、さ、どうぞ」
四十歳くらいのご主人に席をすすめられて私たちは座った。
生ビールを頼み、主人は「お刺身でマグロとヒカリものを」と言い、私は「イカと貝を何か」とお願いした。
ビールをぐぐっと飲むとすぐに目だけで主人と会話をした。
(シパ、シパ)
→「ちょっと、どうすんの?同業者だってカミングアウトするなら今のタイミングなんじゃないの?」
(シパ、シパ、シパ)
→「いや、待って。まだ、まだ」
コソコソしていると ご主人が声を掛けてきた。
「あの、きょうはシマエビが北海道から入ってますけど」
「あっ、頂きます」
私が答えると、エビを取りに行くためかご主人が板場から離れた。すかさず小声で会話をした。
「なんですぐに言わないの?」
「両横にお客さんがいるでしょ?こういう時はね、板前としてはものすごくやりづらいのよ。“うわ、寿司屋に寿司屋が来てる!さぁどんなもん出すんだろう”って、食べに来てるお客さんも興味津々になっちゃうしね。だから様子見て周りのお客さんが少なくなった時を見計らって言うから」
座り直して何事もなかったような顔をしてお刺身をつまんでいると、まな板の上でシマエビを持ち上げながらご主人が言った。
「ほぉーら、大きいでしょう?甘エビはよく見るでしょうけど、シマエビっていうのはなかなかないんですよ。縦に縞が入ってるからシマエビって言うんですけどね。このエビはね、海水の中では薄い緑色をしているんですよ。でもね、引き上げたとたんにパァ~って真っ赤になっちゃうんですよ。不思議でしょー」
私を見ながらご主人が熱心に説明してくれた。
「は、あぁ、そうですね。・・はっ、恥ずかしがり屋さんだから海から出た途端、真っ赤になっちゃうんですかね~・・なんて、ははは」
私の苦し紛れの返答にご主人は少し笑うと、生きているシマエビの殻を手際よくむき、赤い筋が入ったプリプリの身のほうだけ残し、エビのミソが入った頭と殻と腹に抱えていた黄緑色の卵を数尾分まとめて捨てるのかあるいは何かに使うのかわからないけれど、それを持ってまた暖簾の奥に消えていった。
「ほらっ、言わないからもう、すっごい薀蓄バリバリ教えてくれちゃったじゃん!どうすんの?いまさら“寿司屋です”なんて言ったら丁寧に説明してくれた大将が恥かいちゃうよ。もう言えない、あぁ、もう言わないほうがいい」
それだけをまた小声で手短に言うと、あとはひたすら食べて飲んだ。
主人は穴子、こはだ、〆鯖、玉子焼き、かんぴょう巻きなどを中心に頼んだ。これらは店によって特に個性が出るものだ。
主人は包丁さばきも、じーっと見る。目がずっと動きを追っている。
もうバレたらバレたでいいか、と思いながらお茶と柚子シャーベットまでいただいた。
「じゃ、ごちそうさまです」
主人が言うと女将さんがおしぼりを持ってきてくれた。
お会計を待つ間、カウンター越しにご主人が私に向かって言った。
「月曜日・・平日。ご夫婦おふたりで・・。六時から揃ってお食事に来れるってことは・・ひょっとして自営の方?」
固まったまま曖昧に弱く笑った。
「アパレル・・かな、洋品店か何かやってらっしゃる?」
もうそれに乗っかろうと思った。
「あっ、まぁそんな感じです。はい」
隣の席で主人がズボンの後ろのポケットにお財布を納めたのが見えた。
「あっじゃあどうも、ごちそうさまでした!」
地上に出る階段を駆け上がった。
「もう今度からお店に行く時は、先に言うか、ずーっと最後まで明かさないかどっちかにしよう。いや、まいったよー」
息をあげながら私が言うと主人がひとこと言った。
「今回は行ってみたけど、やっぱりオレは寿司屋に行くのはあんまり好きじゃないなー」
あのお店のご主人はきっと気付いていたのだろう。
私たちの職業予想候補第二位の、アパレル関係を持ち出して出方を見たのだろう。
「寿司屋さんだとは思うけど、そっちが言いたくないなら聞かないよ」
ということなのだと思う。
あぁ、やっぱり二人で寿司屋に行くのは考えたほうがいいのかもしれない。
五ツ切り
かんぴょう巻きを五ツ切りにしてみようかと主人が言った。
「は?“かんぴょう巻きは四ツ切り”って決まってるもんなんでしょ」
「よく知ってるね」
「だって『将太の寿司』に書いてあったもん」
「あ、そうなの」
「五ツ切りなんていうのがあるの?」
「いやないよ。オレが考えた。かんぴょう巻きの四ツ切りってひとくちで食べると大きくない?昔やってみたことがあるんだよ。一本の細巻きを切らないで何口で食べ終えるのかって」
「うん」
「そうしたらね、五回だった。だから五等分に切ってみよう、と」
「ほー・・」
主人は手早くかんぴょう巻きを巻くと細巻きの腹の真ん中あたりに柳刃包丁の切っ先を、何度も何度もあて始めた。
「・・・・」
眉間にシワが寄っている。
「・・・切らないの」
「どうやって切っていいのかわかんない」
「はぁっ?」
「いやね、細巻きはまず真ん中で切るでしょ。で、その二等分したものを揃えて、六ツ切りならそれを三等分、四ツ切りならもう一回真ん中を切るっていう動きを目ぇつむってもさ、ピチーッと同じ長さに切り揃えられるまで繰り返し繰り返し叩き込むわけ。大げさに言うと五等分にしようとすると、どうしても四ツ切りか六ツ切りかのいつも切る位置に手が自然に戻っていっちゃう、みたいな」
「ひぇー・・」
「・・五等分となると、一本を三対ニになるようにして、それぞれを切り分けたほうがいいのか、端っこの一切れをまず五等分のサイズに切って、残りを四等分にしたらいいのか」
そう言いながら主人は既に巻いてあった一本は前者の切り方で、そしてもう一本すぐに巻き、後者のやり方で五つに切った。
「あれ!やっぱ、ずれちゃうなー」
バラバラの長さのかんぴょう巻きが十切れ、まな板に並んだ。
主人にとってはかなりショックな出来だったようだ。リベンジでもう一本巻こうとしている。
私はレジ横に置いてある定規を持ってきて言った。
「測ってみたら?細巻きの長さが・・19.5cmでしょ。えーとえーと、割る5で・・ひと切れあたり3.9cm」
端っこのひと切れを定規で測って3.9cmに切り、あとを四等分にしたら、きれいな五ツ切りになった。
「おー、できたけど、これまたやれって言われるとオレ無理かもしんない」
「まな板のどこかにさ、四ツ切りとか六ツ切りの目盛りを付けとく人とかいないの?そういう感じでこっそり五切れ用の印を付けておくとか」
「あっはっは、板前はそんなことするわけないでしょ。たとえばね、全然知らない板場に行ったとして“目盛りがないから切れません”なんてあり得ないでしょう」
たしかにそんなことをするわけがない。自分の姑息な部分を見られたようで恥ずかしかった。
少しの間黙っていると
「ちゃんと切れたやつ、食べてみようよ」
と促された。
同時に五ツ切りのかんぴょう巻きを口に入れた。
「・・・・・」
「・・・・・」
先に呑み込んで終わった主人が言った。
「あんまりうまくねぇな」
私はまだ口に入ったままだ。
「大きさは口にジャストサイズだけどな」
「・・・うん。やっぱり口に余る四ツ切りのほうがおいしく感じるね」
「この長さになったことには理由があるんだな。やっぱり」
「そうなんだね」
お茶をすすりながら残ったふぞろいのかんぴょう巻きを黙々と食べた。