子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 20 近所の職業2

2007年05月31日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
戦後の東京です。
食べて生きていくためには、働くしかありません。

下町の近所の皆さん、家族を養うために必死に家族ぐるみで働いています。
女も子供も働ける者は誰でも働き銭を稼ぎました。

現在の日本では想像出来ないことと思いますが、貴方はこのブログをどう読まれていますか。

さて、近所の職業の続きを綴ります。

 ⑦ 下駄の鼻緒つくりの内職

   A 鼻緒の表面作り
     布を細い筒状に作ります。
     6センチ幅ほどの布で、30センチ位の長さの物を裏返しで縫います
   B 鼻緒の芯作り
     麻紐を中心にして、周りを綿で包み、外側に新聞紙を巻いて、長さ30センチの物を拵えておきます
   C これを、裏返しになっている、鼻緒の裏を表返して Bのは直の芯を被せる作業です
   D 裁縫で言う「絎け台」状の作業棒の先に「先が曲がっている鋼線のハリガネ」40センチがついている先の場所に。
     まず、鼻緒の裏表Aを通して、針金の奥に手繰りつけて
   E 鼻緒の芯の部分Bの麻紐の部分の先端を、ハリガネの先端に括って、一気に引いて表状になるように被せるのです。
   F これで、鼻緒の表面が上に出てきて、筒状の鼻緒30センチが現れます
   G さらに、両先端の麻紐を鼻緒の先に結んで終わりです

どうも、上手く説明できずに御免なさい。
近所の家の女親が内職でやっている作業を窓越しに暫らく見ていただけなので、こんな風にやっていたな、というだけです。
ただ、鼻緒の芯が裏返しになっている、芯を表面になるように被せるのが「魔法」をやっているようで面白く感じたものですから、10才台の私の頭に残っているのです。

この年代の私には、何を見ても、聞いても、もの珍しく、近所の路地を歩いていて
立ち止まって見てしまいます。
近所の人々は、子供がまた来て覗いて見ている程度にしか考えていないと思います。
内職している近所の伯母さんたちは、どうやら私がこの先の「レンガ屋の倅」ということを知っている風がありました。

《諺 百聞は一見に如かず》
 (人から百回話しを聞くよりも、自分の目で一度見て確かめることのほうが確実であるということ)

 ⑧ うなぎ屋

   家の近くのお年寄で、天気の良い日に、外の縁台で「うなぎを捌く」職人さんがいました。
   この姿を見ると私の好奇心が盛り上がりつい足を止めて見てしまいます。
   A 飯台(混ぜご飯を作るような桶)に、生きている「うなぎ」が10匹位泳いでいる
   B うなぎの頭を手の指の間で捕まえて、まな板の上に乗せて、頭にピンを刺す
   C 「うなぎ」の身体がくねくねするのを、手の平でなだめて、全部きらないように首の半分に包丁を入れる
   D 「うなぎ」の背のほうから包丁を入れてヒッポに向けて、頭から裂く
   E {うなぎ」の腹綿を取り 
   F 骨を裂き取り、身を二枚に分ける
   G この後、頭を切り離して、片身を二つにして  
   H 串を通す
   
 これで、この叔父さんの受け持ちは終わりで、この先は勤め先の店でやるという。
 
 叔父さんと雑談していると、この「うなぎ」の頭が美味いのだという。
 「内緒で三個やるから家で焼いて食べてみろ」と言って新聞紙に包んでくれた。
 だだな、「気をつけろよ、うなぎの頭の中に爪くらいの釣り針が入っているものがあるから、がぶっと食べるなよ」と言う。

 どうして、と聞くと。
 「それはな、うなぎを捕まえる方法にある」という。

 A {しゃくり捕り」
   小舟で池に出て、棒の先に鉄で出来た指先の様な物がついているものを池底の泥中に入れて、引掻くとうなぎが架かって来るのだと言う。
 B 「筒取り」
   太い竹筒をロープで50本ほど結んで、前夜のうちに池底に沈めて置き。
   翌朝竹筒をそーと引き上げると、いいときには、一本の筒に3~4匹入っている時もある。
   しかし、「筒に入らない時が多いぞ」と言う。
 C 「餌取り」
   30メートル位の縄に、道糸にアゴ付きの釣り針にみみずなどを50本付けて、前夜に池底に沈めて置く。
   翌朝にこれを引き上げると、釣り針に食いついた「うなぎ」が取れるのだという。

 
 ⑨ 「蹴飛ばしプレス」
   長屋の玄関の土間に、「足踏みプレス」を置いてブリキ板に印刷されているものを型取りしている。
   ようするに、まだ動力モーターが付いていない、小型プレスを使って足の力で「蹴飛ばす」ように作業しているのだ。
   この時代には、子供用「ブリキ製品」のものが沢山作られていた。
   例えば、風呂で遊ぶ「ブルキの金魚」や「小さな自動車」などがある。
   
   こんな、零細企業が成長し、工場を建てて、動力を引いて、大型プレス工場に成長していったのだ。

 最初に言った、「うなぎの頭の針にきを付けろ」と言ったのは、此処で言う C の釣り針で捕ったものだ。
 だがな、この釣り針での「うなぎ」が一番美味しいのだという。


 ⑩ 「目立て屋」

   大工さんが使っている「のこぎりの刃」を小さいヤスリで削り「再生する」仕事だ。
   こつこつと、丁寧に、もくもくと、仕事している姿が私は好きだった。
  
   最初は、幅12センチもあった「大工さんのノコギリ」も毎日使っているうちに、幅が半部くらいになる。
   それでも、使い勝手の良いものは「目立て屋」で手入されて使われている。

   そんな細くなった「のこぎり」も売っているの。と大工さんに私が聞くと。
   「このノコギリ」はな、俺が大工になった最初の年に親方が買ってくれたものでな。」
   20年も使っている「私の宝物」なんだ。と言う答えが帰ってきた。
   
  まだ 学友の「活版印刷屋」と「男子の革靴製作」の話が残っているが次回にでもする。

焦土の東京で 19 近所の職業

2007年05月29日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
焦土の東京も、兵隊から復員して来た人、軍需工場に徴用されていた人などの男性が戻り賑やかさが復活してきた。

当然に、地方に疎開していた家族も旦那の帰国とともに東京の自宅に戻っての生活が始まる。

我が家でも、「中国の重慶に出兵していた」長男が終戦後二年半振りに復員してきた。

我が家のある「東京・荒川区」の中小企業の街も賑やかさを増した。
私も16才になりました。「親父の仕事の手伝(土方)をしながら」夜間高校に通っています。

我が家の近所も人が戻り活気が出てきました。

家の周りの「職業」を私の知る範囲で並べて見ますと次の通りです。

戦後わがの町の基幹産業で主なものの中小企業は、① 自転車産業 ② 家具製造 ③ 住宅産業 ④ 製縫業 ⑤ 労働者 その他 などです。

もう少し上記の中小企業の内容を分類してみましよう。

 ① 自転車産業(現在は、中国製品に押されてほとんど残っていません)
   A 完成車を製造している親会社が3社ありました。「以下、この下請け会社として、」
   B 本体のフレームを作る会社 「パイプを加工し溶接する」
   C サドル(椅子)      「人間が座るところを革で作る」
   D ハンドル         「自転車の前で方向を決める、パイプを加工」
   E ペタル          「足で漕ぐところ」
   F タイヤとフレーム     「自転車のタイヤ部分」
   G 泥除け          「タイヤの上の泥除け」
   H メッキ          「パイプなどで形が仕上がったものをメッキする」
   I 塗装           「メッキしない部品は塗装する」
   J 自転車修理        「パンクなどの修繕」
まだ、書き足りない部分もかなりありますが、ざっと並べてもこんなにあり、一大産業群です。
かくの如く、自転車産業は大きな産業群を構成していました。

 ② 家具製造(家内労働)
  
   A 家具用材木屋       「造る家具によって材木の種類が違う。例えばタンスは桐材、椅子類は樫など」
   B タンス製造        {桐材を良く乾燥して、張り合わせる」
                  「接着材は、ごはん(餅米)粒をよく噛むで、へらで練って作る」
                  (当時は、工業用の接着剤は無かった) 
   C カンナで桐材を削り、接着する
   D 塗装する
   E 金具を取り付ける
   F 小売の家具屋に廻す

 ③ 住宅産業(木造住宅の場合)
  
   A 材木屋(住宅用)、(先の家具用材木屋とは別) 
   B 大工 (棟梁)  (木造建築は棟梁が中心に以下の業種で構成されている)
   C 基礎工事(土工) (我が家はここに分類される)
   D 左官屋      (外壁・内壁を作る)
   E こまい屋     (内壁の下地になるものを作る)
   F 水道屋      (水道と下水)
   G 瓦屋       (屋根)
   H トタン屋     (屋根の庇などをトタンで作る、雨樋を取り付ける)
   I 畳屋       (部屋の中の畳を作る)
   J 経師屋      (部屋の中の襖や障子を作る)
   K 家具屋      (外周りの戸や窓戸を作る)
   L 電気屋      (家の中に電線を配線し、コンセントとスイッチを設置)
   M 鳶職       (建前などの時の高い場所での仕事)
 
 ④ 製縫業(家内産業)

   A この業種も家の近くに多いと聞いていましたが、家内労働で家の内でやっている仕事なので、私には内容がよく判かりませんでした。

 ⑤ 労働者

   以上の産業に携わるための「工場労働者」「事務職」「営業職」「職人」などが沢山いて、住宅を構えていました。
   これらを支える「木造アパート」が数多くあり。
  またこの労働者に食事を出す「駅前食堂」などが何軒もありました。
  「駅前食堂」に入ると、厨房の前の戸棚におかずが何品か並んでおり、各自が自分でお盆にとり。
  ご飯と味噌汁を盛ってもらって椅子で各自が食べます。
  こんなやり方で、朝食と夜食を出していました。

  現在でも、この形式の食堂が一~二軒残っているはずですが。

 ⑥ 鉛筆産業   書き忘れましたが「鉛筆産業」も多く存在していました。

   A 鉛筆の板材  (18センチの長さ、幅7センチ、厚み0.7センチの板を良く乾燥させ)
   B 板に六本の半○の溝を機械で鉛筆芯を入れるところを作る
   C この溝に鉛筆の芯を六本入れて、接着剤で二枚の板を重ね合わせて乾燥
   D 機械にかけて、六本に分離する 
   E 六角か丸型かにするため機械に掛ける
   F 塗装する
   G 鉛筆の両端を切り揃える
   H 鉛筆にメーカー名などを印刷する
   I 内職屋を纏めている業者に渡す
   J 家内労働の婦人が六本づつに紐でくくる。後に箱だけになる
   K さらに、紙箱に入れ、箱を一タ゜ース12個に纏める
   L 内職屋が来て引き取り、問屋に収める
   M 文具店に並ぶ

 こんな具合かな。

 ⑦ 下駄の鼻緒作りの内職というのもあって、これも面白いよ。
 ⑧ 近所で「うなぎ屋」の下請けが居て「うなぎを捌く」のも面白い。

我が地区の基幹産業は、現在はほとんど全部姿を消してしまいました。

 ⑦⑧これらは、次回に。

     

焦土の東京で 18 夜間高校生の授業

2007年05月25日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
やっと、表題のタイトルと同じになりましたよ。
今までの一年間は、中学3年生でしたすらね、

ただね、高校生になって嬉しいが、「昼間は親父の仕事の手伝いで土方同然」それも高校の夜間部は4年間だという。

夜間の勉強は、すでに中学3年生として、「無遅刻・無欠席」で勤め上げましたが。
これから、まだ4年間も夜学が続くのだ。身体が持つかな、頑張れるかなと自分自身思う。

この夜間高校の4年間を無事に過せば、中学生を含めて「通算5年間の夜学生」ということになる。
まあ、先の事は今から考えても仕方が無い。
「お前は学校に行きたかったのだろう」

「石の上にも3年+1年だ」頑張ろう。と自分に言い聞かせる。
《石の上にも三年》
(冷たい石の上でも三年座っていれば暖かくなるように、つらいことでも辛抱して努力すれば必ず報われるという教え)

昼間の土方生活がきつい日もある。
文句も言わずに、黙って職人さんのやる仕事の傍で、材料を運ぶ、セメントを捏ねてから運ぶ。

午後4時になると、私だけ仕事を止めて先に家に帰らせて貰う毎日。

家に帰ってから、「手足と顔を水で洗って、学位服に着替えて、運動靴を履いて」新制高校の学校へ向かう。
お袋が、道すがら食べられる物を何かしらくれるが、昼間の労働で腹が空いて我慢が出来ない。
夕食が、食べられる時間は、学校から帰った午後10時が毎日。

学校に通える魅力が、私を支える。学友と合える。話が出来る。

《学友と勉強の話・停電》

学校での授業が始まる。今日は大丈夫かなと思う。

なにを心配しているのかと言うと「停電だ。」
この時期まだまだ「電力不足」の様子で一日に一回は電気が消える。

停電で授業が中断される。「教室の中は真っ暗」先生は仕方なく職員室に戻ってしまう。
授業が、一時間目か二時間目での「停電」では帰宅してよいの指示は出ない。

と、教室の中は騒然となり「わいわい、がやがや」

教室の後ろのほうで「喧嘩」だ。

S君、僕の「消しゴム」をなぜ放り投げるのた゛。
H君、お前が「先にいたずらしたのだろ」「それに、僕の家の悪口を言った。」

もうじき、取っ組み合いに成りそうな剣幕。

一番前の席に居る私に喧嘩を見ていた学友が来て、止めてくれと言う。
何で私が喧嘩を止める役が。「何で俺なんだよ。」
「だって、お前は一つ年上だろ。それに力がありそうだから。」だと言う。
わからない理屈だが職人(土方)根性がもちあがる。

「分かったよ。」と私が立ちあがり教室の奥に向かう。

S君の隣に私は椅子を寄せて「どうしてH君の消しゴムを放り投げたのかよ」と聞く。
「あいつがな、俺のノートにいたずら書きをしたんだ。」俺が怒ったら「お前のうちは貧乏だからな。」と言った。
 さらに「お前の母さん出臍(べそ)といったから。」だ。

今度は、H君の傍に椅子を寄せて座り直して。
私 「まあ、仲良く皆で勉強しようよ。」
  「人の家の悪口は、言ってはまずいよな。」

私 「皆な、消しゴムを探してくれ。」と全員に声をかける。
大勢でさがすので、停電で真っ暗な教室の中ても直ぐに見つかる。

私 「S君に、消しゴムを渡して、貴方から誤って返しなさい。」

《このへんまでのやり取りは、私が仕事で経験した仕事の段取りの仕方が参考になっている。怒らずに、静かに、何が原因か、を良く聞いてやること。》
《だいたい、相手の話をゆっくり聞いてやるだけで、相手の感情もしずまり、喧嘩も収まるものだ。》

そのうち、騒ぎを聞きつけた担任の先生が教室に来て、事情も聞かずに頭から怒る。

こんなことなら「音楽部屋」 で歌でも歌っていたほうがよかったよ、と内心思う。

《学友の職業と帰り道》

学校の帰り、同じ方向に歩いて帰る仲間が大抵6人。
帰り道での学友とのおしゃべりが、また楽しい。

「家族のこと、仕事の話」などなど、帰り道の話は尽きない。」
(今と違って、学生が寄り道するような店は、当時一軒もない。)

一番近い学友が、「またな」と言って分かれていく。

次の学友の家は、大通りに面していて、親が「活版印刷屋」だという。
なんにでも、興味を示す私としては、「ちょっと見ていってもいい。」ときくと、どうぞと言って玄関に入れてくれた。
ははあん「活版と言うのは、文字が反対向きのものを揃えるのだ。」これはむずかしいぞ。

一回見ただけでは、よく理解できないので、またの機会によく見せてと言うことで今日は失礼する。

三番目の学友は、「男物の靴屋だと言う。」靴も男物と女物とに分かれていて仕事の手順が全然違うというのだ。
耳で聞いているだけでは、よく分からないので日を改めて見せてと頼む。

もう、私のお腹がぐうぐういっていて、早く自分の家で夜食にしたい、と家に急ぐ。

次回は、我が家の近所で、どんな仕事がされていたかを。








焦土の東京で 17 晴れ着の夜間高校生

2007年05月24日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
昭和22年4月 新制高校Ⅰ年生になりました。(まだ、昼間は親父の仕事の手伝い(土方)だ。)

なぜ中学生だったのに、高校生になったのか。なぜなれたのか。
この話は、「焦土の東京で 12-13-15 15才で初めての仕事」の中の文掌で書きましたので、読み返してご覧下さい。

そうは言っても一々大変、簡単に書きますと「教育制度の改正」で、6-3-3ということに昭和22年から変更になったのだそうです。
小学校6年、中学校3年、新制高校3年(ただし、夜間部は4年)という学校側の説明でした。

私としては、戦争で中断されていた勉強が中学3年生の一年間で埋められるものでなく、当然に多くの学友が私も含め「新制高校」を希望し高校に進学した。

それでも、10名ほどの人が「中学の卒業免状」を貰って学校を去った。
(卒業生の中にいた30才近かった生徒も卒業していった。)

この後の新学期に10名程の新規入学生が入り、生徒数は前の30人とほぼ同数で「新制高校1年生」が始まる。


「中学の卒業免状を出すから、中学で卒業してもいいよ。」と言う学校側の話だが。夜間高校の生徒が急には集まらず「君等は無試験で新制高校に進学してよい。」と言うことらしい。
昭和22年 終戦から2年目です。まだ多くの家族が田舎に疎開したままですから、生徒が集まらないのも仕方ありません。

新規の学校の名称は「都立・○○商業高校」夜間部ということになった。
商業高校ということは、「職業高校だよ。」普通高校と違う科目が加わるという。

学校の科目割をもう一度並べますと次のとおりです。○印は新設科目
      担当
大橋 校長
折田 先生 数学 クラスの担任
関  先生 図工
中村 先生 忘れた 思いだせない。
小倉 先生 英語
小倉 先生 国語  名前は同じだが別人
和田 先生 忘れた 思いだせない。
?? 先生 音楽  女の先生だが名前が出てこない。

?? 先生○簿記 ○は商業高校になったので科目が追加。
?? 先生○ソロバン
?? 先生○習字

木村 先生 事務
蓮池 先生 事務

以上だが、授業科目に3科目追加された。

学校は、「新制高校4年間の間に資格を取れ。」の命令。
簿記   商工会議所の検定試験で、最低3級。
ソロバン 商工会議所の検定試験で、最低3級。

私としては、昼間は土方仕事で簿記の補修やソロバンの練習をするような環境でない。

《嬉しいこと》
4月に高校1年生で学校に。
親が「学生服」を買ってくれるという。

学校の指定用品店に行くと、同じ学校の生徒が既にいて注文している。
私の番が来て呼ばれる。
「学生服」の試着。
         肩幅が合うと、袖が長くて手首の下まで来てしまう。
                服の背丈も長くなりバランスが取れない。
         店の人は、既成品なので、肩幅に合うものはこれしかないという。
         ズボンをこの型で履くと裾が長すぎて引きずる。
      母親が仕方ないか、家で直してあげるから、と言うので買って帰ることに。
         学生服のボタンは、学校指定の金ボタンだ。 
「学生帽」
         いがくり頭に「学生帽」を乗せて母親が具合をみる。
         帽子は、私に会うサイズが見つかる。
         帽子の正面に金の校章が輝いている。

「運動靴」    
         今まで、運動靴を履いたことがない。
         昼間は「地下足袋」だからね。
        「運動靴」の横幅が合わない。仕方なく少し大きめの靴で間に合わせることにした。
         今まで夜間中学校に通うのには、私服で素足に下駄履きだったから。
《晴れ姿》

ピカピカの一年生。

母親に手直ししてもらった「学生服」を着て「学生帽」を被り始めての登校だ。

金ぴかの「学校の徽章」が帽子にも学生服にも輝いている。この格好では、悪い事やいたずらは出来ないなと思う。
反面、立派な学生に急になった思いが交錯する。

この格好では、自分でも「昼間の土方姿」が想像出来ない立派な姿だ。

《馬子にも衣装だ》
 (どんな人間でも、身なりを整えれば立派にみえるしいうたとえ。)

当時の職人の正装を、我が家の親父の姿で言うと次のとおり。

「裸に越中ふんどし、紺の股引を履き、どんぶりの腹掛け、上に印半纏。」
「帽子はハンチング、黒足袋に鼻緒の草履。」

こんな、姿で正月などには、お客さに年賀廻りをする。

   次回は、学校での話しを少しします。

焦土の東京で 16 仕事のやり方と勉強停電

2007年05月22日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
《工事での、手作業》
前回の最後のところに。

① 3-4-5 の法則 (板を三枚使って、90度を測る。)

と言うこを書きました。戦後間もなくのことで「計測器類」が何も無い時代です。

職人Aさんが、「5メートルの貫き板を三枚持ち出してきました。」「野原で、鉄塔の位置を計算しています。」

       (まず貫き板をというの説明しておきますと。幅10センチ。厚さ1センチのもので、長さ3メートル。)
       (家屋を建築する際に柱と柱の間に通して内壁の下地にする板。)

工事する「鉄塔の一辺の角の位置」を決めて、先ほどの板の角が揃うようにして二枚の「貫き板」を釘で止めています。

板の頂点から、 4メートルに印を付ける。
もう一方の板に、3メートルに印を付ける。

手に残っている3枚目の板の頂点から、5メートルの位置に印を付けて、上記の板の3と4メートルに重ね合わせて、釘で止める。

職人Aさん、「さあ出来たぞという。」これが「90度の直角をしめしているという。」
私 「ホントかよる」と思うが、見てみる限りでは、三枚の板で90度を示している。
《90度のテストをやってください。》
紙でも、紐でも、板でもいいですから。3枚(個)一辺の長さのところにそれぞれ、3-4-5センチのものを作ってやってみてください。

野原で野球のベースを作るときなどに、利用されたら良いかと思いますが、どうでしょう。

② 馬鹿棒 の使い方、(中心点を測る。長さを測る棒だ。)

 A4の用紙でテストします。
 当然に、計測する「定規」も何も持ち合わせていない、前提でやってください。

 A4の用紙の中心点を鉛筆一本で探してください。この時にA4用紙を折り曲げたり、破ったりしないで、机の上においたままです。

 どうやるのか、こうです。

 A4用紙の縦の長い処の端に、鉛筆の底をあわせて先の方に印を置きます。
 次いで、今度は用紙の反対側から同じようにやって印をします。

 印と印の間隔が狭くなりましたね。
 この狭い間隔なら、これなら真ん中の点を印すのは、目分量でも難しくないと思いますが。どうでしょうか。

 A4用紙の横も同じ要領でやって下さい。かなり、良い線で用紙の中央を探せる筈です。

③ 垂直を測る。
  垂直は、たこ「糸の先に、小石をぶら下げて、3メートルくらい下げる。」
  糸は、垂直を示している。

焼け跡で、何もないときの「職人の知恵」の一端がお分かり頂けましたでしょうか。 
何でも物珍しい好きな私です。
職人Aさんのやることに、毎度興味深深で毎回見つめている。
ははあん。なるほどな。うまい(仕事)ことをやるものだ。

《段取り》
これらの一連の作業は、仕事の打ち合わせから始まり、かなりの時間をかけて現場で計測し計算しています。
職人Aさん曰く「仕事の出来栄えの良し悪しは、段取り次第だぞ。」と私に言う。
       
       「下手な仕事師は、ろくな段取りもしないで、仕事を急ぐ。」
       「その結果仕事の出来上がりが、上手くいっていないことになる。仕事が終わった後では、手直ししようがない。」

私 「ここで言われた、職人Aさんの言葉(仕事は段取り次第)は、私の心の奥底にずーと残って、生かされる。」
  
  「段取り、なにをするにも段取りが大切だ。段取りとは準備や手配り、気配りのことだ。」
  「こんどの穴堀り仕事でいえば、先ず掘った土を何処に片付けておくか、この役割は誰と誰か。」
  「堀り進み水が沸いてきたら、どのような対策を講じるのか。」
  「人足(労働者)は、これで足りているか。」
  「掘っている場所の壁が崩れないか、その土止めの用意の材木と材料は揃っているか。」  


《諺を二つ》
「自慢は知恵の行き止まり」
 (人間は自慢するようになったら、もうそれ以上の進歩向上は望めないという戒め。)
「使っている鍬(くわ)は光る。」
 (いつも使っている鍬は錆びずに光っているように、たえず努力し、精出して働いている人は立派に見えるというたとえ。)

中学3年生とローソク

夜間中学3年生になって、学校生活にもなれてきて、遅刻・欠席もなく続いている。
ただ、困ったことに勉強中に教室の電気が消えることだ。停電がちょくちよくあるので、電気が回復するまで教室は真っ暗闇。

先生が言った、「明日からローソクを一本づつ持って来い。」
私が家に帰ってお袋に言うと「お前我が家では、ローソクは貴重品だよ。」
       「それにな、仏壇で使う小さなものしかないよ。」
私      「仕方ないな。それでもいいよ。」

学校でまた停電「小さなローソクに火を付けて、机の片隅に立てる。」が、これではいくらも持たない。
       「学友の中には、20センチもある大きなローソクを持って来た者もいて、皆から羨ましく思われる。」
停電も毎日一回は、あるので先生も諦めていて、「大きなローソクの近くに、全員が集まって、先生がローソクの光で教科書を読んでくれる。」

ある時には、先生が「停電では授業が出来ないから、帰宅していいぞ。」と言う。
「早い時間で帰っても仕方が無いので。有志で「音楽」はどうか。」ということに話がすすんだ。
学友仲間が10名ほど残っている。おい、「先生と交渉してくれよ。」と私に言う。
私 「やだよ。」
学友「でもお前が適任なんだよ。」
私 「仕方がないな、ダメといわれたらどうする。」
学友「その時は、仕方が無いよ。」

私  教員部屋に行って担任の先生に、10人ほど残っていて、「停電でも歌を歌うぐらいはできるであろうから、音楽の先生に頼んでもらいたい。」と頼んだ。
担任が音楽の先生のところに行って説明している。

音楽の先生「はい、いいですよ。まだ授業時間の途中ですからね。」ということで「停電」の中「音楽の時間」になった。

こんな状況が半年も続いたが、年の後半には「停電」は少なくなってきた。

次回は、いよいよ「高校1年生が始まる」です。




焦土の東京で 15 先生と中学生の職業

2007年05月20日 | 焦土の東京で 土方と夜間高校生
昭和21年4月から、昼間は(親父の仕事・レンガ職人の手伝い)土方の仕事で夜は、夜間中学3年生と言う生活が始まった。

学校に行ってみると、中学3年生は1クラスで、30人位でこのうち女子生徒が10人程だ。

年令もばらばらで、一番の年令者は30才近いと思われた。
しかし、ほとんどは15才前後である。

職業は、判った範囲で言うと。
 自営運送業、税務事務所役員、不動産屋勤務、日本通運勤務、活版印刷所勤務、薬品会社役員、自動車教習所勤務、ソロバン塾経営、国鉄職員、自転車製造業勤務、信用金庫勤務、荒川区役所勤務、装身具製造業、国立病院事務、あめ横商店勤務、都電の運転手、レンガ職(私)、革靴製造職人、中小企業製造業勤務が4人。

追加 質屋の倅、小革製品製造(印鑑入れなど)。

職業もばらばらである。こんなところかな。そのほとんどは、親の仕事の手伝いをしている者が多い。
(職業を思い出し、調べるのが大変だった。自宅内を3か月位あちこちと探す。年賀状・同期会名簿・学友に電話などで問い合わせる。)

先生は次のとおり。
      担当
大橋 校長
折田 先生 数学 クラスの担任(50才くらい)
関  先生 図工       (25才くらいで、我々生徒の年令に最も近い。)
中村 先生 忘れた、思い出せない。
小倉 先生 英語
小倉 先生 国語
和田 先生 忘れた、思い出せない。
?? 先生 音楽 女の先生だが名前が出てこない。

木村 先生 事務
蓮池 先生 事務

まだ、他の科目の先生が、いらっしゃったと思うが、これくらいしか思い出せない。

勉強が始まる。
一時間目 国語の時間 (国語は、今までも比較的好きだったので、この時間は安心して過ごせた。)
二時間目 数学の時間 (数学は、+÷-×程度で簡単なものならまずまず大丈夫。分数になると判らなくなる。)
           (戦時中の中学校で、ろくに数学の基礎勉強をしていない。
            他の科目全般についても基礎の勉強が足りないことが明白だ。)
三時間目 英語の時間 (英語は、前の中学時代に時間割りはあったが、教える先生が兵隊に出ていて、一回も勉強せず。
            なにもわからない。この時間が一番辛い。)
四時間目 音楽の時間 (音楽部屋に移動して、ピアノの音にあわせて声を出す。中年の女の先生で授業も楽しい。)
           (私は外で仕事をしている関係で、地声が大きいので、リズムがずれると、皆にすぐ笑われる。)

今日の授業はこれで終わる。
学校からの帰り道で、同じ方向に歩いて帰る仲間6人ほどと一緒になった。
同じ年代の仲間で、おしゃべりしながらの帰り道の楽しみが、私に追加された。

のちのち、この学友達と長い付き合いが続くことになる。
77才になった私。今の私とまだ友人としての付き合いがある。大切な友人達だ。

 
《仕事の話》

今度の工事現場は、先の「鉛筆工場」の仕事より規模が4~5倍大きい。

工事主は、「ゴム工場の経営者」だ。
現在の工場の隣接地に、今までより一回り大きい設備を作るのだそうだ。

一つ目は、「ゴム・ロール」の基礎工事。
     (先の鉛筆工場のロールより大きく、2倍くらいのものだと言う。)
二つ目は、「ボイラー」工事。これは、親父の専門の「レンガ造り」
     (ゴム・ロールで練ったものを、金型に入れ、ボイラーの蒸気で蒸し上げて製品を作る。)
三つ目は、「煙突の基礎工事」
     (説明を分かりやすくするために。現在のもので説明すると、電気の送電鉄塔。こんな形の小型なも。)
     (この工事現場の鉄製の櫓は、高さ15メートルくらいに成るという。)

《工事内容をもう少し具体的に》

① 煙突の基礎工事

  今回の「ゴム工場」の煙突は、高さ15メートルの鉄骨作りのものだという。  過日の「鉛筆工場・ロール基礎」は、広さが畳み二畳手度で、深さが1.6メートル位だったが。
  今度の仕事は一回り規模が大きい。
  広さが、畳の大きさで表現すると、4.5畳位。
  深さが、            3.5メートル位。

  この中に、鋼鉄製の煙突を支えるための、鉄の櫓を埋め込む基礎工事だ。

② ゴム・ロールの基礎工事

  先にも、説明したが、ここの「ゴム・工場のロール」は、「鉛筆工場」のものより一回り大きい。
  仕事のやり方は、鉛筆工場とほとんど同じなので、此処では省略する。

③ ボイラーの工事

  ボイラーの工事は、「レンガ職人」の出番だ。
  レンガを積む仕事は、親父の本職だからね。
  
  簡単に説明すると、6畳ほどのレンガ構造物を作って。
  この中に「蒸気を発生させる鉄製の円筒を横剥きにすえて」下から「石炭を燃やす。」
  
  この蒸気で、鋳型に入れたゴムを製品にしあげる。

説明が何か難しいな。
簡単な事例で言えば「鯛焼き」を想像してください。
相手が「鯛焼き」は、うどん粉・あんこだが。

  こちらは、ロールで練り上げた「ゴム」だ。
  この「型に入ったゴム」を「蒸気で蒸し上げる」のだ。

何が出来るのかを言ったほうが、理解が早いだろう。
  「地下足袋の底」「運動靴の底」「工業用品のパッキン」などなど色々な物が作られる。

この工事現場は、30日くらいの予定だという。

B職人のダジャレ

B職人が、最初の現場では盛んに「私に向けた・ダジャレ」や「嫌味」を言ったが、そうは「ダジャレの種」が続かないと見えて、ここの現場では秀逸なものは出てこなくなった。

手作業の知恵を二つ

① 3-4-5 の法則。(板を三枚使つて。90度を測る。)

② 馬鹿棒 の使い方。(中心点を測る。長さを測る。材木だ。)

終戦直後のこの時代、「計量機」や「巻き尺」「水平器」など何も有りません。
すべて、手作業です。今度の工事では「目見当」はまずい。

では、《どのようにしたのでしようか。》次回までに考えてね。

  
   

焦土の東京で 14 土方で夜間中学入学

2007年05月18日 | 60年前の戦争体験
昭和21年4月。昼間は、親父の仕事を手伝い、夜は一年遅れの中学3年生として二足のわらじを履く生活になった。

どうしてかというと、中学の2年生の半ば、14才の時に、戦争が激しくなり勉強どころで無くなり、「学徒動員」の名目で自宅近くの「軍需工場」に無給で駆り出されて学業が中断されていた。

その年、昭和20年3月に「東京大空襲」となり、「学校も自宅」も焼失し、中学3年生に進学することができなかった。

なぜって、本来この年の4月に中学の3年生に黙ってもなれるのに、学校が無くなってしまったのだ。学校にも数回行ってみたが「建物も無く、先生の影もない」

「取り付く場所が無い、」仕方なく、自宅と自宅周辺の焼け跡整理を手伝えといわれ、親父と一緒に、もっぱら焼け跡の整理をするより他なかったのだ。
こんなことを毎日している中、8月には「終戦」になり、我が家も近所の人もただ呆然とするばかり。

《仕事と夜間学校》

終戦で、疎開していた人々も東京に戻り始め、「軍需工場に徴用」されていた人、「兵隊」に出ていた人が戻りだし、東京も少しづつ復興の槌音が響くようになった。

親父の仕事も、だんだん忙しくなり、我が家では軍事工場に徴用されていた「次兄20才」が早々自宅に戻ってきた。
次兄の「住み込み先の彫金師宅」も焼けてしまって、親父の仕事を手伝うほかに当面これしか、「飯を食う」ための生活方法が無い。

次兄と親しい近所のW大學生が、「荒川区で焼け残っている中学校があって、生徒が少ないので困っている。」と言う。この中学には「中学の夜間部もあるぞ。」

ここに、「弟さん(私)を通わせたらいいのでは」と言ってくれたのだ。

この時に大學生がもう一つ言った。「新聞の社説を出きるだけ読めよ。」

どう言う意味か良く解らなかったが、取りあえず、たまに社説を読んでみるが。
なにを言わんとするのか、15才の夜間中学3年生には、意味不明だった。
このあと、私はずーと気になり、暇をみては社説を読むが、内容について長い間だ、解らないで過ごしてしまった。

年令を重ねて40才近くになってから、初めて社説の意味が多少解るようになる。

「ははん、社説というのは、世間で言う大切なことが書いてあり、中庸な意見なのだ。」
社説が解るようになるには、新聞全体をよく読むことが必要で、自分自身の善悪の判断が出来るように成るときに、初めて社説の意味がわかるのだ。
社説が解って、初めて大人の仲間入りが出来る人といえるのだ。
これが、私流の結論となる。

1年送れだが、待望の中学3年生になれた。
昼間の自分の姿は、レンガ職人の親父の仕事を手伝う仕事(主として、土方仕事)をして、私は午後4時に先に仕舞わせてもらって家に帰る。
一度家に戻って手と顔を洗い、洋服を着替えて、学業カバンを持って、歩いて30分の距離にある夜間中学に毎日通う。

夜間中学(高校)は、始業時間午後5.30分。終業時間午後9.30分と記憶している。
土曜日も、授業があるが、通常より終わりの時間が一時間早い。

昼間、労働者の私は9.30分まで「お腹が空いて」とても耐えられない。

お袋にこの事を言うと、私が学校に行く支度をしていると、「餅かせんべい」を一つ食べさせてくれる。
なにもないときには、「糠みそ樽をかき回して、大根かキュウリ」を出してくれる。
わたしは、学校に向かう道すがらにこれを食べながら歩く。

なんと言っても、学校に行けるようになったことが嬉しい。

中学校3年生のわし達の生徒数は、30人くらいで、一クラスだ。
このうち女子生徒が、10人程と記憶している。

年令も、ばらつきがあり、どう見ても30才近いと見られる生徒もいる。

職業も、ばらばらなようだ。入学当初は相手の職業が直ぐにはわからない。
だんだんと、解ってくるので、その時まで少し待って下さい。
解り次第に、記事にします。

先生や、学業の内容などは、次回に。


焦土の東京で 13 機械の据付

2007年05月14日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和21年4月 15才。昼間は親父の仕事で土方仕事の手伝い、夕方から夜間の中学生として学校へ通う生活が始まった。

夜間学校の話は少し先にして、仕事のその後の経過を話しておきます。
(タイトルは、高校生としましたが、進学したのは中学です。この経緯は後ほどお話します。)

先ずは、先に工事していた「鉛筆の芯を作っている工場でのロールの据付」が行われることになりました。
職人Aと職人Bと次兄と私が一緒に4人で「鉛筆工場」に出向いた。

工場には、据えつける機械の「ロール機」が組みあがっていて、我々が作ってきた基礎工事の傍に、立派な姿で待ち構えています。
機械屋さんが二人、私達の到着を待っていました。

数日架けて、機械屋さんが、ここの場所で組み上げたのだという。

さて、この「ロール機械」を基礎工事の上まで運びこむ訳だが、かなりの重量があるものだという。

職人Aさんが、我々に指示し、機械の移動作業の準備が始まった。

機械の下に、片側に一枚づつ厚手の板を入れる、「厚手の板を入れる作業」だ。

機械の片側2箇所から、「バール(3センチの丸棒で先がへら)を機械の足下に差込み、持ち上げる。」
2センチほど持ち上げると、職人Aさんが仮板を差し込む。
片側が終わると、今度は反対側に廻って同じ作業を行う。一度に沢山持ち上げすぎると、ロール機械が歪むので少しづつやるのだそうだ。

何回か、同じ作業が繰り返されて「据付られるロール」が15センチほど持ち上げられた。

ここで、機械の足に厚板を差込み、その板の下に「コロ(丸い鉄管)」を5本ほど曳き、「バール」で「基礎コンクリート」に向けて、コロを転がして押し出す。

職人Aさんが、基礎の中心に真っ直ぐ乗せるために、コロを「ハンマー」で叩いて向きを調整する。

ゆっくり、静かに、そーっと、全員息を殺して、時間をかけてバールで押す。

「基礎コンクリート」に入れて置いた4個の木の箱は、次兄が「バール」で取り壊して出していて、4個の穴がポカット出来ている。

「ロール」が、「基礎コンクリート」の中央に辿り着いた。
今度は、「ロール」を「基礎」の上に降ろす作業だ。
「ロール」の足の部分に「アンカー・ボルト」4本を仮止して差込み、静かに降ろす。

「ロール」が「基礎」に置かれると、機械屋さんのチーフが「水平・曲がりが無いか・機械全体の位置が正しいか」を検証する。

チーフからOKが出されると。今度は、「アンカー・ボルト」の穴に「コンクリート」の流し込み作業が始まる。

その翌日に、据付た機械の周りを「上塗り」して。これで、今日の一連の作業が終わる。


《15才の私の感想》

なんで、仕事がキツイのにも関わらず、嫌がらずに、嫌味・雑言に耐えて「土方仕事」をやっているのか。実は幼い私にも解らない。まあ、強いて言えば次のように言えるかも。

① 仕事の一つひとつが、興味深深で、この次は何が始まるのか、どんな道具をどんな風に使ってやるのか。

② 仕事がすすむ事に、次は・次は何をと思い「はあ・なるほど」と感心する。

③ 仕事の、一つひとつが面白く、勉強になる思いだ。

④ 職人Bさんの「戯言」もあまり気にならない。
  一つは、15才の私には「言っている意味が何かよく解らない。」ことが多い。
  二つ目は、この「戯言」に反応して、仕事中に家に帰ったら「親父に酷く怒られ、飯も食わせてもらえなくなる。」

  三つ目は、先に言ったように、仕事の興味があり「仕事の進みかた」「道具の使い方」をみているだけで時間が経つ。

⑤ 夜間高校に進学出来ることになったことも、仕事の励みになっている。

⑥ この「戯言」に耐えたことが、成人した後の私の社会生活で力になったと思っている。
 (この話は、機会があればしたいと思う。)
 
《タイトルの夜間中学と夜間高校》

この話はこういうことだ。

15才で入学したのは、中学の3年生である。(終戦の年、今まで通っていた中学校が焼失してしまったので、別の場所で焼け残った中学校に、一年送れで途中入学したのである。)

中学3年生の学業を一年間済ませた。
「ここで、一歳遅れ。」

この年の3月に、新制高校制度が発足し、ここの中学が新制の高校に衣替えになるという。
学校側から「中学で卒業してもよい。」し。
     「新制高校にこのまま進級することも出来る。」
     「ただし、今度の高校制度は、昼間部は3年で卒業できるが、夜間部は4年制だと言う。」

自宅に帰って、よく両親と相談して進路を決めろ。
     「君達は、入学試験なしで新制高校に入れることになっている。」
     「勿論、ここの夜間部の学校も中学校でなくなり、高校に編成替えになる。」
     「このため、先生方も同じで、校舎などの設備も今までどおりで、変わらない。」

こんな経過があり、私は「新制高校」にそのまま通うことにしました。
      学友のほとんどが「新制高校」を選択した。

「土方(仕事)と夜間高校」と言う、タイトルにした理由がお分かりになりましたでしょうか。

結局、私は、ここの中学から新制高校を終わるまでの期間、「5年間も通う」ことになったのです。

従って、入学時に「一歳遅れ」で中学に入り、さらに「高校で一年長くなり」世間と同じ年令の子供より、高校卒業時には「二才年上」ということになる。

次回は、「夜間学校」のことを記るすことにします。


焦土の東京で 12 土方のダジャレ

2007年05月10日 | 60年前の戦争体験
15才での始めての仕事現場だ。

「鉛筆の芯を作るためのロールの基礎工事」を5日間現場で過ごした。

私の第一番目の感想は「職人Aさんいわく。これを土方仕事と言うのだそうだ。」「大変疲れるが、日毎に、いまやっている仕事の姿が現れてきて、何か嬉しい気持ちになる。」

職人Bさんからは、「雑言、ダジャレ、ギャグ」なのか、私にとっては、なにを言わんとしているのか、検討も付かない言葉を浴びせられるが。
私が驚いたり、困ったり、まごまごしたりした時に、職人Bさんの顔が「やった」と言う顔になる。

それも、毎日必ず、こんな言葉が出てくるわけでもない。

職人Bさんは、盛んに頭の中で「今度は何を言ってやろう」と考えているとおもわれる節が見える。

前回、書いた「戯言の数々も、私が仕事を手伝い出して、3年くらい懸かっているのだから。」

内容的には、厳しい言葉で言われるが、職人Bさんの顔はニヤニヤして言っているから、Bさんが自分一人で楽しんでいるのか。

私   「私自身は、柳に風だ。」
     (柳の枝が風のふくままなびいて、巧みに風をやり過ごすように、相手の言うことや強い態度などを、上手に受け流して逆らわないこと。)

もう一つ「馬の耳に念仏だ。」
     (馬に念仏を唱えて聞かせても、一向にその有り難味が解らないように、意見や忠告などをいくら言って聞かせても、聞き流すだけで全然効果が無いたとえ。)


《戯言その2 その他の戯言》

「道具編」の戯言のケースは、前回の原稿の最後に並べた。

ここでは、道具編以外に、現場でどんな言葉を私に投げかけたか、2~3書いて見ます。

① 「おい、小僧その辺でウロウロしていたのでは邪魔だ。」
  「家に帰って寝てしまえ。」

② 「早くしろ、バカヤロー・ウスノロマ。」

③ 「仕事もろくに出来ないくせに、飯(めし)だけは、一人前じゃないか。」
  「そういう人間を、只飯し食いの役ただず、と言うのだ。」

④ 「どけどけ、仕事をしないでいいから、邪魔にならないところで昼寝でもしていろ。」

⑤ 「お前の頭の中は、寺の鐘の音と同じだ ゴーン となるだけで。仕事の役には立たないな。」 
 
⑥ 「ろくな仕事もしないのに、よく昼飯を食えるな。」

私も、今盛んに思い出していますので、少し時間を下さい。


《大型工事に取り組む》

「鉛筆の芯を作る工場の仕事の、次の工事が決まってきた。」

「鉛筆工場の5倍の規模の仕事だそうだ。」

「工事内容は、ゴム工場での工事で、ボイラーのレンガ積み、煙突の基礎工事、ゴムを練る大型ロールの基礎工事。」

大きく分けて、3つの仕事だ。

「レンガ工事は、本来親父の本業だ。」

「基礎工事は、職人Aさんの得意仕事。」

 基礎工事は二つ。
 一つは、鉄骨作りの高さ20メートルもある煙突を入れる外枠を支える基礎工事。
 
 もう一つの工事は、ゴムを練りこむロールの基礎工事。先の鉛筆工場のロールより二周わり、大きいものだそうだ。

 今度の仕事は、相当な日数になりそうだ。


《私の進学が決まりそう》

私に取って、嬉しい出来事が決まりそだ。

話は、こうだ。

次兄20才の友人が近所にいて、W大學に通っているという。

私が、戦時中「学徒動員」で学業も中途半端で、なんとか学校に行きたいということを聞いて、次兄に夜間の中学と言うものがあると、W大學の友人から知恵を貰えたという。

一度、三人で話をしてみよう。と言うことになり夕方に集まった。

どうやら、我が家から徒歩で30分くらいの距離にある焼けていない区内の「中学校」で夜間部もあるという。

W大學の人が、願書を昼間行ってもらってきてやるから、ということで目の前が開けてきた。

私は、昭和20年3月10日に「中学2年生で学徒動員中」東京の荒川で、学校も自宅も焼けてなくなってしまった。

本来なら、4月から中学3年生に進学するのだが、学校が焼けてしまい、進学どころでない。

4月以降は、親父と焼け跡整理の毎日で、この年(昭和20)8月に終戦となる。

しかし、まだ学校も焼けてしまい復活の姿もない。

終戦の8月以降に、親父の仕事が少しずつ動き出して、ここに書いているような状態に現在なっている。

そこへ、夜間中学の話が出てきたというのが、年を越えた昭和21年の2月だ。

採りあえず、次兄と相談して「中学編入の願書」をだすことにした。

学校の面接教官に、「学徒動員」話や焼け跡整理の話をして「3年生に編入」したい旨の話をしたところ、「教官」はいいですよ、「3月の新学期からいらっしゃい。」の返事を頂いた。

この話を、家に帰って次兄にまず話をしたら「よし二人で親父に今晩にも話しをしょう。」ということになった。

《中学3年に進学が決まる。一歳送れでも仕方が無い。》

次兄と私で、親父の帰りを待ち、中学に進学したい旨の話を、一生懸命にした。

親父の返事は、「仕事は今までどおり、休まずにすること。」「月謝はお袋から貰え。」と言う。

だだ、学校に通うためには問題がある。

私が、工事現場からいきなり、真っ直ぐ学校に行く姿でないことだ。
「土方仕事で、泥んこのままのときもあるし、腕も顔も泥だらけだ。」

次兄が、親父に言ってくれた「午後4時に、工事現場から一度家に帰って、手と顔を洗い、上着とズボンを着替えて学校に行かせて貰いたい。」と。

親父も「仕方が無いな。」ということでOKとなった。

私  「この当時、世間一般に親父の意向は絶対であった。」
   「娘は、親父が、うん と言わなければ、嫁にもいけない、家庭で絶対の権力をもっていた時代だ。」 




 


焦土の東京で 11 15才で初めての土方仕事

2007年05月08日 | 終戦後の生きざま・私流
15才での初めての仕事現場だ。

仕事は、「鉛筆の芯を造る工場の中に、鉛筆の芯を作る材料(黒鉛と炭ともう一つ何か不明)の粉を入れて、煉りあげる。」ロールを据付設置するための「基礎工事」だ。

工事が始まって、今日で5日目になる。

穴掘りに、二日。
杭打ちに、一日。
コンクリートの打ち込み作業に、今日を入れて二日目。
今日も5人全員での仕事だ。

さて、今日でコンクリートの作業が終わるのか。また、手もとめられない、休めない作業が始まる。

私の感想は、「もう昨日までの仕事で、身体も慣れていないので、くたびれて、へとへとだよ。」
「今日には、作業を終わりにしてもらいたい。」と思うのみ。

次兄が朝一番から、材木で幅15センチ四方・長さイチメートル位の箱を4個作っている。

私 「兄貴、長い箱を作っているが、これはなんに使うの。」と聞くと。

次兄「これはな、アンカー・ボルトと言って、ロールの足を止めるために、頭にネジ目の切ってある長い鉄棒を「基礎コンクリート」の中に埋め込む穴を作るためのものだ。」

私 「次兄に説明されても、なんだか良く解らないよ。」

次兄「仕事をよく見ていれば、だんだん解るよるよ。」と言う。

職人Aか外で、4個の箱を図面を見ながら寸法を測って、材木に横に並べて釘打ちしている。
     何か、神輿を乗せる台みたいな形に仕上がっている。

職人AさんとB、次兄の三人が工事中の穴の中に、この箱を繋いだまま持ち込み、基礎コンクリートの中心点を調べて据えつける。 

《二日目のコンクリートの打ち込みだ》

コンクリートの打ち込みの二日目が始まる。

昨日と同じ手順で、今日は私と手元のCさんも手順に馴れて来たので順調に進む。

手伝いの手順にも大分馴れてきた。

「4・6の鉄板」の上に先ず砂を入れる。昨日は砂は、バケツから一山どさっと富士山みたいに置いたが。
今日は、山脈みたいにして鉄板に流すように置く。

これで、職人Bと次兄の仕事が一歩すすんだ事になる。この砂の山脈に所定のセメントを撒く。

二人が、かき混ぜている間に、砂利と水を二人の手元に置いて置く。

職人Aさんが、掘った穴の中から「今日のコンクリー練りは、馬鹿に順調じゃないか。」の声がかかる。

仕事は、コンクリートの打ち込み、その上に割り栗を並べる。この作業の繰り返しだ。
ただ、気をつけるのは、今日は工事の穴の中に「アンカー・ボルト」を止める箱が4個あるので、仕事がやりづらいことだ。

職人Aさんが気を使って進めているのは、4個の箱を寸分も動かさないようにして作業している。


職人のAさんが、昼食の時に全員に向かって言った。

A「この作業は、今日中に土の表面まで打ち終わるぞ。頑張ってくれ。」
 「多少遅くなっても、終わらせるぞ。」と言う。
 「今日の予定が終われば、明日は休みだ。」

全員「やっと、休みが取れるのか、頑張ろうという気になる。」


《職人Bの、ダジャレ・ギャグ》

ここの仕事を契機に、次には、もっと大型の工事現場に、私は職人AとBの手伝いとして、派遣される。

この際に、私に浴びせかける「雑言、ダジャレ・そしてギャグ」の数々の道具編を考えてみました。

《ギャグ類の道具編》B職人が、どんなことを言ったか貴方も考えてみてください。

① スコッブ・シャベル   参考事例を一緒に考えて
            A「黙って仕事をしろ、このおシャベル野労」
            B「スコップ。(ストップ)のダジヤレ」
            C「少しやれ。(スコップやれ)」
② カナヅチ・トンカチ・ゲンノウ
            A「この、脳天トンカチ。早くやれ。」
            B「カナヅチでゲンノウ(脳)を叩き割ってやるぞ。」
            C「とんかち(トンチンカン)なことを言うな。」
③ ドライバー・ネジマワシ
            A「頭の悪い野労だ。ドライバーで、頭の中のネジを締めろ。」
            B「働きの悪い野労だ。ネジマワシ(ネジを廻す)をするぞ。」
④ スパナ・ネジマワシ
            A「スパナ(スパット)とやれ。」       
        
⑤ プライヤー
            A「お前は、プライヤー(ブライド)が無いのか。」
⑥ ペンチ
            A「お前は、ペンチ(公園にあるベンチ)落ちだ。野球の二軍落ちのダジャレ。」
⑦ ハンマー
            A「ハンマー飯か。(早くも昼飯か)。」
⑧ ハサミ
            A「馬鹿とハサミは、使いようで切れる。」
⑨ ツルハシ
            A「ツルハシ頭(ツルッハゲ頭)」
⑩ 釘ヌキ
            A「(お前の頭の釘を締めろ。)少しでも釘が表に出ていると、(他の人に)布地に引っかかるじやないか。」
⑪ タコ
            A「この蛸(タコ)野労。まごまごするな。」

《こんな、ダジャレは、10年後の私の反面教師となる。》

しかし、このままでは「私の品格がすたる。」

私が、考えている品格は次のとおり。
「仁・義・礼・智・誠・考・忠・庸・恥・勇・名・克」
この中の文字の心を尊びて生きていくことだ。


次回にも、私がB職人から、浴びせられた雑言を60年前を思い出して書いてみます。どの位の数が出てくるかな。

焦土の東京で 10 土方仕事・コンクリート打ち込み 

2007年05月07日 | 60年前の戦争体験
15才での初めての仕事だ。

仕事の内容は、「鉛筆の芯を製造している中小企業での、ロールの新設だ」

今日は、この現場に入って4日目になる。

穴堀りに、二日。
杭打ちに、一日。

今日は、総勢揃ってのコンクリートの打ち込み作業だ。
 
職人A 43才
職人B 35才
手元C 19才
 (我が家からは二人)
次兄  20才
私   15才

親父が朝の内、顔を見せて工事の進み具合を確認して、「工事の材料」の手配で間もなく帰った。

さて、仕事だ。(最初に言っておくが、職人Bの私に向かう駄洒落が、次兄も居るためか今日は聞こえてこない。)

① 最初は、職人AとBとで、「割栗(硬い岩石を20センチ程の大きさに砕いたもの)を松杭の周りに敷きつめて、蛸(昨日説明した)を打ち下して、地盤の底を固める。」

割栗の間から、粘土質の泥が飛び散り、職人AとBは跳ねた泥水で顔も着ている物も真っ黒。

② 職人Aだけ、下に残り、いよいよコンクリートの打ち込みが始まる。

③ 工事現場の穴の傍に、4・6の鉄板を持ち込んで作業を開始する。(説明、4・6というのは、当時の工事言葉で、4尺と6尺の鉄板のことだ。メートルに直すと、横1.3×長さ2,0の鉄板だ。)

④ 鉄板にバケツ入れた砂を、先ず鉄板に二杯半、それにセメントを一杯入れて、職人Bと次兄二人が小角なスコップで、良く掻き混ぜる。
  まだ、水は入れていない。

⑤ 砂とセメントを二人でかき混ぜたものを、鉄板の周りに輪に(お好み焼きのモンジャのように)広げる。
 
⑥ ここに、今度は「小石(ざり)をいれて、水を入れて、一気に小さい角スコップで二人が三回程練り合わせる。

⑦ この、コンクリを波板トタンの上を滑らせるて、穴の底にいる職人Aの手元に滑らせてとどける。

⑧ 職人Aは、穴の底に満遍なくコンクリートを引きつめて、その上に、さらに「割り石」を並べる。

⑨ 素早く、休み無く、やらないとコンクリートと割り石が馴染まずに、よく接触してくれないのだ。

⑩ 私と、手伝いCの二人は、鉄板に水や砂・砂石・セメントを運ぶ役目。
  鉄板の上が空っぽになったら、すぐに「砂」「セメント」を入れないと「この野労なにをグズグスしている。」のB職人の声が飛んでくる。


こんなことの繰り返しで、今日の一日が終わった。

私が穴の中を見に行く、まだ半分までいっていない。
明日もこれと同じ繰り返しかと思うと、疲れがどっと出てへなへなになる。

《諺》

「浮世の苦楽は壁一重」

(この世の苦楽は隣り合っていて変遷極りないものであるから、苦境にあっても悲観することなく、楽境にあっても楽観は禁物であるという教え。)

「一の裏は六」

(悪い事の後には良い事があるというたとえで、悪い事に出会った人を励ますときに用いられる。)
(サイコロの目は、一の反対側は六というように、奇数・半と偶数・丁で組み合わされている。)

  次回は、B職人の駄洒落をまとめて。


焦土の東京で 9 初めての土方仕事

2007年05月05日 | 60年前の戦争体験
15才で初めての仕事にでかけた。

仕事先は、「鉛筆の芯を製造する工場」の中小企業だ。
当時の中小企業は、事業主の住まいと、工場が同じ土地の中にある場合が多い。こちらの工場も同じ形態で、工事現場に奥さんがお茶などを運んで来て、声を交わすこともある。

奥さん「坊やごくろうさんね。何才ですか。」と必ずと言って聞いてくることが多い。

私  「はい、15才です。」と正直に答える。

《仕事の続き》

職人Aさんが、前日までに畳み二畳程の大きさの四角い穴を掘り進み、深さが職人の腰くらいになった。昨日は約1メートル位掘ったのか。

今日は、この続きを掘り進むのだ。予定は、さらに後50センチくらいと職人のAさんが言っていた。
この位いの深さになると「土に水分が混じり、べとべとしてくる。」バケツに入れて運ぶ土もその分重くなる。

旦那の話「この辺の土地は、昔から隅田川の川原だったところで、上流から流れてきた土砂が堆積し、上層は粘土質、その下に砂が堆積しているのが普通な土質なのだよ。」と言う。

 「荒木田の地名。」「この辺の土は、荒木田といって、左官屋さんが使っている 下壁の壁に藁を交ぜて塗りこむ壁の材料になる土なのだよ。」
 「この証拠に、現在でもこの下手の町、尾竹橋の近くに、荒木田と言う地名が残っており、交差点に荒木田交番という名称を使っている警察署があるよ。」

旦那の講釈が始まる。大変に参考になるが、話を聞いていたのでは仕事が進まない。

《掘り終わる》

職人Aさんが、鉄の棒を持で掘った場所の底をさらに突き刺して、確かめている。
   「砂の層まであと少しあるな。」
   「あすは、松杭を20本ほど打ち込むぞ。」といいながら。  

   「やっとおわったぞ、さあ、一服だ。」と言い穴から上がってきた。

   「予定の深さまでにはなったが。まだ、粘土質の場所だ。」
   「粘土が予定より深いな。」

Aさんの話「基礎コンクリートが、粘土質の上に乗って止まっているのでは、粘土のため、だんだん基礎が沈みこんでしまう。少なくとも、砂地までと思ったが、水が沸いてきてしまい、これ以上は無理だ。」と言う。
   「そこで、対策として松杭を砂地まで打ち込んで、基礎の沈下を防ぐる」と言う訳だ。

《その翌日》

職人Aさんが、朝一番に長靴で掘った穴に降りた。
 「これは、昨日より水が深いぞ。」
 「バケツを下せ。水を汲むから、上で受け取れ。」

 小一時間、三人での水汲みが続く。やっと底の土が見えてくる。

職人Aさん。「職人B、お前も降りろ。」の命令。

私 「穴の上で一人、穴の中をながめている。」
A 「おい坊主、松の杭を三本ほど担いでこい。」の声。
  「Bに静かに一本づつ渡せ。」

B 「糞坊主、蛸(たこ)を持って来い。」
私 「蛸って、食べる蛸ですか?。」
B 「馬鹿野労。こんな水の中で蛸など食う訳がないだろ。」

私 「蛸って、どんな形をしているんですか。それは、工事道具ですか。」
B 「この、蛸野労。そんなことも判らないのか。早くしろ。」

A 「20センチくらいの、丸太材木で先のほうに鉄輪が入っていて、持つ棒が二本付いているものだ。」「今朝、家から積んできたやつだ。」

私 「これですか。」
B 「只飯食いの役立たずめ。それが蛸というのだ。」
  「逆さまにして、よく見てみろ、頭に鉢巻の箍(たが)を嵌め、胴体に二本の足が付いているだろ。」

私 「職人Bは、よくもこんなくだらんことばかりいうのだろう。」
  「駄洒落でも、もう少し増しな言い方を勉強しろよ。」と私は思う。

今日は、水との戦いをしながら、20本の杭打ちで終わる。

さあ、明日からは、次兄と手伝いを加勢に入れての、総勢5人によるコンクリートの打ち込みだ。

現在なら、コンクリート・ミキサーによるのだろうが、終戦後の焦土の東京ではすべて手作業である。

 この、話は次回に。
 

   

 

焦土の東京で 8 初めての仕事鉛筆工場

2007年05月03日 | 終戦後の生きざま・私流
15才にして、初めての仕事の手伝いとして、職人さんAとBさん二人の「手元」(雑用係り)として、本格的な仕事現場に出た。

仕事の現場は、「鉛筆の芯を製造している工場」である。
場所は、3月10日の東京大空襲の爆心地に近い、隅田川沿いで焼けなかった工場だ。

お袋から、風呂敷に包んだ「弁当箱」を渡され、何か嬉しく「これで私も認められたのかという思い」と「仕事と言うけど、何をどうすれば良いのか、親父は一言も教えてくれない。」それらの不安が入り交じる。

「今日は熱くなるからな、水を十分とって、帽子を忘れずに被ぶってな。」親父が言ったのは、唯これだけ。

《最初の仕事現場》

職人Aさんと、工場主の旦那と、我が家の親父で仕事のことで盛んに話ている。

さあ、始めるぞと職人のAさん、職人のBさんがこれに応えて、スコップやツルハシを抱えて、仕事をする場所の近に運ぶ。

親父は、打ち合わせが終わってすぐに帰ってしまい居ない。

この現場は、私を含めて三人で仕事を進める事になる。

私 「まず、なにをして良いのか、判らない。」
  「職人Bさんが、道具を抱えて、仕事をする場所に運んだので、まだ残っている道具を二つほど抱え、私も職人Bさんの後についていった。」

職人B「バカヤロー、この道具は今すぐに使うものではない。」(以下、職人Bは・単にBとします。)
  「邪魔になるだけだから、元の場所に戻しておけ。」

私 「最初からこれでは、先が思いやられるな。」
  「と、思ったが、口に出しては言えない。」
  「仕事とは、厳しいものだぞ、と聞いてはいたが、最初からバカヤローでは、情けない。」
  「まあしかし、良かれと運んだ道具か、すぐに使うものでなく邪魔になるなら怒られても仕方ないか。」と思い直す。

《仕事の内容》

この現場の仕事は、「鉛筆の芯、その素材である黒鉛と炭の粉を混ぜて、練り上げる。ロールという機械を据えつける土台をコンクリートで作るのだそうだ。」

この、ロールには、動力で相当の力が懸かるので、ロールを据付て置く土台は頑丈なものを要求されているという。

さて、工事が始まった。職人Aさんが工事をする場所の土間を、棒切れを使って直線を引く。(当時は、白墨などがないので棒でやっている。)

大きさは、畳でいえば二枚分位か。

Aさんが、ツルハシとシヤベルで、傍線で印した内側を堀りはじめる。
Bさんが、掘り出した土を纏めて整理し、バケツに入れて、外の空き地に運びだす。

二人の呼気うが、合っていて仕事がスムースに進む。

私 なにをして良いのか、判らずにまごまごしていると。

Bさんの声が、その時に飛んだ。「この役ただづめ、その辺でまびまごされていたのでは、邪魔だ。どけどけ。」

私 「バカヤロー、の次ぎは、役ただずでは、酷い」
  「このまま、家に帰ってしまおうか、とも思ったが、まだ、仕事現場で何の働きもしていない。」
  「まあ、もう少し様子を見てからか。」「このまま、家に帰ったら親父に叱られる。」いろいろな思いがよぎる。

Aさんが掘り進んでいる穴がだんだん深くなり、Aさんの腰くらいになる。
Aさんが掘った土を、Bさんがバケツに入れて運び出すか、やや高くなってきたので、力がかかり大変な様子。

Bさん「おい、糞坊主手伝え。バケツを囲いの上に出すから、上で受け取って捨ててこい。」

私 「やっと、仕事が廻ってきたかと思うが。」
  「糞坊主はないだろう。」
  「仕事とは、こういうものかい??。」

  「バケツの土は、下に行くほど水分をふくんできて重くなる。」
  「初日だ我慢・がまん。」
 
《昼の弁当》

私 「食べるものが不足している戦後だ。この昼の弁当が唯一の楽しみだ。」
  「ここで、挫けては弁当が食べられない。」

  「仕事でも、何とか手伝いになりそう。」
  「また、どんな風に、この仕事が出来上がって、ロールと言う機械がどのように収まるのかも楽しみだる」

B職人の、「雑言・罵倒・嫌味・駄洒落」に付き合っての昼弁当だけが助け舟だ。

  次回は、B職人の「駄洒落三昧」です。 

焦土の東京で 7 レンガ職人の親父と仕事

2007年05月01日 | 終戦後の生きざま・私流
仕事の話を書く前に「昭和の祝日」の話を少ししておきたい。

昭和5年生まれの私としては、昭和と言う年代をまるまる全部生きてきて。さらに、現在、平成19年まで生かされてきました。

76才になった現在の感想だ。2か月後、もうすぐに「喜寿」を迎える年だよ。

「昭和の祝日」の制定第一回目の平成19年4月29日を迎えられて大変感激し嬉しい思だ。

「貧しくとも、人々が助け合い、隣近所の人が親切で、事件も無く平和に、希望をもって生きてきた。」昭和の誇れる年代、「昭和」だと、幼かった当時の私は思っている。


さて、親父のレンガ職人の仕事の話しだ。
まず「レンガで造られた構造物」を、現存しているもので、私が現在知っているものを書いて見ましょう。

① 東京駅「東京駅の大手町側の表玄関をご覧下さい。文字通りレンガの立派な構築物です。」

② 世界文化遺産に登録を希望されている「群馬県富岡製糸場」
  「この建物は、明治5年に作られた、木骨レンガ造りと言うもので、レンガを60万本も使って、作られているそうです。」

③ 九州の五島列島に旅行した際に、目にした「教会のレンガ造り」の建物のすばらしさにびっくりしました。
  それも、小さな集落の中に必ずと言ってよい、立派な「レンガ造りの教会」がそれぞれ建てられていることでした。

④ 私が生まれ育った荒川区にもありました。南千住地区で「製布工場の建物の構築物として永く使われていました。」
  今は現存しておりませんが、戦後取り壊されて「大映の東京球状になり、その後に、区のスポーツ・センター」になっています。

⑤ この他、大きな工作物としては、「レンガの橋」として残っているものもあります。京都にある「インクラインの水道橋」もレンガ造りと記憶していますが。

⑥ さらに、「釜戸」
      「ボイラーの外壁」
      「庭の敷石や家屋の外塀」
      「五右衛門風呂」
      「外の流し場」
       などなどがレンガ造りです。結構沢山あります。参考に家の周りの「レンガ造り」を探して見てください。

さて、親父は「レンガ職人」と書きました。

大きな「レンガの構造物」を並べて先に書きましたので、私の親父がこの構造物を作るのに、関わっていたと思われると困るので、説明しておきますが。

我が家の、親父「レンガ職人」としての仕事と言うのは、小さな「レンガ造りの物」を、レンガを用いて作っていました。

上記の「レンガの構造物」のうちの、
⑥ の部分「釜戸」
     「ボイラーの外壁」 
     「道路のレンガの敷石」
  などが、親父の仕事の大部分です。   文字どおり下町の「小零細企業」でした。

《親父の仕事と仕事職人の構成》昭和21年

親父  52才「親父は、リュマチで左膝が悪く、実際の仕事には手をほとんど出しませんでした。」
長兄× 25才「軍隊に出ていて、現在中国奥地の{重慶」にいて、まだ復員せず。」
       「復員後に長兄も親父の仕事を手伝うことになる。」「徴兵以前は、寿司屋に住み込み見習いしていた。」
次兄  20才「軍需工場に徴用されていたが、早くも終戦で家に帰ってきた。徴用前は彫金師の家に住み込み見習い。」
私   15才「家に居て学徒動員され、中学生の学業をせずに2年の半ばから無給で軍需工場で手伝い。」
 
職人A 43才「親父の知り合いの職人仲間。実際の仕事現場を任されている。」
職人B 35才「職人Aの友人で、仕事仲間」 
手元C 19才「今でいう、パートで仕事が混み合うと呼びだされて手伝う。千軒長屋の住人」


終戦後、2年目の我が家の仕事のメンバーです。

仕事は、前後の復興期です断るくらい沢山の仕事がありますが、「セメント」「レンガ材」「砂」「砂利石」などの材料が揃いません。

《当時の給与と休日》

① 当時の職人に支払う給与は、基本は日払いで、集金が間に合わない時には週払いになる。

② 私達家族労働者は、無給でした。必要な費用はその都度母親に言ってもらっていた。
  見習い中の職人は、三食食べさせてもらえれば、何も言えなかった時代です。

  兄貴達の住み込み時代も同じ待遇で、「寝る場所があって、食べさせて貰っていて、仕事を覚えさせてもらうだけで、満足することが普通でした。」
  属に言う、貧乏家庭の子沢山「食い扶持減らし」と言った。

③ 休日ですが。
  当時は、一日・十五日、の一か月に2回の休みのみでした。

  この休みも、仕事の都合で無くなることが、ちょい・チョイありました。

  「文字通り、仕事優先です。」

 諺 「千の倉より子は宝」
    (多くの財よりも子供は大切であるということで、子供はなにも変え難い最高の宝だということ。)  


  次回は、私が仕事の道具の名称を覚えさせられた、苦労話です。