子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

2 おばあちゃんの携帯電話2

2009年02月23日 | 我が家のつれづれ
おばあちゃんが携帯電話を買おうかなと言った。

私は常々、「老化防止」のためには効果があると思っていたので、かねて進めていた。
しかし、本人(おばあちやん)にとっては、難しい機械はわずらしいだけと思ってている様子。

DVD一つとっても、テーブに録画するのに一苦労して、なんとかものになるまでに一年間近くもかかったのである。

躊躇する訳は解かる。
携帯電話は、他人の前で操作しなくてはならない。
自宅のテーブの録画にこれだけ苦労したのだ、携帯電話は無理。
携帯電話はそれ以上に難しい。
とてもとても、おばあちゃんには手が出せない機械だから。

便利な機械だとは思っていても、「おばあちゃんには無理」と言う言葉が頭の中を過ぎる。

《それが携帯電話を買う気になった》

その理由には幾つかある。

 1.我が家の家族13人で小学生を除いて、大人として携帯電話を持っていないのは、おばあちゃん一人になってしまった。
 2.毎週一回休まずに言っている「卓球クラブ」でも、同年輩の仲間が携帯電話を使って連絡し合っている。
 3.最近は、表に出ても「公衆電話」が探がしても見つからない。
 
 4.私が「携帯電話」を持てよ。ボケ防止にもなるし、「買ってやるからよ」というのがだんだん、その気にさせたのか。
   「携帯電話への登録は、私も家族も手伝うからょ」
 5.毎月の費用も最近は、「家族割引」などの割引制度があって、「月額基本使用料おトクな980円」だぞ。
 6.携帯電話機を現金で買ってしまえば、後は「通話料と基本使用料」の二つで毎月1,000円少しで済むよ。
 7.「ベーシックな携帯電話なら」、デビー割と言うのがあって、2万円も割引が付くので、
   28,000円の電話器が8,000円で今なら買えるのだぞ。

などと「あーでもない、こーでもない」と理屈をつけて、何回も買うように勧めてきた。
しかし、「宝の持ち腐れ」(注1)と言う諺もあるから、買ったからといっても、上手く利用するかどうかは、
「水もの」(注2)だ。

(注1)役に立つ物をもちながら利用しないこと。
(注2)一時的な利益だけで、長続きする見込みのない物事。

《携帯電話をおばあちゃんが買う気になったので、調べる》

さて、おばあちゃんが「携帯電話」を買う気になったが、電話会社に買いに行くのにには、どうすればいいのか。手ぶらで行ってから「あれが足りない、これも無い」では、勧めてきた私としては拙い。

 1.新聞の宣伝広告を切り抜き。
 2.折込広告を集めて。
 3.予め、用意するもの、機械代金や利用料金を勉強をして。
 4.携帯電話会社に電話で問い合わせした。

《携帯電話を新規に買うために用意する資料》

携帯電話会社へ問い合わせした結果を列記すると次のような結果だった。

10年ほど前に私が買ったときには、「運転免許証」か「健康保険証」程度で直ぐに買えたのに、現在では相当に手続きがやかましい。
「振込み詐欺」などに「携帯電話」が悪用されているための、警戒がそうさせたのだろう。
かなり、手続きは面倒なものだ。

下記のようなものをお持ち下さいと言う。

 1.公共料金の支払利用金明細。
 2.運転免許証か保険証
 3.支払する、「預金通帳」と「通帳で使っている印鑑」
 4.本人が来店できない場合は「委任状」
 5.携帯に入力する「パスワード」
 6.購入代金

では、資料が揃えば直ぐに買えるのかと思ったが「安いベーシックの携帯電話」は在庫が無いので、「来週になります」の電話の返事。
まだ、我が家の「おばあちゃんの携帯電話は」手元に届いていない。

「携帯電話」、が来たら「一騒動するだろうな」と思いながらこの原稿を書いている。

では、また次回に。

1 おばあちゃんの携帯電話

2009年02月18日 | 我が家のつれづれ
我が家の一族は、4家族いて全部で13人いる。
 
 1.親夫婦・(私)・・・・・・・2人 東京在住
 2.長男夫婦に小学4年生・・・・3人 東京在住
 3.長女夫婦に大學生と高校生・・4人 埼玉在住
 4.次女夫婦に高校生と小学生・・4人 埼玉在住

こんな、系図の家庭になっている。

実は、我が家の娘、次女の長男が、今年高校生に進学するので「高校受験」を受けた。

電話で、「高校受験の内定に成功したよ」との連絡が埼玉県の娘(次女)から入った。

その後、一週間もしない内に、高校受験した外孫から私の携帯電話にメールで「私の携帯電話だよ」と言うメールが入ってきた。

「ははーん。高校受験が上手くいったら携帯電話を買って。」と親にねだっていたのだな。早速の携帯電話でさぞ喜ひ勇んでの連絡だなと私は想像した。

こんなことで、我が家の家系13人で「携帯電話」の所持している者が10人である。
携帯電話を持っていないのは、小学生の孫2人と、73才のおばあちゃんの3人だけとなった。

時代とともに、その進歩する電器機具に追いつかない老人が世間から取り残されるような気になる、昨今である。
テレビのデジタル化も後2年だが、まだ普及率は50%だという。
ここでも、老人は取り残されてしまうような気がする。

《おばあちゃんのDVD》

おばあちゃんに、「携帯電話」を買ってあげるからどうする。
と言ってみるが、その返事はいつも「要らない」の一言のみ。

かねて、私はおばあちゃんに、「老化防止」のためと言って、「携帯電話」をもたせたいと思っていたが何時も失敗。


その後、デジタルテレビを我が家で買った時に、BVDも一緒に買い込んだ。
400時間も録画できる機能を持っている。

こんなに録画できるので便利かと言うと、なんのことは無い、見たい聞きたいと思って録画しても、録画を消化する時間が無いのだ。
録画が溜まるばかり。便利であるが、その裏側に不便な情況が待ち構えている。

《おばあちゃん専用DVD専用録画器》
もう一つの理由は、古いテープベースの録画器を、おばあちゃんの老化防止と言う理由で、おばあちゃん専用に譲った。

おばあちゃんは、最初の6か月位は、ドラマなど録画している様子だが、上手く録画できなでいる。

「わかんないなら聞いてよ。」と言ってあるが、なかなか聞いてこない。
たまに、上手くいくときもあって、前日のドラマを見ている時もあるようになった。
だが、またまた、録画が上手く入らない様子。

脇で見ていた私が「何で上手く言ったり、ダメだったりするのる」と聞くと「そうなんだよね。」の返事だけ。
「私にどうすればいいの」とでも聞いてくればいいのにと気にしているが、聞いてこない。
「そういう時には、紙に手順を書いて置いて、いけば上手く行くよ。」とアドバイスするが、一向に紙に書く様子が無い。

「手順を言うから、紙に書けば。」と言ってみるが面倒くさいの返事。
「録画でもたもたしている時に、たまに口を出す程度に私はした。」
こんなことも老化防止のために有効なんだろうとの重いがしたから。

それでも、一年もたった現在では、「TVの録画はOK」になり、ドラマ中心で翌日の日中に一人でみている。

ちらちらと、その録画したドラマを私も覗くが、私の趣味に合わない物ばかり。
私は、「新聞」か「新刊本」などを読んでいるほうがいいので、「TV」は午前中はおばあちゃん専用になる。

TVの録画も上手く行って来たので、今度は「携帯電話」だと思い盛んに誘うが「うん」と言わない。

「携帯電話」

さて、「携帯電話」だが、毎月000円の費用が懸かるが。

「最近は出先で、用事があって、(公衆電話)を探しても殆ど見かけることが出来なくなって不便た。とおばあちゃんがこぼしている。」

「私が、携帯電話を買ったら。というが。」
「うん」と言わない。

家庭にある「固定電話」の小器に、我が家で必要な電話番号は殆ど登録してあり、すでに10年以上たつが、「いろはにほへと」で育った老人には、今でも目的の名前がなかなか出てこない。
「アイウエオ、カキクケコ」が頭の中に住み込んでいないからだ。
「習うより、馴れだよ。」と私が言うが。
「うん」と言わない。

「固定電話の小器」を持って、名前を探すが、「ア」から始まって、一つづつ咲らしていて五月蝿い。
「矢部さん」なら「ヤ」の数字の列「8」に飛んでから順番に探すのだよ。

これも、面倒で、名簿を持ってきて、数値を電話器に打ち込んでいる。

それが、最近「携帯電話」を買おうかなと言った。

この話の具体的なことは、次回に。

17 新婚家庭の家計 最初が肝心 その13

2009年02月11日 | 私が歩んできた道を振り返って
勤めながら夜間大學を卒業したのは、私が24才の時でした。
前にも書きましたが、職人の家庭の子沢山です。子供を育てるだけで親は精一杯です。
この家庭に私は7人の姉兄弟の中で、4男として育ちました。

私の下には、2歳と5才違いの妹が二人います。
私が10才過ぎから大東亜戦争が激しくなり、中学生2年の時に「学徒動員」と言って、家の近くの軍需工場に動員されて無給での機械工場の下働きとして、中学校にも行かれず勉強もせずに、約2年働かされました。

中学3年生の3月、普通なら中学を卒業する時期てす。
この時の3月10日に「東京大空襲」に遇い、「東京は丸焼け」になってしまいます。
我が家も、学校も焼けてしまい、「卒業免状」も受け取れない始末です。


何もすることなく、私は親父と一緒に我が家の焼け跡片しに毎日を過ごす生活になりました。

東京に在宅している近隣の家族は殆ど誰も居ません。
私の同年の学友達は皆んな「疎開」していて、遊び相手も誰もいません。
東京に子供が居るのが珍しいくらいで、居るのはたまに出会う大人のみです。
商店も交番にも人影がなく、焼け残った住宅にも人影は皆無です。

我が家から、見える東京の街波には家屋は一つも見えず、見えるのは焼け跡に残る質屋の「蔵」と、「浅草の観音様」ぐらいです。
10Km位らい東も南も見通しです。

その年は、焼け跡を整理する日課でしたが、何せ食べ物がなにもありません。
焼け跡にジャガイモなどを植えて飢えを凌ぐのですが、育ち盛りの私と下の妹二人の3人は、何で我が家だけが「田舎が無いのか」と心の底で怒りそして口に出せずに思うのみ。


その年の8月に「終戦を迎える」のですが、我が家の生活はなにも変われないでいます。
翌年の4月に一年遅れで、私は焼け残った別の学校の夜間「中学生」として、昼間は親父の仕事の手伝いで土方をしながら、夜は「夜間中学3年生」として編入し、勉強が再開を出来ることになりました。

前の焼けた学校時代に戦争のため殆ど勉強をしていませんでしたから、中学3年に編入した後の勉強には大変苦労しましたよ。

しかし、新しい中学でも「授業時間中に停電が多発」して、殆ど勉強が進みません。
ただ、新しい学友が出来て楽しく、一日も休まずに学校に通います。

新しい学校で中学3年生を終った。
翌年から「新制高校」と言う制度が発足し、中学で卒業してもよし。
「新制高校に進学しても良いぞ」と担任の先生に言われ、そのまま新制高校に進むことにしました。
ただ、「夜間の新制高校は4年間」で無いと卒業できない制度だと言います。

こんなことで、新しい学校に5年間夜間通学したわけです。
中学3年が一年間、新制高校が四年間と言うわけです。

この間、昼間は親父の仕事の手伝いをずーとしていましたから、終戦の焼け跡整理の学業空白を一年間を含めると6年間の土方生活をやって来たわけです。

この時には、6年間の「レンガ職人」の手伝いで、親父から「小さい仕事の現場」は総て任せられるようになっていました。
俗に言う「職人として独り立ち」したわけです。
職人になると、「手間賃が上がります」今までは、現在で言う日雇い派遣労働者並みの賃金でしたのが、日取りの賃金が倍額ぐらいになるのです。
しかし、賃金の請求は親方(親父が握っている)がやっているので私の手元には一銭も入りませんでしたがね。
この時代の家族労働というのは、家族で家庭全体を支えるという建前です。
必要な費用を貰い、食べさせてもらえるだけ。というのが世間のやり方でしたから。
金銭を含めて「家庭・家族の実権は総て親父が握っている」というのが実態でした。

ごめんなさい。
私の「新婚家庭の家計 最初が肝心」を書く予定が、戦争前後の話で先に進みませんでした、

しかし、こんな生活が「サラリーマン」になって、新婚家庭を築き上げる原動力となり、親父時代の家庭を振り返り、これらを反面教師とし。
辛い仕事にも文句を言わずに、新婚家庭を築くことが出来たのだと思います。

独立独歩の私の新婚世帯を、次の項で書きます。

17 家計管理の実行 その13 

2009年02月04日 | 私が歩んできた道を振り返って
家を建て、世帯を持った。私が29才昭和34年(1959)である。

一番もん大事なのは、1.計画し、2.計画通りに実行できるか、3.何か問題が無いか。
文字どおり1.プラン 2.ドウ 3.チエックである。

何事も計画通りにスムースにいくもではない。常に何語とかの問題が起きてくる。
この場合に備えて考えながら進んで行く用意を常にしておくことが肝要だと私は思っている。。

《結果を求めるには》

私の考え方は常に3つの考えを立てて進んでいく。

 1.一つは、仮説を3つ立てる。計画は3つの案を立てると言うことから始まる。
 2.二つ目は、3つの仮設内からこれだと思う方法を選んで実行する。
 3.三つ目は、実行する段階で、上手く進まない、計画通りでない。
   こんなときには、一つ目の3つある仮設に戻り、3案ある仮設を再検討するのだ。
山道でも、最初の計画よりずれ込んでいたたら、なるべく早く軌道修正をしてやらないと、深みにはまり、修正がきかなくなるものだから。
ある時には、逆戻りして、次の仮設からやり直す覚悟が必要だ。こんな時になった時には相当な決心を要するものだぞ。


《我が家の生活設計の実行》

 1.土地を借り。
 2.家を建てる。
 3.結婚式を挙げる。
 4.新婚旅行を実行した。
 5.新婚世帯の生活設計を立てる。

此処までの話は、前のブログにくどくど書いてきた。
一番肝心なのは、私の財政問題である。

私の我が家は、職人の家庭で小沢山、何時も金が無かった。
こんなことから、我が家では親に金銭面で、全然頼れない環境であった。

 1.の「土地を借り」から、5.の「新婚所帯の生活設計」まで、自己責任でやり抜かねばならないのだ。

 一つ目の、土地を借りは、幸い借地だったので「権利金」の支払で済んだので金銭的には、計画金銭は私の考えていたものより1/3で済んだ。
残りの金銭は建築費と結婚守備予算に回せる。
だだし、毎月「地代」の支払がある。
この時代は、毎月の家計「私の月給」の中の支払計画に組み込むひつようがある。

 2.の「家を建てる。」では、自己資金と、職場借り入れ、住宅金融公庫借り入れを、それぞれ1/3として計画したので、家計の中からの支払が増える。

まず、「住宅金融公庫の借り入れ」は15年返済としたので、「家賃」のつもりで、毎月の家計の中に組みこむ。

そして、「職場からの借り入れ」は、私の毎回の賞与1/2を充ててかえす。
私の計算では、返済終了まで5年間と計算した。
賞与の返済1/2としたのは、新婚世帯で家具什器が何も無い出発ですから、買える財源は賞与しかないのですから。
ここで、女房に相談し協力を求めることにした。
女房も子供が出来るまで、共稼ぎをすると言っているので、女房も賞与の1/2について、「職場借り入れ」の返済に協力してもらえないかと提案。
快く「いいですよる」といってもらえた。
女房も勤めているあうだは、自分の月給はまるまる自分で使えるし。賞与も半分は自由だ。
こんなことで、「職場借り入れ」は5年の計画が2年半で終わった。

 3.「結婚式を挙げる。」ここは、私自身の資金でやり抜くしかない。

前にも書いたが、私の兄弟に相談したら、総予算の20%を出しておけ、残りは「お祝い金」で賄えると思うからと言うことになり、翌日に「新婚旅行」に出かけ、帰ってきてから、清算する。
「結婚式」の清算も、何とかやりくりして済んだ。

 4.「新婚旅行」は、「紀州旅行」が「伊豆半島旅行」になったので、費用が浮いて、土産代や旅行中の小使い、に回すことが出来た。
ここまでくれば、金銭的な目途も先が見えてきて、私の精神面も安定して「新婚生活」を迎える心構えが出来た。

 5.「家庭世帯の生活設計」のポイントは、「私の小使い」を含めて、「私一人の月給の範囲内」で、毎月の生活を切り盛りするという事で、「私の月給袋そっくり女房に渡して任せる」ことにしたことだ。
女房も2年程度の友が瀬技で、やがて「専業主婦」という姿が見えている。
当時は、女性は「結婚」を契機に寿退職するということが普通の世情だから。
いお、当時は女性の職場と言うのは、例外なく少なかったし、勤めの女性は珍しかった。

さて、「私の月給の中から決まって定期的に支出する金銭」を上げるとこんなことかな。
 ア・私の小使い。(この金額は、女房と相談の上決めた額)
 イ・地代。
 ウ・住宅金融公庫の毎月返済。
 エ・公共料金の支払。
 オ・毎日の食材。
 カ・たまに私の肌着・靴下程度
 キ・専業主婦になってからは、自分の裁量での買い物「洋服類」
 ク・これらのやりくり内容には、私は口を挟まない。
 ケ・家計がどうしても、不足する時には、私の「蓄えている賞与から補足する。」
《50年間やって来た生活》

以上、こんな生活計画で我が家は、現在までその後に一回も借金もせずに50年やって来た。
まあ、貧乏人の生活の知恵と思ってみてください。

子供も3人育てたし、それぞれ所帯を持たせた。
外孫を含めて孫の数は5人。
家も増築を2回したし。
現在、息子夫婦に二階を全部上げて、玄関だけ共有だが、(風呂、台所、便所、3部屋)がある。

我が家は、現在年金生活で生活している。
家計のやりかは、現在でも同じやり方である。

この項「私が歩んできた道を振り返って」は、ここで終わることにする。