子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 7 レンガ職人の親父と仕事

2007年05月01日 | 終戦後の生きざま・私流
仕事の話を書く前に「昭和の祝日」の話を少ししておきたい。

昭和5年生まれの私としては、昭和と言う年代をまるまる全部生きてきて。さらに、現在、平成19年まで生かされてきました。

76才になった現在の感想だ。2か月後、もうすぐに「喜寿」を迎える年だよ。

「昭和の祝日」の制定第一回目の平成19年4月29日を迎えられて大変感激し嬉しい思だ。

「貧しくとも、人々が助け合い、隣近所の人が親切で、事件も無く平和に、希望をもって生きてきた。」昭和の誇れる年代、「昭和」だと、幼かった当時の私は思っている。


さて、親父のレンガ職人の仕事の話しだ。
まず「レンガで造られた構造物」を、現存しているもので、私が現在知っているものを書いて見ましょう。

① 東京駅「東京駅の大手町側の表玄関をご覧下さい。文字通りレンガの立派な構築物です。」

② 世界文化遺産に登録を希望されている「群馬県富岡製糸場」
  「この建物は、明治5年に作られた、木骨レンガ造りと言うもので、レンガを60万本も使って、作られているそうです。」

③ 九州の五島列島に旅行した際に、目にした「教会のレンガ造り」の建物のすばらしさにびっくりしました。
  それも、小さな集落の中に必ずと言ってよい、立派な「レンガ造りの教会」がそれぞれ建てられていることでした。

④ 私が生まれ育った荒川区にもありました。南千住地区で「製布工場の建物の構築物として永く使われていました。」
  今は現存しておりませんが、戦後取り壊されて「大映の東京球状になり、その後に、区のスポーツ・センター」になっています。

⑤ この他、大きな工作物としては、「レンガの橋」として残っているものもあります。京都にある「インクラインの水道橋」もレンガ造りと記憶していますが。

⑥ さらに、「釜戸」
      「ボイラーの外壁」
      「庭の敷石や家屋の外塀」
      「五右衛門風呂」
      「外の流し場」
       などなどがレンガ造りです。結構沢山あります。参考に家の周りの「レンガ造り」を探して見てください。

さて、親父は「レンガ職人」と書きました。

大きな「レンガの構造物」を並べて先に書きましたので、私の親父がこの構造物を作るのに、関わっていたと思われると困るので、説明しておきますが。

我が家の、親父「レンガ職人」としての仕事と言うのは、小さな「レンガ造りの物」を、レンガを用いて作っていました。

上記の「レンガの構造物」のうちの、
⑥ の部分「釜戸」
     「ボイラーの外壁」 
     「道路のレンガの敷石」
  などが、親父の仕事の大部分です。   文字どおり下町の「小零細企業」でした。

《親父の仕事と仕事職人の構成》昭和21年

親父  52才「親父は、リュマチで左膝が悪く、実際の仕事には手をほとんど出しませんでした。」
長兄× 25才「軍隊に出ていて、現在中国奥地の{重慶」にいて、まだ復員せず。」
       「復員後に長兄も親父の仕事を手伝うことになる。」「徴兵以前は、寿司屋に住み込み見習いしていた。」
次兄  20才「軍需工場に徴用されていたが、早くも終戦で家に帰ってきた。徴用前は彫金師の家に住み込み見習い。」
私   15才「家に居て学徒動員され、中学生の学業をせずに2年の半ばから無給で軍需工場で手伝い。」
 
職人A 43才「親父の知り合いの職人仲間。実際の仕事現場を任されている。」
職人B 35才「職人Aの友人で、仕事仲間」 
手元C 19才「今でいう、パートで仕事が混み合うと呼びだされて手伝う。千軒長屋の住人」


終戦後、2年目の我が家の仕事のメンバーです。

仕事は、前後の復興期です断るくらい沢山の仕事がありますが、「セメント」「レンガ材」「砂」「砂利石」などの材料が揃いません。

《当時の給与と休日》

① 当時の職人に支払う給与は、基本は日払いで、集金が間に合わない時には週払いになる。

② 私達家族労働者は、無給でした。必要な費用はその都度母親に言ってもらっていた。
  見習い中の職人は、三食食べさせてもらえれば、何も言えなかった時代です。

  兄貴達の住み込み時代も同じ待遇で、「寝る場所があって、食べさせて貰っていて、仕事を覚えさせてもらうだけで、満足することが普通でした。」
  属に言う、貧乏家庭の子沢山「食い扶持減らし」と言った。

③ 休日ですが。
  当時は、一日・十五日、の一か月に2回の休みのみでした。

  この休みも、仕事の都合で無くなることが、ちょい・チョイありました。

  「文字通り、仕事優先です。」

 諺 「千の倉より子は宝」
    (多くの財よりも子供は大切であるということで、子供はなにも変え難い最高の宝だということ。)  


  次回は、私が仕事の道具の名称を覚えさせられた、苦労話です。