子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 13 機械の据付

2007年05月14日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和21年4月 15才。昼間は親父の仕事で土方仕事の手伝い、夕方から夜間の中学生として学校へ通う生活が始まった。

夜間学校の話は少し先にして、仕事のその後の経過を話しておきます。
(タイトルは、高校生としましたが、進学したのは中学です。この経緯は後ほどお話します。)

先ずは、先に工事していた「鉛筆の芯を作っている工場でのロールの据付」が行われることになりました。
職人Aと職人Bと次兄と私が一緒に4人で「鉛筆工場」に出向いた。

工場には、据えつける機械の「ロール機」が組みあがっていて、我々が作ってきた基礎工事の傍に、立派な姿で待ち構えています。
機械屋さんが二人、私達の到着を待っていました。

数日架けて、機械屋さんが、ここの場所で組み上げたのだという。

さて、この「ロール機械」を基礎工事の上まで運びこむ訳だが、かなりの重量があるものだという。

職人Aさんが、我々に指示し、機械の移動作業の準備が始まった。

機械の下に、片側に一枚づつ厚手の板を入れる、「厚手の板を入れる作業」だ。

機械の片側2箇所から、「バール(3センチの丸棒で先がへら)を機械の足下に差込み、持ち上げる。」
2センチほど持ち上げると、職人Aさんが仮板を差し込む。
片側が終わると、今度は反対側に廻って同じ作業を行う。一度に沢山持ち上げすぎると、ロール機械が歪むので少しづつやるのだそうだ。

何回か、同じ作業が繰り返されて「据付られるロール」が15センチほど持ち上げられた。

ここで、機械の足に厚板を差込み、その板の下に「コロ(丸い鉄管)」を5本ほど曳き、「バール」で「基礎コンクリート」に向けて、コロを転がして押し出す。

職人Aさんが、基礎の中心に真っ直ぐ乗せるために、コロを「ハンマー」で叩いて向きを調整する。

ゆっくり、静かに、そーっと、全員息を殺して、時間をかけてバールで押す。

「基礎コンクリート」に入れて置いた4個の木の箱は、次兄が「バール」で取り壊して出していて、4個の穴がポカット出来ている。

「ロール」が、「基礎コンクリート」の中央に辿り着いた。
今度は、「ロール」を「基礎」の上に降ろす作業だ。
「ロール」の足の部分に「アンカー・ボルト」4本を仮止して差込み、静かに降ろす。

「ロール」が「基礎」に置かれると、機械屋さんのチーフが「水平・曲がりが無いか・機械全体の位置が正しいか」を検証する。

チーフからOKが出されると。今度は、「アンカー・ボルト」の穴に「コンクリート」の流し込み作業が始まる。

その翌日に、据付た機械の周りを「上塗り」して。これで、今日の一連の作業が終わる。


《15才の私の感想》

なんで、仕事がキツイのにも関わらず、嫌がらずに、嫌味・雑言に耐えて「土方仕事」をやっているのか。実は幼い私にも解らない。まあ、強いて言えば次のように言えるかも。

① 仕事の一つひとつが、興味深深で、この次は何が始まるのか、どんな道具をどんな風に使ってやるのか。

② 仕事がすすむ事に、次は・次は何をと思い「はあ・なるほど」と感心する。

③ 仕事の、一つひとつが面白く、勉強になる思いだ。

④ 職人Bさんの「戯言」もあまり気にならない。
  一つは、15才の私には「言っている意味が何かよく解らない。」ことが多い。
  二つ目は、この「戯言」に反応して、仕事中に家に帰ったら「親父に酷く怒られ、飯も食わせてもらえなくなる。」

  三つ目は、先に言ったように、仕事の興味があり「仕事の進みかた」「道具の使い方」をみているだけで時間が経つ。

⑤ 夜間高校に進学出来ることになったことも、仕事の励みになっている。

⑥ この「戯言」に耐えたことが、成人した後の私の社会生活で力になったと思っている。
 (この話は、機会があればしたいと思う。)
 
《タイトルの夜間中学と夜間高校》

この話はこういうことだ。

15才で入学したのは、中学の3年生である。(終戦の年、今まで通っていた中学校が焼失してしまったので、別の場所で焼け残った中学校に、一年送れで途中入学したのである。)

中学3年生の学業を一年間済ませた。
「ここで、一歳遅れ。」

この年の3月に、新制高校制度が発足し、ここの中学が新制の高校に衣替えになるという。
学校側から「中学で卒業してもよい。」し。
     「新制高校にこのまま進級することも出来る。」
     「ただし、今度の高校制度は、昼間部は3年で卒業できるが、夜間部は4年制だと言う。」

自宅に帰って、よく両親と相談して進路を決めろ。
     「君達は、入学試験なしで新制高校に入れることになっている。」
     「勿論、ここの夜間部の学校も中学校でなくなり、高校に編成替えになる。」
     「このため、先生方も同じで、校舎などの設備も今までどおりで、変わらない。」

こんな経過があり、私は「新制高校」にそのまま通うことにしました。
      学友のほとんどが「新制高校」を選択した。

「土方(仕事)と夜間高校」と言う、タイトルにした理由がお分かりになりましたでしょうか。

結局、私は、ここの中学から新制高校を終わるまでの期間、「5年間も通う」ことになったのです。

従って、入学時に「一歳遅れ」で中学に入り、さらに「高校で一年長くなり」世間と同じ年令の子供より、高校卒業時には「二才年上」ということになる。

次回は、「夜間学校」のことを記るすことにします。


焦土の東京で 11 15才で初めての土方仕事

2007年05月08日 | 終戦後の生きざま・私流
15才での初めての仕事現場だ。

仕事は、「鉛筆の芯を造る工場の中に、鉛筆の芯を作る材料(黒鉛と炭ともう一つ何か不明)の粉を入れて、煉りあげる。」ロールを据付設置するための「基礎工事」だ。

工事が始まって、今日で5日目になる。

穴掘りに、二日。
杭打ちに、一日。
コンクリートの打ち込み作業に、今日を入れて二日目。
今日も5人全員での仕事だ。

さて、今日でコンクリートの作業が終わるのか。また、手もとめられない、休めない作業が始まる。

私の感想は、「もう昨日までの仕事で、身体も慣れていないので、くたびれて、へとへとだよ。」
「今日には、作業を終わりにしてもらいたい。」と思うのみ。

次兄が朝一番から、材木で幅15センチ四方・長さイチメートル位の箱を4個作っている。

私 「兄貴、長い箱を作っているが、これはなんに使うの。」と聞くと。

次兄「これはな、アンカー・ボルトと言って、ロールの足を止めるために、頭にネジ目の切ってある長い鉄棒を「基礎コンクリート」の中に埋め込む穴を作るためのものだ。」

私 「次兄に説明されても、なんだか良く解らないよ。」

次兄「仕事をよく見ていれば、だんだん解るよるよ。」と言う。

職人Aか外で、4個の箱を図面を見ながら寸法を測って、材木に横に並べて釘打ちしている。
     何か、神輿を乗せる台みたいな形に仕上がっている。

職人AさんとB、次兄の三人が工事中の穴の中に、この箱を繋いだまま持ち込み、基礎コンクリートの中心点を調べて据えつける。 

《二日目のコンクリートの打ち込みだ》

コンクリートの打ち込みの二日目が始まる。

昨日と同じ手順で、今日は私と手元のCさんも手順に馴れて来たので順調に進む。

手伝いの手順にも大分馴れてきた。

「4・6の鉄板」の上に先ず砂を入れる。昨日は砂は、バケツから一山どさっと富士山みたいに置いたが。
今日は、山脈みたいにして鉄板に流すように置く。

これで、職人Bと次兄の仕事が一歩すすんだ事になる。この砂の山脈に所定のセメントを撒く。

二人が、かき混ぜている間に、砂利と水を二人の手元に置いて置く。

職人Aさんが、掘った穴の中から「今日のコンクリー練りは、馬鹿に順調じゃないか。」の声がかかる。

仕事は、コンクリートの打ち込み、その上に割り栗を並べる。この作業の繰り返しだ。
ただ、気をつけるのは、今日は工事の穴の中に「アンカー・ボルト」を止める箱が4個あるので、仕事がやりづらいことだ。

職人Aさんが気を使って進めているのは、4個の箱を寸分も動かさないようにして作業している。


職人のAさんが、昼食の時に全員に向かって言った。

A「この作業は、今日中に土の表面まで打ち終わるぞ。頑張ってくれ。」
 「多少遅くなっても、終わらせるぞ。」と言う。
 「今日の予定が終われば、明日は休みだ。」

全員「やっと、休みが取れるのか、頑張ろうという気になる。」


《職人Bの、ダジャレ・ギャグ》

ここの仕事を契機に、次には、もっと大型の工事現場に、私は職人AとBの手伝いとして、派遣される。

この際に、私に浴びせかける「雑言、ダジャレ・そしてギャグ」の数々の道具編を考えてみました。

《ギャグ類の道具編》B職人が、どんなことを言ったか貴方も考えてみてください。

① スコッブ・シャベル   参考事例を一緒に考えて
            A「黙って仕事をしろ、このおシャベル野労」
            B「スコップ。(ストップ)のダジヤレ」
            C「少しやれ。(スコップやれ)」
② カナヅチ・トンカチ・ゲンノウ
            A「この、脳天トンカチ。早くやれ。」
            B「カナヅチでゲンノウ(脳)を叩き割ってやるぞ。」
            C「とんかち(トンチンカン)なことを言うな。」
③ ドライバー・ネジマワシ
            A「頭の悪い野労だ。ドライバーで、頭の中のネジを締めろ。」
            B「働きの悪い野労だ。ネジマワシ(ネジを廻す)をするぞ。」
④ スパナ・ネジマワシ
            A「スパナ(スパット)とやれ。」       
        
⑤ プライヤー
            A「お前は、プライヤー(ブライド)が無いのか。」
⑥ ペンチ
            A「お前は、ペンチ(公園にあるベンチ)落ちだ。野球の二軍落ちのダジャレ。」
⑦ ハンマー
            A「ハンマー飯か。(早くも昼飯か)。」
⑧ ハサミ
            A「馬鹿とハサミは、使いようで切れる。」
⑨ ツルハシ
            A「ツルハシ頭(ツルッハゲ頭)」
⑩ 釘ヌキ
            A「(お前の頭の釘を締めろ。)少しでも釘が表に出ていると、(他の人に)布地に引っかかるじやないか。」
⑪ タコ
            A「この蛸(タコ)野労。まごまごするな。」

《こんな、ダジャレは、10年後の私の反面教師となる。》

しかし、このままでは「私の品格がすたる。」

私が、考えている品格は次のとおり。
「仁・義・礼・智・誠・考・忠・庸・恥・勇・名・克」
この中の文字の心を尊びて生きていくことだ。


次回にも、私がB職人から、浴びせられた雑言を60年前を思い出して書いてみます。どの位の数が出てくるかな。

焦土の東京で 8 初めての仕事鉛筆工場

2007年05月03日 | 終戦後の生きざま・私流
15才にして、初めての仕事の手伝いとして、職人さんAとBさん二人の「手元」(雑用係り)として、本格的な仕事現場に出た。

仕事の現場は、「鉛筆の芯を製造している工場」である。
場所は、3月10日の東京大空襲の爆心地に近い、隅田川沿いで焼けなかった工場だ。

お袋から、風呂敷に包んだ「弁当箱」を渡され、何か嬉しく「これで私も認められたのかという思い」と「仕事と言うけど、何をどうすれば良いのか、親父は一言も教えてくれない。」それらの不安が入り交じる。

「今日は熱くなるからな、水を十分とって、帽子を忘れずに被ぶってな。」親父が言ったのは、唯これだけ。

《最初の仕事現場》

職人Aさんと、工場主の旦那と、我が家の親父で仕事のことで盛んに話ている。

さあ、始めるぞと職人のAさん、職人のBさんがこれに応えて、スコップやツルハシを抱えて、仕事をする場所の近に運ぶ。

親父は、打ち合わせが終わってすぐに帰ってしまい居ない。

この現場は、私を含めて三人で仕事を進める事になる。

私 「まず、なにをして良いのか、判らない。」
  「職人Bさんが、道具を抱えて、仕事をする場所に運んだので、まだ残っている道具を二つほど抱え、私も職人Bさんの後についていった。」

職人B「バカヤロー、この道具は今すぐに使うものではない。」(以下、職人Bは・単にBとします。)
  「邪魔になるだけだから、元の場所に戻しておけ。」

私 「最初からこれでは、先が思いやられるな。」
  「と、思ったが、口に出しては言えない。」
  「仕事とは、厳しいものだぞ、と聞いてはいたが、最初からバカヤローでは、情けない。」
  「まあしかし、良かれと運んだ道具か、すぐに使うものでなく邪魔になるなら怒られても仕方ないか。」と思い直す。

《仕事の内容》

この現場の仕事は、「鉛筆の芯、その素材である黒鉛と炭の粉を混ぜて、練り上げる。ロールという機械を据えつける土台をコンクリートで作るのだそうだ。」

この、ロールには、動力で相当の力が懸かるので、ロールを据付て置く土台は頑丈なものを要求されているという。

さて、工事が始まった。職人Aさんが工事をする場所の土間を、棒切れを使って直線を引く。(当時は、白墨などがないので棒でやっている。)

大きさは、畳でいえば二枚分位か。

Aさんが、ツルハシとシヤベルで、傍線で印した内側を堀りはじめる。
Bさんが、掘り出した土を纏めて整理し、バケツに入れて、外の空き地に運びだす。

二人の呼気うが、合っていて仕事がスムースに進む。

私 なにをして良いのか、判らずにまごまごしていると。

Bさんの声が、その時に飛んだ。「この役ただづめ、その辺でまびまごされていたのでは、邪魔だ。どけどけ。」

私 「バカヤロー、の次ぎは、役ただずでは、酷い」
  「このまま、家に帰ってしまおうか、とも思ったが、まだ、仕事現場で何の働きもしていない。」
  「まあ、もう少し様子を見てからか。」「このまま、家に帰ったら親父に叱られる。」いろいろな思いがよぎる。

Aさんが掘り進んでいる穴がだんだん深くなり、Aさんの腰くらいになる。
Aさんが掘った土を、Bさんがバケツに入れて運び出すか、やや高くなってきたので、力がかかり大変な様子。

Bさん「おい、糞坊主手伝え。バケツを囲いの上に出すから、上で受け取って捨ててこい。」

私 「やっと、仕事が廻ってきたかと思うが。」
  「糞坊主はないだろう。」
  「仕事とは、こういうものかい??。」

  「バケツの土は、下に行くほど水分をふくんできて重くなる。」
  「初日だ我慢・がまん。」
 
《昼の弁当》

私 「食べるものが不足している戦後だ。この昼の弁当が唯一の楽しみだ。」
  「ここで、挫けては弁当が食べられない。」

  「仕事でも、何とか手伝いになりそう。」
  「また、どんな風に、この仕事が出来上がって、ロールと言う機械がどのように収まるのかも楽しみだる」

B職人の、「雑言・罵倒・嫌味・駄洒落」に付き合っての昼弁当だけが助け舟だ。

  次回は、B職人の「駄洒落三昧」です。 

焦土の東京で 7 レンガ職人の親父と仕事

2007年05月01日 | 終戦後の生きざま・私流
仕事の話を書く前に「昭和の祝日」の話を少ししておきたい。

昭和5年生まれの私としては、昭和と言う年代をまるまる全部生きてきて。さらに、現在、平成19年まで生かされてきました。

76才になった現在の感想だ。2か月後、もうすぐに「喜寿」を迎える年だよ。

「昭和の祝日」の制定第一回目の平成19年4月29日を迎えられて大変感激し嬉しい思だ。

「貧しくとも、人々が助け合い、隣近所の人が親切で、事件も無く平和に、希望をもって生きてきた。」昭和の誇れる年代、「昭和」だと、幼かった当時の私は思っている。


さて、親父のレンガ職人の仕事の話しだ。
まず「レンガで造られた構造物」を、現存しているもので、私が現在知っているものを書いて見ましょう。

① 東京駅「東京駅の大手町側の表玄関をご覧下さい。文字通りレンガの立派な構築物です。」

② 世界文化遺産に登録を希望されている「群馬県富岡製糸場」
  「この建物は、明治5年に作られた、木骨レンガ造りと言うもので、レンガを60万本も使って、作られているそうです。」

③ 九州の五島列島に旅行した際に、目にした「教会のレンガ造り」の建物のすばらしさにびっくりしました。
  それも、小さな集落の中に必ずと言ってよい、立派な「レンガ造りの教会」がそれぞれ建てられていることでした。

④ 私が生まれ育った荒川区にもありました。南千住地区で「製布工場の建物の構築物として永く使われていました。」
  今は現存しておりませんが、戦後取り壊されて「大映の東京球状になり、その後に、区のスポーツ・センター」になっています。

⑤ この他、大きな工作物としては、「レンガの橋」として残っているものもあります。京都にある「インクラインの水道橋」もレンガ造りと記憶していますが。

⑥ さらに、「釜戸」
      「ボイラーの外壁」
      「庭の敷石や家屋の外塀」
      「五右衛門風呂」
      「外の流し場」
       などなどがレンガ造りです。結構沢山あります。参考に家の周りの「レンガ造り」を探して見てください。

さて、親父は「レンガ職人」と書きました。

大きな「レンガの構造物」を並べて先に書きましたので、私の親父がこの構造物を作るのに、関わっていたと思われると困るので、説明しておきますが。

我が家の、親父「レンガ職人」としての仕事と言うのは、小さな「レンガ造りの物」を、レンガを用いて作っていました。

上記の「レンガの構造物」のうちの、
⑥ の部分「釜戸」
     「ボイラーの外壁」 
     「道路のレンガの敷石」
  などが、親父の仕事の大部分です。   文字どおり下町の「小零細企業」でした。

《親父の仕事と仕事職人の構成》昭和21年

親父  52才「親父は、リュマチで左膝が悪く、実際の仕事には手をほとんど出しませんでした。」
長兄× 25才「軍隊に出ていて、現在中国奥地の{重慶」にいて、まだ復員せず。」
       「復員後に長兄も親父の仕事を手伝うことになる。」「徴兵以前は、寿司屋に住み込み見習いしていた。」
次兄  20才「軍需工場に徴用されていたが、早くも終戦で家に帰ってきた。徴用前は彫金師の家に住み込み見習い。」
私   15才「家に居て学徒動員され、中学生の学業をせずに2年の半ばから無給で軍需工場で手伝い。」
 
職人A 43才「親父の知り合いの職人仲間。実際の仕事現場を任されている。」
職人B 35才「職人Aの友人で、仕事仲間」 
手元C 19才「今でいう、パートで仕事が混み合うと呼びだされて手伝う。千軒長屋の住人」


終戦後、2年目の我が家の仕事のメンバーです。

仕事は、前後の復興期です断るくらい沢山の仕事がありますが、「セメント」「レンガ材」「砂」「砂利石」などの材料が揃いません。

《当時の給与と休日》

① 当時の職人に支払う給与は、基本は日払いで、集金が間に合わない時には週払いになる。

② 私達家族労働者は、無給でした。必要な費用はその都度母親に言ってもらっていた。
  見習い中の職人は、三食食べさせてもらえれば、何も言えなかった時代です。

  兄貴達の住み込み時代も同じ待遇で、「寝る場所があって、食べさせて貰っていて、仕事を覚えさせてもらうだけで、満足することが普通でした。」
  属に言う、貧乏家庭の子沢山「食い扶持減らし」と言った。

③ 休日ですが。
  当時は、一日・十五日、の一か月に2回の休みのみでした。

  この休みも、仕事の都合で無くなることが、ちょい・チョイありました。

  「文字通り、仕事優先です。」

 諺 「千の倉より子は宝」
    (多くの財よりも子供は大切であるということで、子供はなにも変え難い最高の宝だということ。)  


  次回は、私が仕事の道具の名称を覚えさせられた、苦労話です。 

焦土の東京で 6 食料と仕事

2007年04月26日 | 終戦後の生きざま・私流
東京全土が焦土と化して、呆然としている我が家でもすこしづつ、動きが出てきた。

その一つは、三鷹の軍需工場に働きに出ていた私より5才年上の「次兄」が、早々と戻ってきたことだ。

この「次兄」は、我が家から近くの「彫金師の家庭に住み込みで働きに出ていた」が、徴兵年令の20才に満たなかったので、軍需工場の寮に住み込みで徴用されていたのだ。


次兄の住み込み先の「彫金師宅」での仕事は、「仏壇に飾る小さな仏像(大仏さま)を、アンチモニーと言う金属で鋳型で形作り、バフで磨いてつくるのだそうだ。」

これは、次兄から聞いた話だから、作り方が正確なものかどうかは定かではない。


この当時は、私も中学2年生で学業を中断して、近所の「軍需工場に学徒動員」された時代だから、男で少し働ける人は徴用されたものなのだ。

日本も終戦を迎えて、軍需工場も停止となり、家族で田舎に疎開していた人や、工場に徴用されていた人々が東京に戻りはじめた。

我が家の近所の住民も世帯ごと東京に戻りだし、人の動きが多くなった。


戻ってきた人々は、必ずと言ってよいほどに、焼け止まりに住む「我が家を訪ねてきて、東京の大空襲の話を聞きたがる」

また、住まいが焼けないで残っている家族は、戻ってきてすぐに隣近所の住人の消息をしつこく訪ねる。

どうも、東京に疎開もせずに居た、あすこの家に行けば、近所の様子が皆判ると思っているようだった。
両親が不在な時には、私にも聞いてくる。


次兄が早々帰ってきたと書いたが。
 その訳は「我が家では、長兄が軍隊に採られており、中国奥地の重慶という所に現在いると言う。」まだ、日本に戻っていないのだ。

さて、「当分帰ってこられるかどうかは、定かでないという。」
   「もしものこと、戦死ということもあるという。」

《食料と仕事》

そんなことより、まず「食料と仕事」が優先だ。

① 物物交換
  東京の近県などの農家を尋ねて、「米か、さつま芋」と我が家にある着物類を持って行き、交換してもらうのだ。
  親父の仕事着の新しい印半纏(印はんてん)を、持って行ったこともある。
  この時には、親父は悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
② 食べ物探し
  松戸在の江戸川縁りの伯母さんの家の近くでの「落ち穂拾い、イナゴ狩、タニシ捕り」を、母親と私で時期を選んで、一生懸命にやった。
  (この辺のことは、60年前の戦争体験の17食料難・飢餓状態にすでに書いてありますのでご覧下さい。)
③ 小魚捕り(甘露煮)
  埼玉・川口在の叔父さん宅に、次兄と私の二人で尋ねて行って「小魚捕りを教わる」
  町屋(当時の停留場名は稲荷前と言った)から赤羽終点まで市電で行って、赤羽の停留所がら徒歩で「新荒川大橋」の荒川を渡り「元郷在」の叔父さん宅へ。役30分位歩く。
  この叔父さんの拵えた、「びって」という小魚を捕る道具を二つ借りて、さらに1.5Km程先の「新芝川」方面の田圃に向かう。
  当時、この辺りは一面の田圃地帯だ、
  田圃脇の水路に二人とも素足で入り、「びってに小魚を追いこむ」
  取れる小魚は「3センチ前後の鮒(フナ)か、くちぼそ、まれにドジョウ」も偶に入る。

  やり方はこうだ。二人は「びってを持って10メートル程離れて水路に入り、水路の脇の草を片足でかき回しながら、お互いのびっての中に魚を追い込むのだ」
  二人で挟み撃ちにすることが味噌で。一人でやるとのでは、戦果が10倍もちがう。
  「びつて」の造り。縦60センチ、横1メートルほどの、大きなザルに網を張って、縦てて水路に入り、双方から追い込む道具だ。叔父さんの手作り。


  終わると同じ路を、魚をバケツに入れて、家に持ち帰る。お袋が待っていて「小魚をさあーっと湯通しをして、ゴザに並べて天気干」にする。
  翌日に、「甘露煮」にお袋が仕上げる。
  これで、当分の間食べられる。

  追記 「市電」昔の市電は、「王子電車」といって私鉄でした。三ノ輪駅から早稲田行きと王子で分岐して赤羽行きの二系統の電車が出ていました。
     「昔の市電」現在は都電てす。
  三ノ輪橋から王子で分岐し赤羽まで直通だった路線は、戦後撤去されてありません。

④ 焼け跡の畑
  お袋が農家の出だったので、焼け跡を整理し耕して「ジャガイモ、サツマイモ、カボチヤ、野菜」などを作りましたが、科学肥料が何も無く、畑が焼け土なのでほとんど上手く育ちませんでした。
  何とか出来たのは、「カボチャとジャガイモ」ぐらいでしょうか。

⑤ 椎のみ、とドングリ
  山で採った「椎のみ」も生で食べましたが、そこそこ食べられました。
  同じ山で採った「ドングリ」を生でたべたら下痢をして酷い目にあいましたよ。

⑥ エビガニと赤ガエル
  エビガニも食べましたが、これは珍味。美味いです。
  えびがにの捕り方は、「先ず赤ガエル」を捕まえて、カエルを逆さにして、カエルの足の指を下に強く引っ張ると、カエルの皮が頭の先までスルーと剥けます。
  これを、5個ほどつくり、棒の先のタコ糸に縛りつけて「田圃の水路」に3メートル程度離して置き並べて10分程待って竿を順番に引き上げますと、エビガニが喰らい付いて離れずに揚がってきます。
  現在のエサは、「するめを3センチ程に裂いて」使かいます。
  エビガニの食べ方は、天麩羅などにするが、私か説明する必要はないでしょう。
  

  赤カエルの捕り方と食べ方
  捕り方は、カエルは前方へ必ず逃げますから、カエルを見つけたら「手の平を広げ」てカエルの頭を捕まえるつもりで、素手で素早く前方から捕まえます。
  何度かは、逃げられますが、捕り方を数多くやっているうちに上手く取れるようになります。
  このカエルを先ほどエビガニの処で説明したと同じように「皮剥き」し、さらに「腹わた」を取ってから、家に持ち帰ります。
  家に帰ったら、足を縛って「軒先に吊るし」天気干しにしておきます。
  
  なにも、食べるものが無い場合には、このカエルをカリカリに焼いて食べました。
  お袋は、この乾したカエルは「寝小便に良く効く」といって食べさせられましたよ。 
  
 仕事の話も書く予定でしたが、食べる事に夢中になってしまいましたのて、仕事の話は次回にします。 
  

終戦後のデマ話 5 婦人・子供 進駐軍

2007年04月25日 | 終戦後の生きざま・私流
戦争が終わった。

それで、どうなるのだろう。

噂の① 進駐軍は黒人ばかりで獰猛だぞ。そして野蛮人だぞ。

    婦人と子供は、「男の姿に変相して、顔に泥を塗れ」でないと、進駐軍に攫われてしまうぞ。早く山に逃げて隠れろ。
    
噂の② 残っている日本人男子は、「竹やりを準備して置き」進駐軍が東京に上陸して来たら、一対一で対決して戦いを挑め。

噂の③ 進駐軍が、食料をくれたら食べるな。「毒が入っているぞ」

《噂の嘘》

東京に残存していて、我が家の五人(両親と私と二人の妹)は、田舎がなく逃げ場が無い。
東京では、上記のような「噂が噂を呼ぶ」有様で、不安がまた不安を呼ぶ。

でも、近所の家庭では「改めて、山に家族一同で逃げる」と言う。

お父さん「我が家は、どうするのよ」と聞くが「馬鹿、そんなことをいうな。仮に山に逃げても、追いかけられて、すぐに掴まってしまうぞ」

親父  「それに、我が家は山に逃げたくても逃げる場所(田舎)がないのだ」
    「進駐軍がそんなに悪者だけと言うものでもなかろう」
    「我が家は、東京で頑張るしかないんだ」

当時14才の私には、それ以上言うべき、返す言葉も持っていない。隣近所で言われている「噂話し」は本当な話なのか。確かめようも無い話なのだから。

《人の口に戸は立てられぬ》
   「人の噂話(ことわざ)や陰口には、戸を立ててやめさせることはできず、防ぎようも無いというたとえ」

《白い粉と食料を持って車で進駐軍がやって来た》

何日経っただろうか。三人ほどの軍人さんが家庭を廻り始めた。一人は白人で後の二人は黒人だ。もう一人日本人の通役がついている。

親父「女と子供は、早く押入れに隠れろ」

  「親父が一人で玄関先で説明を聞いている」
親父「おい、全員押入れから出て来い」

  「押入れから、恐るおそるでてみると」
通訳「一人づつ、やりますからね」と言う。
黒人「軍人さんが、今でいう掃除機みたいな機械から、白い粉を吹き出して、一人ひとりに頭の毛を書き分けて、さらに身体全体に吹きかける。」  

  「親父が、これは(蚤や虱)を身体から追い出す薬で、DDTと言うものだ」と言う。
  「今まで、散々身体を食われて困っていたから、これで助かる」


《数日後、今度は進駐軍が食料を持ってきた》

   DDTの薬を撒いてから、数日後にまた進駐軍が車でやって来た。

  「直径15センチ・高さ20センチ位の缶詰を、一軒に一つづつ置いていった。」
  「缶詰の表に、グリンピースの画が書かれているので、豆の食料を配ったということがおおよそ判った」
 
  「前回のDDTの薬撒きのときの軍人さんが大人しく、優しかったので、今度の軍人さんの訪問には、警戒感がかなり薄れていた」
  「それより、この缶はどうしたら開けられるのかにムチゥになる」

  「缶の空け方の説明が缶に書いてあると言うが、英語が読めない」
  「やっと、缶の蓋のところに、ネジ取りみたいなものがついていて、それで缶の周りをぐるぐると廻すと缶の蓋が開くと言う事が判った」

  


  

焦土の東京で 焼け跡 4  焼け跡整理

2007年04月17日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和20年3月10日 東京の大部分の町が焦土となり、一面の焼け野原になりまってしまった。

この時の私は、中学2年生で14才でした。

当時は、「ほしがりません、勝つまては。」のアッピールの元に、中学生である我々学生も、学校から割り当てられて、2年生の途中に勉強を中断し「軍需工場」に無給で働きにかりだされていました。

今度は、3年生に進学という、3月10日の大空襲のために、学校も派遣先の軍需工場も丸焼けです。

我が家も焼けてしまい、焼けどまりの民家を借りて住まいを、両親と共に子供を入れて五人で生活の準備に数日を過ごし、やっと何とかこれで生活になるかなと言うようになりました。

一週間ほどあとに、気になっていた「学校と軍需工場」を見て回りましたが、上記の通りで丸焼け。

学校は、コンクリートの校門と小さな倉庫の建物が一つ残っているのみ。
暫らく校門のところにたたずみ、何方たかの先生が顔を見せないかと、時間を過ごしましたが、誰も姿を見せずじまいでした。

仕方なく、派遣先の「軍需工場」の場所に廻りこみましたが、こちらも学校と同じで焼け野原です。
鉄骨作りの建物が焼けてぺちゃんこになっていて、無残な姿をさらしています。
大きな機械が残っていますが、それが無様な人間の様に見えて怖い。

とぼとぼと、我が家に帰ることにしました。

さて、次の日からどうしていいのか、14才の私の頭では判断できません。

両親に言わしますと、まず「食べ物」を確保することが大優先と言う。

それと、仕事の確保だが。焼け野原では親父の仕事があるわけが無い。


先ずは、先に書いたとおりの、焼け跡整理をする。


ここで、我が家が有利なのは、親父の仕事道具の大部分が無事に確保されていることだろう。

その証拠に、半焼けの建物の解体の以来が早々舞い込み、その仕事に親父と私が数日係りで取り組んだ。

14才の私には、この仕事が稼ぎ(お金)になったかどうかは判りません。
しかし、お袋の嘆きを聞いていると、どうも親父は「火事場泥棒」
(金は片行き。と言う、その心は、①義理を欠き ②人情を欠き ③交際を欠く)の心境になれないということらしい。

親父と私の働きは 結局は只働きらしい。


こんな生活をしているなか、「荒川の土手の向かい側の足立区」の焼けなかった工場から仕事が舞い込みます。

しかし、足立地区で一番賑やかな「足立区の北千住地区」も4月13日から14日にかけて「大規模な空襲」を受けて、焼け野原となります。

さらに、5月に入って「横浜方面」も空襲になり、南風に乗って燃えカスが東京にも飛んできたことを覚えています。

6月に入ると、今度は大阪のさらに先の都市で「今度はたまげるほどデカイ爆弾が落ちたぞ」と言う噂話が聞こえてきました。
後日になって解った事は「広島に投下された原子爆弾」と言うことのようでした。

《終戦》

日本全国が次々と焦土と化して、我が家では食べるものもなくさまよう生活が暫らく続きましたが、そのうち「もう一つ、大きな爆弾が九州に落ちたぞ」という話が聞こえてきた。「長崎に落ちた原子爆弾」のことのようです。

8月15日 終戦です。

私は、軍需工場の本社に集まれの「焼け跡の立て看板」を見て1.5キロメートルほど先きにある本社に我が家から出向きました。

20~30人ほどの工員さん達が集まっており、午前12時丁度に「ラジオから玉音放送」が流れました。

14才の私には、正直いって「このラジオ放送」がなにを意味しているのか、直ちには解りませんでした。

大人の工員さんの何人かが集まって「泣いています」

この「放送」を聞いてから、暫らくして「工場を閉鎖する」と言うお話が幹部の人からの話があり。

とぼとぼと、全員帰路につきました。

これから、後の生活がさらに悲惨になります。

この辺のことは、またの機会に。

中断していまして、ごめんなさい。「実は、マウスが不調になり入力できませんでした」新しいのを買いましたので、そろそろと続けますのでよろしく。



焦土の東京で 焼け跡整理 2 スコップ

2007年04月12日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和20年3月10日 東京大空襲で東京全土が焦土と化しました。

我が家も例外にもれず、焼けてしまいます。

この時の東京荒川区の我が家には、疎開先もなく両親と私・二人の妹の5人が住んでいて、この火災に遭遇してしいます。

この大火災のときに、我が家に火事の炎が迫ってきたので、親父の命令で私は二人の妹を連れて3人で。
両親を家にのこしたまま、親父の指示した隅田川の川岸に、真夜中にとぼとぼと歩いて避難しました。

当時のこと、食べるものも、飲み物も何も持っていません。
14才 私
11才 次女
8才 三女 この三人だけでで10日の朝を、隅田川の岸で迎えます。

まだ、まだ熱風が空を覆っていて、時々三人の頭の上を吹き渡ります。
また、空から新聞紙や布の燃えカスが飛んできます。

どういう訳か、私たちが避難した場所には、他の人たちは誰も避難してきません。

後で判ったことですが、私たちの避難場所の300メートル上流の橋の上に避難した人が数人この火災で亡くなっています。

また、隅田川には沢山の人々が、火災の熱風に耐えかね、隅田川に飛び込んで亡くなっています。

勿論、道路の上にも焼け焦げた大人の死体を、何人も見ています。

親父の言う。避難場所の指示が正しかったことがわかります。

《この辺のことは、「60年前の戦争体験 14 空襲の焼け跡に戻る。」に書いてありますのでご覧下さい。》


家に戻ると、東京が一面の焼け跡になって、どこまでも見通せるようになってました。

辛いが、我が家は焼けてしまって跡形も残っていません。
しかし、焼けた我が家の10メートル程先から奥のほうの家が焼け残っています。

両親に聞くと、「10日の夜明けとともに、北の強風が嘘のように収まり、静かな南風に変わって、我が家は焼けてしまったが、火事は収まった。」と言うことでした。

両親は、火事がだんだん近くに迫ってくる中、家財や仕事の道具類を二人で一生懸命にリヤカーに積んで運びだし、燃え残った近所の家の近くに出したといいます。


後で、「焼け跡整理」に親父の仕事道具が大変役にたちます。

どんな道具があったのか並べて見ましょう。

 ① スコップ 大小五本
   説明しますと「先の尖がっていて土を掘るもの二本。」
         「先が四角になっていて、砂などを掬うもの。大と小二本」
 ② ツルハシ
 ③ ゲンノウ 
 ④ かなづち
 ⑤ ノコギリ
 ⑥ スパナ
 ⑦ 釘抜き
 ⑧ 釘
 ⑨ ハリガネ 太いもの と 細いもの
 ⑩ リヤカー
 ⑪ 自転車 2台
 その他 ロープ数本 仕事用バケツ二個 など

まだ、まだ有ったと思いますが、60年以上昔のこと、今この場ではこれ以上は思い出しません。

しかし、焦土と化した東京の焼け跡整理には、この道具類が大きな戦力になります。

近所の人が、我が家に見えて「実は家が半分焼けてしまったのですが、崩れ落ちそうで、危ないので壊して貰えませんか。」「材木類は処分して頂いて結構です。」

また、ある家庭では、「焼け跡の水道が吹き出していて止まりません。何とかならないでしょうか。」

とか、我が家に助けを求めて来ます。

《人のいい親父は、金銭の話なしで引き受けてしまいます。》

さあ、忙しいぞ。親父は私に向かって「リヤカーに道具の○と△を積んで付いて来い。」と頼まれた家にむかいます。

焼けた家で壊したものは、柱や板、トタン類に仕分けして、リヤカーに積んで、まずは我が家の近くの広場に運びます。

これが、私の仕事です。

親父の命令は、広場で柱や板・トタンなどから、釘を抜いてから、丁寧に並べること。

雨が降ってもいいように、材木類は下にして、上にトタンを被せるておくみと。

釘やネジなど小さいものは、バケツなどの入れ物を探して入れ一箇所にまとめておくこと。

或る日雨がふりました。

私が「今日はゆっくり休めるなと思っていたら、親父から声が掛かりました。」

親父「おい、釘などの小物を入れたバケツを、玄関の土間に持って来い。」と言う。

なにをしようとしているのか。次回に。


14才での終戦・その後 1 戦災後 肉のてんぷら

2007年04月09日 | 終戦後の生きざま・私流
《60年前の戦争体験》のブログに、私の10才から15才までの生活を書いています。

十四才、中学2年生の半ばから、自宅の近くの「軍需工場」に学徒動因され、学校にも行かずに家から直接軍需工場に働きに行っていました。

3月10日。東京大空襲に遇い自宅が焼失してしいました。

この時に、子供で東京に残って戦火に遭ったのは、私と二人の妹だけで、我が家の近くでは子供の姿は誰も見掛けませんでした。

この後、八月には「終戦」を向かえて廃土と化した東京の中で、両親と私共三人の子供・五人が生き抜くことになります。

この辺のことは、下記のブログ「60年前の戦争体験」に書いてありますのでご覧下さい。

URL http;//blog.goo.ne.jp/ にその模様を始めてのブログとして記載しました。

今回は先のブログの続き。14才から20才までのことを書いてみます。

実は、現在の私の年令は、76才で今は年金生活者です。
昔の幼かった私・60年前の子供の生活を思い出しながら、原稿の下書きなしで書いています。

私の生まれは昭和5年、東京都荒川区でした。30才まで此処で過ごします。

私が生まれたときの住所を戸籍謄本で読むと次の通りです。
「東京府北豊島群三河島町大字三河島○○番地。」生まれと言うことになっています。

親父に聞くと、私が生まれた当時の村では、「三河島菜」と言う野菜の栽培が盛んで、近所には「蓮田の沼」などが点在していたといいます。

我が家の親父は、レンガ職人です。日雇いの貧しい生活と覚えています。

家族は、父  没 職人 
    母  没 専業主婦
    
    姉    十才で近所の家庭の住み込み子守にだされる。
    長兄 没 十才で寿司屋に住み込み生活。
    次兄   十才で近所の彫金職人の家庭に住み込み。
    三兄 没 九才で親戚の自動車修理工場に住み込み。
  私 四男   当時の私は七才で小学生。     私は現在七十六才。
    次女   次女はまだ五才。
    三女   三女は  三才。
       以上の兄姉妹で七人の子供がいました。

こんな家庭の姿が当時の底辺の家族構成であって、ここに育った私としては、特別に一般家庭というものは、これが普通なのだと思って成長しました。

生活の根拠となっている、家屋(四軒長屋)は、六畳の奥の畳み部屋に一間の押入れ、手前に二畳の畳み部屋、その脇に一坪の土間玄関。

部屋の奥に、一坪の台所、それに半坪の汲み取り便所。水道は、長屋のはずれに一か所あり、毎日バケツに汲んで台所に運んで使用する生活。

風呂は、一週間に一回程度の風呂屋(銭湯と言う)で身体をあらう。普段は、タライで行水で済ます。

こんな、小さな家ではとても両親を入れて九人が住んで生活はとても無理。

これも、生活の知恵なのか、子供は十才になると必ずと言っていいほど、住み込みで家を出て行きます。(喰い扶ち減らしと言う)

一つは、家屋(長屋)の問題。九人も住めません。
二つは、親父一人の稼ぎでは、全員の食事も賄えずままなりません。
    (里腹三日・実家に帰ると、気兼ねなく腹一杯に食べられるので、三日も腹が空かないと
    いうこと。)
三つめは、現在なら最初から家族計画をすれば良いではないかと思うでしょうが、
    当時は、生めよ増やせよの時代。授かった子供は大切な国家からの預かりものという
    意識が普及してた。
四つめは、避妊と言う知識と用具が普及していませんでした。

《というわけで、私より上の子供は、小学校もろくろくに卒業せずに、住み込みに出されました。》
    
上記のブログ 「60年前の戦争体験」の続きとして書きますので一度、前のブログをお読み頂けると解りやすいかと思います。

14才で終戦を体験しました。

いま少し、家庭での生活振りを思い出しましたので追記してみます。
追記 ① 部屋の電気  60ワットの裸電球が一つあるだけ。
   ② 台所のガス  ありませんでした。煮炊きは薪か炭・たまに練炭。
   ③ 部屋のラジオ 壊れかけた小さなラジオが一つ、ガアガア言いながら鳴っていました。
   ④ 食卓     折りたたみ式の小さな・チヤブ台一つ。食事や勉強もここでする。
   ⑤ コタツ    ありません。数年後に炭を入れたコタツがありました。
   ⑥ 部屋の暖房  火鉢が一つ。炭か練炭が入っている。
   ⑦ 電話     我が家にはありませんでした。近所の良家にはありました。
   ⑧ 食事のルール ご飯のオカズは大きな皿に一つ盛りになっていて、家族一同一緒に
     食べます。
            しかし、親父が「頂きます」の合図の前に箸を付けると。
            親父の箸で手の甲をビシット叩かれ、他の家族が全員箸を出した一番
            後にされてしまいます。
   ⑨ 新聞     家には新聞がありませんでした。 
   ⑩ 写真機    カメラがありませんでした。従って、私や妹の小さい時の記録写真が
            ありません。
   ⑪ 外食     外で何か食べたという記憶がありません。正月に浅草の蕎麦屋で何か
            家族で食事したかな。という、遠い記憶のみです。
   
   その他 戦後になって二年後ぐらいに親父「レンガ職人」の手伝いをしていた時に、工事の完成祝いの場所で施工主の配慮で酒と、ご馳走が出されました。
     その際、肉のフライ「俗に言うとんかつ」が並びました。
    
     一口食べてあまりの美味しさに、この「肉のてんぷら」はおいしいね。
     と大きい声で叫びました。
     
     その場に居た、十数人の人々が大笑い。
     私が、キョトンとしていると。
     「職人のチーフ」が「これは、とんかつし言うんだよ。」と教えてくれました。
     油で揚げた物は「てんぷら」と言う知識しかない私の失態です。
     
いかに、戦後で当時の生活が貧しかつたと言うことがお分かりいただけましたでしょうか。
     
「ほしがりません、勝つまては。」のスローガが身体の芯まで染み込んでいました。

  話が長くなりましたので、また次回にします。