子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

目の付け方(私のやり方)結婚準備 その10

2009年06月16日 | 我が家のつれづれ
嫁さん側えの御挨拶も済み、いよいよ「新所帯」の準備である。

 A.土地を用意し。
 B.家を建てる。
 C.結婚式。
 D.新婚旅行
 E.新婚家庭の家計管理

これだけの事を、自分一人でやり遂げる必要があるのだ。

《先立つものものは金銭だ》

前にも書いたが、我が家からは「経済的な援助は一線も望めない」
幸い20才から28才までは、親の家庭に「寝る場所、食べ物、風呂、洗濯など身の回りの事は甘えて」生活してきた。

独立して世帯を構えるとして、自分一人でやり抜くことといえば当然であると言える。

さて、私は20才でサラリーマンに親父のもとから独立した。
25才までは、「夜間大學に通学」して、昼間は勤めて、夜間は大學生と言う生活。
学費、書籍代、通学交通費などその他の費用総て自分の給料で始末してきた。

《金銭を蓄える》

親に迷惑をかけずに、独立してやり抜くには、「金銭を蓄えて行くことは当然だ。」
しかし、人間頭ではわかっているが、実際に実行するということは難しいことだ。

夜間大學を卒業した年令が25才、金があったら遊ぶことに一番楽しい年代であろう。
事実、私と同じ年代の仲間は、ダンスだ、マージャンだ、パチンコだと遊び回っている。
まだ、家庭を持つなど考えもしない年令。

いや、この時代には「男子の結婚適齢期は25才」である。
何時嫁さんを迎えても可笑しくない年令である。
 
 A.まず、土地さがしだ。
   当時は、結婚するには「家を建てる」と言う時代だ。

   出来るだけ、住み慣れた私の実家の近くが、親も兄貴達もいて便利であると、
   都内の私の実家近くを盛んに探したが、私一人の財力では、小さな家でも建てられる面積が求められないことが判った。

   同僚などのケースをみると、都心から離れて30キロ範囲なら予算の範囲で賄えると言うことが判った。
  
   或る日、嫁さんになる家で、義父に言われた。「土地探しは進んでいるかね。」
   私「それが、私の実家書くの土地を探していますが、とても手が届きません、」
    「仮に、土地が手に入ったとしても、家を建てる資金が残りませんので、考えあぐねています。」と正直にお話した。
    
    断わっておきますがね、こういうやり取りですと、「私が義父側に資金援助の期待を持っていると思われますが、私も男だ。」
    仮に義父から援助の話が出ても「私は断わるつもりだから、またそういう覚悟を示すことが重要である。」
    我が家の手前もあるからな。「私一人でやり遂げる覚悟」

    数日して、義父にまた夕飯に来いと誘われた。
    義父「土地探しに苦労しているそうだな。」
    私 「はいと、これまでの土地探しの経緯と資金との関係をお話した。」

    義父「それなら、こういう風にしたらどうかね、」
      「同じ都内でも、河を二つ超えたところの土地なら、今探している土地面積の二倍の土地が手に入るが、どうかね。」
      「ここには、我が家の分工場もあり、次男が住んでいるから、多少面倒も見てもらえると思うから。」

      「一度私と一緒に身に言って見ようかね、」
      「有難うございます、ぜひお願いします、」と言うことで、日時を打ち合わせてでかけることになった。
      「河を二つ渡るということは、隅田川と荒川(放水路)である。」

ここなら、土地(借地)を倍借りても、「小さな家を建てる資金が私の手元に多少のこる。」
この土地は、地元でも名の通った寺の土地で、売ることは出来ないので「借地」でという。
その分、面積の割りに土地の取得代金は少なくて済んだ。
正直言うと、借りられた土地は予定の半分の資金で「土地面積は34坪(1030平米)」である。

次は「小さいながら、家の建築である。」


目の付け方(金銭管理)結婚の準備 その9

2009年06月10日 | 我が家のつれづれ
私は28才「結婚が目の前にぶらさがっていた。」
20才でサラリーマンに転職して、勤めながら「夜間大學に通い」25才で卒業する。
中学生から、高校生、大學生と通算9年間夜間学校に通ったことになる。

同じ職場の同年は、マージャン・パチンコ・ダンスなどの遊びのキヤリアを積んでおり、
その仲間から私が「マージャンに誘われた」が、4年間の差が埋められずに、上がり方がわからずに、一つも勝てない。
結局終わった後での「全員の食事代」を私が負担する嵌めに。

ダンスも同じで「ダンスのステップがわからない」これもダメ。

やっと仲間と一緒に出来るのは、「パチンコ」ぐらい。
当時のパチンコは、「親指で一つひとつ弾くやつである」

《逆に金の懸かる遊びには無縁》
私の性格は、遊び事でも負けず嫌いだ。
パチンコを例に取れば、「勝てば辞められず」「負ければまた取り返したくなる」

誰でもおなじらしいが、ギャンブルについては、そこそこにして、次のハイキングの計画作りに励む。

《交際相手の父親によばむる》

或る日、交際相手の家に「夕飯を食べに来い」とよばれた。
どうも、二人の付き合いがわかって、私の身辺調査を内緒てでしてきたようだ。

本来なら、私のほうから、先に「ご挨拶に伺うのが筋だが」
我が家の、「親父は職人育ちで、ろくな挨拶も出来ない人である。」

こんな我が家の家庭内部も調べてあるようである。
後で聞いた話であるが、我が家の近所に彼女の家の同業者の人が居て何事もお見通しになっている様子。

《相手の家庭に数回呼ばれて夕飯をご馳走になる》

数回呼ばれて「夕飯をご馳走になるうちに」「結婚の話になる」
「結婚の準備はどのように、かんがえているのかね」と。

「何処に家を作るのか」
「子供は何人ほしいのか」

「本来その前に、貴方の家から、結婚の申し込みをしないとまずいぞ」
など、だんだん具体的な話になってくる。

当時は、男として「一つの家族の家を構える」というのが多かった。
私も我が家の近くにと思い土地を探すが。私の予算よりかなり高くて手が出ない。

《結婚資金は我が家の親に一銭も頼れない》

 A.土地を用意し。
 B.家を建てる。
 C.結婚式の場所を借りて式を上げる。
 D.新婚旅行。
 E.新婚家庭の家計管理の仕組みを作る。

少なくとも、以上のことを、自分ひとりでやり遂げることになるのだ。
遊んではいられないぞ。

私が我が家で、この話を親父にしたら、数日後に親戚筋の叔父さんを仲立ちに、相手の家に、ご挨拶をしてもらえることになった。

これで、結婚の準備が具体的に進むことになった。
さて、これからが大変。上記のA--Eのお膳立てである。

目の付け方(私の金銭管理) その8

2009年06月07日 | 我が家のつれづれ
私も28才になった。
昭和33年(1958)のことである。

当時の結婚年齢としは、この年28才では「晩婚」である。
同じ職場内に勤めている、女子職員が何かと気になるようになった。

ハイキング、海水浴などを私が計画する場合、必ず何人かの女子職員の中にいて参加している。
よけいなこともいわすせに、会計・料理など、頼まれたことはやってくれる。
私より5才年下である。

もう一人、気になる私より2才年下の女子職員がいて、彼女は確り者で何事も先頭でやってくれる。
彼女もいいなと思うようになった。

《当時の結婚事情》

 A.当時は、職場内での男女交際はご法度である。
 B.もし仮に、交際が判ると、男か女のどちらかが、退職または・ほかの店舗に転勤になる。
 C.結婚のための交際でも、どちらかが退職する雰囲気がある。
 D.女子職員は、「寿退職」と言って、結婚後も勤めていることはまずない。
 E.基本的に、結婚後の女子は、「専業主婦」というのが世間常識である。

《結婚を決めた》

私は、5才年下の同じ職場の女子職員を「ハイキングの帰り道に映画にさそったら。」、「ハイ」と返事をもらえた。
こんなことで、その後数回「映画に誘う」「二人きりでのハイキングにもOKが出た」

こんな、出会いから、「我が家での私の立場を話し」「彼女の家庭内の出来事を聞く」
「彼女は、4人兄弟姉妹の末っ子であると言う。」

彼女の家庭は、「中小企業で従業員も10数人いる様子。」
戦後の復興期のため、仕事も沢山あり、家庭も裕福なようだ」
これに比べ、「我が家は、数段見劣りする家庭だ。」

彼女の親御さんに判ったら「OKが出るか??不安である。」
「親御さんのOKが出るまでは、清く正しくが一番である。」と自分に言い聞かせる。
「お互い、まだ手も握らないで我慢している。」
当時の男女交際は、こんなものが普通だったのだょ。


目の付け方(私の金銭管理)結婚の準備 その7

2009年06月03日 | 我が家のつれづれ
話は私の25才の時代に戻る。
昭和30念(1955)の時の話である。
私がやっと「夜間大學を卒業」したのだ。

「さあこれからは、十分に遊べるぞ。」
稼いだ給料と賞与は、自分の裁量でどうにでも使える。
なんに使っても、親も兄弟も文句を言えない。言われない立場だ。

《自分の年を考えると結婚年齢だ》

中学・新制高校・夜間大學と通算すると、9年間。
15才から25才まで働きながら生活してきたのだ。

この時代の結婚年齢は、男子は25~6才が普通なのだ。
女子は23~4才である。

《私の周りでの若者の遊び》
私と同じ年代の周りの若者の遊びを2~3上げると次のようなもだった。
 A.パチンコ
 B.ダンス
 C.マージャン
 D.キヤバレー
 E.ハイキング
 F.海水浴

考えてみると、A(パチンコ)からDの(キヤバレー)までの遊び事はしたことがない。
同じ年代の若者で少し金銭に余裕のある人は、A.パチンコも、B.ダンスも、C.マージャンも面白いぞ。
今度連れて行くから、一緒に行こうという。
特にD.のキヤバレー遊びが女の子もいて、金がかかるが最高だぞ。と言う。

《私の今の立場》
25才の、この時には既にお袋も亡くなっていない。
親父は、神経痛で兄貴二人に仕事を譲って引退していて、我が家での実権がない。

自分の事は、自分で始末していくしかない。
自分の年令を考え、先を見ると「周りの仲間と同じ遊びをしている余裕はない。」
せいぜい遊べるのは、E.F.のハイキングと海水浴ぐらいしかない。

他人は他人。私は私の道を行くしかない。

《私の金銭管理》
勤め人の私としては、親の援助・助成が一つも受けられないと言う情況である。
自立して家計を作って行くしかないのだ。

まず、目の前に浮かぶのが、遊んでいては結婚も出来ないと言うことである。
では、現在具体的に付き合っている彼女が居るということでもない。
しかし、この時代には「男子の25才は結婚適齢期である。」

いざ結婚と言うことになれば。
 A.土地を用意し。
 B.家を建てる。
 C.結婚式。

 D.新婚旅行。
 E.新婚家庭の家計管理

自立するといえば、こんなお膳立てになるだろう。
遊んでいて「お金を使える立場でないぞ」


飛び入り原稿 「デイサービス(通所介護)」 その6

2009年05月20日 | 我が家のつれづれ
私の年令は現在78才である。

今までのブログ原稿は25才の時の話であったのに。

なぜ急に年寄りの話を持ち出したのかと言うと、今週の月曜日(5月18日)から「デイサービス」と言う通所介護施設にお世話になることになったのだ。
何か遅くなると総て忘れてしまいそうで、日時が過ぎてしまうと、現実的なことを忘れてしまいそうだから。

また、後で思い出して書いたのでは、実際とかけ離れてしまいそうだからだ。

「通所介護(デイサービス)」

要介護のお年寄りが通う「介護施設で行うものをいう」
どんなことをするのかということを箇条書きで書く。

仲立ちしてくださったのは「ケアマネージャー」である。

実は私は、「左大腿骨骨折」で現在「介護2」の認定をうけている。
最近は、両手に杖で外出して歩くと、道路で転んでしまい、路上で立ち上がれないのだ。
転ぶと左の骨折場所が更に痛みだす。
そこで、座敷の部屋のコタツの中に両足を下ろしたまま、一日を過ごすことが多くなってしまった。

外に出て歩かないから、足が悪く弱くなり、外に出ない、すると転ぶ。
悪循環である。

そこで、「ケアマネージヤー」に相談したら。
介護施設での「デイサービス」と言うのがあると言う。
どんなふうな様子で、なにをするのと聞くとおおむね下記のような様子だと言う。

 A.朝10時頃「送迎自動車」で送り迎えしてもらえるという。
 B.車椅子のままで乗ってもらいますと言う。
 C.昼食も出るのだそうだ。(昼食は自己負担で650円)介護保険外。
 D.お風呂にも入れてもらえると言う。
 E.自宅え帰るのは、車椅子ごとに、午後4.30分前後です。
 F.費用は、自己負担分一割負担で、概算一回1.050円程度。
   月4回通うと、1.850×4=7.400円程度と言う。
   残りの90#は介護保険ての負担です。

 G.日本の最近の高齢者は、5人に1が高齢者の時代であると新聞が書く。
 H.こんなことで、通所施設に空きが少なく、直ぐには申し込めない。
   私の場合も、この通所介護の話を「ケアマネージャー」にしてから、実現したのが半年後だ。

「始めてのデイサービスでの一日」

 どんな風な内容なのか、その内容を書く。

 A.まず「送迎自動車」私は車椅子のままのせてもらった。
   車椅子で乗れるスペースが2台分あり、自動車の後方のボンネットをあけると、
   リフトが下りてきて、「私が車椅子」のまま、リフトで収容する。
   そのほかに、椅子で座る場所が5人分ある。
   自動車に乗せるときには、運転手さんと施設の職員詐んが誘導し安全を図っているので安心。
   お客様の家を回り、全員のせて、通所施設に着く。
   ここでも、運転手さんと施設の職員さんが施設内部に車椅子のまま誘導してくれる。
 
 B.車椅子のまま施設内に入る。大きな4人分の机があり、私の名札が既に出ている。
   男の机と、女子の机とにわかれている。

 C.すぐにお茶がでる。女子職員が私の名前を呼び、お茶にしますか、お水ですかと聞く・
   その後に、「血圧測定」かある。私が腕をまくったら、手首の測定器てすからという。
   これは、便利だと思う。
 D.机の上に「昼食の今日のメニューが出ている。」
   「ハヤシライス、ハムマリネ、フルーツヨーグルト、コンソメスープ、カスタ゜ートケーキ。」736Kcal と書いてある。

 E.女子職員のリードで「手足の運動」をする。

 F.昼食後に、リハビリである。
   私は、初めてなので、との酔うなリハビリがいいのかを調べる。
   ベットに腰掛けて、手を伸ばす、先生と握手して握力を測る。
   次いで寝てから、足の動きを探る。
   一通り終わると、5m程度の両手摺のある場所を行ったり来たり数回歩く。
   先生が次回からのリハビリをどのようにするか考えておきます、で終わる。

 G.午後3時ごろ「お風呂」に呼ばれた。
   車椅子ごと「脱衣場」である。
   上半身は、自分で脱げるので、裸になる。係の職員は若い男子職員だ。
   監督していて、指導しているのは、中年の女子職員である。普段男子の風呂場に中年とは言え女子は居ないのでビックリ。
   女子職員は手馴れているらしく、若手の男子に指示している。
   
   上半身裸のまま、ズボンから下穿きまでいっせいに、脱がすと言う。
   「前の手摺に立って掴まってください」の声で一機に全部脱がす。
   脱いだものは、下着は洗濯物として整理してくれる。
   
   「風呂場」には、風呂場用の車椅子に乗り換えて、洗い場に入る。
   浴槽に入る前に、最初から身体を洗う。若手の男子職員が、頭から足の先まで、お尻も含めて洗ってくれる。
   「殿様のお風呂」だぞ。「豊臣秀吉になった気分」
   
   洗い終わると「浴槽」に風呂場用の車椅子のまま行く。
   浴槽にはいるのに、浴槽の脇に身体を持ち上げる機械がついている。
   身体を機械で持ちあげて、機械ごと浴槽に沈めること3分。

   浴槽から出ると、バスタオルで男子職員がよく拭いてくれる。
   脱衣場に、浴槽用車椅子で運ばれて、今度は、下着から洋服まで着せてもらう。
   その前に、肌に付ける「薬類を塗ってくれる」自分の車椅子に乗り換える。

   脱衣場から出ると、「ヘアー・ドライアー」で頭を乾かしながら、頭髪を撫でてくれる。
   さらに、「紙コップで水を貰える」
 
 H.自分の席に戻る。
   「カラオケ」が始まっている。
   
   書誌職員が「コーヒー」を運んでくる。
   「これで今日は終わりです」で、帰りの順番待ちになる。

 I.送迎者が陣版にお客さんを乗せて運んでいる。
   私が自分の家に着いたのは、午後4時45分ぐらいとおぼえている・

「何でこんな話をするのか」

私の頭の中に、「デイサービス・通所介護」と言う制度があるとい言うことはウス薄す知っていた。
しかし、「ケアマネージャー」と話していて、「デイサービス」というものの内容がわからずに、私の気持ちがあり躊躇していた。

「しかし、このままでは、寝たきりになる恐れがある。」   
何とかこの状態を打破したいとの気持ちが最後に勝ち、動き出したというのが、本音である。

私と同じように、躊躇している人が居るとすれば、私の新しい経験を記録することで、「掬われる人がいるのではないか。」との思いで、一日も早く概要を伝えたいと思ったのだ。
   
   
  

 

目の付け方・(私の金銭管理)若者の遊び その5

2009年05月17日 | 我が家のつれづれ
「夜間大學を卒業したのが25才。」
私が大學を卒業したのが、昭和31年の春である。

いよいよ、自分の使える時間も十分に取れる。
お金も「給料も賞与」も自己管理の手元にある。

この時代の勤務状況を少し説明しておく。
現在との違いが相当に多いのがお解かり戴けるだろう。

 A.まず、1日の勤務時間。
      始業時間は午前9時であるが、開店準備は総て職員がする。
      このため、1時間前の午前8時には出勤していなくては、開店に間に合わない。
      店内外の掃除から始まって、机の拭き掃除、それから帳簿や事務用品などを金庫が出して、係別の事務机に並べる。
      開店9時の15分前、8時45分には机に座って今日の来客を迎える準備を済ませておく。

      閉店は、午後3時であるが、(外の人は早く終わるのでいいなと思うが)
      実際はこれからが大変。出納担当は、当日の入金総額・出金総額を集計し、手元の在高現金と合致しなければ、帰宅できない。
      それぞれのかかりも、帳簿残高が合わないと帰れない。
      いや、帰してくれないのだ。

      順調に事務全体が、終了するのが「午後6時くらい」
      なにせ、「集計はソロバンの手作業だ」現在では考えつかない様な原始的なものだった。

 B.二つ目は、一週間の勤務日数と休日の扱い。
      「日曜日と祝日は休み」であるが、当時の祝日は現在と違って数日しかなかった。
      それに「土曜日も出勤日」である。
      土曜日は、午前12時に閉店するが、内部では当日の締め切り作業のために、終わるのが午後3時くらい。
      この土曜日は、昼食もしないで全員で頑張る。上手くいけば午後2時に終わることもある。

 C.ミッ目は、年末・年始の営業だ。
      年末は31日まで店舗が開いている。
      年始の仕事初めは、3日である。
    
      年末31日の大晦日の当日は、近所の商店も遅くまでやっているので、入金も便利を計って、午後9時頃まで預かることになる。
      結局、仕事が終わるのが、年明けの1日の午前2時頃である。
      
 D.初参り。
      年末の仕事が遅く終わるのを待って、職員仲間でそのまま「初参り」
      結局自宅に戻るのが、正月1日の午前7時頃。
      1日は、一日寝正月である。

「当時の若者の娯楽・遊び事」

 A.当時の一番の娯楽は「映画」だ。
   家庭には、テレビなどない時代、近くの映画館でチャンパラ映画などを観る。
   東京の下町にある我が家のまわりには、歩いて15分ぐらいの場所に映画館が4軒もあった。

 B.次いで「パチンコ」かな。
   当時のパチンコは、親指で玉を一つ一つ弾くもので、暇つぶしには最適だった。
   出た玉の数による景品に換えて喜んで帰る。
 C.少し金周りの良い人は、「キヤバレー」である。
   私は貧しかったので、行ったことがなかった。

 D.次いで「ダンス」
   キヤバレーで、ダンスを上手く踊れた人は相当もてたと言う。
   私は遊ぶ金が無いので、仲間に誘われても同行しなかった。

 E.では、お前の娯楽・遊び事はなにときかれると困るが。
   一番は「ハイキング」かな。
   次いで「映画」
   たまに「パチンコ」
   あとは「家で一日中昼寝」

私が遊べない背景は、先にも書いた「実家が貧しくて、金銭管理は、自分の事は自分でやらなければならない。」
もう一つは、私の男子年令25才から言って「結婚」が目先にぶらさがっていることだ。

仲間と一緒に金のかかる遊びなどやれる環境にないのだ。


目の付けかた その4 土方からさラリーマンに

2009年05月14日 | 我が家のつれづれ
私が21才の時の話である。
私の中学生15才から20才の高校卒業までの青年期は、終戦というドン底から日本が立ち上がろうとする時代あった。

昼間は、親父の仕事(煉瓦職)の手伝い、仕事が暇な時には焼け跡かたずけと肉体労働の毎日であった。
東京全体が戦災で焼け野原、我が家から10キロくらい先まで見通せる。

「土方からサラリーマンへ」
このタイトルの内容は、前回のその3に書いたのでご覧下さい。

なぜ転職する気になっのか、その理由は幾つかある。

 A.一つは、お袋の言った一言「家族全員で働いていて、景気のいい時にはいいが、
       いざ不景気にでもなれば一家全滅だね。」の言葉が私の胸にこびりついていて離れないこと。
 B.二つ目は、職人を抱え、それに家族労働者4人で毎日忙しく働いていても、
   我が家の財政は、何時も「すかんぴん。」
   親父には、金銭感覚がない。要するに金銭の勘定が拙い。計算が出来ないのだ。
   
 C.二人の兄貴も親父の仕事を手伝うということになり、一番年下の私はこのままでは、
   将来、何時も手伝いのままであろうと考えられる。
 D.この際、親父の仕事から離れても、我が家としても困ることはないだろう。
   私が土方から転職して、サラリーマンになり、もしも、上手くいかないとすれば、
   私は「大工さん」などの、親父とは、別の職人に戻ってやり直す道もある。

 E.もう一つの大きな理由は、夜間でもいいから「大學に行きたい」
   我が家では、私より上の子供は、小学校卒業と同時に「住み込み働き」と言う、
   「貧乏人の子沢山」のやりくりとして、「他人の家庭に奉公に出される」のだ。
   別な言い方をすると「食い扶持へらし」と言う。
   こんなわけで、「読み書き、ソロバン」が出来る人が居ないのだ。

   私としては、これを打破する時機は、今しかないという思いが、転職させる動機になったのだ。


「地元信用金庫に就職し大学へ」
一度地元信用金庫に就職願書を出して、就職面接を受けたが、「顔は日焼けで真っ黒、言葉は職人言葉」「態度・風体も勤め人でない」

こんな状態からか、一回目の就職試験は失敗した。
それから少しして、担任の先生の再交渉もあって、再度の面接で就職が成功した。

10日程の職業訓練を本店で受けて、支店の配属先が決まった。
高校で、幸い私と机を並べていた学友がいる同じ支店の配属になった。

本店から配属されたのは、高校卒業の私を入れて男子2人・女子1人の3人だ。
年令は私が20才(定時制高校と終戦で浪人し2年送れて卒業)、後の二人は18才である。

私の学友は12月かに勤務していて、4月から勤務しながら夜間大学に通学する許可を支店長から貰っていて、大學の入学試験も済ませたと言う。

支店配属の挨拶の後に、私は支店長に「学友と一緒に夜間大學に通学したい」とお願いした。
支店長に気持よく「頑張りなさい」と言ってもらえた。

「大學の入学準備」
支店に配属されたのが、4月に入ってからなので、大學も通常の入学者の受け入れは終わっている。
門戸が開いている、二次・三次募集がある大学を学友と二人で一生懸命探す。
勤め先から大學まで通える時間の範囲でないと4年間は通え切れない。

昭和25年当時は、東京の大學も入学生も少ない。大体東京に在住している人が少ない。
あまり勉強できない私もこんことで、二次募集の「紅陵大學夜間部」現在の拓殖大學に入学出来た。

「親父の元をはなれての独立」
親父の元を離れての私の独立である。

入学金、月謝、授業料、教科書代、交通費など、すべて自分ひとりで賄うことになった。
仕事を5時に終えて、大學に通い、家に帰る時間は何時も午後10前後。
今なら、「コンビニ」などがあり食べ物は直ぐに手に入るが、当時は食べ物を買う時間も店舗もない。
毎日家に帰るまで、「お腹がグウグウなる。」
遅い夕食を毎日終えてはやばやと寝るのみ。

「勤めながら夜間大学を無事終える」

信用金庫に勤めながら、夜間大學を無事卒業したのは、昭和30年、私が24才のときである。

戦後、旧制中学3年に編入して一年、新制高校夜間部四年、夜間大學四年と仕事をしながら「9年間」通ったことになる。

目のつけ方(私のやり方)その3

2009年05月13日 | 我が家のつれづれ
「金銭管理}(私のやり方)
高校卒業後、20才で就職し働きながら「夜間大學」に通学する道を選びました。

それまでの学校は、旧制夜間中学の3年生を一年間(この経緯は前項に書いた)、その後新制高校制度が発足したので、そのまま同じ学校に高校生として夜間に4年間通う。
私は、昼間は親父(レンガ職)の仕事の手伝いをしながら、夜間学校に通算5年間通学して高校を卒業した。
手伝いと言っても、「砂・砂利・セメント・煉瓦」など重いものばかりである。
私は学校仲間には、仕事は「土方仕事だよ」と何時も言っていた。

この5年間の間に、中国に出征していた長男が復員し、次兄も軍需工場から帰宅す。
当面仕事が無いので、親父の仕事の手伝いを私を含めて、親父を入れて4人ですることで生活費を稼ぐこになった。
このほかに外部から50年配の職人が二人来ていた。
前後の復興期である、仕事は途切れることにく沢山あった。

「大學に行きたくて」
小さな「煉瓦職人」の仕事を、親父を含めて「親子4人でやるほどの規模ではない。」
お袋が言っていた「景気のいいときには、家族大勢で仕事をやれて良いが。一度景気が悪くなったら、一家全滅だね」と。

「20才の私は悩んだ。」
親父の仕事から離れて、外部の職業を選ぶ方法もこの際考えられる。
高校に就職案内が結構来ている。
学校の先生は我々生徒に向かって、これからの成長産業は、「金融か証券」が間違いないぞという。

私は、「親父に言った」二日ほど休みを貰いたい。「旅行か」と親父が聞くが返事が出来ない。
翌日と翌々日の二日間、「荒川の土手」に寝転び、「考え・悩んだ」
親父の仕事を離れると、家で食べる事と、寝ることは許されると思うが、それ以外は全部自分で自立して賄わなくてはならない。


「就職試験を受ける」

休み明けに親父に頼んだ。「夜間高校を卒業になるが、就職試験を受けてみたい」
親父「バカやろう。職人から勤め人になるなど、なれる筈がない。やめろ・やめろ」
「お前も、兄貴ょり職人の仕事が長いし、仕事のやり方も良いから良い職人になれるぞ」

私「就職試験を受けても、すんなり合格と言うわけではない。」
 「仮に就職できたとしても、私の肌に合うかどうかわからない。」
 「石の上にも3年と言う諺もある。就職後3年経ってだめなら、どちらか外部の職人に戻る覚悟だから」

「就職願書を出す」
親父とこんなやり取りの後「学校の同期も就職していった、信用金庫に就職願書を出した。」

一週間後に学校に「就職先からの返事が来た。」
「残念ですが、お断りします。」の返事だ。

私が、担任の先生から「職員室に一人で来いと。」と連絡が来た。
先生、「おい、お前は面接でなにを聞かれて、どんな返事をしたのか」
   「お前は、2年生の時から組のリーダーをやってもらって全体のまとめを上手くやってもらっている。」
   「勉強も特別できるわけではないが、中程度だ。」
   「生活態度も真面目で、学校を休まない。」
   「お前の就職を断った先は見る眼がないのだ。」

少し間をおいて「先生が再交渉してやるが、それでも就職する気があるか。どうだ。」

私  「お願いしますの返事を先生にして」その日は家に帰る。

この結果は、次回に。
この話は、戦後間もない「昭和25年」のことです。




目の付け所(私のやり方)その2

2009年05月12日 | 我が家のつれづれ
今朝(2009.5.12)の読売新聞を読んでいたら、こんな記事が13面に出ていた。
タイトルは、「お金をためるいい方法は?」というものである。

私も貧しい家で育ち、若い頃から「金銭管理」に悩んでいたので、参考にその記事を書くことにした。
後半で私の「金銭管理」について書いてみます。
現在78才まで独立独歩でやって来た苦労話ですがね。

「新聞記事の内容」

 Q.将来に備えお金を貯めたいのですが、毎月給料を使い切ってしまいます。
   給料を蓄えるためのいい方法はありますか。

 A.日々の生活の中で、お金をためることもままならないと思っている人は多いでしょう。
   そういう人には、給料から自動で引き落とされる方法をお勧めします。
   お金を貯めるには、お金をあえて使えない状態にすることが、とても重要なのです。
   初心者にお勧めは、やはり自動引き落としの定期預貯金です。
   今は利息は低いものの、毎月5000円でも、一万円でも確実に貯められる方法です。
   勤め先で有利な社内預金制度などがあれば、それを利用してもよいでしょう。
   毎月使えるお金は減っても、お金はなければないで、なんとか生活していく知恵がつきます。
   お金が無ければ無駄遣いもなくなります。
   お金をふやす資産運用を始めるらも、まずは貯蓄が必要なのです。
   (市川雄一郎)

「私もこの話に賛成です。」
現在78才になる私も、若い時から「お金に苦労」してきました。
13才中学生2年の時に「東京大空襲」に遭遇し、自宅も学校も全焼してしまいました。
その年に終戦を迎えますが、東京に在住(親に田舎がない)まま疎開もできずに、親父とお袋と私と二人の妹5人で、焼け跡かたしをしながら、東京で頑張って生きてきました。
私も妹もその年は学校へも行けずに、毎日焼け跡整理の毎日の日課が続きます。
一番困ったのは、食べるものがないことでした。
それも行きたくてもいける学校が焼けてないのです。

当然に中学校で進学していれば、私は中学3年生になっているはずです。
通学してた、中学に行ってみましたが、先生は殆ど兵隊にとられていて。誰も居ません。
一キロ弱の道のりで、学校に着くまでの間、「人間の焼死体を三体みました」怖くて急いで家に帰ります。


目の付け所(私のやり方)その1

2009年05月09日 | 私が歩んできた道を振り返って
「目の付け所」(私のやり方)その1
。。。。(物事を考察、評価する時、対象の中で特に注目する部分。着目点。着眼店。)広辞苑から。

私は、戦後間もなくの時に、中小金融機関に40年間勤めた経験を持っている。
中学生のときに、東京が戦災で焼け野原になったあとに終戦を迎えるる、
自宅も学校も焼けてしまい、学校へ通う道を閉ざされてしまう、
結局一年浪人して、焼け残っていた中学に編入した。
昼間は、親父の仕事(レンガ職人)を手伝いながらの夜間中学3年生である。

ここの中学校で旧制中学の卒業資格を得たが、翌年から「新制高校制度」が発足する。
私はそのまま在学し、夜間の新制高校の道を選び、高校一年生となる。
昼間は親父の仕事を手伝い、土方仕事の後に夜間高校へ通う生活になった。
旧制中学3年生を一年。新制高校を4年間(夜間高校は4年制)、通算5年間の夜間学校を5年間を経過して、通常の人より二才遅れて20才の時に卒業した。
勿論、昼間の土方仕事をこなしての卒業である。

これから、私の仕事やり方、目のつけ方を少しずつ書く予定だが、私の20才台の土方仕事の毎日が、サラリーマンになった後で大変な影響を与えていることになる。

職人の仕事というのは、「出来上がりは、上手く出来て当たり前」その上「お客様に感謝されるような出来栄え」「次の仕事の時も注文し頼まれる」「工事の日程を守る」
ずらずら、と書いたが任された仕事をすると言うことは、これが当たり前だ。