子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 12 土方のダジャレ

2007年05月10日 | 60年前の戦争体験
15才での始めての仕事現場だ。

「鉛筆の芯を作るためのロールの基礎工事」を5日間現場で過ごした。

私の第一番目の感想は「職人Aさんいわく。これを土方仕事と言うのだそうだ。」「大変疲れるが、日毎に、いまやっている仕事の姿が現れてきて、何か嬉しい気持ちになる。」

職人Bさんからは、「雑言、ダジャレ、ギャグ」なのか、私にとっては、なにを言わんとしているのか、検討も付かない言葉を浴びせられるが。
私が驚いたり、困ったり、まごまごしたりした時に、職人Bさんの顔が「やった」と言う顔になる。

それも、毎日必ず、こんな言葉が出てくるわけでもない。

職人Bさんは、盛んに頭の中で「今度は何を言ってやろう」と考えているとおもわれる節が見える。

前回、書いた「戯言の数々も、私が仕事を手伝い出して、3年くらい懸かっているのだから。」

内容的には、厳しい言葉で言われるが、職人Bさんの顔はニヤニヤして言っているから、Bさんが自分一人で楽しんでいるのか。

私   「私自身は、柳に風だ。」
     (柳の枝が風のふくままなびいて、巧みに風をやり過ごすように、相手の言うことや強い態度などを、上手に受け流して逆らわないこと。)

もう一つ「馬の耳に念仏だ。」
     (馬に念仏を唱えて聞かせても、一向にその有り難味が解らないように、意見や忠告などをいくら言って聞かせても、聞き流すだけで全然効果が無いたとえ。)


《戯言その2 その他の戯言》

「道具編」の戯言のケースは、前回の原稿の最後に並べた。

ここでは、道具編以外に、現場でどんな言葉を私に投げかけたか、2~3書いて見ます。

① 「おい、小僧その辺でウロウロしていたのでは邪魔だ。」
  「家に帰って寝てしまえ。」

② 「早くしろ、バカヤロー・ウスノロマ。」

③ 「仕事もろくに出来ないくせに、飯(めし)だけは、一人前じゃないか。」
  「そういう人間を、只飯し食いの役ただず、と言うのだ。」

④ 「どけどけ、仕事をしないでいいから、邪魔にならないところで昼寝でもしていろ。」

⑤ 「お前の頭の中は、寺の鐘の音と同じだ ゴーン となるだけで。仕事の役には立たないな。」 
 
⑥ 「ろくな仕事もしないのに、よく昼飯を食えるな。」

私も、今盛んに思い出していますので、少し時間を下さい。


《大型工事に取り組む》

「鉛筆の芯を作る工場の仕事の、次の工事が決まってきた。」

「鉛筆工場の5倍の規模の仕事だそうだ。」

「工事内容は、ゴム工場での工事で、ボイラーのレンガ積み、煙突の基礎工事、ゴムを練る大型ロールの基礎工事。」

大きく分けて、3つの仕事だ。

「レンガ工事は、本来親父の本業だ。」

「基礎工事は、職人Aさんの得意仕事。」

 基礎工事は二つ。
 一つは、鉄骨作りの高さ20メートルもある煙突を入れる外枠を支える基礎工事。
 
 もう一つの工事は、ゴムを練りこむロールの基礎工事。先の鉛筆工場のロールより二周わり、大きいものだそうだ。

 今度の仕事は、相当な日数になりそうだ。


《私の進学が決まりそう》

私に取って、嬉しい出来事が決まりそだ。

話は、こうだ。

次兄20才の友人が近所にいて、W大學に通っているという。

私が、戦時中「学徒動員」で学業も中途半端で、なんとか学校に行きたいということを聞いて、次兄に夜間の中学と言うものがあると、W大學の友人から知恵を貰えたという。

一度、三人で話をしてみよう。と言うことになり夕方に集まった。

どうやら、我が家から徒歩で30分くらいの距離にある焼けていない区内の「中学校」で夜間部もあるという。

W大學の人が、願書を昼間行ってもらってきてやるから、ということで目の前が開けてきた。

私は、昭和20年3月10日に「中学2年生で学徒動員中」東京の荒川で、学校も自宅も焼けてなくなってしまった。

本来なら、4月から中学3年生に進学するのだが、学校が焼けてしまい、進学どころでない。

4月以降は、親父と焼け跡整理の毎日で、この年(昭和20)8月に終戦となる。

しかし、まだ学校も焼けてしまい復活の姿もない。

終戦の8月以降に、親父の仕事が少しずつ動き出して、ここに書いているような状態に現在なっている。

そこへ、夜間中学の話が出てきたというのが、年を越えた昭和21年の2月だ。

採りあえず、次兄と相談して「中学編入の願書」をだすことにした。

学校の面接教官に、「学徒動員」話や焼け跡整理の話をして「3年生に編入」したい旨の話をしたところ、「教官」はいいですよ、「3月の新学期からいらっしゃい。」の返事を頂いた。

この話を、家に帰って次兄にまず話をしたら「よし二人で親父に今晩にも話しをしょう。」ということになった。

《中学3年に進学が決まる。一歳送れでも仕方が無い。》

次兄と私で、親父の帰りを待ち、中学に進学したい旨の話を、一生懸命にした。

親父の返事は、「仕事は今までどおり、休まずにすること。」「月謝はお袋から貰え。」と言う。

だだ、学校に通うためには問題がある。

私が、工事現場からいきなり、真っ直ぐ学校に行く姿でないことだ。
「土方仕事で、泥んこのままのときもあるし、腕も顔も泥だらけだ。」

次兄が、親父に言ってくれた「午後4時に、工事現場から一度家に帰って、手と顔を洗い、上着とズボンを着替えて学校に行かせて貰いたい。」と。

親父も「仕方が無いな。」ということでOKとなった。

私  「この当時、世間一般に親父の意向は絶対であった。」
   「娘は、親父が、うん と言わなければ、嫁にもいけない、家庭で絶対の権力をもっていた時代だ。」