
昭和33年、私の27才の時のことです。
A.結婚式 その1 (栃木県・真岡)
職場で何時もハイキングや登山で同行していた友人が結婚することになったと言う。嫁さんは地元の人だそうだ。
結婚式は実家でするので、支店長と貴方二人で出席してもらえないかと誘いがあった。
友人の実家は、栃木県の真岡在だ。
結婚式は、たしか日曜日だったと記憶している。支店長と上野駅で待ち合わせし、午前11時の結婚式の時間に間に合うように東京を出かけた。
東北本線の小山駅で水戸線に乗り換え、さらに下館駅から真岡線に乗り継ぐ。
車窓から見える景色は田園風景が見渡す限り広がるのみ。
指定されたローカル線の駅で降り、駅前から親戚の人が迎えに来ていてた車で彼の実家まで送ってもらう。
実家は、大きな住まいで田舎作りだ。
入り口から入ると広い土間があり、私達はその土間を通って奥の座敷に通された。
座敷から見る庭には農機具小屋もあり、広くていかにも農家という風情。
かなりの時間が経つが、友人と嫁さんが現れる様子がない。
座敷には、お客様が私達二人の外に10人ほどいるが、東京から来た二人には話しかける話題も無い。
お腹も空いてくるが、目の前にはお茶と茶菓子が少し有るのみ。お茶菓子に手を出すのもみっともないので我慢する。
暫らくすると、庭先が騒がしくなり車が何台も庭先に入ってきた。
新郎と新婦の到着だ。
私達二人と共に座敷にいたお客様が靴を履いて庭先に出て、新婚夫婦を出迎える。
庭先に家族やお客様全員が揃うと、新郎と新婦が車から降りてくる。
新郎が先に玄関を入り、家の中で新婦を待ち受ける。
新婦は、玄関に入る際に「蓑を肩に・すげ笠を頭にかざして」、火打ち石を打ち鳴らす親戚の脇を擦り抜けて、急いで家に入る。
(この辺が当時田舎でやる結婚式の見せ場かと私は思いながら見ていた。)
奥の座敷に私達が戻り、新郎新婦のご挨拶が当然にこの座視であるものと思って待っているが、一向にその気配がない。
どうやら、床の間のある座敷に新郎と新婦が座り、親戚の紹介が一組毎に呼び出されて紹介が行われているという。
(ははあん、この辺が当地の習慣か。)
我々のいる座敷にも、酒肴が出されたが。まだ、新郎・新婦への紹介が続いているとのことで、お客様の座敷には姿を見せない。
東京から来た我々二人は、どうしていいのか、もぞもぞするばかりで落ち着かない。(東京の結婚式ではこんなことはないぞ。と思うが仕方がない。)
酒も魚もなんとなく進まない。新郎・新婦の挨拶も無いうちでは、膝も崩せず。
そのうち、同じ座敷にいたお客様が一組づづ呼び出されて、奥座敷に向かう。
座敷に帰ってきた、お客様に聞くと新郎・新婦に紹介されて、こちらの側と、この家とのお付き合いの内容を仲人から新婦に話しているとのことだ。
東京から来た私達二人は、最後まで奥座敷に呼ばれることがなかった。
そのうち、新婦が普段着の着物姿に着替えて、我々のいる座敷に現れ、仲人と一緒にお客様に酒の酌をして廻る。新郎は座敷には現れない。
最後に、仲人から「目出度く結婚の儀式も終了しまた。大変有難うございました。」の挨拶でお披らきになる。
帰りの東京に向かう汽車の中で、支店長と私は田舎の結婚式のやり方に不平を言ったが仕方が無い。

《真岡の結婚式の経緯》
彼が、職場に出勤してきてから、私が彼の家の結婚式のやり方の疑問点を聞くと、彼はこう応えた。
1.実家での(田舎)結婚式は、私(彼)も初めてなのでどのように進行するのか解らなかった。(彼・ごめんなさい。)
2.結婚式は、家と家との関係が優先らしく、
前日に花嫁側の家で一回結婚式が行われ、当家の親戚の殆どの人が出席していたと言う。
3.新婦との初夜も嫁さん側で済ませたという。(変なところで惚気るな。)
4.仲人は、新郎側と新婦側に二人づづ、それぞれおり、新婦側での結婚式には新郎側の親戚も参列して行われ。
5.翌日に、新郎側の仲人が新婦を引き取って、新郎と一緒に新郎の実家に入る。
6.この際、新婦側の親・兄弟・親戚・嫁側の仲人等は、付いてこないのだという。
7.文字どおり、新婦一人が新郎宅に嫁入りするということが、この地方の結婚式の形式のようだ。

B.結婚式 その2 (群馬県・松井田)
私と彼は、夜間大學時代の友人で、彼は大學を卒業したら実家に帰って高校の先生になるのだという。
実は、夜間大學の選択科目で3科目ほど教室で一緒になった。
或る日、大學からの帰り道で彼と一緒になり、乗り物(都電)の停留所までの道をお喋りしながら6分ほど並んで歩いた。
こんな関係が何回か続いているうちに、彼が田舎の家から出て、東京に下宿しており、その実家と言うのが「群馬県の松井田町」だという。
私が登山が趣味だと言うと、彼の実家のすぐ近くが「妙義山」で。秋の妙義の紅葉も見事だぞと言う。
次の休日に泊まりで家に来て「妙義山」に一緒に登ろうと誘われた。
土曜日に、上野駅で彼と待ち合わせて、信越線で高崎の先の「松井田駅」に着く。
松井田町と言う所は、「中仙道の宿場町」で、「碓氷峠をて経て軽井沢町」えの登り口である。
私が松井田町に行った時には、「信越線が碓氷峠を登り軽井沢駅に経るには、蒸気機関車を横川駅でもう一台増連結し二連結で、「レールの中にあるアブト式というギアを噛んで列車が登っていくいく方式」であった。
上野駅で待ち合わせした彼が「英字新聞」を抱えていたので聞いたら、「家に帰る為にかっこつけているだけだよ。」と言うので、そういうものかと気に留めてもいなかった。
松井駅の改札を出たところで、若い女性が二人待っていた。
彼が嬉しそうに「暫らく」の挨拶をしている。
英語新聞を抱えて実家に帰ってきた訳がこれだなと「ピーン」と来た。
暫らくして、私に二人の女性を紹介した。一人は小柄な人で、もう一人は大柄で小太りだ。
私が見る目で、年令は22~23才だ。
女性に晩熟(馴れない)の私はどのように返事していいのか解らずにいた。
列車の中でも、松井田駅に女性が見えているという話は全然なかったのだから。
やおら、彼が「妙義山」に一緒に登ろうと言って誘った地元の知り合いだと言う。
なにか、どちらかが「彼の彼女」らしいと思ったのだが、そんな詮索しては失礼と思い、その件には触れないことにした。
その足で、彼の実家に寄り、登山には不要な荷物を預けて、早速「妙義山の登山口の妙義神社」に向かった。
妙義山には、クサリ場もあって、嶺道を登り下りしながら進む。紅葉もすばらしく映えて、楽しい山歩きだった。
二人の女性も地元の山で何度も登っているらしく、男子が面倒を見るという場面も無かった。
彼の実家は、昔の中仙道に面しての通り道にあり、旅籠「昔の旅館」をやっていたのだが、今はやっていないという。
表通りから見ても、かなり大きな建物である。彼が泊まれというのがよく解る。

実は、これが彼の結婚の伏線であるということが、間もなくわかる。
年を越えて、3月に大學卒業のため学校に行くと、彼が待っていて「ちょつと、お願いがあるのだが。」と言う。
「お金でも貸してくれと言うのか」と思いやや身構えていたら、彼が「実は、過日妙義山の登山で一緒した、彼女との結婚が決まった。」と言う。
私は、瞬間的に、二人の女性のどちらの人かな--?と考えた。
「背の大きい女性かな。背の小さい方の女性かな。」
そんなことは、彼に今すぐには質問出来ないから、どちらの女性かを自分で想像することにした。

彼が「結婚式に参列・出てくれないか。」と言うのが、学校で私を待っていた本題だった。
彼曰く、東京に4年間も下宿して夜間大學に通い、友人の一人も出来なかったでは、親の前で言えないと言うのだ。
特に、結婚式に呼べるような友人が一人も居なかったというわけにはいかない。
田舎(地方)では、こんな習慣が根強く、隣近所や親戚にも後々まで言われてしまうと正直だ。

《松井田の結婚式》
群馬県の松井田町での結婚式に参列した。
昔は旅館を結っていたという、大きな建物だ。大広間も立派で広い。
式も淡々と進み「宴会が始った。」
お嫁さんが、お色直しをして宴会場に現われて招待客一人ひとりにお酌して廻る。
私の近くに廻ってきたので、それとなく「二人の女性のどちらかな」と見ていた。
花嫁衣裳を外した人は、松井田駅にいた「小柄な女性」だった。

《私の醜態の発生》
宴会が進んで、私が酒が飲めるという事が解って、宴会場に居た、仲人や親戚・知人が代わる替わる、私にお酌にくる。
今夜も泊まれと言われていた、こともあり、「松井田町の地酒がとても美味しいですね」などお世辞を言いながら、遠慮なくご馳走になる。
結果は「酔いつぶれて、布団に寝ていた自分がいた。」
午前3時頃と思うが、小便がしたくて眼をさまし布団の中からのろのろと立ち上がり便所を探す。
寝ていた場所は、二階で表通りに面した広い日本間である。
もう一組布団がひいてあり、一つの布団に二人寝ている。
小便が先だ。終わって直ぐにまた布団に潜ぐりこむ。
午前5時頃再び眼をさます。外もやや明るくなっている。隣の布団を見てびっくり。
二人で寝ていた、布団が金襴緞子というような、豪華な布団だ。
一瞬しまったと思った。「隣の布団は、新婚夫婦」だ。
私は、その新婚夫婦の奥上手の布団の同じ部屋に寝かされていたのだ。
《田舎・松井田の結婚式の失態》

いくら田舎でも、新婚夫婦と同じ部屋に寝かせるとは思わなかった。
酔いつぶれた私も悪いが、昔旅館の建物だよ、別の部屋もあろうにと思うが、後の祭り。
彼とは、「現在でも年賀状のやり取りがあるが」その後は、恥ずかしくて誘いがあっても彼の家に行けない情けない自分がいる。」

《碓氷峠のアブと式線路》追記
この原稿を書き終わった2日後の、平成19年11月17日の読売新聞・夕刊に「信越線・碓氷峠のアブト式」の話が掲載されていましたので、参考に追記します。
「国鉄のOBとともに鉄道を辿る」(碓氷峠交流記念財団主催)旧信越線の廃線跡横川--軽井沢間約4.8Kmを歩くツアー。
《その要約》この区間は、長野新幹線が開業する1997年までの104年間、群馬県の高崎と新潟県の直江津を結ぶ列車が通っていました。
(中略)線路面にギザギザ形のラックレールが埋め込まれています。
横川--軽井沢間はわずか11.2キロですが、標高差は553メートルもあって、列車は急勾配の碓氷峠を越えなければいけませんでした。
このため、路線の中央にラックレールを敷き、車体下に取り付けた歯車とかみ合わせて走らせる登山鉄道用の「アブと式」を採用-----(攻略)とあります。

《私の50年前の記憶もそうは間違いが無かったことに嬉しく思いました。》