子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

16 新婚家庭の家計管理は・最初が肝心 その12

2009年01月29日 | 私が歩んできた道を振り返って
私達の新婚生活が始まった。
何事も最初の計画が肝心だと常に考えていたわたしは、家計のやりくりを、嫁さんと相談し次のようにすることにした。

まず、家計を3つに分けて「嫁さん」と二人で分担して管理することとした。

 1.一つは、 家計だ。・月給・・・・・・・・・・・・・・・この分野は「嫁さん」に全部任せる。
 2.二つ目は、臨時的な支出に備える。・賞与・・・・・・・・この部分は「わたしの担当」とする。
 3.三つ目は、将来への蓄え。余裕でば多少の投機に。・賞与・この分野も「私の担当」とする。

《家計の管理体制を決める》

基本的な考え方は、「月給の範囲内(賞与に手を出さずに)で(私の小使い)を含めて一か月の生活を組み立てること。」
私は、嫁さんにこのように提案した。
私の月給を嫁さんに月給袋毎全部任せるから、一か月の生活を配分してくれ。
当時は月給袋といって、給与明細と一緒に現金が入っている袋を、嫁さんにに毎月そっくり渡すことにした。

《3分割の1 月給》

その内容は、私の毎月の給料をそっくり渡すから管理してもらいたい。
 A.「私の小使い」は、その中から決めた額を貰うことにする。
 B.「毎日の家庭生活でかかる、食費代等」
 C.「公共料金」「住宅金融公庫の支払」「新聞代」等の定期的な支払。

《3分割の2と3--臨時の支出》

ボーナス収入は、別途私が管理し、上記の二つ目と三つ目の支払に備える。
 D.「冠婚・葬祭」この費用は別途にして、私が管理する。
     (冠婚・葬祭の問題は、好むと好まなくに関わらず不意にやってくるものだ。)
     (親戚付き合いや、職場内の付き合いなど「不義理」をしないような蓄えを常に怠らないように
      しておくことが必要だ。)
     (この場合、袋に包む金額が、我が家・私として適正な金額かどうかを、
      嫁さんと相談しながら、常に覚えていて、平等な金額を包む必要がある。)
 E。「家庭で使う電気製品」も別途にして、私が考える。
    (家庭の電化製品も新規に買う時には、あれかこれかと迷うものだ。)
    (買い揃える場合には、家の中の何処に置くかを決めてから買わないと、
     据えたい場所に収まらないということが出来てしまう。)
    (値段の問題もそうだ、自分の経済力に合わせて、最初は小型なものからという考えがいる。)
    (私が世帯を構えた時には、電気冷蔵庫がなく、裕福な家庭ては氷式のものだった。)
    (テレビも無い時代、間もなくラジオから白黒テレビになるが、私の所得では手が出せないものだった。)
 F.「将来への蓄え」
    (ボーナスの大部分は、将来に備えて全額「定期預金」にしておくことにした。)
    (定期預金にしておくことで、何か買いたい欲望が出ても、解約と言う手続きが要るので、
     どうしても我慢できない時にのみにすることが出来る。)
 G.「旅行代」
    (私は旅行がすきなのだ。旅行は家族一同で一緒に行くことを心掛けている。)
    (どういう訳か、旅行に金銭を使うのはいとわない性格。)
    (私が40才台になった時の年間旅行回数は20回をくだらなかっただろう。)
    (講じて旅行仲間が4つもあった。私の兄弟夫婦仲間、家内の兄弟夫婦仲間、勤め先の同年輩との旅行仲間。
     これ等の仲間との旅行は年一回欠かさず。我が家の家族は随時に。)
    (基本的には、その殆どは家内同伴での旅行だ。
    (日本の都道府県で観光に行かない県は一つも無いぞ。機会があればその旅行先を列記してみる。)
 H.「そのたの臨時の支払」
    (臨時支出で特徴の有るものに、私の洋服{背広}がある。新婚当初の時代には既製品専門の洋服店などなく、
     街の洋服家さんに注文する制度だった。)
    (実は私が15才から20まで、職人である親父の仕事の手伝いで毎日土方仕事をしていて重いものを運んでいたので、
     身体の片巾が広くなっていて、既製品の背広では、片巾が合うと袖が長すぎて、着られない体型なのだ。)
    (こんな体型のため、背広は賞与が出る半年に一着つづ賞与で作ることにした。)

《以上の取り決めの内容を補足する》

 A.{私の小使い}は、その中から決めた額を毎月貰うことにする。
    (私は、自分が金銭の使い方でいい加減なことをしていては、家計がやりずらいし、嫁の裁量も出来ない。)
    (金銭管理をきちっと決め手やろうと私がきめたのは、私の家庭・特に昔堅気の親父の影響が大きい。
     親父の時代は金銭も何事も男親が握っていて、母親には何の権限も無かった。
     そのために学費を貰うにも親父に言わないともらえないのが普通だった。)

    (反面教師というのだろうか、早くから私が家庭を持ったら、
     嫁さんに任せられる分野は任せて二人で家庭を作り上げると言う考えを持っていたのだ。)
    (私の小遣いを含めて任せるというのは、お互いに責任を分担して、家庭を作り上げるという意味会いがある。)
    (私の小遣いの値上げは、給料がノベース・アップされた時と役職手当が上がった時に、
     その増額された金額の50%程度を小遣いの値上げしてもらうことにした。)

  B.「毎日の家庭生活でかかる、食費代等」
    
    (この分野では、男の私が口出しすることは何もない。下手に口出ししても良いことは無いと思うから。)
    (しかし、ジャガいもの皮も剥けなかった嫁さんだ。結婚当初の料理の結果は惨憺たるもの、
     しかし文句を言わずに私は食べたよ。)
    (何事も、習うより馴れろだから。暫らくの間我慢してやらねばね。)
    (それに、義母がちょくちょく通ってきて、食事の面倒を見てもらえたから。)
    (男厨房に入らず。というのが私が育った環境だったせいもある。)

次回は、新婚家庭の家計のやりくり。    

15 結婚式が終わって、新婚旅行に その11

2009年01月27日 | 私が歩んできた道を振り返って
《結婚式も無事に終わって新婚旅行に。》

結婚式は、先に地元の神社へ行き、神主さんの下で、仲人と両親に新郎新婦で挙式を行いその足で披露宴会場の浅草の小料理屋へ向かった。

披露宴の参加者は、私の親族9人、嫁側の親族8人、私の職場から支店長以下同僚を含め7人、嫁さんの友人4人、我が家の近所の世話になった人5人、義父側の知人と同業者5人、参加者は全員で38人になった。

お土産は、浅草の名物「雷おこし」と「赤飯」を小料理屋に頼んで用意した。
披露宴の司会は、私の職場の同僚でこのような行事に慣れている者に頼んだ。

披露宴も賑やかに、和やかに終わることが出来た。

戦後間もなくの「結婚式」は、こんな様子であった。

《いよいよ新婚旅行へ》

当初私は新婚旅行は、「南紀州の白浜温泉と那智の滝方面」に夜行寝台で行きたいと思っていた。
こんな旅行計画を義母にしたら、大反対されてしまった。
「嫁さんは、結婚式の着付けやその準備で朝早く起きて、朝食もままならないのだよ。」
「結婚式場でも飲食は着飾っているから思うようにならないし。」
「精神的にも負担が大きくて、相当疲れているものだょ。」

「その上、新婚旅行は南紀州で夜行寝台は無理だよ。」
「まあ、伊豆半島の伊東温泉程度にしておいてください。」
義母にやんわり断られて、計画の手直しをした。

《新婚旅行のスケジュール》

伊豆半島方面は、私も好きで20才台に高校時代の学友達と、東伊豆や西伊豆方面によく観光に行っていたから、知識もあり伊豆半島は良く知っていた。

当時の乗り物は、東海道本線で東京駅から熱海駅へ。此処で乗り換えて伊東駅へ鈍行で行く。
その先の下田に行くのには、伊豆急行に伊東で乗り換えるて行くのだ。

現在なら、東京駅から伊豆下田駅まで直通で行かれるが、戦後は伊豆半島に行くのも大変だった。


私の新婚旅行は、こんなスケジュールになった。
東京駅から熱海まで東海道線。熱海駅で乗り換えて伊東駅に。

第一日目は、伊東温泉に泊まる。
この日は、宿に出来るだけ早く着いて、観光もせずにゆっくりすることにした。

二日目の宿は、下田の蓮台寺温泉に取ってある。
伊東から、「伊豆の最南端・石廊崎」の定期刊行バスに乗ることにした。
学生時代に良く利用していて、バスガイドが途中の観光地の案内をしてもらえるので、のんびりとバスに揺られている内に目的地に着くのでいい。
「石廊崎」で観光船に乗り、観光して再度観光バスで下田に戻る。
私達二人は、下田駅で途中下車して、今日の宿泊地の「蓮台寺温泉」にタクシーで向かう。

三日目は、早く家に帰って、翌日からの出勤の支度をしておかなければならないし。

家内は、台所の整理と翌日以降の食事の支度の手配もしなくてはなら無い。
当面二人は子供が出来るまでは共稼ぎの予定なので、観光どころでない。

東京に早く帰ることにした。
東京に戻って、義父の家に寄り新婚旅行のお礼をと、旅行のお土産を渡して、我が家に帰った。
我が家に入ると、台所はキチンと整理されており、食材も揃っており、部屋の掃除も進んでいる。
義母が留守の間に、我が家に見えて娘のために用意してくれたとのだ。
「ありがたかった。」

次回は、新婚家庭の金銭管理です。

14 いよいよ私の結婚式だ その10

2009年01月23日 | 私が歩んできた道を振り返って
《我が家では私が最後の結婚式である。》
一つは、姉や兄と妹二人が結婚した年令が、全員20才前半の年令だったこともある。
それに比べて、私は30才直前で、7人姉・兄・妹の結婚年齢よりかなり結婚年齢が遅いため最後の結婚式となってしまっだ。

私としては、結婚式は当然に我が家の六畳二間でやってもらえると思っていたが、そうは行かなくなってきた。 

《我が家での結婚式はムリ ? 》
 
   なぜムリなのかというと、我が家の条件が変わったことが大きい。
 1.一つは、私の結婚を迎える4年前に「母親」が亡くなったこと。
   我が家でやっていた結婚式を取り引きる家の者(母)が居なくなったという事が大きい。
 2.長男の嫁さんがいるが、隣近所の小母さん達とまだ馴染みが薄く、結婚式の台所を手伝ってもらい取り纏める力がない。

 3.この時期には、既に親父も仕事を引退しており、金銭的に実力が無い。
 4.結婚相手の嫁さん側との力関係から、我が家での親父が結婚式を取りまとめるという実力がない。
   少し注釈すると。(我が家と嫁さん側の家の格が違うこと。)
   嫁さん側は、中小企業で従業員も10数人居て、大きな自宅を工場の脇に構え、商いの金額も桁違い、電話もある。

 5.親父は我が家の近くにいる、義父の同業者からの結婚式のやり方の情報が相手側に入るのが気がかり。
   いろいろな思惑があって、親父は我が家で私の結婚式をやることについて、色よい返事をしない。
 6.とは言っても、家を建てて、結婚式と新婚旅行も私の財布でというのは、少し無理だ。
 7.ではどうすると言っても、結婚そのものは直前になっている。

《諺を二つ》
 1.「縁は異なもの」
    (男女の縁というものは、どこでどう結ばれるかわからない、まことに不思議なものであるということ)
    (我が家と嫁先の家の格が違う、娘さんとの結婚に無理があったのか、私は悩む)
 2.「何時までもあると思うな、親と金」
    (親はいつまでも生きていて子の面倒をみてくれるものではないし、
      金も使えばなくなってくるものだから、依頼心捨てて、自立と節約を心掛けよという戒め)

《結局、結婚式場は外部で、私の財布の自己責任で》

何事も総て順調に運んでいくものではない。この結婚式を踏ん張って遣り通さないとこの先真っ暗だ。

我が家ての「結婚式」が無理だとすれば、外部のホテルなどで結婚式をやるしかない。
しかし、現在なら「結婚式専用」の会場もあるが、私の時代には零細庶民が頼める少ない予算でやってもらえる「結婚式場」などはどこにもない。
まして私の懐には、金銭はもう幾らも残っていない。新婚旅行の費用は既に旅行社に払込んでしまっているし、

はたと困った。兄貴達にこの「結婚式」について相談することにした。
一つは、「結婚式はしなくてもいいのではないか。」と言う案。
    しかし、嫁さんの家側では「結婚式」も出来ない家庭なのかと言われるぞ。
二つ目は、「私が出来る範囲での粗末でいいから、こじんまりとやればと言う。」案。   
    それで済めば申し分ないが、嫁側の義父母がこの娘の「結婚式」に大変期待しているのを、私は知っている。
    それは、「拙いよ。」と私。
もう時間が無い。

《義父の協力》

或る日、私が婚約者にこの辺の事情を少し話をこぼしてしまった。
数日して、義父に呼ばれて夕飯をご馳走になった折り、義父から「結婚式場の話で困っているそうだな。」と言われ、正直に我が家の今までの結婚式のやり方や、金銭的な悩みを義父に打ち明けた。

翌日また、義父の家に夕方呼ばれた、義父の言うのには「私は浅草方面によく食事にいくが」、馴染みの「小料理店」で娘の結婚式場の話をしたら、料理店の女将から知恵を授かったと言う。「40人規模の宴会なら、貸切で結婚式ができますが。」

「予定する参加人数と、総予算を言ってもらえれば、その範囲で料理内容を考えて、予算を超えないように差配しますよ。」
これでどうだと、「義父が言う」「女将が私に言ったのだから、お前と娘二人で一度小料理店に行って話を確認してこい。」

家で兄貴達にこの話の報告をしたら、「いいんじゃないか。」と賛成してくれた。
私の心配事は「結婚式場」もあるが、それに懸かる総予算のやりくりである。

兄貴が言った。総予算の20%はお前が出す準備して、兄貴達に渡しておいて任せろ、残りは、参加者からの「お祝い金」を整理し結婚式が終わってから後日支払をすると言うのはどうだ。
私「これでは、小料理店側がうんと言うまい。」
兄貴達「そこだ、もう一つ義父に電話してもらって頼め、本人が新婚旅行から帰って残金の清算に伺います。」というふうにな。

先だつ金のない、零細庶民の「結婚式」の知恵というもの何ともせこいものだ。
結局、私の立場は嫁先の「婿」という立場しかないことになった。

しかし、私は義父側から「金銭の援助」は壱銭も言わず受けずに遣り通したから、自分に自慢できるからな。

次回は、新婚旅行についてです。

13 貧乏人の子沢山でどう育てたのか その9

2009年01月21日 | 私が歩んできた道を振り返って
私29才の時にどのような結婚式をしたのかを書くつもりが、私が育った時代とその時機の家庭環境の話になってしまった。

もう少し我慢してお付き合いしてくださいな。
時代背景をお知らせしておかないと、何でこんな「結婚式」をと思われてしまいそうなので。

《貧乏人の子沢山》

前項で書いたが、親父は「レンガ職人」で日雇い人足であった。当然に他人の親方の下で働いて日当を受け取る生活である。
家も四軒長屋の一角を借りての生活であった。

こんな家庭生活環境にありながら、子供が7人も生まれていた。いや産んでいたのだ。
戦時中当時の日本では、「産めよ・増やせよる」の掛け声で、何処の家庭でも4~5人の子持ち家庭が普通であった。
大勢の子持ちは、世間でも誉められていた時代環境である。

だだ、私の口からは言い難いが、当時の夫婦というものは「避妊」と言う知識も道具(ゴム)も持ちあせていなかったのが現実だった。
お産も自分の家で「助産婦」さんが見えて、畳の上の布団で産んだのだ。

《私の家族・7人の子供をどう育てたのか》

日雇い人足の親父の下で、7人の子供をどのように育て上げていったのかを少し書いてみる。

私の兄弟は7人である。
長女、長男、次男、三男、四男(私)、次女、三女。以上である。
上の長女から三人は、大正生まれ。下の三男から四人は、昭和生まれである。

先にも書いたが、日雇い日給の親父が、六畳一間の長屋でどのように、生まれてきた、いや産んできたこれらの子供達を育て上げていったのか。

多分興味があるだろうと思うが、我が家の恥になると言う家族も居るが、こんな情況にも耐えて家族を守り支えた両親の姿を思い出すと、その環境のなかで実際に生まれ育った、私が書いて記録に残しておかなければ済まないという思いがするからである。
私も今年の誕生月で79才である、残された人生も永くはないぞと考えているからなおさら。

《食い扶持減らし》
私は、上の兄(姉)と遊んだ経験がない。私が10才近くになるといつの間にか、上の兄弟が家庭から居なくなるのだ。

「貧乏人の子沢山」の知恵というものか、我が家では「子供が10才近く」に順番に「丁稚小僧」「住み込み子守」にだされるのが決まりだった。

一つは、「食い扶持減らし」日雇いの家庭では、子供はせいぜい小学校までで、他人の家に出される。
男なら仕事先で「住み込み小僧」となって、早くから仕事を覚え、それに寝る場所と食事が心配してもらえる。
女なら、生まれたての子供のいる家庭に住み込み「子守」と家庭の仕組みや礼儀作法を早くから覚えさせてもらえる。

長女は、「住み込みで、子守」にる。
長男は、「住み込みで、寿司屋」に。
次男は、「住み込みで、彫金師」の家庭に。
三男は。「自動車修理工場に住み込み」で。

こんなふうに、それぞれ10才近くになると、我が家からいつの間にかいなくなった。
たまに家に帰ってくるのは、年に二回「盆と暮」のみである。
私としては、直ぐ上の三男は記憶があって遊んだことがあるが、その上の姉兄とは遊んだ覚えがない。

《姉・兄達の結婚式》

こんな環境で育った家族姉・兄達も結婚年齢をむかえ、結婚式ということになる。

我が家は東京に居て戦災に遇い、いままで住んでいた四軒長屋も戦火で焼けてしまった。
その後、近くの焼け止まりに引越して雨梅雨をしのいでいたが、長兄が兵隊から復員し、次兄が軍需工場から帰ってきて家族が増えた。
このためさらに、隣に借家を借り足して済む。

それから、2年程ど経って、親父と家族一同で、平屋建ての我が家を建てた。
玄関二坪(6.6平米)、上がり小部屋四畳半、その奥にも四畳半、右手に台所と便所、風呂場。
戻って左手に廊下を伴って、六畳間が二部屋。以上こんな間取りだ。

言っておかないと解かりずらいので少し書き足す。

戦後親父の仕事は、戦災から復興するための工事依頼があいづぎ、戦前の「日雇い」から仕事を請け負う「親方」になっていた。

そこえ、長兄が復員し、次兄が帰ってきたが、元の住み込み先も戦火で無くなり、親父も人手が足りないので、親父の仕事を手伝うことになった。
それで、親父と私と外から職人が二人来ていた仕事が、二人増えて人手が六人になった。

親父の仕事は断りきれないほどあるが、金銭勘定に疎い親父の仕事振りで家には何時も金がない状態。

《姉・兄達の結婚式 その2》

姉は20才にならない前に縁があって「横浜」に嫁いだ。
長兄は、親戚筋の娘さんを娶り結婚式をすることになった。

結婚式は、地元の「神社」に仲人、両親、本人二人で神主さんを仲立ちに済ませて家に戻る。
「披露宴」は自宅の六畳二間続きの場所である。
両家の親と仲人、親戚の人数人、隣近所の知り合い数人、仕事仲間数人こんな人数で二部屋は一杯になる。

お膳は、数日まえから、お袋と近所の小母さん達が「芋の煮物や吸い物」「赤飯」「酒」を準備していたものが出される。
「新婚旅行」など、当時は殆どしない。いや出来ないのだ。

当時の下町の庶民の結婚式はこんなものだった。
以後、私を除いて我が家の「兄弟姉妹の結婚式」総て我が家で同じ様に行われた。

私を除いた「結婚式」と書いたが、その理由は次回に。





12 戦後庶民の家庭環境

2009年01月20日 | 私が歩んできた道を振り返って
昭和34年(1959)私は29才になった。
私の新築している住宅も完成し、後は結婚式と新婚旅行を終えて新居に移り住むだけになった。

こんなふうな出だしで書くと、総て順調に準備が進んで行ったように見えるでしょうが、終戦後間もなくの社会事情は現在とは、大変な相違点があったことを少し説明しておく必要があると思う。

《戦後の零細庶民の結婚式事情》

少し東京大空襲前後の東京の家庭生活情況から書くことにする。

私が生まれ育った家。親父は「レンガ職人」であった。他人の親方の下で日給で生活を支えていた。
「職人殺すにや、ワケがない。雨の3日も降ればよい。」と言う戯れ言葉が流行っていた時代なのだ。
雨が降ると、職人は仕事が出来ないので、日給が貰えない。こんなことを言って冷やかされた時代の生活水準が普通なのだ。

当然に、住居も小さい四軒長屋の平屋建てトタン屋根の借家である。
具体的に書くと、玄関一坪(3.3平米)、脇に二畳の畳間、奥に六畳の畳間、裏に台所が一坪と便所。便所は汲み取り式である。
ガスも水道も家の中には無い。

ご飯を焚くのは、薪きで焚く。水道は共同水道で四軒で共通して使うことになっていて、長屋のはずれの外にある。
米を磨ぐ場合は外の共同水道で済ませて、自宅に釜を持ち帰り台所の竈で薪火にかける。
家庭で使う飲み水などは、バケツで共同水道で汲みこんで、自宅の台所に運んで使う。水汲みの仕事は子供の仕事になっていた。

電気は来ていたが、六畳間に裸電球が一つ灯っているだけ。
カア・ガア・ピーピー言うラジオが上の棚にのっていが、何を言っているのかよく聞きとれない。

電話などはモチロンない。
当時の家庭で電話のある家は、裕福な生活水準の高い豊かな家のみである。
我が家の近所では、電話のベルの音を聞いたことがない環境だ。

家は四軒長屋だと書いたが、こんな長屋が6棟あり、我が家の周りに24世帯が住んでいた。

私が生まれ育った家の住宅環境はこんな様子だ。
この家で15才まで生活していたが。

《我が家の家庭環境》
私は四男である。

では、どんな家族環境か少し書いてみると次のような様になる。
親父、お袋の元に子供が7人である。

戦時中のためか、当時の家庭は「生めよ・増やせよ」の掛け声で、子沢山が国から誉め讃えられていた時代だ。
私の家の周りの家庭では、4~5人の子供持ちが普通だったのだ。

私の7人兄弟を紹介しよう。
長女、長男、次男、三男、四男(私)、次女、三女 の男4人、女3人の子沢山の家庭だ。

こんな、子沢山の家庭で子供が7人いて、両親と一緒に小さな長屋でどのように生活してきたのか、不思議に思うでしょう。

この話は、次回に。


11 戦後の結婚事情・私の場合 その7

2009年01月18日 | 私が歩んできた道を振り返って
私が28才の時のはなしである。昭和33年(1958)です。

義父からも、「結婚することの承諾をもらい。」彼女との交際も順調に発展していた。
或る日、義父からの紹介で「土地(借地)」の紹介を受けて、新居の建築地も決まった。

《新居の建築が始まる》

 1.建築予算

前項に書いたが、土地は決まったので、建物の建築だ。

住居の規模は、当面資金も少ないために夫婦二人で生活出来る範囲の小さい居宅でいい事にした。
実は、先出す資金の計算がまだ出来上がっていないので心配なのだ。

この後の「結婚式」「新婚旅行」「新しい所帯の生活費」などは、総て私自身の財力で賄わなければならないから。
自立が前提での計算が成り立つことを求められているのだ。

要するに、私には「自分の親」に頼ることが出来ない立場にあるから。
また、「義父」に今から、資金援助を頼っていては、これから先信用度が低くなってしまう。
ここは、なんとしても、頑張って、自分自身一人の力でやりとげなくてはならないのだ。

私の頭の中では、1/3 は自己資金
        1/3 は「住宅金融公庫」からの借り入れ。
        1/3 は「勤務先の職員貸出」による。

こんな風に考えていた。が。
これで上手くいくかはこれからの、自己資金の予定は出来ているが、後の二つは折衝による。

この資金計画で助かったのは、「土地が借地」だったことだ。
私が考えていた、「土地を購入」し住居建築より。
土地の代金支払が予定の1/4程度ですんだことだ。
また、バスで15程度遠くなるだけだ。

自己資金の残りの大部分は建築資金に回せる計算が出来たことで、資金計算も楽になった。
もう一つ、自分自身で探していた、自宅近くの土地価格が高く、仮に今度借りることになった土地面積1100平米の値段では、土地の購入では275平米(11坪)程度でしか賄えない。

この土地面積では建物の建築許可が降りない、少なくともこの倍の面積が必要だと考えられる。
この土地の獲得に二つの特徴がある。
一つ目は、既に述べているとおり「借地権」であること。当面権利金を払い、後は毎月地代を掃うということだ。金銭が思う用にならないわたしには、もってこいのことである。

二つ目は、私が借りることになった土地は、私が探していた場所から「河を二つ越える」場所にあるという事。
具体的に言えば、「隅田川と荒川」の橋を二つ渡った場所であるという事。
1/4の土地相場の値段になったのだ。逆に言えば4倍の広さの土地だと言うこと。
かなり遠くなるのかと思うでしょうが、バスで15分程度遠くなるだけで済む。

 2.住居の建築が始まる

私の下の妹が嫁に行っている先での知り合いに「棟梁(大工)」さんが居た。
「真面目な人柄だから安心できるるよ」との一言で、新婚住居の見取り図を持って言って大工さんに相談した。

10日ほどして「新築住宅の見積書」が出来上がって来た。
私の建築資金計画の範囲内かどうかが一番の問題点だぞ。
心して、その「見積書」を慎重にみつめる。
しかし、素人の私には、これが適正な値段であるかまでは判らない。

レンガ職人だった親父に見せて相談したが、親父にも判断出来ない。
親父は、一坪(3.3平米)の建築単価を計算してみろと言う。
「計算結果を見せると、そんなもだろう。」と言って納得した顔をした。

結局、真面目といわれた「棟梁(大工)」さんと、「下の妹の話を信用するしかない」

私の一番の心配点は、「見積額」である。
見積り金額は、私の資金計画をやや超えていたが、やりくりできる範囲である。
これで一軒落着。「お願いすることにした。」

 3.資金の返済計画

   自己資金 1/3 は、建築額の1/3f何とか蓄えた預金で賄える額である。 
        1/3 は、「住宅金融公庫」からの借り入れを予定してい。
          しかし、建築資金総額の50%程度にしておかないと、のちのちの、生活費が困るのでは拙いからと思う。
        1/3 は、「勤務先の職員貸出」で賄う。
            予め人事部に話をしてある範囲の金額なのでまず問題がない。
            この借入れは、所帯を持った後の私と嫁(当面共稼ぎ)の賞与を使うことにした。
            5年間の借入れ計画だったが、結果は半分の期間2年6か月で返済を終了する。

《生活費のやりくり》

 1.借地の代金は、毎月の私の給料の中で支払う。
 2.住宅金融公庫の、毎月の支払も私の給料の中で支払う。
 3.生活費は、私の月給の範囲内で計画する。
 4.賞与は、毎月の生活費に流用しない。

こんな、基本計画を嫁さんと相談し実行することにした。

細かい生活の話と、結婚式、新婚旅行の話などは、次回に。

10 戦後の結婚事情・私の場合 その6

2009年01月12日 | 私が歩んできた道を振り返って
私は28才になった。昭和33年(1958)の時の話である。
この時代での男子では晩婚である。
世間では男子は、25才ぐらい。
女子は22~23才が結婚適齢期であった。

《結婚を前提とした交際を娘先の両親に了解されて》

勤め先で知り合った彼女との交際を、娘先の両親に了解されて、結婚を前提に正式に交際することになった。
義父となる男親が支店長に知らせたとことで、店舗内に知れた。

当時の職場のルールは、男女交際はどちらかの人が転勤になることで交際が許されるということになっていた。
当然に男である私が、この店舗での勤務年数が8年を超えているので、転勤になると思っていたが、交際が店舗で知れ亘ると、6か月後に彼女が転勤することになった。

彼女の転勤で、交際はしやすくなった。

《結婚の準備》

さて、いざ結婚となるといろい大変である。

 1.まず住居をどうするか。

まごまごしていられない。出来るだけ彼女の実家に近い場所がいいと言うことで、一生懸命探すが、此処が「通勤にも彼女の実家にも近い」のでと思うと。
値段が高くて、私の財布の範囲内では賄いきれない。
多少むりしてと思うが、そうすると、建物の建築資金が不足してしまう。

或る日、義父の家で言われた。
「結婚式の跡の住まいは、何処にするのかね、」
「はい、勤め先と義父の家に近い所でと考えて盛んに探していますが、なかなか適当な物件が見つかりませんで困っています。」

こんな、やり取りでその日は帰ってきたが、もっと真剣に至急に住宅の心配をする必要に迫られた。
当時は、現在と違って「マンション」などの家庭生活できる設備のあるものが無かったから、一個建ての住宅を結婚までに準備するのが普通であった。

一か月後に、彼女の実家に呼ばれて「夕飯をご馳走」になった折に「義父に言われた」
「私の次男が持っている工場の近くに33坪(1100平米)の土地があるがあるがどうかね。」
「だだ、この土地は、お寺の土地で借地なのだ。」
「ここなら、娘の兄貴も直ぐ近くだし、町会の役員もやっているので、面倒をみてもらえるがね、」
「一度一緒に見に行って見るかね」

こんなやり取りの後こ、寺の土地を義父と一緒に見に行くことになった。
土地の立地条件は、義父の家からバスで10分ぐらいの場所、勤務先にも今までより多少時間が係るがまずますの場所である。

問題は土地の権利金である。

現在探していた所より面積も倍近くあり、出口が公道に面している。
権利金も現在私の貯めて持っている「貯金」の範囲内で賄える。
「義父にお願いします。」と返事し、一緒に寺の住職に会いにいって、借地を申し込む。
「住職も、義兄が同じ土地を借りているので、快く承知して貰えて、土地は決まった。」

《住宅の建設》

 2.さて、土地も決まったので、住宅の建設である。

私の蓄えのかなりの預金を借地代金に使ってしまったので、建築資金の準備をしなくてはならない。

その前に、どの程度の建物にするかを決めないと予算が決まらない。
こんどは、私の親父と相談して、方眼紙を買ってきて、建築の図面の下書きを3枚ほど書く。
これを、親父に見せて意見を聞く。
親父も職人生活が長いので、建築にはそこそこの見識があり、ここはもう少し広くとか、便所の方位が良くないから異動させろなどの意見。
畳みの部屋には、直接直射日光が当たらないように南方に廊下を置き、畳みが日光に焼けないようにと言うなど変更を求めた。
いろいろ、意見を言われて、建築図面をまた書き直す。

私の建築計画では。当面夫婦二人所帯で生活できる範囲の大きさがあれば足りることにした。
予算がない。
建築が済めば、結婚式と新婚旅行、その後の生活費が必要だ。

玄関一坪、台所一坪、廊下二坪、二階階段、押入れ二間、下部屋に畳の部屋六畳一つ、便所。
二階に畳み部屋六畳と押入れ一つ。

設計図は、こんな風に決まった。

当時は、風呂は「銭湯」が普通で外部に行く。
また、便所は「汲み取り方式」である。
下水は、外部の道路の側溝に流す方式。

ガス、水道、電気は公共なものがった。

《住宅の建築が始まる》

 3.住宅の建築が始まる。

私が親父と建物の設計をしていることを聞きつけて、下の妹が言う。
嫁ぎ先の裏が大工さんの仕立て小屋画あり。「妹がこの大工さんなら仕事も真面目でいいから、見積もりして貰えば」と言ってくる。

 4.建築予算

建築見積もりを見て、資金計画をたてる。

「レンガ職」を継いだ兄貴二人に土台回りと下水工事を頼む。
上の妹ま嫁ぎ先が「左官屋」なので外壁と内壁は頼める。
下の妹の嫁ぎ先が「経師屋」なので、障子、襖、ガラス戸は頼める。

こんなところが親父の顔がきいていて助かる。
私が職人の家庭で育った強みが生きる。
これで、私が大工にでもなったら、我が家だけで一軒の家が建てられるぞと思うが、私はサラリーマンだ。

建築予算

建築予算は、3分割して用意することにした。
 A.自己資金 1/3(三分の一)
 B.住宅金融公庫のかりいれ 1/3 15年返済
 C.会社からの借り入れ   1/3  5年返済

こんな計画で建築計画が進むことになった。

9 戦後の結婚事情・私の場合 その5

2009年01月06日 | 私が歩んできた道を振り返って
前項で、「番外・我が家の正月風景」を差込んで書きました。

本題の「戦後の結婚事情・私の場合」の話に戻したいと思います。

書いている時期は、昭和32年(1957)前後の話です。
「東京タワー」が昭和33年に完成した時代です。

美空ひばりさんの歌う「りんご追分」が流行している時でした。

「7 戦後の結婚事情・私の場合 その4」の後半《結婚資金の準備》に次のように書きました。

 1.住宅をどうするか。
 2.結婚式は。
 3.新婚旅行は。
 4.これらの資金の準備をどうするか。
 5.生活資金は成り立つか。

との項目を書き連ねていますが、一つ追加しなければならないと思います。

 6.土地の手当は。(追加)

《1.住宅をどうするか。6.土地の手当は》

此処では、項目の1.と6.を重ねて考えなければ、住宅問題が解決しません。
そこで、新婚の住宅は、
 A.アパート(現在で言えばマンション)にするか。
 B.新規に住宅を新築して結婚の準備するのか。
 C.何処に住まう場所にするか。(都内か郊外か)
 D.上記の取り組みによっての資金はどう替わるか。

新規に住宅を新築して結婚の準備をすれば最善であるのは、解っているが、この計画では、私の資金では賄いきれない。

《新婚生活の全体の資金計画が先だ。》

こんな準備の順序では、「結婚まで到達しないぞ。」と思い直して、資金計画を最初から練りなおすことにした。

一番大きく金銭が要るものの順から考え始めることにした。

 A.住宅の準備にどの程度充当できるか。
 B.結婚式に幾らかかるか。
 C.新婚旅行に幾らかかるか。
 D.新婚世帯の生活資金は、家具什器の準備に幾らかかるか。

だいぶ、ぐらぐらしているが。なにせこれ等の資金は、親・兄弟に頼れずに。全部私個人で用意しなくてはならないのが我が家の家庭事情があった。

《全体の資金計画》

私27才の時のことである。
24才で夜間大學を自力で卒業してから、蓄えた預金は多少はあるが、まだまだ足りない。
27才の現在持っている預金は幾らでもない。

《女性の親が私との交際関係を探る》

28才になり、彼女との交際も進み、「手をにぎり」「キッスもすみ」「たまに彼女の洋服の上らおっぱいを触っても怒られない」情況になっていた。

彼女の親は中小業の社長で、私達二人の勤め先の信用金庫に取引がある人である。

どうも、支店長がお歳暮に工場に伺った際に盛んに探りを入れている様子だ。
もう一つ。私の家の近くに、工場の同業者がいて、そこからも、我が家の情況と私の素行を聞きだしている様子。

我が家は、親父はレンガ職の仕事を、長兄と次兄に渡して引退しており、金も自由にならない立場。
既にお袋も亡くなっていて、結婚話の世話をしてもらえる人が我が家に誰も居ない。

私の親父も何とかしなくてはならない情況になってきていた。
親父がリュマチで痛い足を運んで、近くの甥子が町会長をしている人に頼んでくれて、甥子さんと私と、二人で交際している女性宅に伺いご挨拶に伺った。

先方の親御さんも快く承諾していただき、正式に交際できるようになった。

私は、母親も既に無く、親父の身代もせか倅の時代になっており、何やかやと新婦の親に面倒を見ていただく事が多くなった。女性のお母さんと、お父さんが言うと、私は先方の婿のような立場になった。

私もこれに甘えて、仕事帰りや、休日、正月に呼ばれて夕飯などご馳走になる。

次は、住居の建築が始まるです。