東京全土が焦土と化して、呆然としている我が家でもすこしづつ、動きが出てきた。
その一つは、三鷹の軍需工場に働きに出ていた私より5才年上の「次兄」が、早々と戻ってきたことだ。
この「次兄」は、我が家から近くの「彫金師の家庭に住み込みで働きに出ていた」が、徴兵年令の20才に満たなかったので、軍需工場の寮に住み込みで徴用されていたのだ。
次兄の住み込み先の「彫金師宅」での仕事は、「仏壇に飾る小さな仏像(大仏さま)を、アンチモニーと言う金属で鋳型で形作り、バフで磨いてつくるのだそうだ。」
これは、次兄から聞いた話だから、作り方が正確なものかどうかは定かではない。
この当時は、私も中学2年生で学業を中断して、近所の「軍需工場に学徒動員」された時代だから、男で少し働ける人は徴用されたものなのだ。
日本も終戦を迎えて、軍需工場も停止となり、家族で田舎に疎開していた人や、工場に徴用されていた人々が東京に戻りはじめた。
我が家の近所の住民も世帯ごと東京に戻りだし、人の動きが多くなった。
戻ってきた人々は、必ずと言ってよいほどに、焼け止まりに住む「我が家を訪ねてきて、東京の大空襲の話を聞きたがる」
また、住まいが焼けないで残っている家族は、戻ってきてすぐに隣近所の住人の消息をしつこく訪ねる。
どうも、東京に疎開もせずに居た、あすこの家に行けば、近所の様子が皆判ると思っているようだった。
両親が不在な時には、私にも聞いてくる。
次兄が早々帰ってきたと書いたが。
その訳は「我が家では、長兄が軍隊に採られており、中国奥地の重慶という所に現在いると言う。」まだ、日本に戻っていないのだ。
さて、「当分帰ってこられるかどうかは、定かでないという。」
「もしものこと、戦死ということもあるという。」
《食料と仕事》
そんなことより、まず「食料と仕事」が優先だ。
① 物物交換
東京の近県などの農家を尋ねて、「米か、さつま芋」と我が家にある着物類を持って行き、交換してもらうのだ。
親父の仕事着の新しい印半纏(印はんてん)を、持って行ったこともある。
この時には、親父は悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
② 食べ物探し
松戸在の江戸川縁りの伯母さんの家の近くでの「落ち穂拾い、イナゴ狩、タニシ捕り」を、母親と私で時期を選んで、一生懸命にやった。
(この辺のことは、60年前の戦争体験の17食料難・飢餓状態にすでに書いてありますのでご覧下さい。)
③ 小魚捕り(甘露煮)
埼玉・川口在の叔父さん宅に、次兄と私の二人で尋ねて行って「小魚捕りを教わる」
町屋(当時の停留場名は稲荷前と言った)から赤羽終点まで市電で行って、赤羽の停留所がら徒歩で「新荒川大橋」の荒川を渡り「元郷在」の叔父さん宅へ。役30分位歩く。
この叔父さんの拵えた、「びって」という小魚を捕る道具を二つ借りて、さらに1.5Km程先の「新芝川」方面の田圃に向かう。
当時、この辺りは一面の田圃地帯だ、
田圃脇の水路に二人とも素足で入り、「びってに小魚を追いこむ」
取れる小魚は「3センチ前後の鮒(フナ)か、くちぼそ、まれにドジョウ」も偶に入る。
やり方はこうだ。二人は「びってを持って10メートル程離れて水路に入り、水路の脇の草を片足でかき回しながら、お互いのびっての中に魚を追い込むのだ」
二人で挟み撃ちにすることが味噌で。一人でやるとのでは、戦果が10倍もちがう。
「びつて」の造り。縦60センチ、横1メートルほどの、大きなザルに網を張って、縦てて水路に入り、双方から追い込む道具だ。叔父さんの手作り。
終わると同じ路を、魚をバケツに入れて、家に持ち帰る。お袋が待っていて「小魚をさあーっと湯通しをして、ゴザに並べて天気干」にする。
翌日に、「甘露煮」にお袋が仕上げる。
これで、当分の間食べられる。
追記 「市電」昔の市電は、「王子電車」といって私鉄でした。三ノ輪駅から早稲田行きと王子で分岐して赤羽行きの二系統の電車が出ていました。
「昔の市電」現在は都電てす。
三ノ輪橋から王子で分岐し赤羽まで直通だった路線は、戦後撤去されてありません。
④ 焼け跡の畑
お袋が農家の出だったので、焼け跡を整理し耕して「ジャガイモ、サツマイモ、カボチヤ、野菜」などを作りましたが、科学肥料が何も無く、畑が焼け土なのでほとんど上手く育ちませんでした。
何とか出来たのは、「カボチャとジャガイモ」ぐらいでしょうか。
⑤ 椎のみ、とドングリ
山で採った「椎のみ」も生で食べましたが、そこそこ食べられました。
同じ山で採った「ドングリ」を生でたべたら下痢をして酷い目にあいましたよ。
⑥ エビガニと赤ガエル
エビガニも食べましたが、これは珍味。美味いです。
えびがにの捕り方は、「先ず赤ガエル」を捕まえて、カエルを逆さにして、カエルの足の指を下に強く引っ張ると、カエルの皮が頭の先までスルーと剥けます。
これを、5個ほどつくり、棒の先のタコ糸に縛りつけて「田圃の水路」に3メートル程度離して置き並べて10分程待って竿を順番に引き上げますと、エビガニが喰らい付いて離れずに揚がってきます。
現在のエサは、「するめを3センチ程に裂いて」使かいます。
エビガニの食べ方は、天麩羅などにするが、私か説明する必要はないでしょう。
赤カエルの捕り方と食べ方
捕り方は、カエルは前方へ必ず逃げますから、カエルを見つけたら「手の平を広げ」てカエルの頭を捕まえるつもりで、素手で素早く前方から捕まえます。
何度かは、逃げられますが、捕り方を数多くやっているうちに上手く取れるようになります。
このカエルを先ほどエビガニの処で説明したと同じように「皮剥き」し、さらに「腹わた」を取ってから、家に持ち帰ります。
家に帰ったら、足を縛って「軒先に吊るし」天気干しにしておきます。
なにも、食べるものが無い場合には、このカエルをカリカリに焼いて食べました。
お袋は、この乾したカエルは「寝小便に良く効く」といって食べさせられましたよ。
仕事の話も書く予定でしたが、食べる事に夢中になってしまいましたのて、仕事の話は次回にします。
その一つは、三鷹の軍需工場に働きに出ていた私より5才年上の「次兄」が、早々と戻ってきたことだ。
この「次兄」は、我が家から近くの「彫金師の家庭に住み込みで働きに出ていた」が、徴兵年令の20才に満たなかったので、軍需工場の寮に住み込みで徴用されていたのだ。
次兄の住み込み先の「彫金師宅」での仕事は、「仏壇に飾る小さな仏像(大仏さま)を、アンチモニーと言う金属で鋳型で形作り、バフで磨いてつくるのだそうだ。」
これは、次兄から聞いた話だから、作り方が正確なものかどうかは定かではない。
この当時は、私も中学2年生で学業を中断して、近所の「軍需工場に学徒動員」された時代だから、男で少し働ける人は徴用されたものなのだ。
日本も終戦を迎えて、軍需工場も停止となり、家族で田舎に疎開していた人や、工場に徴用されていた人々が東京に戻りはじめた。
我が家の近所の住民も世帯ごと東京に戻りだし、人の動きが多くなった。
戻ってきた人々は、必ずと言ってよいほどに、焼け止まりに住む「我が家を訪ねてきて、東京の大空襲の話を聞きたがる」
また、住まいが焼けないで残っている家族は、戻ってきてすぐに隣近所の住人の消息をしつこく訪ねる。
どうも、東京に疎開もせずに居た、あすこの家に行けば、近所の様子が皆判ると思っているようだった。
両親が不在な時には、私にも聞いてくる。
次兄が早々帰ってきたと書いたが。
その訳は「我が家では、長兄が軍隊に採られており、中国奥地の重慶という所に現在いると言う。」まだ、日本に戻っていないのだ。
さて、「当分帰ってこられるかどうかは、定かでないという。」
「もしものこと、戦死ということもあるという。」
《食料と仕事》
そんなことより、まず「食料と仕事」が優先だ。
① 物物交換
東京の近県などの農家を尋ねて、「米か、さつま芋」と我が家にある着物類を持って行き、交換してもらうのだ。
親父の仕事着の新しい印半纏(印はんてん)を、持って行ったこともある。
この時には、親父は悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
② 食べ物探し
松戸在の江戸川縁りの伯母さんの家の近くでの「落ち穂拾い、イナゴ狩、タニシ捕り」を、母親と私で時期を選んで、一生懸命にやった。
(この辺のことは、60年前の戦争体験の17食料難・飢餓状態にすでに書いてありますのでご覧下さい。)
③ 小魚捕り(甘露煮)
埼玉・川口在の叔父さん宅に、次兄と私の二人で尋ねて行って「小魚捕りを教わる」
町屋(当時の停留場名は稲荷前と言った)から赤羽終点まで市電で行って、赤羽の停留所がら徒歩で「新荒川大橋」の荒川を渡り「元郷在」の叔父さん宅へ。役30分位歩く。
この叔父さんの拵えた、「びって」という小魚を捕る道具を二つ借りて、さらに1.5Km程先の「新芝川」方面の田圃に向かう。
当時、この辺りは一面の田圃地帯だ、
田圃脇の水路に二人とも素足で入り、「びってに小魚を追いこむ」
取れる小魚は「3センチ前後の鮒(フナ)か、くちぼそ、まれにドジョウ」も偶に入る。
やり方はこうだ。二人は「びってを持って10メートル程離れて水路に入り、水路の脇の草を片足でかき回しながら、お互いのびっての中に魚を追い込むのだ」
二人で挟み撃ちにすることが味噌で。一人でやるとのでは、戦果が10倍もちがう。
「びつて」の造り。縦60センチ、横1メートルほどの、大きなザルに網を張って、縦てて水路に入り、双方から追い込む道具だ。叔父さんの手作り。
終わると同じ路を、魚をバケツに入れて、家に持ち帰る。お袋が待っていて「小魚をさあーっと湯通しをして、ゴザに並べて天気干」にする。
翌日に、「甘露煮」にお袋が仕上げる。
これで、当分の間食べられる。
追記 「市電」昔の市電は、「王子電車」といって私鉄でした。三ノ輪駅から早稲田行きと王子で分岐して赤羽行きの二系統の電車が出ていました。
「昔の市電」現在は都電てす。
三ノ輪橋から王子で分岐し赤羽まで直通だった路線は、戦後撤去されてありません。
④ 焼け跡の畑
お袋が農家の出だったので、焼け跡を整理し耕して「ジャガイモ、サツマイモ、カボチヤ、野菜」などを作りましたが、科学肥料が何も無く、畑が焼け土なのでほとんど上手く育ちませんでした。
何とか出来たのは、「カボチャとジャガイモ」ぐらいでしょうか。
⑤ 椎のみ、とドングリ
山で採った「椎のみ」も生で食べましたが、そこそこ食べられました。
同じ山で採った「ドングリ」を生でたべたら下痢をして酷い目にあいましたよ。
⑥ エビガニと赤ガエル
エビガニも食べましたが、これは珍味。美味いです。
えびがにの捕り方は、「先ず赤ガエル」を捕まえて、カエルを逆さにして、カエルの足の指を下に強く引っ張ると、カエルの皮が頭の先までスルーと剥けます。
これを、5個ほどつくり、棒の先のタコ糸に縛りつけて「田圃の水路」に3メートル程度離して置き並べて10分程待って竿を順番に引き上げますと、エビガニが喰らい付いて離れずに揚がってきます。
現在のエサは、「するめを3センチ程に裂いて」使かいます。
エビガニの食べ方は、天麩羅などにするが、私か説明する必要はないでしょう。
赤カエルの捕り方と食べ方
捕り方は、カエルは前方へ必ず逃げますから、カエルを見つけたら「手の平を広げ」てカエルの頭を捕まえるつもりで、素手で素早く前方から捕まえます。
何度かは、逃げられますが、捕り方を数多くやっているうちに上手く取れるようになります。
このカエルを先ほどエビガニの処で説明したと同じように「皮剥き」し、さらに「腹わた」を取ってから、家に持ち帰ります。
家に帰ったら、足を縛って「軒先に吊るし」天気干しにしておきます。
なにも、食べるものが無い場合には、このカエルをカリカリに焼いて食べました。
お袋は、この乾したカエルは「寝小便に良く効く」といって食べさせられましたよ。
仕事の話も書く予定でしたが、食べる事に夢中になってしまいましたのて、仕事の話は次回にします。