子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 6 食料と仕事

2007年04月26日 | 終戦後の生きざま・私流
東京全土が焦土と化して、呆然としている我が家でもすこしづつ、動きが出てきた。

その一つは、三鷹の軍需工場に働きに出ていた私より5才年上の「次兄」が、早々と戻ってきたことだ。

この「次兄」は、我が家から近くの「彫金師の家庭に住み込みで働きに出ていた」が、徴兵年令の20才に満たなかったので、軍需工場の寮に住み込みで徴用されていたのだ。


次兄の住み込み先の「彫金師宅」での仕事は、「仏壇に飾る小さな仏像(大仏さま)を、アンチモニーと言う金属で鋳型で形作り、バフで磨いてつくるのだそうだ。」

これは、次兄から聞いた話だから、作り方が正確なものかどうかは定かではない。


この当時は、私も中学2年生で学業を中断して、近所の「軍需工場に学徒動員」された時代だから、男で少し働ける人は徴用されたものなのだ。

日本も終戦を迎えて、軍需工場も停止となり、家族で田舎に疎開していた人や、工場に徴用されていた人々が東京に戻りはじめた。

我が家の近所の住民も世帯ごと東京に戻りだし、人の動きが多くなった。


戻ってきた人々は、必ずと言ってよいほどに、焼け止まりに住む「我が家を訪ねてきて、東京の大空襲の話を聞きたがる」

また、住まいが焼けないで残っている家族は、戻ってきてすぐに隣近所の住人の消息をしつこく訪ねる。

どうも、東京に疎開もせずに居た、あすこの家に行けば、近所の様子が皆判ると思っているようだった。
両親が不在な時には、私にも聞いてくる。


次兄が早々帰ってきたと書いたが。
 その訳は「我が家では、長兄が軍隊に採られており、中国奥地の重慶という所に現在いると言う。」まだ、日本に戻っていないのだ。

さて、「当分帰ってこられるかどうかは、定かでないという。」
   「もしものこと、戦死ということもあるという。」

《食料と仕事》

そんなことより、まず「食料と仕事」が優先だ。

① 物物交換
  東京の近県などの農家を尋ねて、「米か、さつま芋」と我が家にある着物類を持って行き、交換してもらうのだ。
  親父の仕事着の新しい印半纏(印はんてん)を、持って行ったこともある。
  この時には、親父は悲しそうな顔をしていたのを覚えている。
② 食べ物探し
  松戸在の江戸川縁りの伯母さんの家の近くでの「落ち穂拾い、イナゴ狩、タニシ捕り」を、母親と私で時期を選んで、一生懸命にやった。
  (この辺のことは、60年前の戦争体験の17食料難・飢餓状態にすでに書いてありますのでご覧下さい。)
③ 小魚捕り(甘露煮)
  埼玉・川口在の叔父さん宅に、次兄と私の二人で尋ねて行って「小魚捕りを教わる」
  町屋(当時の停留場名は稲荷前と言った)から赤羽終点まで市電で行って、赤羽の停留所がら徒歩で「新荒川大橋」の荒川を渡り「元郷在」の叔父さん宅へ。役30分位歩く。
  この叔父さんの拵えた、「びって」という小魚を捕る道具を二つ借りて、さらに1.5Km程先の「新芝川」方面の田圃に向かう。
  当時、この辺りは一面の田圃地帯だ、
  田圃脇の水路に二人とも素足で入り、「びってに小魚を追いこむ」
  取れる小魚は「3センチ前後の鮒(フナ)か、くちぼそ、まれにドジョウ」も偶に入る。

  やり方はこうだ。二人は「びってを持って10メートル程離れて水路に入り、水路の脇の草を片足でかき回しながら、お互いのびっての中に魚を追い込むのだ」
  二人で挟み撃ちにすることが味噌で。一人でやるとのでは、戦果が10倍もちがう。
  「びつて」の造り。縦60センチ、横1メートルほどの、大きなザルに網を張って、縦てて水路に入り、双方から追い込む道具だ。叔父さんの手作り。


  終わると同じ路を、魚をバケツに入れて、家に持ち帰る。お袋が待っていて「小魚をさあーっと湯通しをして、ゴザに並べて天気干」にする。
  翌日に、「甘露煮」にお袋が仕上げる。
  これで、当分の間食べられる。

  追記 「市電」昔の市電は、「王子電車」といって私鉄でした。三ノ輪駅から早稲田行きと王子で分岐して赤羽行きの二系統の電車が出ていました。
     「昔の市電」現在は都電てす。
  三ノ輪橋から王子で分岐し赤羽まで直通だった路線は、戦後撤去されてありません。

④ 焼け跡の畑
  お袋が農家の出だったので、焼け跡を整理し耕して「ジャガイモ、サツマイモ、カボチヤ、野菜」などを作りましたが、科学肥料が何も無く、畑が焼け土なのでほとんど上手く育ちませんでした。
  何とか出来たのは、「カボチャとジャガイモ」ぐらいでしょうか。

⑤ 椎のみ、とドングリ
  山で採った「椎のみ」も生で食べましたが、そこそこ食べられました。
  同じ山で採った「ドングリ」を生でたべたら下痢をして酷い目にあいましたよ。

⑥ エビガニと赤ガエル
  エビガニも食べましたが、これは珍味。美味いです。
  えびがにの捕り方は、「先ず赤ガエル」を捕まえて、カエルを逆さにして、カエルの足の指を下に強く引っ張ると、カエルの皮が頭の先までスルーと剥けます。
  これを、5個ほどつくり、棒の先のタコ糸に縛りつけて「田圃の水路」に3メートル程度離して置き並べて10分程待って竿を順番に引き上げますと、エビガニが喰らい付いて離れずに揚がってきます。
  現在のエサは、「するめを3センチ程に裂いて」使かいます。
  エビガニの食べ方は、天麩羅などにするが、私か説明する必要はないでしょう。
  

  赤カエルの捕り方と食べ方
  捕り方は、カエルは前方へ必ず逃げますから、カエルを見つけたら「手の平を広げ」てカエルの頭を捕まえるつもりで、素手で素早く前方から捕まえます。
  何度かは、逃げられますが、捕り方を数多くやっているうちに上手く取れるようになります。
  このカエルを先ほどエビガニの処で説明したと同じように「皮剥き」し、さらに「腹わた」を取ってから、家に持ち帰ります。
  家に帰ったら、足を縛って「軒先に吊るし」天気干しにしておきます。
  
  なにも、食べるものが無い場合には、このカエルをカリカリに焼いて食べました。
  お袋は、この乾したカエルは「寝小便に良く効く」といって食べさせられましたよ。 
  
 仕事の話も書く予定でしたが、食べる事に夢中になってしまいましたのて、仕事の話は次回にします。 
  

終戦後のデマ話 5 婦人・子供 進駐軍

2007年04月25日 | 終戦後の生きざま・私流
戦争が終わった。

それで、どうなるのだろう。

噂の① 進駐軍は黒人ばかりで獰猛だぞ。そして野蛮人だぞ。

    婦人と子供は、「男の姿に変相して、顔に泥を塗れ」でないと、進駐軍に攫われてしまうぞ。早く山に逃げて隠れろ。
    
噂の② 残っている日本人男子は、「竹やりを準備して置き」進駐軍が東京に上陸して来たら、一対一で対決して戦いを挑め。

噂の③ 進駐軍が、食料をくれたら食べるな。「毒が入っているぞ」

《噂の嘘》

東京に残存していて、我が家の五人(両親と私と二人の妹)は、田舎がなく逃げ場が無い。
東京では、上記のような「噂が噂を呼ぶ」有様で、不安がまた不安を呼ぶ。

でも、近所の家庭では「改めて、山に家族一同で逃げる」と言う。

お父さん「我が家は、どうするのよ」と聞くが「馬鹿、そんなことをいうな。仮に山に逃げても、追いかけられて、すぐに掴まってしまうぞ」

親父  「それに、我が家は山に逃げたくても逃げる場所(田舎)がないのだ」
    「進駐軍がそんなに悪者だけと言うものでもなかろう」
    「我が家は、東京で頑張るしかないんだ」

当時14才の私には、それ以上言うべき、返す言葉も持っていない。隣近所で言われている「噂話し」は本当な話なのか。確かめようも無い話なのだから。

《人の口に戸は立てられぬ》
   「人の噂話(ことわざ)や陰口には、戸を立ててやめさせることはできず、防ぎようも無いというたとえ」

《白い粉と食料を持って車で進駐軍がやって来た》

何日経っただろうか。三人ほどの軍人さんが家庭を廻り始めた。一人は白人で後の二人は黒人だ。もう一人日本人の通役がついている。

親父「女と子供は、早く押入れに隠れろ」

  「親父が一人で玄関先で説明を聞いている」
親父「おい、全員押入れから出て来い」

  「押入れから、恐るおそるでてみると」
通訳「一人づつ、やりますからね」と言う。
黒人「軍人さんが、今でいう掃除機みたいな機械から、白い粉を吹き出して、一人ひとりに頭の毛を書き分けて、さらに身体全体に吹きかける。」  

  「親父が、これは(蚤や虱)を身体から追い出す薬で、DDTと言うものだ」と言う。
  「今まで、散々身体を食われて困っていたから、これで助かる」


《数日後、今度は進駐軍が食料を持ってきた》

   DDTの薬を撒いてから、数日後にまた進駐軍が車でやって来た。

  「直径15センチ・高さ20センチ位の缶詰を、一軒に一つづつ置いていった。」
  「缶詰の表に、グリンピースの画が書かれているので、豆の食料を配ったということがおおよそ判った」
 
  「前回のDDTの薬撒きのときの軍人さんが大人しく、優しかったので、今度の軍人さんの訪問には、警戒感がかなり薄れていた」
  「それより、この缶はどうしたら開けられるのかにムチゥになる」

  「缶の空け方の説明が缶に書いてあると言うが、英語が読めない」
  「やっと、缶の蓋のところに、ネジ取りみたいなものがついていて、それで缶の周りをぐるぐると廻すと缶の蓋が開くと言う事が判った」

  


  

焦土の東京で 焼け跡 4  焼け跡整理

2007年04月17日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和20年3月10日 東京の大部分の町が焦土となり、一面の焼け野原になりまってしまった。

この時の私は、中学2年生で14才でした。

当時は、「ほしがりません、勝つまては。」のアッピールの元に、中学生である我々学生も、学校から割り当てられて、2年生の途中に勉強を中断し「軍需工場」に無給で働きにかりだされていました。

今度は、3年生に進学という、3月10日の大空襲のために、学校も派遣先の軍需工場も丸焼けです。

我が家も焼けてしまい、焼けどまりの民家を借りて住まいを、両親と共に子供を入れて五人で生活の準備に数日を過ごし、やっと何とかこれで生活になるかなと言うようになりました。

一週間ほどあとに、気になっていた「学校と軍需工場」を見て回りましたが、上記の通りで丸焼け。

学校は、コンクリートの校門と小さな倉庫の建物が一つ残っているのみ。
暫らく校門のところにたたずみ、何方たかの先生が顔を見せないかと、時間を過ごしましたが、誰も姿を見せずじまいでした。

仕方なく、派遣先の「軍需工場」の場所に廻りこみましたが、こちらも学校と同じで焼け野原です。
鉄骨作りの建物が焼けてぺちゃんこになっていて、無残な姿をさらしています。
大きな機械が残っていますが、それが無様な人間の様に見えて怖い。

とぼとぼと、我が家に帰ることにしました。

さて、次の日からどうしていいのか、14才の私の頭では判断できません。

両親に言わしますと、まず「食べ物」を確保することが大優先と言う。

それと、仕事の確保だが。焼け野原では親父の仕事があるわけが無い。


先ずは、先に書いたとおりの、焼け跡整理をする。


ここで、我が家が有利なのは、親父の仕事道具の大部分が無事に確保されていることだろう。

その証拠に、半焼けの建物の解体の以来が早々舞い込み、その仕事に親父と私が数日係りで取り組んだ。

14才の私には、この仕事が稼ぎ(お金)になったかどうかは判りません。
しかし、お袋の嘆きを聞いていると、どうも親父は「火事場泥棒」
(金は片行き。と言う、その心は、①義理を欠き ②人情を欠き ③交際を欠く)の心境になれないということらしい。

親父と私の働きは 結局は只働きらしい。


こんな生活をしているなか、「荒川の土手の向かい側の足立区」の焼けなかった工場から仕事が舞い込みます。

しかし、足立地区で一番賑やかな「足立区の北千住地区」も4月13日から14日にかけて「大規模な空襲」を受けて、焼け野原となります。

さらに、5月に入って「横浜方面」も空襲になり、南風に乗って燃えカスが東京にも飛んできたことを覚えています。

6月に入ると、今度は大阪のさらに先の都市で「今度はたまげるほどデカイ爆弾が落ちたぞ」と言う噂話が聞こえてきました。
後日になって解った事は「広島に投下された原子爆弾」と言うことのようでした。

《終戦》

日本全国が次々と焦土と化して、我が家では食べるものもなくさまよう生活が暫らく続きましたが、そのうち「もう一つ、大きな爆弾が九州に落ちたぞ」という話が聞こえてきた。「長崎に落ちた原子爆弾」のことのようです。

8月15日 終戦です。

私は、軍需工場の本社に集まれの「焼け跡の立て看板」を見て1.5キロメートルほど先きにある本社に我が家から出向きました。

20~30人ほどの工員さん達が集まっており、午前12時丁度に「ラジオから玉音放送」が流れました。

14才の私には、正直いって「このラジオ放送」がなにを意味しているのか、直ちには解りませんでした。

大人の工員さんの何人かが集まって「泣いています」

この「放送」を聞いてから、暫らくして「工場を閉鎖する」と言うお話が幹部の人からの話があり。

とぼとぼと、全員帰路につきました。

これから、後の生活がさらに悲惨になります。

この辺のことは、またの機会に。

中断していまして、ごめんなさい。「実は、マウスが不調になり入力できませんでした」新しいのを買いましたので、そろそろと続けますのでよろしく。



焦土の東京で 焼け跡整理 3 雨と釘

2007年04月13日 | 60年前の戦争体験
3月10日 東京大空襲に我が家の家族五人が遭遇し、我が家も喪失してしまいました。

近所の人々は、ほとんどは親戚などに疎開していて、ほとんど居ません。
我が家は、焼け跡の端の空家に荷物を入れて仮住まいにしています。

前回にこんな書き出しで記事が始まり、最後のほうの記事では焼け跡整理で半焼した家屋の取り壊しを頼まれ。
壊した材木やトタン類を我が家の近くに運んで整理し、材木から抜いた釘類をバケツにまとめておきました。
 
或る日、雨がふりました。

私が「今日はゆっくり休めるなと思っていたら、親父から声がかかりました。」

親父「おい、釘などの小物を入れたバケツを、玄関の土間に持って来い。」と言う。

前回は、ここで終わっていますが、今回はこの話の続きです。

私 「このバケツでしよ。」と親父に見せますと。
親父「このバケツの中の釘を再生するのだ。」と言う。
  「今日は、これがお前の仕事だぞ。」「一生懸命やれよ。」

私 「どんな風に、やればいいのかよ。」半分不貞腐れて親父に突っかかる。
親父「見本を見せるから、よく見ていろ。」と言うと。

   土間に、15センチほどのレールの切れ端を土間に置いて、その上にバケツから数本の曲がった釘を取り出して、くの字に曲がった釘をレールの上に乗せてカナヅチで叩いて、直線になるように数回叩きます。

   なるほど見事に、これなら使えるなと思われる「釘」に再生されています。

親父「今日のお前の仕事だ。」「バケツの中の釘を全部再生し、始末しておけ。」
私 「今日全部やるの。」

  2時間ほどして、親父が進み具合を見に来た。

親父「どうした。どの位始末できたか見せろ。」
私 「バケツの1/3程度かな。」

親父「どれどれ、残っている釘のバケツと、整理始末したものを見せろ。」
  「まあまあか。もう少し急いでやれよ。」「まだ、これからも壊す家があるので、早く始末しないと間に合わなくなるぞ。」
  「では、出来たのをみせろ。」
  「おい、始末した釘はな。」「大・中・小に入れ物を用意して置いて、振り分けて置かなければ。いざ、使う段になった時に困るだろ。」
  「仕事というのは、その先々を考えながらやるものなのだぞ。」

  「もう一つ、釘を再生するときにはな。」「大きい釘と、小さい釘の時では、叩くカナヅチを変えろ。」
  「小さい釘には、カナヅチも小さいものを使い。大きい釘の時には大きめのカナヅチにする。」
  「こう使い分けすることで、仕事も速くなるし、出来上がりも綺麗に出来るのだ。」
  「よく考えながら何事もやること。」「いいな。」

私 「親父に威張られても仕方ないか。」なるほどと思い、感心する。

このような、家屋の取り壊しと、その整理作業が数日続きます。

親父「今日は、水道の水が吹き出しているところで、水止めをするからな。」
  「ツルハシとゲンノウ(かなづち)とスコップを持って、付いて来い。」
   と私に声を掛けて、親父は焼け跡の中に踏み込みました。

親父「これは酷いな。道一杯に焼け後の残骸が散らばっていて、素直に歩けないぞ」
  「先ず、大きな焼け跡の、ものを道の上から、脇に寄せて歩けるところを作れ。」
  「先に、水を止めてから、多少通れるように道路整理をしなければ仕方が無いな。」

  やっと、水道が壊れて吹き出している場所に辿り着きます。

親父「ツルハシを貸せ。」と言って、水が吹き出している水道管の周りを少し深く掘り進み、水道管をツルハシとスコップで露わにしました。

  「このようにやるのだぞ。といいながら水道管の下側にツルハシの元側の太い所を入れて、水道管をゲンノウ(かなづち)で叩き潰します。」
  「やがて、水がふきだしていたものが、静かになりとまりました。」

私 「なるほどな。」
  「なぜ、水道管を叩いて潰すと水がとまるの??。と」親父に聞く。
親父「この時期の家庭に引き込まれている、水道管はな。」
  「鉛管(えんかん)と言って、鉛の管で出来ているからな。」
  「鉛の管を叩いて潰すことで、とりあえずの水は止まるのだ。」
  「完全にとめるには、バーナーの火を使う必要がある。しかし、私はその技術と、道具を持っていないのでな。」
  「ここまでだ。」

さあ、帰るか。

親父「しかし、此処に来る途中で、まだ壊れた家屋が燃え燻ぶっているところが、数箇所あったな。」
  「あれが火元になってまた大火事になると困るので、火元を掘り起こして火を消してしまわなければ仕方ないぞ。」とぶつぶつ行っている。

親父「誰に頼まれなくとも、整理する。こんなところが、日本人の真面目さと勤勉なところだな。」
  
   次回は、「仕事が増える。」です。
  

焦土の東京で 焼け跡整理 2 スコップ

2007年04月12日 | 終戦後の生きざま・私流
昭和20年3月10日 東京大空襲で東京全土が焦土と化しました。

我が家も例外にもれず、焼けてしまいます。

この時の東京荒川区の我が家には、疎開先もなく両親と私・二人の妹の5人が住んでいて、この火災に遭遇してしいます。

この大火災のときに、我が家に火事の炎が迫ってきたので、親父の命令で私は二人の妹を連れて3人で。
両親を家にのこしたまま、親父の指示した隅田川の川岸に、真夜中にとぼとぼと歩いて避難しました。

当時のこと、食べるものも、飲み物も何も持っていません。
14才 私
11才 次女
8才 三女 この三人だけでで10日の朝を、隅田川の岸で迎えます。

まだ、まだ熱風が空を覆っていて、時々三人の頭の上を吹き渡ります。
また、空から新聞紙や布の燃えカスが飛んできます。

どういう訳か、私たちが避難した場所には、他の人たちは誰も避難してきません。

後で判ったことですが、私たちの避難場所の300メートル上流の橋の上に避難した人が数人この火災で亡くなっています。

また、隅田川には沢山の人々が、火災の熱風に耐えかね、隅田川に飛び込んで亡くなっています。

勿論、道路の上にも焼け焦げた大人の死体を、何人も見ています。

親父の言う。避難場所の指示が正しかったことがわかります。

《この辺のことは、「60年前の戦争体験 14 空襲の焼け跡に戻る。」に書いてありますのでご覧下さい。》


家に戻ると、東京が一面の焼け跡になって、どこまでも見通せるようになってました。

辛いが、我が家は焼けてしまって跡形も残っていません。
しかし、焼けた我が家の10メートル程先から奥のほうの家が焼け残っています。

両親に聞くと、「10日の夜明けとともに、北の強風が嘘のように収まり、静かな南風に変わって、我が家は焼けてしまったが、火事は収まった。」と言うことでした。

両親は、火事がだんだん近くに迫ってくる中、家財や仕事の道具類を二人で一生懸命にリヤカーに積んで運びだし、燃え残った近所の家の近くに出したといいます。


後で、「焼け跡整理」に親父の仕事道具が大変役にたちます。

どんな道具があったのか並べて見ましょう。

 ① スコップ 大小五本
   説明しますと「先の尖がっていて土を掘るもの二本。」
         「先が四角になっていて、砂などを掬うもの。大と小二本」
 ② ツルハシ
 ③ ゲンノウ 
 ④ かなづち
 ⑤ ノコギリ
 ⑥ スパナ
 ⑦ 釘抜き
 ⑧ 釘
 ⑨ ハリガネ 太いもの と 細いもの
 ⑩ リヤカー
 ⑪ 自転車 2台
 その他 ロープ数本 仕事用バケツ二個 など

まだ、まだ有ったと思いますが、60年以上昔のこと、今この場ではこれ以上は思い出しません。

しかし、焦土と化した東京の焼け跡整理には、この道具類が大きな戦力になります。

近所の人が、我が家に見えて「実は家が半分焼けてしまったのですが、崩れ落ちそうで、危ないので壊して貰えませんか。」「材木類は処分して頂いて結構です。」

また、ある家庭では、「焼け跡の水道が吹き出していて止まりません。何とかならないでしょうか。」

とか、我が家に助けを求めて来ます。

《人のいい親父は、金銭の話なしで引き受けてしまいます。》

さあ、忙しいぞ。親父は私に向かって「リヤカーに道具の○と△を積んで付いて来い。」と頼まれた家にむかいます。

焼けた家で壊したものは、柱や板、トタン類に仕分けして、リヤカーに積んで、まずは我が家の近くの広場に運びます。

これが、私の仕事です。

親父の命令は、広場で柱や板・トタンなどから、釘を抜いてから、丁寧に並べること。

雨が降ってもいいように、材木類は下にして、上にトタンを被せるておくみと。

釘やネジなど小さいものは、バケツなどの入れ物を探して入れ一箇所にまとめておくこと。

或る日雨がふりました。

私が「今日はゆっくり休めるなと思っていたら、親父から声が掛かりました。」

親父「おい、釘などの小物を入れたバケツを、玄関の土間に持って来い。」と言う。

なにをしようとしているのか。次回に。


14才での終戦・その後 1 戦災後 肉のてんぷら

2007年04月09日 | 終戦後の生きざま・私流
《60年前の戦争体験》のブログに、私の10才から15才までの生活を書いています。

十四才、中学2年生の半ばから、自宅の近くの「軍需工場」に学徒動因され、学校にも行かずに家から直接軍需工場に働きに行っていました。

3月10日。東京大空襲に遇い自宅が焼失してしいました。

この時に、子供で東京に残って戦火に遭ったのは、私と二人の妹だけで、我が家の近くでは子供の姿は誰も見掛けませんでした。

この後、八月には「終戦」を向かえて廃土と化した東京の中で、両親と私共三人の子供・五人が生き抜くことになります。

この辺のことは、下記のブログ「60年前の戦争体験」に書いてありますのでご覧下さい。

URL http;//blog.goo.ne.jp/ にその模様を始めてのブログとして記載しました。

今回は先のブログの続き。14才から20才までのことを書いてみます。

実は、現在の私の年令は、76才で今は年金生活者です。
昔の幼かった私・60年前の子供の生活を思い出しながら、原稿の下書きなしで書いています。

私の生まれは昭和5年、東京都荒川区でした。30才まで此処で過ごします。

私が生まれたときの住所を戸籍謄本で読むと次の通りです。
「東京府北豊島群三河島町大字三河島○○番地。」生まれと言うことになっています。

親父に聞くと、私が生まれた当時の村では、「三河島菜」と言う野菜の栽培が盛んで、近所には「蓮田の沼」などが点在していたといいます。

我が家の親父は、レンガ職人です。日雇いの貧しい生活と覚えています。

家族は、父  没 職人 
    母  没 専業主婦
    
    姉    十才で近所の家庭の住み込み子守にだされる。
    長兄 没 十才で寿司屋に住み込み生活。
    次兄   十才で近所の彫金職人の家庭に住み込み。
    三兄 没 九才で親戚の自動車修理工場に住み込み。
  私 四男   当時の私は七才で小学生。     私は現在七十六才。
    次女   次女はまだ五才。
    三女   三女は  三才。
       以上の兄姉妹で七人の子供がいました。

こんな家庭の姿が当時の底辺の家族構成であって、ここに育った私としては、特別に一般家庭というものは、これが普通なのだと思って成長しました。

生活の根拠となっている、家屋(四軒長屋)は、六畳の奥の畳み部屋に一間の押入れ、手前に二畳の畳み部屋、その脇に一坪の土間玄関。

部屋の奥に、一坪の台所、それに半坪の汲み取り便所。水道は、長屋のはずれに一か所あり、毎日バケツに汲んで台所に運んで使用する生活。

風呂は、一週間に一回程度の風呂屋(銭湯と言う)で身体をあらう。普段は、タライで行水で済ます。

こんな、小さな家ではとても両親を入れて九人が住んで生活はとても無理。

これも、生活の知恵なのか、子供は十才になると必ずと言っていいほど、住み込みで家を出て行きます。(喰い扶ち減らしと言う)

一つは、家屋(長屋)の問題。九人も住めません。
二つは、親父一人の稼ぎでは、全員の食事も賄えずままなりません。
    (里腹三日・実家に帰ると、気兼ねなく腹一杯に食べられるので、三日も腹が空かないと
    いうこと。)
三つめは、現在なら最初から家族計画をすれば良いではないかと思うでしょうが、
    当時は、生めよ増やせよの時代。授かった子供は大切な国家からの預かりものという
    意識が普及してた。
四つめは、避妊と言う知識と用具が普及していませんでした。

《というわけで、私より上の子供は、小学校もろくろくに卒業せずに、住み込みに出されました。》
    
上記のブログ 「60年前の戦争体験」の続きとして書きますので一度、前のブログをお読み頂けると解りやすいかと思います。

14才で終戦を体験しました。

いま少し、家庭での生活振りを思い出しましたので追記してみます。
追記 ① 部屋の電気  60ワットの裸電球が一つあるだけ。
   ② 台所のガス  ありませんでした。煮炊きは薪か炭・たまに練炭。
   ③ 部屋のラジオ 壊れかけた小さなラジオが一つ、ガアガア言いながら鳴っていました。
   ④ 食卓     折りたたみ式の小さな・チヤブ台一つ。食事や勉強もここでする。
   ⑤ コタツ    ありません。数年後に炭を入れたコタツがありました。
   ⑥ 部屋の暖房  火鉢が一つ。炭か練炭が入っている。
   ⑦ 電話     我が家にはありませんでした。近所の良家にはありました。
   ⑧ 食事のルール ご飯のオカズは大きな皿に一つ盛りになっていて、家族一同一緒に
     食べます。
            しかし、親父が「頂きます」の合図の前に箸を付けると。
            親父の箸で手の甲をビシット叩かれ、他の家族が全員箸を出した一番
            後にされてしまいます。
   ⑨ 新聞     家には新聞がありませんでした。 
   ⑩ 写真機    カメラがありませんでした。従って、私や妹の小さい時の記録写真が
            ありません。
   ⑪ 外食     外で何か食べたという記憶がありません。正月に浅草の蕎麦屋で何か
            家族で食事したかな。という、遠い記憶のみです。
   
   その他 戦後になって二年後ぐらいに親父「レンガ職人」の手伝いをしていた時に、工事の完成祝いの場所で施工主の配慮で酒と、ご馳走が出されました。
     その際、肉のフライ「俗に言うとんかつ」が並びました。
    
     一口食べてあまりの美味しさに、この「肉のてんぷら」はおいしいね。
     と大きい声で叫びました。
     
     その場に居た、十数人の人々が大笑い。
     私が、キョトンとしていると。
     「職人のチーフ」が「これは、とんかつし言うんだよ。」と教えてくれました。
     油で揚げた物は「てんぷら」と言う知識しかない私の失態です。
     
いかに、戦後で当時の生活が貧しかつたと言うことがお分かりいただけましたでしょうか。
     
「ほしがりません、勝つまては。」のスローガが身体の芯まで染み込んでいました。

  話が長くなりましたので、また次回にします。