子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

私の娯楽 ”春と夏” の遊び

2007年10月30日 | 職場に於ける私の工夫 1
私が20才から、29才までの娯楽(遊び事)です。
 年代は、昭和25年(1950)から--昭和34年(1960)までの事で、
 戦後の復興期の頃、東京も賑わいを増してきました。

 A.”我が家の状況”(前文に書きましたので、今回は簡略に)
  ア・家庭は貧しいが、子沢山でした。
  イ・親父の時代の世間の家庭では、「子供は宝」「生めよ、増やせよ。」と言う時代で。
  エ・明治26年生まれの職人の親父で、子供が7人。
               「女・男・男・男・男・女・女」です。
   ・長女は、大正6年生まれ、最後の女子は昭和10年生まれです。
  オ・私は、男の四番目(四男)で昭和5年生まれです。

 
 B.《諺・ことわざを2つ3つ》
  a{貧乏人の子沢山」
    (子供を養育する余裕のない貧乏人に、とかく子供が多いということ。)
  b「千の倉より子は宝」
    (多くの財よりも子供は大切であるということで、子供は何事にもかえ難い最高の宝だということ。)
  c「三人子持ちは笑うて暮らす」
      (子供の数は、三人が多からず少なからずちようどよいいうことのたとえ)


 C。私の娯楽 遊び事 ”春”の遊び

  ア・早春の4月は、「桜の花見」に始まる。
  イ・我が家から近い花見場所は、「上野のお山」だろう。

  ウ・高校時代の友人に声をかけて、4^5人で花見によく行った。
  エ・お互いの無事を確認し合い、20才過ぎてからの経緯を話しながら、
    桜の花の下で酒を酌み交わしながらの話は尽きない。

  オ・偶に勤務先の女子職員を数人誘い同行すると、さらに話が盛りあがる。
  カ・私などは、毎日女子職員を職場でみていて、人柄など多少知っているが
           以前の夜間高校の学友は女性職員に興味深深である。
  キ・学友達も女子職員が来ると言うと喜ぶ。
  ク・今の時代でいう、合コンかな。

  ケ・女子職員を誘い出すのにも、普段の勤務状況と品格が良くなければ付いてこないぞ。
  コ・私事だが、職場での遊びごとをやる時には、若手の男女職員に何時も声をかけていることが肝要だ。
  サ・それも、常に色気なしでやることを要するぞ。  
  シ・男女平等で、会費も割り勘でやる、と事前に女子にも言って置く。
  ソ・最初の支店長が職場で言われた「男女関係はご法度だぞ。」の言葉が私の耳の底に常に残っている。

  ナ・男女関係に「硬派と軟派」という分け方があるというが、私はどちらかと言えば、硬派だ。
    職場では、女子職員に用事以外はたやすく声を掛けられない性分だ。

 D.5月 ハイキング

  ア。5月に入ると「山歩き・ハイキング」が主流になる。

  イ・勤めの関係から、「アルプスなど高山」は日程に余裕が無いので行きたくても行けない。
  ウ・必然的に、行けるのは「関東周辺地区の低山」が目標だ。
  エ・手始めに「高尾山」から始めて、「陣場山」「丹沢山塊」「八ヶ岳」「箱根山塊」「秩父山塊」「奥多摩」と、
    朝の一番電車を使って日曜日によく日帰りで出かけた。

  オ・山で出会う「小さな花」がこの時期には可憐で美しい。
  カ・でも、その場で「花」の名前を覚えても、一日経つと忘れてしまう。
       「小さい花」が可愛そうだよと言われるが、どうしても覚えられない私がいる。

 
 E. ”尾瀬”

  キ・5月末から、6月に入る頃”「尾瀬」”が私の心を揺さぶり誘惑し、むずむずして来る。

  ク・尾瀬は、高校の時から学友と毎年登山しているので、まず声を掛けて一緒に出かけるのは、学友だ。
  ケ・学友が都合がつかない時には、職場で2才年下の男子職員が登山が好きと言うので、彼を誘う。
  コ・尾瀬から帰って来て、職場の彼と尾瀬の反省と楽しみを昼休みに食堂でしていると、
    女子職員が今度は私達も誘ってと言う。

  サ・しかし、「尾瀬登山」は夜行列車で出かけて、山小屋に一泊でないと無理なので、迂闊には誘えない。
  シ・それに、登山靴や服装などの装備が要る。カッパも水筒もだ。
  ス・山頂は、2000メートル級だぞ。
 
  セ・まず、ハイキングで、女子職員の実力を試してからでないと、誘わないと私は心に決めた。
  ソ・尾瀬は、8月末まで登山できる。その時期によって咲く花もいろいろで美しく見事だからな。
     早春の「水芭蕉」も清楚な白で見事だ。

    尾瀬ヶ原一面に見渡す限り、黄色い花が咲く「日光きすげ」もまた見事だ。
    女子職員を誘うのは、急ぐ必要は無い。
  ナ・尾瀬には、毎年3回は行った。日程に都合がつけばさらに行きたいと思う。

  
 F.”海水浴”

 ア・既に「夏の遊び」にずるずると入っている。
  ウ・なんと言っても、夏の遊び事は「海水浴」と「キャンプ」だ。

  エ・まず海水浴。私の海水浴は、高校時代の学友と行くことが多かった。
  オ・女子職員も行きたがったが、何か女子と一緒だと「海の家」を選択するにも気を使うので、
    男同士のほうが何をするにも楽で楽しい。
  カ・海水浴に良く行く先は、湘南海岸だ。
    「鎌倉」「葉山」「江ノ島」「大磯・茅ヶ崎」方面が毎年殆どだ。
  キ・特に良く行ったのは、「葉山海岸」だった。
    ここは、海岸の砂浜は小さいが、近くに岩礁があり、少し泳いで渡れるので、仲間との水遊びに適していたから。

  ク・私の、泳ぎは自己流で、平泳ぎしか出来なかった。
    私が水泳を覚えた年代には、学校にプールが何処にも無いので、自己流で練習したものだ。
  ケ・クロールも盛んに練習したが、呼吸が上手くいかずに、どうしても水を飲んでしまう。

  コ・職人上がりの私ですから、体力には自信があり、平泳ぎなら相当の距離も泳げるようになっていた。
  サ・ある年、学友と「茅ヶ崎海岸」に行った、海岸から3Km位か?沖に「兜岩」があり、
    私は近くまで行って様子を見たいと思い、一人泳いで行った。

  シ・かなり泳いだが、私の目測より「兜岩」がかなり遠いということがわかり、
    途中で引き返すことにして、海岸に向かった。
  ス・海岸に向かって平泳ぎで泳いでいるのだが、一向に海岸が近くならない。

  セ・逆に海岸がやや遠くなる気がする。
  ソ・大分泳いだが、疲れてきて海水も大分飲んでしまう。
  ナ・これでは、溺れて遭難してしまう。どうも、流されているようだった。

  ニ・助かった後の話。茅ヶ崎海岸の砂浜は、打ち寄せた波が逆流となって、沖に向かって流れだしているのだそうだ。
  ヌ・このため、この海岸は遊泳禁止の海岸なのだということが後で解った。
  ネ・若気の至りと気ついたが。多少泳げるようになった罰が。

  ノ・これですっかり懲りた、これからは、砂浜で遊ぶ程度にすることにした。

    次回は「キャンプ」の話

  
  
  

私の娯楽 支店勤務中の9年間

2007年10月22日 | 職場に於ける私の工夫 1
私の20才から、29才まで20才台の娯楽(遊び事)です。
   年代で言えば、昭和25年(1950)から--昭和34年(1960)のことです。
   戦後の復興期で、東京の町並みも一面の焼け野原から、家並みが増えてきた時期です。


 A.まず、私の生活の前提条件を書いておきます。

  ア・家庭は貧しく、私が昭和5年に東京の下町で生まれての生活が30才まで続きます。
    
  イ・親父は、職人(レンガ職)で、子供が7人(女・男・男・男・男・女・女)でした。

  ウ・長屋住いで、7人は育て切れませんし。食べさせられても、
          寝る場所も無い、たたみが六畳と二畳しかない長屋なのです。
   ・私と二人の妹は、寝るときは押入れから布団を出した跡の押入れの中でした。
   (上の棚には私、したの床には布団一つに妹二人が寝たものです。)

  エ・このために子供は、小学校卒業と同時に「住み込みの見習い」と言う名で、外部に出されます。
    ・女子は住み込みの子守に、
    ・男は職業見習いを兼ねて、外部の家に住み込みで出されます。
    ・世間では、「丁稚小僧で食い扶ち減らし」と言っていました。
    ・丁稚小僧は、住み込み先で、仕事を見習い、食べさせて貰うことで給料はありません。
    ・小遣い程度を貰うだけです。
    ・休みは、一ヶ月に2回、一日と十五日のみ。
    ・自分の家に帰れるのは、年末・年始と夏の盆の時だけです。

  オ・幸い私(四男14才)と、下の娘二人が戦時中でもあり、まだ幼かったために家庭にのこっていました。 
  カ・私が14才の時に終戦になりました。中学生2年の時です。
    昭和20年3月の東京大空襲で、東京は全部焼け野原、我が家も学校も焼失し、
    ただ呆然とするのみで、何もなすすべがありませんでした。

  キ・この後、私は昼間は親父の仕事(レンガ職人)の手伝いをしながら、
    中学から高校と夜間に学校に、5年間通い新制商業高校を卒業します。
  ク・20才で夜間高校卒業した後、地元の信用金庫に勤務しながら、夜間大学にさらに4年通います。
    数えて9年間、働きながら夜間に学校に通ったのでした。
    学業が終わった時の、私は25才でした。
    勤務先に甘えて、他の人より仕事を自分だけ早く午後5時には終わらせてもらい大学に通ってていましたので。
    卒業したからは、勤務先にお礼返しの意味もあり、その後は支店の全員が終わるまで居残りをしました。

  ケ・本来遊び心が一杯でしたが、親・兄弟姉妹の姿を幼いときから見て育ちましたから、
    自分なりに、自立することを常に最優先に考えて生活していました。
  コ・この時、我が家では、親父は仕事を引退し、親父の仕事は二人の兄貴が引き継いでいて、
    それぞれ所帯も持つていましたから、私は私なりに自分の生活を自立せざる得なかったというのが実態です。

  ナ・学費、書籍代、通勤費、通学費などは、親には頼れませんでしたから、すべて自分の給与で賄います。
    当然に自分の娯楽(遊び事)費用は自分で賄うしかありません。
  ニ・住まいと、食費だけは、親の実家(同居の長男宅)で面倒みてもらいました。

  ヌ・25才の自分としては、将来に結婚で家庭を持つとなれば、住まいなどは自分だけでやりぬかなければならず、
    経済的に頼れるもの(者)が、いません現状です。
    従って、遊び事などは自力で出来る範囲でしかやれません。
  ネ・結婚と言うことにでもなれば、待ったなしです。
    そこそこ、資金も今から蓄えていく必要もありますので、金のかかる遊びは控えざるを得なかったのです。

  ノ・父親一人の稼ぎで、子沢山では、金を残す余裕など無いというのが当時の世間一般の家庭の姿です。


 B.私の娯楽

  ア・冬の娯楽は、スケートとスキー。

  イ・スケートは、主に都内のスケート場でよく練習しなら遊びました。
   ・私がよく通った、スケート場は「池袋地区」か「後楽園」でした。
   ・職場の仲間と、土曜日や日曜日などによく行ったものです。

  ウ・当時の勤務は、日曜日・祝祭日が休みで。まるまる一日遊べますが。
    あとは土曜日の午前中は仕事ですから、遊べる時間は、午後の仕事終わりの午後3時頃以降のみです。
  エ・スケートは、比較的手ごろに都内で出来ましたので、よく勤務先の仲間と遊びに行きました。

   
  オ・スキーは、日帰りではムリですから、勤務しながら出かける日程がムスカシイ。
  カ・スキーにいける日は、休日が重なるような日程でないと無理です。

  キ・スキー場は、我が家からでは「上野駅」が一番近く便利なので、
    どうしても「上越方面」のスキー場と言うことになります。
  ク。「湯沢・石打・中里」などがメインでした。
    たまに、「菅平」などに遠征することがある程度。

  ケ・スキーは、長い日程が仕事の関係から取れませんでしたから、
    ゲレンデで、二日程遊んで帰るという繰り返しで、一向に上達しませんでした。
  コ・連休の、一泊二日で程度では、初日は身体を慣らす程度で一日が終わってしまい、
    翌日には東京に帰りますので、リフトには少ししか乗れません。

  サ・こんなことの繰り返しで、一年が毎年終ってしまいます。
    出来れば4~5日連続でやれば上手くなるのにと思いますが、
    勤め先もあり無理な注文です。
  シ・しかし、スキーは下手はへたなりに、楽しいですね。

  ス・私と友人の計画に、職場の若い仲間もぜしと言って参加してきます。 

 《自家車など無い時のスキーの話でした。》

 このほかの娯楽は、後は「映画」が多かったと記憶しています。
 
  セ・同年代の仲間は、ダンス、マージャン、パチンコ、競馬・競輪、などをやっていましたが、
    貧乏育ちの私は、遠くで見ているだけで、手が出ませんでした。


  次ぎは、「春」の遊び事です。

  

今の職場で9年間の経験後 転勤まで

2007年10月16日 | 職場に於ける私の工夫 1
昭和34年(1954)29才まで、20才に地元の信用金庫に就職して9年間同じ支店に在職していました。
その後「本部の業務課」に転勤します。新しい仕事内容は後ほど新しい項目のなかで述べたいと思います。

この9年間の支店在職期間中での出来事を少し纏めておこうと思っています。

《支店勤務、9年間の出来事》
 
 1.私の職歴と当時の職場環境
 2.私の娯楽 支店勤務中9年間
 3.私の生活と時代背景
 4.私の好きになつた人
 5.私の新居と新婚生活

 こんな項目で順次書いていこうと思っています。
 
 
 1.私の職歴と当時の職場環境

 A.職場の環境

  ア・昭和24年(1949)に夜間の新制商業高校を卒業し、
    土方(職人)生活から足を洗い地元の信用金庫に就職したのが20才の時でした。
  イ・当時の勤務先の店舗は、小さな郵便局程度の大きさです。

  ウ・職員数も、支店長以下16人でした。
  エ・そこに、初めての本店指名からの新入社員として、
    私を含め男子2人、女子1人の高卒3人が本店から配属になったのです。

  オ・今までの職員は、近所から支店長が取引先や知人を伝に集めてきた人ばかりです。
    私達高卒3人は、支店にとっては始めての人事制度としての本店からの配属でした。

  カ・支店に入ってみると、姉妹で勤めている人が、3組6人もいました。
  キ・この姉妹は、全員中学卒で年下の妹3人はまだ15才です。

  ク・内部勤務の男子は、支店長を含め4人。外勤員は年配の男子が4人います。
  ケ・私達新入職員3人の服装は、学生服で良いといわれましたので、
    その後の数年間は、学生服のままで勤務しました。
  コ・こんな職場環境の中、支店長から最初に言われたのは、男女関係はご法度の一言です。

  サ・男女交際が発覚したら、双方両成敗だぞとのこと。
  シ・何のことだろうと、周りの職員に聞くと、要するに二人とも退職させると言うものでした。

  セ・職員同士の名前の呼び方は、00君と言う言い方です。
  ソ・この仕事環境の中で、15才の女子職員が用事で、20才の新入の私を呼ぶのに、  
    00君と言うのには私もびっくりしました。それも5才も年下ですよ。

  タ・こんな人の名前の呼び方にびっくりしていては、私は不味いと当面平常を装つていて、
    5才年下の女子職員にも「はい」と返事し、依頼された仕事をそのまま受けました。
  チ・当時の世間一般では、男子優先社会の中です。

  ツ・昼食の弁当。当時の昼の食事は自宅から持参した手弁当です。
    昼食に外に行っても、日本蕎麦屋さんぐらいでした。
    今言う、コンビニなど全然ないのですから。
 
  テ・この名前の呼び方も、2年ほど過ぎたころ、私が気が付かないうちに「00さん」に変化します。
  ト・当時は、仕事量が凄い勢いで拡大しており、私の入社後2程後に40人規模の新店舗が開店します。
 
  ナ・新店舗完成と同時に、他店舗からの転勤者や、転職(職業を)してきた中年の男女職員が増えました。
  ニ・このような、人員増加とともに「男女交際ご法度」のことも、緩やかな状況になります。
 
  ヌ・自転車が唯一の交通手段。営業係など外部に出て働く人の交通手段は自転車だけです。
  ネ・自動車は、現金や手形類の輸送など一大切なものに限られていて、専任者か乗務していました。
    支店にいた、私達はもの珍しく自動車を眺めいるだけでした。

  ノ・当時の道路は、ガラガラで自転車ですいすい危険なく走れました。
    10km程度先きのお客様でも、集金や用事には自転車で行きます。

  ハ・五十音。この当時の五十音は「いろはに、ほへと、ちりぬるお、よたれそつねそ、ちりならむ、ん。」
    で、教育されてきた年代でした。
    平成の現在、私共の年代は「あいうえお、かくきくけこ、???}が
    なかなか頭脳から出てこないで、今でもこまっています。

  ヒ・電話器。一般家庭で電話が引かれている家庭は、ゼロと思ってください。
    かりに、一般家庭で電話がある家があったとすれば、地主さん宅など相当に裕福な家庭のみです。
    事業所でも電話の有るところは、従業員などが10数人いるような繁盛している工場です。
    
  フ・緊急な連絡。どうしても、緊急な連絡がしたい場合は「電報を打つ」という事になります。
  ヘ・昭和30年代に入って、タバコ屋さんなどと共に、
    少数の家庭で電話器が入り始めたという記憶がありますがね、
    
 B.転勤までの私の職歴

  ア・初めて配属された支店には、通算で9年間在職しました。
  イ・本店と支店間の交換業務「小切手・手形・稟議書などの持ち運び業務」に約2年間。
  ウ・出納業務の責任者として、約3年間。
  エ.貸付係り窓口として、約2年。
  オ・営業係りとして、外周りの集金・勧誘を2年。

  最初に配属された支店では、こんな職歴でした。

 C. この9年間に仕えた、支店長は5人になります。

 1.最初の支店長は、通勤の途中に交通事故に合って入院。60才近い年令のため再び店舗に戻ることはなかった。
 2.2代目の支店長は、区役所の助役を定年(55才)で本店総務部長として再就職された人です。
   私が就職する時に面接した人でした。
   (一度は、この人が私を不採用にしたひとてすが。再面接で許可されました。)
   先代の支店長が事故で出勤できなくなり、急遽代わりに、総務部長兼務で支店長として赴任したのでした。
   
   わたしは、金融機関の仕事は素人だから、「職員の皆さん、よろしく頼みます。」が支店長の最初の挨拶でした。
   この支店長は、職員の人柄をジーとみていて、一生懸命・影日向なく、真面目に働く職員を重くもちいました。

   その、代表事例が私でした。若くして、出納業務の責任者に任命していただけたのですから。
   もっとも、その時期にいた支店の職員数は16人が総勢でしたからね。
   選ばれたというより、選ぶ人が私しか居なかったというのが本音でしょうか。

   この支店長に、「会議の仕方。司会の仕方。」などを学びました。
   この時の経験が後々、私にに大変役立ちます。

 3.3代目に赴任して見えた支店長は、銀行上がりの年配者で、当金庫の他支店長からの転勤でした。
   大変大人しいだけの人で、何事にも事故無くと過ごすような人でした。

 4.4代目の支店長は、満州銀行から引き上げて見えた人で、40台半ばで張り切っての赴任です。
   本店(本部)の審査課長からの転勤で、初支店長です。

   職員からの、おベンチらが好きで、取り巻きが直ぐに出来ました。
   私は、そのタイプで無いので、外様です。
   支店の業績も大変上がりましたが。お客様との遊び事も多かったらしく、後に支店長を失脚してしまいます。
 
 次は、支店に9年間在職中の私の娯楽です。


  

現金の支払い間違い 3

2007年10月12日 | 職場に於ける私の工夫 1
新支店長に指名されて、出納業務の責任者になったのは、信用金庫に就職して5年を過ぎた26才の時だった。

昭和30年代には、当時の金融機関での出納の仕事は、機械など何も無い時代です。
当然に、お札勘定も硬貨の整理など何をするにもすべて「手作業」です。

平成19年現在の出納業務のやり方を前項「現金間違いの防止 2」に書きましたが、今はこれだけ「合理化・機械化」が進んでいれば「現金の間違い」はほとんど無いと考えられます。

しかし、某官庁では、現在でも、いまだに「現金の不突合」が発生しているという。さらに「現金の着服や詐取」もあるという。
何んと予算のムダ使いがいつまでも続くのか、前項で書いたが、信用金庫に学んで現金事務の機械化を早るべきだ。
昔に出納業務をやってきた私は怒っている。
手作業で作業してきた、戦後間もなくの時代でもこれほどに現金間違いが出ることはなかったぞ。

諺(ことわざ)《親子の中でも金銭は他人》
        (金銭に関しては、親子の間柄でも他人のように水臭くなるのが人の常であるという事。
       また、親子であっても金銭に関しては他人と同様にきちんとけじめをつけなくてはいけないの意もある。)


 A.《金銭出納事務で間違いが発生》
  
  私も昔に、現金出納事務の責任者を任されて、3年間勤めたがその間一度も現金間違いの発生は無かった。
 と「新支店長のやり方 その6とその7」で書いてきました。

しかし、こんな現金の不突合事件があったことを書いて参考にしたいと思います。

「或る日、中堅の当店取引先が現金の支払に店に見えました。午前10時ころのことと覚えています。
 当店での支払い金額は30万円でした。当然に千円札の札束で、一束10万円の3束で支払をしたわけです。
  (当時は千円札が最高金額です。今の価値に直すと300万円を超える金額になるものと思います。)

午後2時ごろ、当店のお客様から電話があり、材料の仕入れ先にそっくりそのまま支払い。
材料屋さんも、そのまま自分の金融機関に入金した。
たが、千円札が一枚不足していると、材料屋さんの取引金融機関から連絡が入ったと言うのだ。
先方の材料屋さんは、大恥をかいたと大変に怒っていると言う。」

と言う苦情の電話が支店長に入った。


私共金融機関の札束の始末の仕方を書いておきますと、
 上記の不始末は発生しないように日頃から十分注意していて次の様に取り扱っている。

 ア・当日に窓口入金の千円札束は、当日の支払には原則使わない。
 イ・当日入金された、他の金融機関の札束は、必ず札帯を外して、第一担当者が数えて間違いないことを確認してから入金手続きをする。
 ウ・この10万円の千円札束は、次の第二担当者に回して再度金額の確認してから帯封する。
 エ・帯封した、帯には日付印と第二担当者の印鑑を押して、第一担当者に戻し印鑑を押させて、出納責任者に返す。

 オ・責任者は、当日の現金出納事務が間違いなく終了することを確認しで、全部金庫内に収納する。
 カ・当然に当日の現金類は、翌日まで封印される。

こんな出納事務処理の流れの中での、現金不足事件の発生である。

  早速、出納事務職員全員を残して、当日現金在高の確認作業を行う。
  その確認作業はこうだ。

   出納事務方の対応。
 ア・金庫室に格納した現金を全部出して、千円札10万円の金額札束は元より、小額硬貨まで全部再検査する。
 イ・金銭での間違い出ないということが確認されたら。
 ウ・各自の机の廻り、上も下も丹念に調べる。机の中引き出しも当然に調べる。足元の床の上も丹念に調べさせる。
 エ・この調べは、Aの担当者の調べはB担当者に、B担当者の調べはC担当者という風に交代させて調べさせる。

 オ・ここまで、調べても当方に現金の過不足が無く、間違いが出なかったことを確認したら。
   責任者から支店長に報告する。
 カ・すぐに、出納責任者が女子担当者を連れて、当店の取引先宅に事情を説明しに行く。
 キ・取引先が当方の説明に納得されない場合には、電話で支店長に報告し。
 ク・支店長または次席責任者に来宅してもらい、その始末を任せる。

 このような、流れで作業する。

 ケ・当然に、当方に責任が有ると言う、結果が出たら、出納責任者と担当者は「始末書」を書いて、支店長に堤出する。
 コ・金銭負担と責任の始末は、支店長に委ねる。


 B.《金銭出納事務の間違いの顛末》

  この件の現金出納事務の不足金発生の結果はこうなった。

 ア・翌日、重い頭を抱えて店舗に出勤する。
 イ・支店長に、お客様との話合いの様子を伺う。
 エ。どうも、お客様は当方の説明に納得しないで未解決の様子だ。

 オ・午前9時30分過ぎ、当該お客様から支店長に電話が入る。
 カ・支店長の、受け答えが、柔らかい。
 キ・直感的に解決したなと感じる。


 《解決の結末》
 ク。間もなく、支店長に私か呼ばれた。
 ケ・別室でその経緯を聞かされた。
  お客様は大変恐ひくしていたと言われる。

 コ。支払を受けた30万円の札束3束は、旦那さんが、材料屋さんに支払うために下ろしたもので。
 サ・自宅に帰って来て、午後に取引先が見えるまで「神棚にそのまま載せて置いた」
 シ・午後取引先に、神棚の札束をそのままに、材料屋さんに30万円の支払いをした。
 ス・取引先は、その日のうちに自分の金融機関に入金した。
 セ・しかし、材料屋さんの取引金融機関から「千円札が一枚不足」といわれた。
 
 ここまでの説明が、私に支店長が私にしてくれた内容だ。
 別室での支店長は、この経緯は出納係員には、「円満に解決した。」とだけ伝えてくれ。
 それは、「この現金過不足事件は、取引先の奥さんが起こしたもので、あまり大騒ぎすると、家庭内が難しくなる。」
 一応、「円満解決としておけ。」と言う支店長の指示。

 ソ・私としては、それでは「なにがあって解決になったのか判らない」と質問する。
 タ・結局。「神棚に置いた30万円の札束」から、旦那が用事で外出した後、
   奥さんが買い物に出るのときに、手持ち現金が不足するので、旦那が不在だったが、神棚の札束から一枚引き抜き買い物に使ったのだという。」ことが後で解った。

 結果を聞くと、「なあんだ」と言うことになるが、信用第一の金融機関だ。

 現金の不始末には、このくらいの配慮と注意力を割いていて当たり前なのだ。

 円満に解決したが、一歩間違いがこちら側の金融機関の責任で有ったとしたらと考えるとぞっとする。

 「一度失われた信用は戻ってこないぞ。」とくに現金事務では。
 「現金過不足はあってはならないのだ。ただ理屈では誰でも分かっているが実際には難しい。」
  ・一生懸命にやっていても間違いは発生する。     (善意の過不足)
  ・心に忍び込む不正心、悪心が目の前のお金に手を出す。(悪意の過不足) 
  ・出納現金事務は、携わる人の心との戦いだ。(管理者は注意深く常時善か悪か目を光らせている必要がある。)

現金間違いの防止 2

2007年10月08日 | 職場に於ける私の工夫 1
ここの数項目で「現金管理」の問題を取り上げ書いてまいりました。
私も、20才半場過ぎの時に、中小金融機関で「出納業務の責任者」を約3年間勤めて苦労してきました。
この経験を皆さんと一緒に勉強し、「現金扱いの不祥事」が一つでも少なくなり、前に進めればと思って書き始めています。

だが、どうしても「官庁の姿勢が気がかり」で冒頭に苦言をいうことにしました。

最近の某大手官庁での「現金の着服や詐取」の新聞報道・国会での質議を見たり、聞いたりしていると、一般市民とても「官庁で泥棒を給料を払っているのに雇っているのか」と腹だだしい思いがします。

国会の議論も、「日本の国」をどちらに向かわせるのかの根本的な議論でなく、枝葉な細かい議論ばかりしている。
それも、野党は首相に対する代表質問を揃えて。細かい質問を80問も出す。首相に対する質問として失礼な質問でないか、TVで聞いていて腹が立つ思いだ。

《現在の現金出納実務の実態》

 1.かなり、進んでいる出納業務のやり方を参考に最初に書きますが、
   ここまで、機械化、省力化が進んでいれば、まず「現金の過不足」は出ないだろうと思われるので参考に。

  (私の知人に、現在金融機関に勤めている方に、現在はどの用に現金収納をしているのかを調べた。)

  A.営業担当者には、「ハンディ端末を全員持たされて、集金業務をしている。」
  B.この現金集金の前提として、「通帳・証書類は、全部裏面に磁気ストライブが着いていて、
    営業担当者のハンディ端末に通して読ませると、お客様の氏名、口座番号、入金科目など」
    必要項目は端末のなかにすべて記録される。

  C.ついで、収納する現金の種類別に入力すると端末に金種別に記録がのこる。
  D.つり銭が有る場合は、出した金種別に、つり銭内容がハンディ端末に記録が残る。

  E.何軒か集金して支店に戻ると、自分のハンディ端末を「パソコンの読み取り機」にかけると、
    今日の集金訪問先の内容がすべて記録されると同時に、
    パソコンからその集金内容が細かく記録した用紙が打ち出される。

  F.この記録内容と、集金した現金を出納業務の係りに渡すと、
    出納係りは自動キヤッシヤーと言う機械に現金を種別かまわず入れると、
    この機械から金種別と合計金額が記録された用紙で吐き出される。
  G.現在の集金業務は、殆ど機械化されており、これで営業担当者の今日の仕事は、
    現金の収受が間違いなく、手間暇懸からずに終わるように出来ている。

  H.此処まで、現在の金融機関の外部での集金業務が「自動化・機械化」されているのだ。
    現金の収受は、取引先の信用を得る第一歩である。
    この取り組みの整備が大切であろう。

 2.機械化・自動化がやや遅れている場合の一つの対策

  A,私の経験から言えば、「再勘定刊制度」とすれば現金出納の間違いは少なくなるとおもう。
  B.外部で集金して来た「現金。小切手類」は、すべて「内部の別の人に渡して調べてもらう。」

  C.これを「再勘」と言う。担当者一人で終わらせずに、
    必ず職場内部の他の人に預けて、照合し調べてもらってから収納して終わらせる。

 3.営業担当者の現金間違いの防止策
   (現金の出納業務で一番間違いが発生するのは、つり銭業務だ。)
   (この、つり銭業務の間違い防止策として、こんな風にやったらどうかと思い提案する。)

  A,外部で集金業務を担当している者がわずらわしく、間違いの出るのが「つり銭」のある仕事だ。
  B.この「つり銭」で一番間違いが発生する。
    つり銭は、営業活動だけでなく、内部の現金出納事務でも「つり銭」間違えが発生しやすい。

  D.そこで、現金での「つり銭を出さざるを得ない職場」の人について、
    「つり銭」の扱いを次のようにしたらどうかを提案する。
  E.零(0制度)当日の朝は0銭から出納事務が始めるのだ。
   「つり銭」を扱う担当者に別途、「朝一番、一定に決め金種でつり銭をわたす。」
  
  F.前日の残りの現金から、今日の現金収受を始めることが肝要。
    そのために、別途に「一定のつり銭を用意しておいて、そこから始める」
  G.それはこうだ。
    透明なビニール袋に「つり銭用の小銭硬貨を用意する。」
      1円硬貨  を2筒 =   100円 
     10円硬貨  を2筒 =  1000円
     50円硬貨  を2筒 =  5000円
    100円硬貨  を2筒 = 10000円
    500円硬貨  を1筒 = 25000円 
     合計           41000円

    担当者毎に、41,000円が入ったビニール袋を前日に用意して置いて、
    集金担当者に、朝一番に一人ひとりに渡す。
    
  D.夕方に集金担当者が帰ってきたら、現金集金額にブラスして。41,000円も回収してしまう。

  E.一見面倒に見えるが、「現金過不足防止」には、効果があると思っている。
    毎日の流れとしての仕事ならさ程の仕事量にはならないと思っているが。

  F.前日の「つり銭」の残高をそのまま使って「つり銭」を始末する場合には、
    繰越現金の中、ここに、「不始末の影が忍びよる」からだ。
  G.私が知る話では、前日の「つり銭」を持ち繋げている内に、
    自分の金銭であるような錯覚に陥り、見分けがつかず「つり銭」を不正に使用してしまう事例を何件も知っている。
  
  H.タバコ代。昼飯代、帰り際のパチンコ代に、「つり銭」の小銭を使った人を何人か見ている。
  I.一度は、小額でもだんだんに金額も大きくなり。
    最後は、始末出来なくなる。

  G.現金の不始末は、こんなものから始まるようになる。
  K.最後は、大口な現金の「着服・詐取」に手を出すことになる。

  いずれにしても、金銭の不祥事の影が近寄らないような「システム」制度をつくる必要がある。
  それでも、万全でないことを承知して。
  金銭の扱う人間は「人間は性悪である。」と言う説悪説で考えていないと使い込まれるよ。
          「人間は性善である。」と性善であると考えたい管理者は、金銭だけは通用しないぞ。

  私が、金銭出納管理者を勤めた経験からの警告。  
  

    「衝動が押さえられない、自分が居る。」人間とは弱い者なのだ。

  諺1(ことわざ)《瀕すれば鈍する》
    (人間というものは、貧乏になると精神までも貧しくなり、
     金欲しさからさもしいことまでもするようになるといこと。)

  諺2(ことわざ)《地獄の沙汰も金次第》
    (厳しい地獄の捌きでも、金をつかませれば手心を加えてもらえるの意で、ましてこの世は、
     金さえあれば思うようにどうでもなるということのたとえ。)   

現金間違いの防止 1

2007年10月03日 | 職場に於ける私の工夫 1
最近のニユースでは、政治絡みとなっている、大手官庁の「現金着服・詐取」事件が、ここの所毎日の様にTVや新聞に出てきます。

当然に「現金の着服や詐取」は犯罪です。
にも関わらず、事件が発生したことがわかっていても、告訴もせずに放置されているといって、国民や政治家の偉い人(大臣)は怒っています。

現金の詐取・着服事件が起きるのは、官庁だけではありません。
民間事業所でも常に起きるものと想定して、用いる必要な防備を心がけていく必要があります。
不詳事件が、隙を見せて発生すれば、本人も管理者も双方責任を問われ、その不始末をなじられ、最後には退職などに問われます。

    「石川や浜の真砂はつきるとも、世に盗人の種はつきまじ」  石川五右衛門の辞世

〔私の経験から言って、現金出納事務を扱う部門は何時も現金不突合の不安にさらされています。〕
〔一つは、現金を扱う職員(人)の問題です。 二つ目は、現金を管理する制度・システムの整備不足です。〕

〔現在では、前項目14で述べているような、紙幣・硬貨計算機やオートキャツシヤーなど、現金の不始末を防止できる機器が数多く開発されています。機器類は早く整備して便利に使うと同時に。現金の不突合の防止に使うべきです。〕
〔このようにしておくことで、職員(人)の心に忍び込む不貞の気持ちを少しでも絶っていけたら、機器類の投資金額は安いものだと考えますが。〕

〔もう一つは、管理者の資質にあると思います。現金を扱う立場の管理者の注意力が散漫になれば、職員の詐欺・窃盗の心がムラムラとします。ちょっとタバコ代に・昼食代に手元の小銭を使い出すのです。少しがだんだんと大きくなってしまうのは、現金を管理者する者の管理不十分です、その責任は大です。〕
〔後に述べますが、現金を扱う部門管理者は担当者に管理不備をつかれないような制度を作ることが必要です。〕

   《金銭管理はこうしたら》

私は(25歳)の若い頃に、中小金融機関で出納業務の責任者のの仕事を約3年やりました。自慢ではありませんが、この期間に一度も現金の不始末・不突合を出しませんでした。

そこで、「金銭の着服や詐取」そのものは防ぐこと事態は難しいが、少しでも詐取や着服が発生しないようにする。
こうしたら、少しは防ぐことが出来るのではないかと考えている一端を述べて参考にしたいと考えます。

 A.まず、現金を扱う現場の職員は(人)人柄を見て配置することが肝要だと思います。

  ア・借金を(友人・知人・親戚)に、していないか。
   ・普段の態度、言動を注意して観察しておくことを要する。

  イ・金を(友人・知人・親戚)に、貸していないか。
   ・上のア・ことと逆も要注意。

  ウ・賭け事をやっていないか。
   ・こんな職員が一番危ないぞ。
   ・パチンコ、マージヤン、競馬・競輪、などで賭け事をしていないか。

  エ・金銭の保証人になっていないか。
   ・保証行為は、借主に不始末が生じると、保証人におよぶ。

  オ・公私混同するような性格でないか。
   ・他人(公共)のものでも、平気で手をだす、誤魔化すような性格か。

  カ・家庭生活は、安泰か。
   ・生活の基盤である家庭が円満で有ればまず間違いを起こさない。

  キ・職業意識は。

 以上、私個人の経験から見たものである。

 「清く、正しく、美しく」   は人間の本来持っているものだ。
 「貸すも親切、貸さぬも親切」 は全国信用金庫協会故会長が、お客様と職員に述べたもの。
 「もしかして、私はやらない。もしかして、私もやってしまうかも。」と言うのか人間の弱さだ。

 諺1〔本(もと)の一部は末の一丈〕
    (始めは目立たないほどの狂いでも、後になると大きな誤差になって現れることで、何事も始めが大事であると言う教え。)
 諺2〔今日の一針明日の十針〕
    (今日一針縫うのを怠れば、明日はほころびが大きくなって、十針も縫わなければならなくなるの意で、
     すべきときにしないと後で苦労することになるという戒め。)

  次回は、B.現金の不祥事防止のためのシステム作り です。